あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

鎌倉七口を辿る その1

2012-04-30 15:08:41 | 鎌倉巡り
鎌倉七口を辿る その1
  巨福呂坂・亀ヶ谷坂・化粧坂切通
 
 
鎌倉七口(かまくらななくち)とは三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口である。七口は切通といわれる山や丘を削ってつくられた道である。激しい起伏をつくり狭いところでは1m程の道幅もある。左右に大きく蛇行させることによって大軍の侵入をも防いだ。
現在いわれている七口は、江戸時代初期の書物にはじめて現れるようで鎌倉時代は違った通路であったようだ。
鎌倉は世界遺産登録を目指すということで現在注目を浴びている「武家の古都」であるが、今回鎌倉を訪れるきっかけは、近々にも「鎌倉街道上道(かみつみち)」を歩きたいと思い、その前章として鎌倉七口を中心とした鎌倉散策を計画した。

ゴールデンウィーク前の平日に北鎌倉駅に降り立つ。
駅前の円覚寺の参道を上る。男子高の生徒が鎌倉見学のこの寺院がスタート地点のようで多くの生徒が三門を出入りしていた。
       
円覚寺(えんがくじ)は鎌倉五山の第二位の寺である。
正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する臨済宗円覚寺派の大本山。執権、北条時宗が1282(弘安5)年、元寇の戦没者追悼のために中国僧を招いて創建した。土日の座禅会が開かれており、かつては夏目漱石や島崎藤村もここで座禅をしたという。
鎌倉五山とは、禅宗の寺格(寺院の宗教的地位、社会的地位)で、鎌倉時代に京都五山(別格:南禅寺)と同様に五山が構成されたといわれる。
今回の鎌倉散策は、鎌倉七口を中心ではあるが、鎌倉五山もコースに入れた。

円覚寺前の横須賀線の踏切を渡り現在の鎌倉街道(横浜鎌倉道)を鎌倉駅方向に向かって少し歩くと右手に東慶寺がある。
          
東慶寺は、鎌倉幕府八代執権北条時宗の夫人・覚山志道尼が創建。夫から離縁状をもらわぬ限り、妻から分かれることが出来なかった時代に、駈け込めば離縁出来る女人救済の寺として、開山以来600年近く遠切の寺法を引き継いできた。
後醍醐天皇の皇女が入山以後、松岡御所と称されて、格式の高い尼寺として名を馳せるようになり、室町時代には鎌倉五山第二位に列せられていた。明治時代に臨済宗円覚寺派の禅寺となったと鎌倉市の案内板に記されている。
    
東慶寺から再び現在の鎌倉街道を進み横須賀線の踏切を渡り、すぐに戻るような形で左折し明月院通りを歩く。道の脇には水路が走っていて明月院からも湧水が流れて込んでいる。



明月院は臨済宗建長寺派の寺院で、創建は寺の説明によると、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将山内首藤経俊(やまうちすどうつねとし)とされる。母は頼朝の乳母であるが、頼朝が旗揚げした石橋山の戦いでは平氏側につきその後頼朝の臣下となった人物である。創建者は他の説もあるようだ。
第二次大戦後に植えたアジサイの名所として知られ、あじさい寺とも呼ばれている。
とは、云われながらも一年中花が絶えないようで、紅葉でも知られているようだ。訪れた時もシャガなどが咲いていた。ここは学生の見学(参拝)コースから外れているのか、静かな環境の中で参拝出来た。
また境内には、鎌倉十井(かまくらじゅうい)の井戸である「瓶(つるべ)ノ井」がある。
              
「瓶ノ井」は、岩盤を垂直に掘り貫いて作ったと見られ、その内部が水瓶のようにふくらみがあることから「瓶ノ井」と呼ばれた。別名「甕の井(かめのい)」と呼ばれ、鎌倉十井のうちで今も使われている数少ない井戸である。
境内には「明月院やぐら」と称される、岩を掘りぬいた墓室(上杉憲方墓とされる宝篋印塔を安置)などもある。
              
また、明月院には鎌倉幕府第五代執権・北条時頼の墓がある。
時頼は御家人にや民衆に対して善政を敷いたことで、名君として高く評価されている。宗教心にも厚い人物で、建長寺の建立や曹洞宗の開祖、道元を鎌倉に招いている。
              

次は、現在の鎌倉街道(横浜鎌倉道)に出て横須賀線の踏切を渡り北鎌倉駅方向に戻った左手にある浄智寺に向かう。
三門前には「甘露ノ井」という鎌倉十井の井戸がある。七口、五山、十井と数にこだわるようだが井戸も鎌倉散策ポイントの対象とした。数合わせのことを名数と云うそうだが鎌倉にはあと鎌倉十橋、鎌倉五名水、鎌倉谷七郷などが名数としてあるというが今回は除外した。
              
「甘露ノ井」は、水が甘く不老不死の水云われていたが、道路工事で水脈を痛めたことで水の出が悪くなっている。しかし、庫裏の裏に同じ水脈の井戸が存在し飲料水に使用されている。
              
浄智寺は鎌倉五山の第四位である。臨済宗円覚寺派の寺院で、執権・北条時頼の三男、宗政の菩提を弔うために1283(弘安6)年創建された。当時は北条氏の勢力がきわめて盛大で禅宗が最も栄えた時代であり、浄智寺が建つ山ノ内地区は相次いで寺院を建てた北条氏の所領であったと寺院の解説にある。 

三門は上階分が鐘楼となっている(上右)。江ノ島鎌倉七福神のひとつ、布袋像が洞窟内に祀られている。
                      

鎌倉街道に戻り少々歩いたところを右折、最初の鎌倉七口である「亀ヶ谷切通」に向かう。別名、急坂なためカメもひっくり返ったと亀返坂といわれ、鎌倉時代末期には存在していたようだ。

亀ヶ谷切通を下りきった左手に鎌倉十井の「扇ノ井」があるが個人宅にあるというので詳細な場所は分からない。
この地、扇ヶ谷(おうぎがやつ)の地名も扇ノ井からともいわれる。静御前が舞扇を納めたという伝説もあり興味深い井戸であるが見られぬとは残念だ。
突き当たった右角に頼朝の長女大姫(おおひめ)の守本尊を祀る岩船地蔵堂がある。
              

その先横須賀線の線路を潜って暫く進むと建長寺派に属する臨済宗の寺院・海蔵寺があり、三門手前右手に鎌倉十井の「底脱(そこぬけ)ノ井」がある。
    
「底脱ノ井」は、鎌倉時代中期の幕府重鎮の武将、安達泰盛(あだちやすもり)の娘がこの井戸の水を汲んだ時に桶の底が抜けて、頭から水をかぶり、心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという意味の歌を詠んだことから由来している。
              

海蔵寺から少々戻り、右折すると「化粧坂(けわいざか)切通」になる。
化粧坂の名の由来は諸説あるが、この切通しを越えると幕府が置かれている中心地に入ることで、その境で「身だしなみを整える」という意味から「化粧坂」と考えるのが自然であるとの説もある。
化粧坂切通は鎌倉街道(上道、中道、下道共に)の鎌倉出口にあたるところで、新田義貞が鎌倉攻めの際に鎌倉幕府軍の抵抗にあい突破できず稲村ケ崎に回ったとされる経緯がある道でもある。

この先は源氏山公園となる。
公園内は昼食には1時間ほど早いが数組の小学生の団体がめいめいシートに座って食事をしていた。
周りの木々には数羽のカラスが、天空には二羽のトンビが小学生たちの食事を狙っていた。
公園の中央辺りに鎌倉幕府を開いた源頼朝の座像がある。
              
源頼朝
21世紀幕開けの時に、アメリカのタイム誌が2,000年までの千年紀(ミレニアム)で偉大な功績を残した人物27名を選んだ。ナポレオン、エジソン、ベートーベン。その中に源頼朝が含まれている。
なぜ頼朝が選ばれたのか。
1180(治承4)年頼朝は武家政権を誕生させた。その後700年という長きにわたって武士の政権は続いたことで、頼朝は日本の歴史に大きな足跡をもたらす武士の世の原点を築いたということからであろう。

鎌倉を「武家の古都・鎌倉」と呼ぶ。
今からおよそ800年前の12世紀の末、頼朝は東国の武士団を引き連れて、この地鎌倉に武士政権を誕生させた。
頼朝は平清盛の轍を踏まぬよういかに京都朝廷との関係を断ち切るか苦慮している。
そのひとつの問題として、朝廷からの官職任命がある。
それまでの主従関係は1対1ではなく複数の主従関係が当たり前であった。これを頼朝との主従1本化をさせ、朝廷から官職を受けた者は命をもって償わせるなど厳しい姿勢で臨んだ。これは、身内にも容赦せず、平氏との戦いで活躍をし、検非違使の官職を受けた源義経に対しても二度と鎌倉の地を踏ませなかった。
当の本人も、大納言、大近衛大将、征夷代将軍の官職を任じられたが、一旦は受けたがすぐに返上している。
このようにして朝廷との距離を置き公家政治から脱却し、武士政権を確立した。
鎌倉幕府の成立は「いいくにつくろ」1192年と、社会科で習ってきたが、最近はそれより以前の1185年ということが有力といわれている。
しかし、鎌倉幕府は最初の武家政権ではないという意見が専門家内から最近いわれているようだ。
となると武士政権の誕生は何時なのかということだが、
それは、現在NHK大河ドラマに登場している平清盛を中心とする平氏による政権が1160年代から70年代にかけて登場していて、これが武士政権の誕生といわれる。
清盛の館が京都六波羅にあったことから「六波羅政権」と呼ばれるとのことだ。


ここから海側に下って行くと、銭洗弁財天や佐助稲荷があるようだが今回は割愛して再び横須賀線脇の道に戻る。
道を鎌倉駅方向に歩いて行き酒屋の角を左折して十井の「泉ノ井」に向かう。道の途中には藤原定家の孫にあたる冷泉為相の墓がある浄光妙寺がある。
   
この辺りの谷戸を泉ヶ谷(いずみがやつ)といい「泉ノ井」の名もここから由来している。今も水が湧き出ている。
 

再び酒屋まで戻り、その先の扇ヶ谷踏切を渡ると右手に寿福寺がある。参道入口に大きなザックが2組置いてあり、若い外国の女性がスケッチをしていた。三門手前の参道でも人生の先輩、3人の男女が写生をしていた。

寿福寺は臨済宗建長寺派の寺院で、鎌倉五山第三位の寺院である、詳しくは寿福金剛禅寺という。頼朝が没した翌年1200(正治2)年、妻政子が創建した。

北条政子と源実朝の墓がある。
              
 
他に大仏次郎や高浜虚子の墓があるというのだが地図を頼りに探してみたものの分からなかった。
小学生の見学客がいて墓地とは場違いな騒がしさがあった。

再び扇ヶ谷踏切を渡り暫く歩く。左手に川喜多映画記念館がある。映画の発展に貢献した川喜多家の旧宅跡に鎌倉市が建てた記念館である。
突き当たるとそこは小町通りである。急に通行人が増えた感じであり、所謂ギャルを中心とした人たちでこれまで行き交った学生や人生経験者とは層が変わったことを感じる。観光地に来たという感がある。
鎌倉十井の「鉄ノ井(くろがねのい)」は八幡神社の角の向かい側にある。反対側には歴史ある干物屋がある。
「鉄ノ井」は井戸を掘った時に鉄の観音像の頭が出てきたことから名付けられた。
   
鉄ノ井は小町通りと現在の鎌倉街道が交差するところにあり、鎌倉街道は八幡宮前の信号から永遠と渋滞している。平日でもここは車が渋滞するようだ。

次は三番目の七口、巨福呂坂切通に向かう。
地図を見ないで歩いて行った先は巨福呂坂洞門であった。もっと手前で脇道に入らなければならなかったのだ。
              
それならばと鎌倉五山第一位の建長寺に向かう。
建長寺は巨福山(こふくさん)建長興国禅寺といい、臨済宗建長寺派の総本山。1253(建長5)年に執権・北条時頼が創建したわが国最初の禅寺。


八幡宮車の祈祷所まで戻り、向かいの脇道を入る。ここからが巨福呂坂のようだ。途中左手に急な登りの参道がある。手すりが朱に塗られている。青梅聖天社(おうめしょうてんしゃ)である。
聖天とは歓喜天といい、インドに由来する神様。歓喜天は仏教とともに日本に伝わり、夫婦和合・安産・福徳の神として崇敬されてきたという。
                   
その先に庚申塔をはじめとする石仏群が祀られている。
鎌倉時代末期、新田義貞率いる討幕軍をこの地で迎え撃ったといわれているが正確な記録書はないようだ。
巨福呂坂切通の案内板も碑も見当たらないと思いながら、辺りを探しよくよく見ると巨福呂坂送水管路ずい道の脇に錆びた標柱が建っていた。鎌倉七口のひとつなのに淋しい限りだ。

今はこの切通は行き止まりとなって巨福呂坂洞門に役目が変わってしまっているが、昔はこの辺りは茶店があって八幡宮の参詣客で賑わっていたのではないだろうかと、ここに写真を取りに来てカメラアングルを長い時間かけて考えていた人生の先輩が話してくれた。
本日の予定は終了。
鶴岡八幡宮に参拝して、若宮大路の段葛を歩いて鎌倉駅に向かう。
 
2週間ほど前は桜の花見客で賑わっていただろうと想像しながら帰路に着く。
              

              


                関 連 : 鎌倉七口を辿る その2
                     : 鎌倉七口を辿る その3
                     : 鎌倉七口を辿る その4


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2012丹沢山開き

2012-04-22 14:07:56 | 丹沢大倉尾根
              

2012年の丹沢表尾根の山開き。
昨年は東日本大震災の影響で山開きの行事が中止となった経緯があり、2年ぶりとなる。
今年は、4月22日が丹沢表尾根の開きである。
例年、第3日曜日に開催されていたのだが、何故か今年は第4日曜日の開催となった。


                  
                   高原に咲く桜


              
               一本松の桜


              
               ガスがかかった駒止茶屋


              
               駒止茶屋上のベンチ脇の桜
               見ごろはこの辺りまで上はまだつぼみ


              
               AED設置の堀山の家
               本日はここまで 久々の堀山で旧交を温める 堀山の家HP



                       いよいよ丹沢登山本番を迎える

山開き当日に上がる予定だったが、雨降りの予報が出ていたので残念だが前日に久々の大倉尾根を登った。


 
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小田原城を歩く

2012-04-11 11:47:23 | 街道を歩く
小田原城

  
小田原城が始めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃のことと考えられる。
1500年頃に戦国大名北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展した。
しかし、その小田原城も1590(天正18)年、天下統一を目前にした豊臣秀吉21万の軍勢に包囲され、約4ヶ月の篭城虚しく落城、北条氏五代の100年にわたる関東支配が終焉した。
江戸時代を迎えると徳川家康の家臣、大久保氏が城主となり、城の規模は縮小された。稲葉氏が城主になってからは大規模な改修工事が行われ、近世城郭として生まれ変わった。その後、再び稲葉氏が城主になり、箱根を控えた関東地方の防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきた。
明治維新を向かえ、小田原城は1870(明治3)年に廃城となり、ほとんどの建物が解体される。残った石垣も1923(大正12)年の関東大震災によってことごとく崩れ落ちた。

天守閣
              
天守閣は城の象徴として本丸に構えていた。
三代将軍家光が天守閣に上って武具を見たり、展望を楽しんだという記録が残っている。
1703(元禄16)年の大地震で崩壊、1706(宝永3)年再建され、1870(明治3)年に壊された。
1960(昭和35)年、宝永年間時に作成された設計図を参考に鉄筋コンクリートで外観復元した。

本丸
               
東西約150m(83間)、南北114m(63間)ほどの規模をもち、その西端に天守閣、中央に本丸御殿が存在した。
本丸の周囲は石垣と土塀がめぐらされており、東南に常磐木門と北側には裏門にあたる鉄(くろがね)門が設置されていた。
小田原城は江戸城の出城であり徳川家の所有であったようで、本丸御殿も将軍が宿泊するために建築されていたものである。1703(元禄16)年の地震によって焼失して以来建設されなかった。

>本丸東堀跡
              
江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいた。絵図によると堀は二の丸堀とつながって水堀となっていた。

本丸の巨(おお)マツ
                   
「御本丸に七本松という老松・・・」と天保年間の雑誌に書かれていた松の生き残りと思われ、樹高30m、樹齢400年以上のクロマツである。 

二の丸
              
江戸時代の小田原城には、将軍の宿泊専用の「本丸御殿」と、藩主在国中の居館として、また藩の行政を行う政庁としての役割を持つ「二の丸御殿」のふたつの御殿を有していた。
「二の丸御殿」は寛永年間(1624~44年)のころが最も壮麗で、能舞台や唐門も備えた立派なものであった。しかし、1703(元禄16)年の大震災により小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御殿」も倒壊炎上した。その後再建、増築されているが、以前のような姿には及ばなかったという。

二の丸隅櫓
              
曲輪(くるわ)の隅に配置される櫓(やぐら)。廃城の際にも壊されなかったが、関東大震災で崩落した。現在の櫓は1934(昭和9)年に復元したもので形状は当時と異なる。

常磐木門
              
本丸の正面に位置し、城内で最も大きく堅固に造られていた。記録から江戸時代初期から設けられており、1703(元禄16)年の地震で崩壊した後、多門櫓と渡櫓から構成される枡形門形式で再建されている。
常磐木とは常緑樹の意で、小田原城が永久不変に繁栄すること願って名付けられている。
1971(昭和46年)復元。

銅門(あかがねもん)
              
江戸時代の二の丸表門で、江戸時代を通してそびえていたが、1872(明治5)年解体される。
1997(平成9)年、門や土塀は古写真を基に江戸時代工法で復元される。銅門の名前の由来は、大扉などに銅の飾り金具が使用されているからである。

馬出門(うまだしもん)
              
二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期から現在の場所に存在し、1672(寛文12)年に枡形形式の門に改修され、江戸時代の終わりまで存続した。
2009(平成21)年に総工費5億円余りをかけ復元される。

大手門跡
  
稲葉氏が城主であった1633(寛永10)年、三代将軍家光が京に上る際に、箱根口付近にあった大手門を江戸に向く現在の位置に移し、大手門前までの道を将軍が入るための御成道として整備、江戸見附もその時に、現在の国道1号線の位置に移された。
この門を入ると三の丸となり、道の両側には家老級の屋敷が建ち並んでいた。
鐘楼の石垣は、大手門枡形虎口の石垣である。
この鐘楼の鐘は「時の鐘」として長い間昼夜の隔てなく突かれていて、1686(貞享3)年の記録にも「小田原町の時の鐘は昼夜ついている。鐘つきの給金は6両・・・」と記載されていることで300年以上つかれていることとなる。

幸田門
       
江戸時代には、三の丸の入口のひとつで、お堀端通りの中ほどにある。戦国時代は上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時に、この門から攻めたと考えられる。幸田とは、もともと神礼の費用を賄う田圃を指す。

学橋
     
この橋は江戸時代にはないもので、1929(昭和4)年に城内小学校が二の丸に移転した際に架けられた。現在の学橋は、1949(昭和24)に再建された。

二の丸東堀  
 
本丸・二の丸を守る堀の中で最も大きな堀で、幅は最大で約40mで、現在よりもさらに60m北に広がっていた。現在の石垣は1923(大正12)年の大震災で崩れたものを昭和初期に復元した。江戸時代の石垣はいまのものより高かった。

御茶壺橋
                       
箱根口より入場する際に使われる橋で、正しくは小峰橋と呼ばれる。
江戸時代に京の宇治より、徳川将軍家に茶を献上するために、お茶壺様と称するご一行が城内の御茶壺蔵に納めるために、この橋を往復したことから、お茶壺橋と呼ばれるようになったといわれる。

御用所
               
この地に藩の御用所があったのでこの名がついた。御用所とは藩の執務所で、元禄のころは箱根口門にあったが、文政(1818~30年)の頃にこの地(現検察庁並び)に移った。幕末には母屋を囲んで敷地内に6棟の建物があった。

弁財天
                      
江戸時代初期、この地(弁財天通り)を「弁財天曲輪(くるわ)」と呼んでいた。しかし1690(元禄10)年に蓮池の南側にあった「評定所曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたのでこの地は単に「弁財天」と呼ぶようになった。
幕末には、この地に6~7軒ほどの中堅藩士の屋敷があった。
曲輪とは、城や砦(とりで)の周りに築いた土塁や石垣などをいう。また囲まれた一区画の地域。

日向屋敷
              
1614(慶長19)年、城主大久保忠隣が改易になった時、その夫人である日向御前が閉居した屋敷があったため地名となった。江戸時代末期には、約14軒の藩士の住いがあった。

小峯曲輪北堀
              
報徳二宮神社の境内は北条氏によって造成された小峯曲輪にあたる。小峯とは天守閣の裏手、西側一帯を指す古い地名である。

御用米曲輪
              
ここは現在発掘調査中の御用米曲輪土塁の部分で、石組水路や戦国時代の遺構や墨で字が書かれた素焼の土器(墨書かわらけ)などが発見されたという。
これまで野球場、臨時駐車場として利用されていた場所で、小田原城本丸北部の御用米曲輪があったところである。
御城米曲輪とも呼ばれており、北条氏時代・江戸時代には百軒蔵と呼ばれていた蔵があったといわれる。
2014(平成26)年まで発掘調査が続くというので新たな発見を期待できるかな。

                      




                                               参考資料:小田原市ほか
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