あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

東北2,500kmかけ足6日間の旅 その1

2015-08-30 17:51:10 | 観光
昨年に引き続き東北の旅に友人と出掛ける。
早朝、我が家を出発、東名から都内を経由、東北自動道を古川ICで降りる。
昨年は東北自動車道から太平洋側を北上したが、今回は、古川から鳴子経由で奥の細道湯けむりラインを通って、日本海側を北上する7日間の旅を計画した。


小町堂   湯沢市小野
小町の霊を祭るために建立された御堂は、深草少将が小野小町に贈った芍薬を植えた芍薬塚の跡に建つ。
 

「道の駅」おがち小町の里   湯沢市小野字橋本90
建物も小町の旅姿である「市女笠(いちめがさ)」をモチーフにデザインされている。
 

増田の内蔵群   横手市増田町増田字本町
「中・七日町商店街」の約400m通りは、豪華な蔵が現在も50軒以上残っている(国登録有形文化財4軒19棟)。うち15軒が公開。


平鹿町八幡神社   横手市平鹿町醍醐字宮西118
当地の彫師・中島重栄さんの見事な彫刻(1892(明治25)年の作)が本殿あると云うので訪れる。
802(延暦21)年、坂上田村麻呂が伊豆三島大社神を勧請した。
 

旧日新館   横手市城南町7-1
1902(明治35)年、英語教師の住居。明治期の洋風建築の特色をよく残している素木造りの簡潔な住宅。
 

>「道の駅」雁の里せんなん    仙北郡美郷町金沢字下舘124
日本最大級の横手盆地日本最大級の横手盆地の中心にある。
「後三年の役(西暦1083年)」合戦の地でもあり、源義家は、清原軍30余騎を討ち取ったという「雁行の乱れ」の逸話からとる。愛称を雁太郎。
 

払田(ほった)柵跡   大仙市払田字仲谷地96
平安時代の城柵遺跡で、国の史跡に指定。文献資料にその名がないため、「幻の柵」とも呼ばれる。
軍事施設と行政施設の役割を果たしたと考えられる。外棚、南門、東門、一部の建物が復元されている。
 

-----1泊目は横手で泊まる-----


角館武家屋敷通り   角館町表町上丁~東勝楽
往時の武士の町であり、600mの武家屋敷通りには昔のままの薬医門、黒板塀など武家屋敷が続く。6軒が残り、一帯が国重要伝統的建造物群保存地区。
 

旧奈良屋住宅   秋田市金足大字小泉字上前8
茅葺き屋根や板塀が目を引く江戸中期の豪農の家。
 

秋田市民俗芸能伝承館(ねぶり流し館)   秋田市大町1-3-30
竿燈、土崎神明社曳き山行事、梵天など民俗行事や伝統芸能を紹介。
 

秋田市立赤れんが郷土館   秋田市大町3-3-21
旧秋田銀行本店本館として明治末期に建築された華麗な洋風建築。吹き抜けのホール。国重要文化財。
 

赤神神社五社堂   男鹿市船川港本山門前字祓川35
なまはげが一夜で築いたという伝説の999段の石段。江戸時代の中頃の五棟の社殿。向拝、屋根、柱、組み物などに珍しい工夫が見られる。
吉永小百合さんのCMに登場。
   
入道崎   男鹿市北浦真山字水喰
男鹿半島北西端に位置し、日本海に突出する岬で、日本海の荒波の波食によって築かれ、落差30mもある荒々しい海岸を見せる。地上には穏やかな草原が広がり対称的。北緯40度線上にある。
 

真山(しんざん)神社   男鹿市北浦真山字水喰97
 

なまはげ館   男鹿市北浦真山字水喰
100以上のなまはげを堪能できる。
 

男鹿真山伝承館   男鹿市北浦真山字水喰沢97
男鹿地方の典型的な曲屋民家。なまはげにまつわる風俗、農具類など民俗資料の展示もある。30分毎に「なまはげ習俗学習講座」が開かれ、男鹿真山地区で大晦日に行われるなまはげ行事についての解説や再現がある。なお、当地のなまはげは真山神社の関係から角がない。
 

お殿水(「道の駅」はちもり)  山本郡八峰町八森乙の水72-4
津軽の殿様も絶賛した白神山地から湧き出る名水。日本海の水平線を見渡す展望台。背後にはそびえる白神山地。
 

日本海へ沈む夕日   西津軽郡深浦町大字黒崎字宮崎
深浦は、夕日の撮影スポットとされ、海に沈む真っ赤(オレンジ)な夕陽はとても綺麗で、水平線に触れる時に「ジュッ」と音がするなどと当地では形容されている。
 

白神岳   西津軽郡深浦町大字黒崎字宮崎
世界自然遺産・白神山地の中心的な山。15年前の夏、7人で海抜0mから1,250mに登る。山頂にはトイレと避難小屋があり、白神山地核心地域の雄大な景色が望める。今も山頂の小屋は変わらないという。
 
   神の恵みの 賜物でしょう  北に息づく ブナの原生林(もり)よ
     谷の湧き水 アオモリマンテマ  世界中の人に 届けたい
     白神山地 秘めて豊かに  美しい 宝物
 
【白神山地の詩 唐土久美子さん(世界自然遺産登録記念)】


白神岳登山口駅   西津軽郡深浦町大字黒崎字宮崎
五能線の観光路線化に伴い陸奥黒崎駅から改称。駅舎なく待合所のみ。
 

ふかうら文学館   西津軽郡深浦町大字深浦字浜町134
太宰治の宿、小説「津軽」の旧秋田屋旅館。
 

-----2泊目は深浦で泊まる-----


千畳敷海岸 西津軽郡深浦町北金ケ沢字榊原
JR千畳敷駅下車すぐ、「日本の夕陽百選」。その昔、殿様が千畳の畳を敷き酒宴を催した岩棚。
 

岩木山
青森県の最高峰。日本百名山。津軽富士とも呼ばれる。津軽岩城スカイラインで8合目。
15年前、白神岳、森吉山、3山目に岩木山に登る。その時、一眼レフを忘れていった苦い思い出がこの駐車場にはある。帰宅後最寄りの駐在所に届を出したが出てこなかった。
 

岩木山神社 弘前市百沢字寺沢27
杉木立と建物の調和が美しい。重要文化財。安寿姫と厨子王の霊も祀られる
  

高照神社 弘前市高岡字神馬野87
津軽を統一した藩祖、津軽為信と4代を祭る。国重要文化財建物。
 

最勝院五重塔   弘前市銅屋町63
津軽統一の際に戦死した敵味方の将士らを供養する目的で建立。その近くには、平和の鐘、一突き鳴らすと旧市街中に聞こえるという。
   

弘前城   弘前市下白銀町
天守は石垣工事のためジャッキアップが一週間前に開始された。今月末から10月にかけて70m離れた本丸まで曳家される。100年ぶりの大工事が始まっている。
 

石場家住宅   弘前市亀甲町88
江戸時代後期の商家で、重要文化財に指定。雪国特有のこみせの味わいがある。たまたま見つけた弘前大学のポスター、このポストの脇で撮っている。
 

大円寺   南津軽郡大鰐町蔵館村岡12
「大鰐の大日様」として篤い信仰を集める。仏像が多く並ぶ本堂の中央一番奥に国指定重要文化財「大日様(阿弥陀如来)」
 

盛美館   平川市猿賀石林1
庭園を眺めるために建てた和洋折衷洋式の建物。和洋と洋風、判然と異なった様式が上下に重なる建物は珍しく、我が国では他に例がない。
日本建築をシリーズで紹介するTV番組で放送され、これを見て是非にと思ったところだ。
 

田舎館村田んぼのアート   南津軽郡田舎館村大字田舎舘字中辻123-1
1993年、村おこしのひとつとして役場裏手の田んぼで始められた。
 

黒石市のこみせ通り 黒石市中町
伝統的建造物とアーケードが藩政時代から残る。全国的にも類例がない。国指定重要文化財の「高橋家住宅」や 造り酒屋などが並んで風情がある。右、中村亀吉酒造の建物はは大河ドラマのロケ地。
 

楠美(くすみ)家住宅   五所川原市大字持子沢字隠川695-4
江戸時代は藩と関係があったといわれ、製材業を営んでいた楠美家、主屋は明治25年頃に建てられた茅葺寄棟屋根の大型民家。閉館時間となって内部は見られなかった。(狼野長根公園内)
     

旧平山家住宅   五所川原市湊字千鳥144-1
国指定重要文化財。1766(明和3)年再建、寄棟造(玄関部切妻造)茅葺の住宅で、土間部も含めて十七間あり、規模が大きい。津軽地方の上層農民が生活した18世紀後半の規模をほぼ原形の儘伝えている県内の数少ない建造物。残念ながら休館日。
 

斜陽館と町並み   五所川原市金木町朝日山412-1
新田開発で富を得た津島家が建てた建物で、小説家太宰治の生家である「斜陽館」。この辺りに豪農・豪商が競って建てた豪邸の名残が点在するという。右は津軽三味線会館
 

立佞武多(たちねぷた)の館   五所川原市大町21-1
4階まで吹き抜けの展示室で、高さ23mの巨大な立佞武多を展示。スクリーンで祭りの映像も。
 

-----3泊目は五所川原で泊まる-----


 
《東北2,500kmかけ足6日間の旅 その2》へ続く


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東北2,500kmかけ足6日間の旅 その2

2015-08-30 17:49:52 | 観光
後半は、五所川原から十三湖を通って、津軽半島の海岸線を回って青森に下り、次は下北半島の海岸線を縁取るように、しかも突端を意識して車を走らせた。


「道の駅」十三湖高原   五川原市相内実取287-110
津軽国定公園の一角で、広い放牧場の高台にあり、ロケーションの良さが売りのひとつなのだが天気は悪くしかも風が強かった。十三湖は日本一美味と折り紙付きのしじみ貝の産地でもある。
 

七つ滝  北津軽郡中泊町
山岳からの清流が七段に落下する。日本海の激浪により造りだされたものという。
 

眺瞰台(ちょうかんだい)   北津軽郡中泊町北小泊山
標高470mに360度広がる展望台。
 

津軽海峡冬景色歌謡碑   東津軽郡外ヶ浜町字三厩龍浜
津軽海峡を見下ろす高台にある。ボタンを押すと2番の歌詞が。
石川さゆりさんのヒット曲だが、地元のデュオがカバーして唄っているので青森に来ているのでこちらを紹介したい。
グループ名は、サエラさん。地元津軽を起点に活躍、メジャーデビューもしておりNHKの番組にも出演している。ボーカルとピアノ演奏のふたり組でオリジナルや昭和歌謡曲が主だが、それ以外に十三の砂山や八戸小唄など地元の民謡も歌っている。
YouTubeで聞いてみては。
津軽海峡冬景色の歌碑は、青函連絡船を象徴する歌として青函連絡船八甲田丸の前にもたっている。
        

龍飛崎   東津軽郡外ケ浜町三厩龍浜
周辺は灯台を中心に遊歩道。天気のよい日には津軽海峡を挟んだ北海道の松前半島や行き交う船が見渡せるのだが。この日は曇天の下、かすかに北海道が眺められた。
 

青函トンネル記念館   東津軽郡外ケ浜町字三厩竜浜99
開館は11/25までの期間限定。構想から完成までを音と映像、立体モデルなどで展示。
海面下140mの世界を体験できる坑道を乗物で降りることが出来るのだが、時間がなくてパスしたが、この施設は、それをしないと意味がなかった。
 

階段国道339号   東津軽郡外ヶ浜町龍飛
太宰治碑近くにあり、竜飛漁港バス停と竜飛崎と灯台を結ぶ総延長388.2m、362段の日本で唯一の階段国道。灯台まで徒歩15分。右が国道の下で、右が上。
 

龍馬山 義経寺(ぎけいじ)   東津軽郡外ヶ浜町字三厩家ノ上
義経伝説。円空がこの地を訪れたとき、海岸の奇岩の上に光るものを見た。その岩は、かつて義経がこの地に逃れ至ったとき、荒れ狂う津軽海峡を前に、観音像を奉り3日3晩の祈願をし竜馬を与えられ渡海出来た、と伝えられるところの岩(厩石)で、円空は観音像を刻み、観音堂を建立して祀った。これが義経寺の始まり。境内には北前船などがお守りや重石としていた石の観音像が安置されている。
 

青函トンネル入口広場   東津軽郡今別町大字浜名字黒崎地内
本州側の入口で、全長53.85kmの世界最長の海底トンネルで北海道と結ばれている。トンネル入口上部「青函随道」は時の中曽根首相によるもの。
 

北海道新幹線・奥津軽いまべつ駅   東津軽郡今別町大字浜名字黒崎地内
新青森駅から29kmの次の駅、本州最北端の新幹線駅。ここからすぐに54kmの青函トンネルをくぐる。
     

青銅塔婆・本覚寺   東津軽郡今別町今別119
今別昆布発祥の伝説にまつわる住職が本荘の鋳物師を招き喜捨で得た青銅を原料に本塔婆を鋳造。全国でも珍しい銅製塔婆。県指定重要文化財。
        

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸   青森市柳川1-112-15
青森発最終便となった、青函連絡船をそのまま利用。エンジンルームやブリッジなども見学できるのだが、12月下旬まで船体改修のため一部見学が出来ないスペースがあると云う。
    

ねぶたの家 ワ・ラッセ   青森市安方1-1-1
ねぶた祭の魅力を紹介している施設。2階まで吹き抜けになったスペースには大型ねぶたを5台展示、迫力に圧倒。
 

善知鳥(うとう)神社   青森市安方2-7-18
この地に伝わる善知鳥伝説の鳥の名であり、青森の古名で青森発祥の地。丁度お祭であった。
 

野内貴船神社   青森市野内鈴森291-2
義経伝説。衣川の戦いののち、義経が北海道に渡る際海上の安全を祈願。愛妾浄瑠璃姫が病でこの地に眠る。
 

常夜燈公園   上北郡野辺地町
文政十丁亥歳(1827)と刻まれた石燈篭式のもの。千石船が帆柱をつらねた野辺地湊の隆盛の時代を偲ばせる。
 

-----4泊目は青森の予定を変更野辺地に進めて泊まる-----


野辺地八幡宮境内社・金毘羅宮   下北郡佐井村
1822(文政5)年に野辺地湊役所支配頭と野辺地の廻船問屋達が海上安全を祈願して勧請したのが始まりと伝えられている。向拝柱には昇り竜や下り竜、木鼻には象と獅子や中国故事などの彫刻が建物全体に施されている。江戸時代末期の社殿本殿建築の遺構で野辺地の湊町としての歴史を象徴する建物として技術的にも優れた点が多いことから県重宝に指定されている。
「のへじ祇園祭」が4日間開催されている。前日訪れたのだが、人出が多く翌朝早朝にお参りした。
歌舞伎や中国故事などを題材とした豪華絢爛なねぶたと同じような山車が祇園囃子にのって町を練り歩いたり、海上渡御が行われる。北前船の影響で京の文化が伝わっているようだ。その山車が見られなかったことは残念である。
 
            

<font color="red">●仏ケ浦   下北郡佐井村
青白色い奇岩塊石が神仏のように群立している海岸。下北半島のまさかりの刃の部分に位置し、水上勉原作「飢餓海峡」の舞台としても知られる。
近くの佐井村から定期遊覧船があるが、車で行くと駐車場が高い場所にあり、浜までは急坂や階段があって、片道20分ほどの良い運動になる。
 

大間崎   下北郡大間町
「ここ本州最北限の地・北緯41度32分は、東経140度55分」と刻まれた標識が。津軽海峡を挟んで北海道の汐首崎まで17.5km。「東京まで798km」の道路標識が、正にさいはての地に来た。
 
海峡荘   下北郡大間町大間平17-734
マグロは「生のみ」と徹底してこだわる民宿兼食堂。4~8月は味に遜色のない近海産の生マグロ。メニューによって800~3300円。ここで昼食。
 

尻屋崎   下北郡東通村尻屋
岩礁が多く古来より難波岬として恐れられてきた下北半島の突端である。台地は白い燈台と牛馬の放牧。寒立馬が有名。
 

恐山   むつ市大字田名部字宇曽利山3-2
比叡山、高野山とともに日本三大霊場に数えられる恐山は貞観4年(862年)開山、修験道場として栄えた。風車がカラカラと回り、荒々しい岩場の合間から硫黄の臭いが立ちこめる様子は、地獄や浄土に見立てられている。霊場と云うには開けて明るすぎると思った。
 

恐山菩提寺   むつ市田名部字宇曽利山3-2
円仁が貞観4年(862)に一宇を建てて地蔵尊を安置したのが始まりと伝えられる。地蔵堂には本導の延命地蔵菩薩が安置されている。
 

-----5泊目はむつで泊まる-----


尾駮(おぶち)   上北郡六ケ所村尾駮
六ケ所村に点在する湖沼群の最北端、南には鷹架(たかほこ)沼が。太平洋とつながり海水が流入する汽水湖。日本野鳥の会の渡り鳥の指定観測地となっている。
 

小田(こだ)八幡宮   八戸市小田1-2-1
義経が写経したと云われている大般若経が保存さる義経伝説。明治の神仏分離令までは小田毘沙門堂であり、門は小田仁王門と呼ばれていた。毘沙門天像が祀られている。
 
 

おがみ神社   八戸市内丸2-1-51
義経は正妻を伴って八戸まで逃げ延びたが、正妻が亡くなり亡骸を葬ったと言われる場所が、おがみ神社になっている。(同社には、源義経北行伝説を記した「類家稲荷大明神縁起」が。)
「おがみ」の漢字が複雑でないためひらがなとした。
 
 

八戸城角御殿表門   八戸市内丸1-14-49
八戸藩政時代、後に御番頭となる煙山(けむやま)氏が寛政年間に創建した棟門。八戸市役所前、「南部会館」の門となっている。
    

長者山新羅神社   八戸市長者1-6-10
義経が脱出先を探るため、家臣の板橋長治を八戸に派遣したと云われる。板橋は、市中心部の小高い丘に居を構え、その場がこの神社。
およそ290年の歴史と伝統のある八戸地方最大のお祭、八戸三社大祭が当社とおがみ神社、神明宮の三神社が中心となって7月末から8月初めの5日間で催うされている。国の重要無形民俗文化財に指定されています。
 


葦毛崎(あしげざき)展望台   八戸市鮫町日陰沢
太平洋に突き出した様にあり、海岸線が眺望。駐車場から種差海岸まで遊歩道が整備されている。
台風16号のうねりがあった。
 
 

藤ヶ森稲荷神社   八戸市類家1-7
京都の稲荷神社を信心していた義経は、類家地区に藤ヶ森稲荷神社を勧請し、自ら神事を行った。
 

熊野神社   八戸市鮫町字棚久保
海路脱出した義経の八戸の上陸地点と言われている。山手に義経が上陸後休憩したと言われている熊野神社が。
 

4日目、5日目のコースが予定より進行したため、八戸の宿泊をやめ一路720km、帰宅の途についた。
高速は八戸ICからはいる。入った途端、待ってましたとばかり強烈な雨が降ってきた。これまで傘の必要がない6日間で、空に感謝したい。
 
岩手に入ると、登ってみたい山、早池峰山(1,917m)が遠くに眺められた。早池峰山は日本百名山のひとつであり、日本のエーデルワイスと云われるハヤチネウスユキソウが咲く山でもある。

昨年も1日早く短縮して5日間、今年は6日間東北を回わる。東北は4年前がスタートで、山形を訪れた。大地震があって昨年、今年と回ったが東北制覇とはなっていない。岩手の遠野が残っている。何時になるだろか。
今回も運転してくれた友人に感謝したい。わが家から尚且つ、145kmの長旅があるのだから。
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忍野八海と山梨ブドウ狩り

2015-08-15 18:34:08 | 観光
わが家の夏休み恒例となった山梨ブドウ狩りへファミリー10人で出掛けた。
粒の大きいブドウの収穫期に入ると云うので、いつもより一週間遅らした。しかし前日よりお盆渋滞が始まったと報道されて渋滞が気になったが、大きな渋滞にははまらずに友人が手伝う甲府市郊外のブドウ畑に着いた。
    
今年は7月前期の長雨によってデラの種ありが一部発生して、訪れた栽培農家では全て出荷しない大打撃となった。

ここの畑では、8千房のブドウがなっており、そのひと房ごとに種なしへの処置をして、ひと房ごとに笠をかぶせる作業を行い収穫を迎えたのに、商品にならないことは我々には分らぬ感情があることだろう。
このため、いつもと違ってツルにはたくさんの房が着いていた。
長雨のあとは高温の連続で粒の色着きが心配だと訪れた時も気温を下げるため、水を撒いていた。
温暖化で山梨はブドウが育たなくなるのでは、とワイドショーで報道された記憶があるが、この先心配である。それでも次から次へと新種を出荷しブドウ日本一を保っている。今回も聞きなれない大粒をお土産に頂いた。
    
獲りたてのデラは一段と甘い。このためわが家は今シーズンこれが、ブドウのお初である。
           

ブドウ狩りのあとは、忍野八海に向かう。
八海には数度となく訪れているが、中心地だけ見て、おみやげ買って帰るだけであった。そこで、今回は多くを巡ろうと足を運んだ。その結果は。
          
          
             
忍野八海
          
①出口池
ひとつだけ離れた場所にあり、最も面積が広い池。後方はすぐ山となり、池を見おろす林の中に、出口大明神の神社がある。

②お釜池
釜中に熱湯が沸騰するように湧水すると云う形状から、この名がついた。他説では大蟇(おおひきがえる)に関する伝説と結びついて大蟇池ともいう。
関東大震災以後この池の湧水量が減少し、沸騰するようには湧出しなくなったが、この池の近くの田から湧出が見られるようになった。
          
          

③底抜池(そこぬけいけ)
昔から洗い物をして、過って洗っていた道具や野菜を手から離してしまうと、渦に巻き込まれて消えてしまうと云われている。敷地の一番奥の栃の木の大木や樹林が生い茂る静かな場所にある。

④銚子池
直径およそ9m、深度およそ3m、南から東に曲がり、さらに南に向かって小川に流出する池で、形状は長柄の銚子に似ており、池底における湧水状態はきわめて間欠的である。
          

⑤湧池(わくいけ)
湧水量も豊富で、揺れ動く水面や深い水底の景観が美しく、忍野八海を代表する池。
土産物屋が立ち並び、水車小屋がある、忍野八海で一番賑やかな通りにある。
          

⑥濁池
ほぼ楕円形の小池で、池としての景観をようやく留める程度である。
          
⑦鏡池
不規則な長方形の小池で、湧水量はきわめてわずか。水は常に濁っているが、風のない時は、富士山がはっきりと映るため、この名がついた。
          

⑧菖蒲池
鏡池の東側に位置し、ショウブとキショウブなどの植物がみられる。
伝説によると、この池のショウブを身に巻くと病が治ると云われている。


新名庄川と阿原川の合流点
          
                         
結局、巡ったのは5池、少なくとももうひとつ菖蒲池も行けたはずなのに。

訪れた日:2015.8.9

          
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「瀬谷にあった海軍施設」のパネル展示 終戦70年にあたって-4

2015-08-13 16:49:04 | その他
          
横浜市の瀬谷区役所2階ロビーに於いて地元の歴史を掘り起こすグループが「瀬谷にあった日本海軍施設」のパネル展示を開いている。
期間は戦後70年節目に当たる8月15日を中心とした、8月11日から21日まである。
          

上瀬谷地区一帯は大正から昭和にかけて、広い桑畑の中に雑木林が点在するのどかな相模台地であった。
                    
住宅地は赤で、桑畑は緑で色分けした。

1940(昭和15)年、軍より用地買収の話があり、日本海軍が資材集結所として、施設の建設を始めた。
鉄道引き込み線や各所倉庫群が建てられ、第二海軍航空廠瀬谷補給工場となった。
   
神中線(現・相模鉄道)瀬谷駅から引き込み線が敷かれていた。
引き込み線と道路とは、盛土によって区別がされていた。当時、この道は引き込み線道路と呼ばれていた。
戦後はその盛土に平和の象徴・桜が植えられ名所となっている。引き込み線の敷地は現在歩道となっている。

蓄電池機関車


相模台地には軍の施設が多数建設され、小田急線の北側は陸軍、南側は海軍としっかり棲み分けもされていた。小田急線の駅には「士官学校(現・相武台前)」「通信学校(相模大野)」の名称もあった。
          

                    

軍の資料は機密保護のため、そのほとんどが焼却されたが、戦後に米軍に引き渡された目録から、「火薬庫」と「爆弾庫」があって、火薬庫には信管や落下傘、弾薬庫には爆弾、機銃、プロペラなどがそれぞれ保管されており、横須賀海軍軍需部瀬谷火薬庫も併設されていた。
また、2003(平成15)年になって、特薬庫があって毒ガスを保管していたことも分った。



中央部分が毒ガスを保管した特薬庫


この海軍施設は、アメリカ軍も航空写真を撮り、詳細に分析している。写真には施設ごとに番号が付けられ、「爆発物保管庫」「非爆発物保管庫」「部品倉庫」「守衛所」などの名称が付記されている。
                          

戦後この施設は、上瀬谷通信基地としてアメリカ軍に接収され朝鮮戦争で活躍している。      

今年6月我が国に返還されたが、現在でもわずかながら遺構が存在している。



コンクリート水槽


タンク受け台


使用目的不明の遺構


施設の中心を南北に走る道路を「海軍道路」と呼んでいる。
これは横浜市道路局が1978(昭和53)年「愛称道路」として瀬谷中学校交差点から北へ2,850m、八王子街道間を命名した。
                     

1945(昭和20)年5月23日、現在の区役所付近に焼夷弾が落とされた(横浜大空襲は5月29日)。また同年4月3日には瀬谷本郷原(現・本郷2丁目)に250kg爆弾25個が投下されている。
          


          

今回パネル展示を開催したグループは、1998(平成10)年、南瀬谷小コミスクで「横浜今昔地図くらべ」と題した講演会を機に地図好き仲間が集まり発足した。
瀬谷区共催の「瀬谷区の埋もれた歴史をさぐる2つの講座と現地歩き」を4回開催している。郷土瀬谷の歴史を掘り起こし、これからのまちづくりに役立てるべく活動を行っている。
瀬谷の昔に関心がある方の参加を希望している。
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富士山に挑戦 リーダー中ちゃんとチームひよこ 2015

2015-08-10 17:21:49 | 富士山
 
小4の孫の級友が富士山に登った体験があるので、自分も登りたいと話すので付き添いとして2度目の妻と初めての私が富士山頂に挑んだ。
「富士山保全協力証」缶バッチの色は、今回登った山梨県吉田ルートは「黄」、静岡県富士宮ルートは「青」、御殿場ルートは「緑」、須走ルートは「赤」と分れている。
      

先ずは、登山の安全と登頂祈願に小御嶽神社にお参りをする。
          
ツアコンと中ちゃんこと中林義晴さん(右)。
重量検査があって、ボトル(500ML)×2本以上持参した者は提出した。このボトルどうするかと思ったら、中ちゃんが運んでくれると云う。運んでくれるのだったら事前にローカーに置いてきたボトルを持ってくればよかったと悔やむ。
  
   

           
ツアーで一緒になった40余名の「チームひよこ」のメンバー。うち4割近くが若い女性なのには驚く。「チームひよこ」のネーミングは、靴に付けたリボンが黄色でゆっくり登ることから名付けられた。
関西から両親と参加した看護師さんのマスコット「ニャン太郎」。偶然なのか名札に「ひよこ組」と書かれている。
           

          
元気いっぱい山頂めがけて「絶対に登るぞ」と気合をかける。

 
12:20 いよいよスタート。チームひよこでは最年少者と最高年齢者の我々は中ちゃんリーダーのすぐ後ろに位置し、とてもラッキーであった。
5合目の観光地から登山道にはいる。
「泉瀧」は参詣者が水行した場所で、ここで身を清めて登山を開始した。
          

 
佐藤小屋経由の吉田口ルートとの分岐点。右へと進む。 

 
シェルターを通って13:10六合目に到着。途中2度ほど小休止、このシェルターの場所では1980(昭和55年)に八合目から六合目にかけて大規模な落石事故が発生、12名の尊い生命が失った。
          
六合目には安全指導センターが置かれている。それだからか、段差の歩き方を実践で説明された。これからが本格的な登山道。
 

 

          

 

 
3回ほど休憩してジグザグの道を上がって15:05に七合目に到着。この間常に中ちゃんからは呼吸をしっかり整えろ、段差を大きく上がったところは深呼吸を、姿勢をしっかりと声が飛んでくる。
休憩でベンチに座ると一気に力が抜けって行った。登山もここまでかと感じたが、ここの休憩時間が長かったことが助かった。再び力が湧いてくる。まだまだ行ける。
孫も疲れてきた。本人は云わなかったが眠くなってきていたようで、これも一種の高山病の兆候と本人は感じていたようだ。
チームひよこのメンバー内にもバテ気味者が出てきて、我々の前に立つ人が現れた。
七合目には7軒の山小屋と救護所がある。七合目の休憩でベンチに座ると一気に力が抜けていく自分がいた。もう登れないと感ずる。だが、この休憩が長かったので、再び力が戻ってきた。ラッキー。
16:20七合目最後の小屋・東洋館を通過する。
          

          
                
着物を着た登山者の写真が小屋に貼ってあった。何時ごろなのか?私の母も着物で富士山に登ったと聞く。
頂上まではまだ4時間余り、まだまだ遠い。
           

 
1回休憩があって、17:25八合目に到着。   
           
八合目白雲荘に18:20に通過、進みが遅くなっている。休憩して灯りの用意をする。
この上に、本八合目があって目的の八合五灼の御来光館は更に上である。まだ遠い。
            

19:50御来光館に到着。
小屋の中を見渡すと外国人ばかり、人気があるのだな。ここに来る間もツアーを追い抜く外国人がたくさんいた。外国人は心肺能力が優れているからだと中ちゃんが話す。
実に7時間30分の長丁場、ガイドブックの所要時間では4時間となっているので、倍近くかかったことになったが、それだからこそ落後者も出さずに到着出来たのである。
ツアーガイドの中ちゃんに感謝する。
このツアーは八合目以上の宿泊が条件となっていたが、山小屋で一番高い位置にある御来光館(3,450m)での宿泊は申し分ない。翌日の登頂が楽になるようなツアーを選んで正解だ。
 
生野菜付きのハンバーグ夕食を半食するが、孫は手に付けられないほど疲れていた。
21時消灯だったが、階段付近だったからか、消灯しないため明るく眠れずに時間が過ぎるだけであった。
深夜2時近く、ゴソゴソ動く音で目を覚ます。3時間ほどの睡眠だ。

2:30小屋をスタート。
Tシャツの上に山用の薄いアンダーシャツ、冬のカッターシャツ、それに上下の雨具で防寒体制。動いている時は前のファスナーを開けて歩くほどの状況だった。
九合目の鳥居に3:00、長時間休憩となった。
3:30スタート、頂上はすぐそこ。夜空を眺めて流れ星をと云うが、孫は見たようだが、見ることが出来なかった。
          

          
4:00最後の鳥居をくぐり、4:05中ちゃんとハイタッチ。ようやく山頂だ。ご来光までは十分時間がある。
空気が澄んでいて今シーズン1~2の素晴らしい日の出になるよと。今シーズン9回目の添乗員さんも全て日の出を眺められたほどの晴れ男と話しているが、私も他人が認めるほどの晴れ男、素晴らしい御来光を期待出来そうだ。
          
          
          
          
          
           
すぐに10余人ほどのお鉢巡り組と分れる。
4:46日の出となる。この日の山頂の気温は、4時で5.8度、5時で5.7度のようだったがそれほど寒さを感じなかった。薄いダウンも持って行ったが不要、これも風がなく天候に恵まれたからだと思う。
外国人夫婦からカメラ撮りを頼まれた。逆光なのでフラッシュのセットを教える。少々戸惑ったが無事撮影。女性から「ダンケ」と云われた。これも国際親善。

神社や土産物屋をまわって火口を覗いて5:40下山を開始する。その時、お鉢巡り組は真正面の剣が峰を歩いているとの連絡があった。
 
          
 
間もなく、御来光館でストップした人を添乗員が迎えにゆく。その間我々は防寒着を脱ぎ薄着に戻った。
6:20再スタート、細かな火山弾石の道を下る。6:40下江戸屋分岐に到着。
須走口に迷わぬよう、ここまでは同行、その後は小グループでスバルライン5合目まで下山する。
我がグループは30分に一度程度3回休憩をとりながら、滑り、滑りながら9:50無事に戻った。
小屋で用意した朝食のシャケ弁も食べず、私は前日昼食用の5個入りのあんパンの残りを出発に1個、頂上で1個食べたにすぎない。孫にあっては食欲がなく、頂上での缶入りのコーンスープのみ。これでスタミナがよくあった。
水分はと云うと500ccボトル各人2本と3人であと2本を購入した。
 
ツアー客全員が無事に下山した。但し迎えのバスが1時間遅れ。
5合目を12:00出発、中ちゃんとお鉢巡りのガイドが見送ってくれた。一路、温泉と昼食に。

     
山頂までの登頂は全く自信がないままの参加であった。ある大手のツアーに申し込んだのだが、参加者が集まらず中止。富士山が噴火するのではと云う風評による影響であろう。次も大手に申し込む。横浜発の横浜着だったはずが参加者不足からかこれも東京着に変更と、我々も風評被害者になった。世界遺産受賞年に登った妻からは今回の登山者は半分だと話す。
結果オーライで全て良しとなり、楽しくも苦しいツアーであった。
同行されたみなさんお世話様でした。最前列に並び失礼しました。
富士山登頂の翌日、私はまたひとつ年を重ねた。どなたの言葉か「自分で自分を褒めてやりたい。」と思う登山であった。
当然、小4の孫もだ。
        
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450回お馬流し 本牧神社

2015-08-03 17:47:54 | 横浜歴史散策
1566(永禄9)年に始まった「お馬流し」は今年で450回を迎えた。
横浜市史稿 神社・教会編(昭和7年発行)では、「お馬流し」を次のように紹介している。
『神社明細帳記載の由緒に永禄九年の六月十五日初めてお馬流の催事を行ひ(略)
大祭は、毎年舊暦(きゅうれき)六月十五日で、馬流しと稱する古式の神事が行はれる。舊記によれば、この神事は永禄九年に始まったとあり、明細帳には干潮に執行す。当日牛込・原・宮原の漁村より五隻(今は四隻)の祭船を出し、馬と証する稱する茅萱(ちがや)にて亀形を造りたるものに神饌(しんせん)を盛りて、これを遠く海上に流し、競漕(きょうそう)して歸る。古くは式後漁民に、麥飯(むぎめし)の中へ生葱を入れたる生味噌汁百人前、及び濁酒一樽を饗するの例ありしが、今は廢せり。云々。』
参考までに舊暦6月15日は新暦で今年は7月30日である。





神事は朝8時より始まった




「お馬流し」で一番重要な祭礼具は「お馬さま」と呼ばれ、茅を主たる材料として、頭から首が馬、体が亀という馬首亀体という形をしている。
手間暇かけて作った祭礼具は、神事の最後には炊き上げたり、川や海へ流してしまう。炊き上げることによって炎とともに天へ願いを届ける思いであったり、流すことによって厄災を遠くへ追いやるなど、理由は様々だが、祭礼具は、人々の祈りや願いを届けるための装置として、或いは厄災を託す身代わりとして、日本のみならず世界各国で使用されている。
「お馬さま」も古式に則り、氏子が一年かけて育てた茅を「やぶ」の屋号を持つ羽鳥家当主(世襲)の手によって一週間かけて奉製し、氏子が定められた所作を経て「お馬さま」に地域の厄災を託し、最後は海に流す。
一旦放流したお馬さまが陸地へ還着することを極度に恐れるため、潮の干満を重視する。このため祭日は舊暦6月15日大潮の日に決まっていたが、明治に太陽暦が採用されてからは8月第一か第二日曜日の何れかが充てられ、毎年一定していない。



ひとつ目の「お馬さま」が社殿よりお出まし










前日に氏子らの手によって社殿に安置された6体の「お馬さま」を「お馬送り式」を行い、頭上奉戴の所作で奉戴車上に安置する。「お馬さま」の列には飾り付けた各町会の車が続く。







列は各町会を巡行する。
迎える町会ではそれぞれ神酒所をあつらえ、お馬さまの巡幸を待つ。列は各神酒所にさしかかると速度を落とし、待ち受けていた町内の氏子からは神輿奉輿や獅子舞・お囃子の歓迎を受ける。それとともにそれぞれの地域の災厄が「お馬さま」に乗り移る。その後「お馬さま」の列は、本牧埠頭先の本牧漁港へと進む。







本牧漁港

本牧漁港では、奉戴車から降ろされたお馬さまは、神社境内と同じく頭上奉戴の所作で二隻の祭礼船へ向かう。





船のしばらく手前に来ると、奉戴者は一旦全員が立止まり息を整え、のちにそれまでの緩歩から祭礼船めがけて駆け出し、祭りは一変して勇壮なものになる(この動作を「せめ」と称す)。









各町内に割り当てられて5隻の遊覧船も後を追う。乗りたかったね。無料だって。

お馬さまは、旧本牧六ヶ村(間門、牛込、原、宮原、箕輪、台)に因み計六体が奉製さるが、何故馬なのか、はっきりしない。「本牧」の地名の由来が「むかし、本牧あたりが馬の放牧場であった」との説もあるが・・・。

「お馬さま」を沖合で流し無事に戻ってくる




では、1566(永禄9)年とはどんな時代だったか、歴史を紐解くと。
戦国の世で、武田信玄と上杉謙信が川中島で戦う(1553~64年までの5回)。織田信長が桶狭間で今川義元を破った(1560年)。豊臣秀吉(木下藤吉郎)は信長の美濃国の足掛かりとして、短期間で墨俣城を築城(1566年)。家康は松平から徳川を名乗る(1566年)などがあった。
神社のある本牧は小田原北條氏の玉縄城の支配にあったが、安房・里見氏の攻撃もあって苦しい生活であった。そのため苦しい生活から逃れたいという祈りから「お馬流し」は生まれたのかも知れぬ。

1954(昭和29)年のお馬流し


1930(昭和5)年のお馬流し


参考資料:横浜市八聖殿郷土資料館歴史講座「祭から見る昭和30・40年代」
                       本牧神社「お馬流し」

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