あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

やったぜ!三度目、つばめの雛が巣立つ

2013-08-14 12:24:17 | 生きもの
昨年からわが家の玄関の軒先にツバメが巣を造りを始めた。
そして昨年は2羽が飛び立った。

今年、その巣に再びツバメが訪れた。
4月の上旬のことである。
巣はリホームして昨年より少々大きくなった。
          リホーム
それから20日ほどたち早々と雛の声が聞こえてきた。
それもつかの間。
数日後、学校帰りの家族の者が玄関口に落ちて死んでいる雛を見つけたのである。
見ると、産毛のツバメが1匹死んで落ちていた。
巣は昨年より深くなっているので生まれて間もない雛が落ちるはずがない。
カラスの仕業であろうか。

その翌日、今度は巣が破壊された。
味をしめたカラスが再び襲ったのであろうか。
「悲しい」というしかあるまい。
昨年もカラスと思われる鳥が玄関ドアに当たる羽音を耳にしたことがあったが被害はなかった。
          破壊される
これで、今年の子づくりは終わりだろと家族の中にも暗い空気が流れた。

しかし、ツバメは強かった。
10日後にはさらに強固な巣をつくり上げていた。
うれしさえあった。
          強固となる          

だがその喜びもつかの間。
10日ほどたった日に悪夢がおそった。
学校から帰ってきた家族の者が、ツバメの巣が落ちていることを告げた。
あわてて外に出て見ると巣は壊滅状態となっていた。欠け落ちた卵もひとつ。        
親と思われるツバメが遠くから眺めている。
雛になるには2週間と云うから今度は卵の状態で襲われた。
         

          またまた破壊

          親ツバメ?

今度こそ終わりだなと思った。
軒を貸している大家として、保護する手だてはないのだろうか。
出来ることなら、玄関口に箒をもって見張っていたい。

でも、わが家のツバメはヘコタレなかった。
短期間で泥と枯草を唾液で固めて三度目の巣をつくり上げた。

         
子づくりが始まった。
産卵期は7月までのようなので雛の巣立ちには十分間に合う。
だが、2度も味をしめたカラスが気がかりである。大家は、傍観きり出来ないのか。
がんばれ!わが家の根性ツバメ。
声援を贈ることだけなのがはがゆい。

雛の鳴き声を聞いたのは7月半ばのことだった。
小さな声だった。
今度こその思いである。
やがて玄関先に雛のフンがたくさん落ちるようになった。
掃除をすること2度、3度。
元気に育っているのだ。
          雛3羽

          親子

家の周りで多くのツバメを見かけるようになった。7月の終わりのころだった。
それが、今思うと
雛の飛行訓練だったようだ。
          わが家のツバメも

そして、いつしか玄関先のフンは消えていった。
雛の鳴き声も聞こえなくなった。
日中のツバメの鳴き声も聞こえなくなっていた。

ようやくわが家のツバメが飛び立ったのだ!
カラの巣が残った。
         

いつも利用する駅の構内で今年2度目の雛がかえった。
乗降客の多くの視線の恵まれた環境の下、4羽が育った。
          駅のツバメ
それに引き換え、わが家の雛たちよ。
親ツバメに頭が下がる。

来年も来るだろうか、根性ツバメ。


本牧神社「お馬流し」神事

2013-08-05 20:11:42 | 神奈川民俗芸能








「お馬流し」の神事が行われる本牧神社は、もとは十二天社と云い、現在地から北東に1kmほど離れた本牧十二天にあった。
戦後本牧地区は、88ha(東京ドーム19個分)に及ぶ地域を進駐軍に接収されて、社は本牧2丁目に、そして戦後四十余年を経た1994(平成6)年、米軍接収解除に伴って現在地へと遷座した。



「お馬流し」は、社伝によると1566(永禄9)年から始まったといわれ、旧暦の6月15日の大潮の日に行われていた。明治に入り太陽暦になってからは8月の第1或いは第2日曜日に行われるようになった。
何故、大潮の日と潮目を気にするかと云うと、海に流した「お馬」が戻ってくると不吉なことが起きる前触れとも云われていて、潮が大きく引く日を選んだのであろう。また、関東大震災が起きた1923(大正12)年にはお馬6体が陸地へ戻ってきたともいわれる。
「お馬」は境内の「お馬の茅場」で育てた茅が用いられる。
頭が馬で胴が亀の馬首亀体といわれる形で長さ約50cmほどである。
旧本牧六ヶ村の間門、牛込、原、宮原、箕輪、台より各1体の計6体がつくられ、前日の「お馬迎え」の儀式によって本殿に安置される。
茅や麻は罪や穢れを祓い落とすものであり「お馬」は茅で作られ、麻ひもで結ばれている。本牧は鎌倉時代から馬になじみが深く、幕府に馬を納めていたために馬の形となったようだ。




お馬送り
「お馬」は各々お馬板と称する厚板の上に置かれて、奉斎者の頭上から頭上へゆっくりと渡し継がれていく。
本殿を出た「お馬」6体は、境内下に待つ舟を模った奉載車の上に30分ほどかけて安置される。



















「お馬通り」と称する通りもある

町内巡行
奉載車は宮司以下総代・各町の代表らがお供をして氏子の各町内を巡行する。
待ち受けていた町内の氏子から神輿奉輿や獅子舞・お囃子の歓迎を受ける。そして、それぞれの地域の災厄がお馬に乗り移る。
町の氏子から見送られた「お馬」の行列は、本牧埠頭の漁港へと向かう。







せめ
本牧漁港に到着した6体の「お馬」は再びお馬板に置かれ、奉斎者の頭上から頭上へゆっくりと渡し継がれていく。
待ち受けている神船の二十歩ほど手前に来ると、それまでへゆっくりと渡し継がれていた奉載者は、一変して急に神船めがけて駆け出す。これを「せめ」と称している。







このあと「お馬」が6体揃うと和船目指して一気に駆けだすのである








お馬流し
神船は古くは6隻、最近ではエンジン付きの漁船2隻が使用されていた。
それが今年から保管されていた和船2隻を修理し使用された。腐食が進んだ船底などを補修し、外装も強化プラスチックに、そしてエンジンも積み込んだ。
50年ぶりの和船は櫓や櫂を操って本牧漁港を離れた。沖合4kmほどの海上で「お馬」は流される。放流した「お馬」が戻ってくることは特にきらわれるため、船は一目散に帰還する。













「お馬流し」は、「お馬」にあらゆる災厄を乗せて海に流し、無病息災や大漁・豊作を願う御霊信仰による行事である。

茅は汚れを清める力があると信じられ、夏越祭(なごしさい)の「茅の輪」にもなっている。
また、先月行われた富岡八幡宮の「祇園舟」神事も同様で茅が用いられている祭りである。

茅の輪


汚れを祓い新たに年の残りを乗り切ろう・・・


                      関連 : 富岡八幡宮「祇園舟」神事

三溪園8月の花

2013-08-04 16:19:20 | 三溪園
















朝顔展は最終日だったので花も疲れていた




三溪園7月の花でも蓮の花を撮ったが殆どが閉じていたので早起きして再挑戦










泥の中から清らかな花を咲かせることから、俗世間から現れたすぐれた人材にも例えられる蓮は、創設者原三溪がとりわけ好んだ花である。
現在では、三溪園を入って正面右側の蓮池に咲いているが、三溪在世中は大池一面に植えられていた。
蓮の花が美しく池を彩るころになると、三溪は親しい人を招いて、舟遊びの趣向で蓮見の茶会を催したそうである。
また、三溪が亡くなった時も、最後を飾った花は園内から切り取った数本の蓮の花であったそうだ。
(三溪園資料より)

                    前回の三溪園 : 三溪園7月の花