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歴史散策まち歩きの記録
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絹の道・浜街道を歩く 2日目

2013-05-21 14:27:11 | 街道を歩く
絹の道・浜街道を歩く 2日目
初日は思った通りの距離を確保できず、その上帰路にコース外の無駄な距離を1時間も費やしてしまった。
2日目はとりあえず鶴ヶ峰までの目標を立てたがどうなったか。
今日は、1日目終了の小山(おやま)コミュニティーセンター前がスタートだ。


片所バス停~常磐・上宿
横浜線橋本駅で下車、神奈中バスで10分余り。片所バス停を下車すると、小山コミュニティーセンターの金次郎さんが迎えてくれた。スタートである。9:00
次のバス停は御嶽堂である。近くの小山御嶽神社からきたのであろう。
すぐ先左手に細い路地があって小さな祠が見えた。地蔵尊である。
丁度お世話をしているご婦人がいたので話を聞いた。もとはこのお地蔵様は奥に建つ屋敷の地蔵様でその家の代が変わって、その後は家とは関係ないといわれたため、それ以後ご婦人が守っているという。お陰で二十数年、娘も外務省に努めアメリカ赴任も無事に勤めることができたと話された。
奥の屋敷だが、長い板塀に囲まれていて、アンバランスに一部がアルミ製の塀に変わっている。そこに以前は立派な門があっって、テレビの隠密剣士の撮影に使われたこともあったという。残念ながら母屋と一緒に焼けてしまった。右側に立派な門が見えているが、これは裏門だという。この門を見ても表門の立派さが伺える。江戸時代から続く豪農といった名家のようで、養蚕もしていたようだ。古い建物が残っていないのでその痕跡もない。

屋敷前を通って小山御嶽神社にむかう。かつては御岳堂神明寺といい、御岳信仰を流布する中心的役割を果たしたと推測される。御嶽神社の創建は明らかではないが、1666(寛文6)年の検地の際御嶽社領として、除地(じょち・よけ地ともいい、領主から年貢免除を受けていた)を与えられる。境内地は朱印地(徳川歴代将軍の朱印状によって領有が保証された土地)でもあった。9:20
小山駐在所先の旧道を進む。道路工事がなされ新しい道ができつつある。

その先広い道(都道503号)をひとつ渡ると、すぐに四つ辻がある。右角には1865(慶応元)年の大きな石燈籠がたち、左角には1827(文政10)年の普門品(ふもんぼん)供養塔などの石塔がたつ。普門品供養塔は、法華経のうちの観世音菩薩普門品(観音経)を、 一定回数読誦した記念に造立した供養塔である。何故にここにたっているのだろう。

その先、右手には古樹を大きく刈り込んだ桑の木を6本見かける。やっとシルクロードに桑が植わっている光景に出会う。

この先、左奥長泉寺がある。階段を上る。門前に「禁葷酒」の文字を深々と彫込んだ石塔がたっている。
葷(くん)とは、ニンニク・ネギ・ニラ・ラッキョウ・ノビルなど、においが強く臭い野菜のことを五葷といい、精力がつき過ぎて人間の心を乱すところから、修行の妨げになると考えられて、酒と五葷は持ち込んではいけないとされている。

山門前に身丈1.5mほどの金剛力士像が迎えてくれる。寺は永禄年間(1958~70)の創建、室町時代である。
境内には六地蔵や七福神など石仏などいろいろとある。9:40

小山郵便局前~常磐・上宿
歩いてきた脇道は小山郵便局あたりで、町田街道と合流する。
街道の右手に石仏が沢山集っており、中村地蔵尊がある。1756(宝暦6)年造立である。地蔵尊は13体あり、「明和」、「安永」、「天明」期の銘がある。これらは大飢饉、大洪水、悪疫等の時期と重なり、安寧を願った人々の気持ちが込められている。庚申塔や道祖神の石塔、その他石仏も並んでいる。

店の前の歩道に小山長寿会園芸部の花壇があって綺麗に花が開いている。努力賞を受賞している。10:10
中村不動前の信号機にさしかかる。
中村地蔵に中村不動、現在の地名は小山町になっているが、昔は字中村ではなかったのか、中村があれば上村に下村もと想像がふくらむ。と、思ったら中村町内会マップなるものを探し当て、中村に上中村、中中村、下中村があるようで中村自体が大きな集落のようだ。
予定はなかったが、信号機の名にある中村不動を探しに左手山側に向かう。祀るものは大体小高い場所が定まりだと思い左手の小高い丘側を進む。
路地が1本道を交差して急に細くなる。進んで行くと参道らしき道の右手に馬□菩薩の石柱があって、石段を上ると社を見つける。社名は書いていないが、おそらくこれが中村不動なのだろう。先ほどの町内会マップにも記されてはいない。ということでこのお不動さまのいわれは不明である。でも、様々なところを歩いていて、お不動さんの祠を多く見かける。お不動さんは広く庶民に信仰されていたようだ。

下馬場(しもばんば)信号の先、右手にわずかの区間、旧道がある。
竹藪と木々が生い茂った景色を見てカメラに写す。これまで殆どが住宅街と車が頻繁に通るところを歩いていたのでこんな景色でさえがアクセントになっている。

町田街道をしばらく進み、常盤バス停手前から又右斜めに旧道が続いている。中常磐で町田街道と合流して、常磐駐在所北信号に着く。10:50
信号機左手に稲荷社が祀られている。箭幹(やがら)八幡宮のお札が貼られている。屋敷稲荷の延長程度の規模で社名は見当たらない。信号を右手へ曲って町田街道をそのまま進むと、両側に桜美林大学キャンパスが広がっている。右側の桜美林の桜寮の先を曲がる。4階建の外層がレンガ造りの洒落た建物である。裏が野球場になっていてゲームをやっているようで選手の名前が放送されている。
左側が次の目的地、箭幹八幡宮である。脇から入っていくと武官姿の随身像を安置した随身門が待ち受ける。
八幡宮は616(推古24)年勅令によって勧請されたとある。また、1062(康平5)年に源義家が先勝を祈願したとの伝承である。 現存する本殿および随身門は1720(享保5)年の建造というから、江戸時代中期の建物ということだ。 神仏習合の産物、鐘楼が残っている。

町田街道に戻り、上宿バス停まで進む。

上宿~滝の沢
上宿バス停から一時町田街道と別れ、右折して行くと大きく弧を描くように旧道が延びる。木曽宿である。この区間は最も良く浜街道の道筋を残しているといわれ、道幅約6m、明治初期の集落はおよそ600mの長さであったという。大きな屋敷が多く、蔵もある。

しばらく歩いていくと右手に秋葉神社がある。1685(貞亨2)年遠州秋葉山三尺坊より勧請したという。樹齢400年余の欅がある。
秋葉神社の隣には、もと木曽宿の入口にあった上の地蔵が祀られている。神社の隣に福昌寺の山門が建ち、奥に境内が広がっている。家康の遺骸が駿河久能山から日光へ移送された折り、休息所となった歴史を持つ寺である。。境内には入れなかったが、ここには樹齢400年のイチョウがある。
  
わずかに旧道のたたずまいを感じる道をさらに進むと、やがて変則の四つ辻へ出る。正面は覚園坊、その前に左折して伝重寺に行く。町田街道沿いにある。12:05
左隣の金毘羅社がああるが、もとは境内にあった社である。

先ほどの変則の四つ辻まで一方通行の道をもどる。
覚円坊(木曽観音堂・武相観音第33番札所・木曽町1502)は、木曽の観音「矢拾観音・矢受観音」と呼ばれ1351(観応2)年、当地に移設されて以来親しまれてきた。鉄の柵の中に道祖神も祀られている。

覚園坊から出て、この先は?と考える。道路標示を見るとここで大きく曲がっている。それで道なりに進むと右手に木曽一里塚跡がある。これで正解と思った。
徳川家康が二代将軍秀忠に命じて江戸日本橋を基点に、東海道、東山道、北陸道に一里塚を築かせ全国に普及させた。一里塚は旅行者の目印として一里(およそ4km)の間隔で道の両側に築かれた塚で、木陰で休憩が取れるように、榎や松が植えられた。
その先を行く。農家風の家が続いている。そのうち広い道路に出た。頭の順路の中でこんな広い道あったっけと疑問符がつく。旧道は弓状にまがっているが、曲が少々大きすぎるのではという思いになった。暫くはと進んでいくと境川に差し掛かった。しかもその先は上り道になっていて雑木林まで現れた。迷子である。
地図を見て、境川沿いを歩き境川住宅という大きな団地の脇を抜け。町田街道の木曽中原交差点にと向かうこととした。実に長方形四辺のうちの三辺を歩いたことになった。帰宅して何処でで誤ったのか調べてみると覚園坊前であった。お蔭で予定していた覚園坊先の木曽宿下の地蔵は、Googleの画像で拝むこととなった。
ただ、道を間違えたことで木曽中原交差点南西のド根性つつじを見ることが出来たことが、ムダ足での救いだ。

木曽中原交差点から町田街道を滝の沢に向かう。
すぐ先で斜め右に入る旧道っぽい道を進む。すぐに本道と合流する。
滝の沢信号で現在の町田街道は左右ふたつに分れるが、右へ行く。左手に「応急給水拠点」の看板が見える。東京都水道局の滝の沢浄水所である。災害時の給水所であるが、横浜市はこんな看板掛かった給水所あるのかなって疑問に思って調べると近くの学校に災害用給水地下タンクが備えてあった。不勉強である。でもそんな看板はないよネ。
森野差点で交差する左右の道は鎌倉街道。右折をして小田急町田駅方向へ進んでいく。段々賑やかになってきて、小田急線の踏切に出る。
 
町田駅~町田南駅
小田急線を渡る。線路を渡ると駅前の広場に1983(昭和58)年、絹乃道の石碑がたっている。両側面には「此の方よこはま」、「此の方はちおゝじ」と刻まれ、裏面に「原町田誕生四百年記念」とある。

横浜開港により一躍脚光を浴びるようになった絹の道。横浜開港以前はここ原町田から長津田-十日市場-中山-本郷-岸根-篠原―六角橋―神奈川と結び、神奈川宿から生活物資などを運ぶ道として大いに使われた。神奈川宿から八王子への道は「八王子道」と、逆に、八王子から来る場合は「神奈川道」とか「神奈川往還」と呼ばれていて、生糸もこのルートで運ばれていた。しかし、開港の翌年幕府は江戸の問屋を守るために、生糸を含む五品目の貿易統制令「五品目江戸廻送令」発行した。しかし、生糸商人たちはその対抗として八王子-原町田-芝生-横浜港という港への直行ルートを運送手段にとった。それが、この先歩く芝生へのルートであって、鉄道が開通するまでの「絹の道」として続いた。
小田急駅前の商店街を進んで行く。GWの休日とあって人通りが非常に多い。その雑踏の中を超ミニの制服を着た4人の女性がキャリーバックを引きながら歩いている。キャリーバックをみると店名新装開店などと書かれている。こんな宣伝方法もあるのだなと感心する。渋谷を歩いていると大型の車数台で宣伝をしているケースを見かけるが、町田はそれの超ミニ版だネ。

原町田中央通りの信号機を渡るとすぐ左に浄運寺がある。14:00
入口を入ると、すぐ左手に原町田七福神と書かれた赤い幟旗を両脇にして毘沙門天の石像がたっている。境内に入ると、本殿左脇に「野盗塚(武藤塚)」がある。武藤家が名主だった頃、夜盗の武士団に入られ、村人達が協力して倒した。その夜盗らを供養した塚で、以前は中町一丁目にあったという。その隣には、自由民権運動で殺害された医師とその右隣には、新撰組の隊士が弟子にいたという神道無念流剣士の墓がある。

さらに進んで行くと左手の町田市商工会館の前に、「原町田七福神」の福禄寿の石像がある。その右隣には「二・六の市」の碑がたっている。この碑は、原町田商店街の発祥が解説されていて、もとは一村であった町田郷から原町田村が独立した。のちに1587(天正15)年にそれまでの市を分けて「二の市」が原町田、「七の市」が本町田が開設したことがはじまりといわれている。原町田の“市”は、炭・薪・蚕糸・畑作物のほか、衣料や農具など多くの物産を取り扱い、文政・天保年間(1818~1843)には「二・六の市」となって月に6回も開かれるようになった。横浜が開港すると、原町田は繭や生糸を運ぶ「絹の道」の中継地として、各地から生糸商人が集まり"市"の規模も大きくなったとのことで、この「二・六の市」こそが今日の原町田商店街発展の礎を築いたといえるとのこと。

さらに進み、51号で交差すると左折して勝楽寺に行く。14:15
ここには「原町田七福神」の寿老人の石像がある。
この寺は、山門と本堂以外はリニューアルされ、納骨堂のビルも建っていて、新旧の建物や境内が美しくマッチしている。

勝楽寺からは歩いてきた町田街道旧道を交差して、JR横浜線に沿った道を進んだのち、JRを跨ぐ歩行者専用の跨線橋を渡り町田天満宮に参る。
ここには「原町田七福神」の恵比寿神の石像がある。これで、「原町田七福神」のうち4神にお詣りしたことになる。「原町田七福神」はほかに、町田駅前広場の大黒天、母智丘神社の弁財天、宗保院の布袋尊がある。


原町田とはこのあたりから、成瀬街道が分岐する三塚(さつか)辺りまでを指し、明治初期には原町田村といって、浜街道沿いの集落としてはこの辺り最大のものであった。昔はJRの駅が原町田といっていた。
先ほどの跨線橋を渡り、三塚の交差点へ。14:40
三塚から町田街道を横浜方面に。ここからは長い距離、史跡がないので黙々と歩くのみである。

東急田園都市線をまたいでいる小鶴橋で本日は終了。15:30
時間的にはまだ余裕があるが、帰宅ルートの最寄り駅の関係でここで止めた。
右折して16号を渡り町田南駅で田園都市線に乗り帰る。
町田南駅は、南側はモールが出来て開けているのに、北側は未だに鉄線が張られている未開の土地である。駅が開業して久しいというのに。目の前の16号が高架になるのを待っているのだろうか。

参考にした先人の「絹の道を歩く」の1日分をようやく終えた。あと2日かかることだろう。 
その日の夕刊に三越と藤岡(群馬県南西部の都市)とが絹取引が縁で233年前に三越(三井越後屋)が贈った神輿が日本橋を練り歩くという。「絹の道」を歩いた日に、滅多に話題とならない絹が関係するニュースが社会面に出るとは、偶然



                 関連 : 「絹の道」浜街道を歩く 1日目  
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 3日目 
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 4日目(西谷~芝生の追分)  
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 4日目(芝生の追分~象の鼻)


ミニミニ品川宿散策

2012-06-06 15:33:42 | 街道を歩く
ミニミニ品川宿を歩く

       
江戸と上方を結ぶ重要な交通路である東海道に宿場がはじめて設置されたのは1601(慶長6)年のこと。
全国的な交通網を整備しようとする徳川家康の計画によるものであった。
既に戦国時代から北品川と南品川の両宿があったのを江戸幕府が新しく設置したのである。のちに、品川宿の北、高輪寄りに茶屋や旅籠屋が延びていき、1722(享保7)年には歩行新宿(かちしんじゅく)の成立を見るに至り、この三宿を品川宿といった。
日本橋から京に至る東海道五十三次の第一番目の宿場として大変賑わったという。

八つ山橋から旧東海道を入る
訪れたのは、品川神社、荏原神社の祭礼日の数日前のこと。アジサイが綺麗に咲いていた。
   

問答河岸跡碑
1640(寛永17)年、徳川家光が付近の「東海寺」を訪れた際に、ここで沢庵和尚と次のような問答をしたとされる。
家光「海近くして、東(遠)海寺とは是如何」
沢庵「大軍を率いて将(小)軍と謂うが如し」
               

品川浦舟だまり
江戸湾には、漁を専業とする人々の集落がいくつかあり、漁師町または浦といった。品川周辺には「品川浦の品川漁師」と「御林浦の大井御林漁師町」があり、「御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)」のひとつとして、収穫した魚介を江戸城に献上していた。御菜肴八ヶ浦とは、品川・御林・羽田・生麦・神奈川などの浦々で、力レイ・あいなめ・車海老などをはじめ、様々な魚介類をとること。   
現在は、つり舟や屋形舟の発着場として賑わっており、「品川浦とつり舟」で"しながわ百景"に制定されている。


御殿山下台場(砲台)跡
この地、台場小学校の敷地は幕末、江戸の防衛のために築かれた「品川台場」のひとつである砲台跡地であった。
また、レプリカの灯台は1870(明治3)年から1957(昭和32)年まで使用されていた品川灯台(国の重要文化財に指定)であり、周りの石垣は旧目黒川に架かっていた品海橋(今の台場交番前)を築いた石であるという。
                  

利田神社
旧目黒川の河口に弁天堂が祀られていた。1626(寛永3)年、沢庵和尚が弁財天を祀ったことに始まるとされる。洲崎弁天として歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」のひとつに描かれている。明治の神仏分離で「利田神社」となった。
この辺りは、南品川宿名主・利田(かがた)吉左衛門が開墾して「利田新地」と呼ばれていた。


鯨塚
1798(寛政10)年、品川沖に迷い込んだ鯨を漁師たちが捕えた供養碑ある。体長は16.5m(9間1尺)の大鯨で、江戸中の評判となり、浜離宮沖まで運び十一代将軍家斉(いえなり)に見せたという。
              

              

土蔵相模跡
旅籠屋「相模屋」の外壁がなまこ壁の土蔵造りであったため通称「土蔵相模」と呼ばれていた。
1862(文久2)年、高杉晋作や志道聞多(のちの井上馨)らが外国人襲撃の謀議をしたり、1860(安政7)年の発生したの桜田門外の変の水戸浪士が宴を催したところでもある。
ひとつおいた建物に「旅籠 品川宿 一期一会」の看板があったのでこの地に因み一枚撮す。



善福寺


入江長八(1815~1889)の漆喰こて絵の龍が本堂に描かれている。


横丁
旧東海道のそれぞれの横町に歴史を感じさせる名前が残る。
              
              

街道文庫
今回の品川宿の主目的はここに来ることであった。
先だって、テレ朝の番組「人生の楽園」で紹介され興味を覚えた古本専門書店である。品海公園の向かい側にあり、「品川宿 お休み処」を使用している。
「思ったほど大きくないですネ。」とひとこと余計な言葉を発すると、「テレビはうまく撮りますよネ。」と気さくに返ってきた。
鎌倉街道の本を探しているというと相談にのってくれて数冊紹介された。鎌倉街道を歩く参考となり、地図も備えた本は少ないという。特に神奈川エリアはほとんどないとのことだった。
1冊面白そうな「鎌倉街道伝説」を買い求めた。
               

日本橋から2里
日本橋から2里の案内板があった。と云うことは「一里塚」があったのだろうか?調べると、初期にはあったようだが江戸時代中期にはなくなっていたようである。
今は、五代目の品川宿の松が植えられている。現代の品川宿東海道沿道には様々な宿場の松が植えられている。ここは地元の品川の松のようである。
              

法禅寺


法禅寺板碑(下左)
板碑は鎌倉時代から戦国時代にかけてつくられた石造の供養塔で、関東を中心に広く分布している。
この寺の板碑は、品川御殿山から出土したものの一部で、破片を含め121基ある。古いものは1308(徳治3)年の銘がある。
 
流民叢塚(るみんそうづか)碑(下右)
天保の大飢饉で亡くなった人たちを祀る供養塔である。
品川宿は農村などから流浪してくる人が多く、病や飢餓で倒れた人が891人を数え、法禅寺と海蔵寺で葬っている。


杉森稲荷
五穀豊穣の稲荷神が法禅寺の境内に祀られている。
1690(元禄3)年銘の「武州品川稲荷大明神」の石柱が置かれている。
     

正徳寺
レンガ造りの塀がある真宗大谷派の寺院


              

祭礼
荏原神社
品川神社の天王祭と合わせて「品川天王祭」と称される。
祭礼最終日には「御神面神輿海中御渡(ごしめんみこしかいちゅうとぎょ)」という神事があり、天王洲沖で神面を着けた神輿が海に入る。これは、1751(宝暦元)年、品川沖の海から牛頭天王(ごずてんのう)の面が発見されたことに因み、「天王洲」の地名もここからきている。
江戸のころから、若衆が神輿を荒々しく担ぐ際に元結が濡れて切れ、ざんばら髪になった様を観て、「かっぱ祭り」と呼ばれるようになった。
神輿の渡御で演奏される品川拍子は、大拍子と呼ばれる太鼓と篠笛で演奏される。
                

                    
品川神社
品川神社は「北の天王社」と称される。
徳川三代將軍家光が寄附された神輿を、勝海舟が「葵の神輿」と名付け、今は二代目である。品川神社の神輿には、家康の奉納した通称「天下一なめの面」を屋根につけ、〆太鼓と笛の品川拍子でかつぐのか特長である。面を取付けるようになったのは、ある年のこと凶作がつゞき疫病がはやり人々が苦しんいた時に、「この面を神輿に付け町々を廻れば苦しみから救う」と神のお告があり、以来神輿にお面を付け練り歩き、家々の幸福を祈願するようになった。又品川拍子とは、家光公が神輿を奉納された当時から、品川神社太々神楽の拍子と江戸囃子の拍子から独特の品川拍子をつくったといわれる。

       
         



提灯が飾られた街並み
              
              
 

品川宿には本来一週間前に行く予定だったのだが、天候が危ぶまれ延ばしたのである。
そうしたら、テレ朝の「若大将ゆうゆう散歩」でその日、北品川を周っていた。「ちい散歩」も偶然が多々あったが、加山散歩でも縁があるとは・・・・。


本日のスタート地点・旧大名屋敷
とある都内のホテルから出発。
400年余りの歴史を有する東京名園のひとつに数えられている。

                  
湧水山水風の池の中に、江戸時代からの大木の化石がある。木の根がそのまま化石になった珍しい石で、庭園内には4個の化石がある。
              

              

小田原城を歩く

2012-04-11 11:47:23 | 街道を歩く
小田原城

  
小田原城が始めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃のことと考えられる。
1500年頃に戦国大名北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展した。
しかし、その小田原城も1590(天正18)年、天下統一を目前にした豊臣秀吉21万の軍勢に包囲され、約4ヶ月の篭城虚しく落城、北条氏五代の100年にわたる関東支配が終焉した。
江戸時代を迎えると徳川家康の家臣、大久保氏が城主となり、城の規模は縮小された。稲葉氏が城主になってからは大規模な改修工事が行われ、近世城郭として生まれ変わった。その後、再び稲葉氏が城主になり、箱根を控えた関東地方の防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきた。
明治維新を向かえ、小田原城は1870(明治3)年に廃城となり、ほとんどの建物が解体される。残った石垣も1923(大正12)年の関東大震災によってことごとく崩れ落ちた。

天守閣
              
天守閣は城の象徴として本丸に構えていた。
三代将軍家光が天守閣に上って武具を見たり、展望を楽しんだという記録が残っている。
1703(元禄16)年の大地震で崩壊、1706(宝永3)年再建され、1870(明治3)年に壊された。
1960(昭和35)年、宝永年間時に作成された設計図を参考に鉄筋コンクリートで外観復元した。

本丸
               
東西約150m(83間)、南北114m(63間)ほどの規模をもち、その西端に天守閣、中央に本丸御殿が存在した。
本丸の周囲は石垣と土塀がめぐらされており、東南に常磐木門と北側には裏門にあたる鉄(くろがね)門が設置されていた。
小田原城は江戸城の出城であり徳川家の所有であったようで、本丸御殿も将軍が宿泊するために建築されていたものである。1703(元禄16)年の地震によって焼失して以来建設されなかった。

>本丸東堀跡
              
江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいた。絵図によると堀は二の丸堀とつながって水堀となっていた。

本丸の巨(おお)マツ
                   
「御本丸に七本松という老松・・・」と天保年間の雑誌に書かれていた松の生き残りと思われ、樹高30m、樹齢400年以上のクロマツである。 

二の丸
              
江戸時代の小田原城には、将軍の宿泊専用の「本丸御殿」と、藩主在国中の居館として、また藩の行政を行う政庁としての役割を持つ「二の丸御殿」のふたつの御殿を有していた。
「二の丸御殿」は寛永年間(1624~44年)のころが最も壮麗で、能舞台や唐門も備えた立派なものであった。しかし、1703(元禄16)年の大震災により小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御殿」も倒壊炎上した。その後再建、増築されているが、以前のような姿には及ばなかったという。

二の丸隅櫓
              
曲輪(くるわ)の隅に配置される櫓(やぐら)。廃城の際にも壊されなかったが、関東大震災で崩落した。現在の櫓は1934(昭和9)年に復元したもので形状は当時と異なる。

常磐木門
              
本丸の正面に位置し、城内で最も大きく堅固に造られていた。記録から江戸時代初期から設けられており、1703(元禄16)年の地震で崩壊した後、多門櫓と渡櫓から構成される枡形門形式で再建されている。
常磐木とは常緑樹の意で、小田原城が永久不変に繁栄すること願って名付けられている。
1971(昭和46年)復元。

銅門(あかがねもん)
              
江戸時代の二の丸表門で、江戸時代を通してそびえていたが、1872(明治5)年解体される。
1997(平成9)年、門や土塀は古写真を基に江戸時代工法で復元される。銅門の名前の由来は、大扉などに銅の飾り金具が使用されているからである。

馬出門(うまだしもん)
              
二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期から現在の場所に存在し、1672(寛文12)年に枡形形式の門に改修され、江戸時代の終わりまで存続した。
2009(平成21)年に総工費5億円余りをかけ復元される。

大手門跡
  
稲葉氏が城主であった1633(寛永10)年、三代将軍家光が京に上る際に、箱根口付近にあった大手門を江戸に向く現在の位置に移し、大手門前までの道を将軍が入るための御成道として整備、江戸見附もその時に、現在の国道1号線の位置に移された。
この門を入ると三の丸となり、道の両側には家老級の屋敷が建ち並んでいた。
鐘楼の石垣は、大手門枡形虎口の石垣である。
この鐘楼の鐘は「時の鐘」として長い間昼夜の隔てなく突かれていて、1686(貞享3)年の記録にも「小田原町の時の鐘は昼夜ついている。鐘つきの給金は6両・・・」と記載されていることで300年以上つかれていることとなる。

幸田門
       
江戸時代には、三の丸の入口のひとつで、お堀端通りの中ほどにある。戦国時代は上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時に、この門から攻めたと考えられる。幸田とは、もともと神礼の費用を賄う田圃を指す。

学橋
     
この橋は江戸時代にはないもので、1929(昭和4)年に城内小学校が二の丸に移転した際に架けられた。現在の学橋は、1949(昭和24)に再建された。

二の丸東堀  
 
本丸・二の丸を守る堀の中で最も大きな堀で、幅は最大で約40mで、現在よりもさらに60m北に広がっていた。現在の石垣は1923(大正12)年の大震災で崩れたものを昭和初期に復元した。江戸時代の石垣はいまのものより高かった。

御茶壺橋
                       
箱根口より入場する際に使われる橋で、正しくは小峰橋と呼ばれる。
江戸時代に京の宇治より、徳川将軍家に茶を献上するために、お茶壺様と称するご一行が城内の御茶壺蔵に納めるために、この橋を往復したことから、お茶壺橋と呼ばれるようになったといわれる。

御用所
               
この地に藩の御用所があったのでこの名がついた。御用所とは藩の執務所で、元禄のころは箱根口門にあったが、文政(1818~30年)の頃にこの地(現検察庁並び)に移った。幕末には母屋を囲んで敷地内に6棟の建物があった。

弁財天
                      
江戸時代初期、この地(弁財天通り)を「弁財天曲輪(くるわ)」と呼んでいた。しかし1690(元禄10)年に蓮池の南側にあった「評定所曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたのでこの地は単に「弁財天」と呼ぶようになった。
幕末には、この地に6~7軒ほどの中堅藩士の屋敷があった。
曲輪とは、城や砦(とりで)の周りに築いた土塁や石垣などをいう。また囲まれた一区画の地域。

日向屋敷
              
1614(慶長19)年、城主大久保忠隣が改易になった時、その夫人である日向御前が閉居した屋敷があったため地名となった。江戸時代末期には、約14軒の藩士の住いがあった。

小峯曲輪北堀
              
報徳二宮神社の境内は北条氏によって造成された小峯曲輪にあたる。小峯とは天守閣の裏手、西側一帯を指す古い地名である。

御用米曲輪
              
ここは現在発掘調査中の御用米曲輪土塁の部分で、石組水路や戦国時代の遺構や墨で字が書かれた素焼の土器(墨書かわらけ)などが発見されたという。
これまで野球場、臨時駐車場として利用されていた場所で、小田原城本丸北部の御用米曲輪があったところである。
御城米曲輪とも呼ばれており、北条氏時代・江戸時代には百軒蔵と呼ばれていた蔵があったといわれる。
2014(平成26)年まで発掘調査が続くというので新たな発見を期待できるかな。

                      




                                               参考資料:小田原市ほか

大御所様の道・中原街道 6日目(最終日)

2011-12-30 00:00:00 | 街道を歩く
中原街道6日目

6日目はJR相模線宮山駅下車し、寒川神社へ向かった。
宮山駅が無人駅なのには驚いた。改札口には切符を入れる箱とICカードの対応機がひとつ設置されていた。
目久尻川を渡って寒川神社に到着する。


寒川さんは中原街道から離れてはいるが、寒川町に来たからには寒川さんを素通りできないと、朝の8時半にお参りをする。

拝殿では巫女さんから清掃の親爺さんまで全員集合で朝のお参りをしている。境内は時間が早いため参拝者もまばらであった。

丸子・中山・茅ヶ崎線に向かう。途中に根岸弁財天があるのでお参りする。

由緒によると、ここの池は500年ほど前より農業用水として利用されており、江戸時代になってここを治めていた旗本が弁財天を祀ったといわれる。1985(昭和60)年に寒川町が公園と整備する機会に弁財天の石像を建立した。

本線を歩き、JR相模線の踏切を渡る。

景観寺の丁字路で丸子・中山・茅ヶ崎線と別れ、田村の渡し方面(県道44号藤沢・平塚線)に向かった。

景観寺の通りは景観寺、明神社、一之宮八幡大神、妙光寺と続く。
 景観寺

神明社には庚申塔、双体道祖神、石祠などが祀られていた。


一之宮八幡大神には関東大震災の大震災紀念碑(紀=記)が建てられていた。寒川地区は震源域が相模湾ということで被害も甚大であったことと思う。
 

その先左手に数台の車を止めた空き地がある。その空き地の前面に浜降祭駐輿記と刻まれた碑が建っていた。

この碑は、寒川神社の浜降祭で、茅ケ崎南湖浜まで近在の神輿がここ一ノ宮で休憩をとる(駐輿)。
神輿が出発する時(御発輿)に、地元の作物(麥蓙?)を神輿に投げ掛ける古事があると記されているようだ。

その碑の奥をカギの手に入ってゆくと伝梶原氏一族郎党七士の墓がある。
1200(文治2)年のことで、
駿河国清見関で討死した梶原景時一族郎党を一宮館で留守をしていた家族、家臣が弔ったものと伝えられるが、また一説には、
景時の夫人を守って信州に逃れていた家臣7人が、世情が変わったことを見て鎌倉に梶原氏の復権を願い出たが叶わずその場で自害した。墓はその七士を祀ったものともいわれる。


ここに出て来る梶原景時とは、何者ぞよ?
ということで、次の梶原景時の館跡に急ぐ。

梶原景時は、源頼朝挙兵で、石橋山の合戦の折りに頼朝の一命を助け、それ以後頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献した武将である。
一宮を所領とし、この地に広大な館を構えたという。
頼朝の死後、多くの家臣からねたまれ鎌倉を追放された。その後再興を期するために上洛の途中で、静岡市清見関で北条方に攻撃を受け、景時以下討死した。
館に残っていた家臣も尾張に移ったといわれる。
そして、この地には梶原氏の風雅を称え、土地の人が天満宮を創設したともいわれる。
 

次は、車地蔵祠に向かう。
本道からそれるので分かりにくいかなと思って歩いていったら簡単に見つかる。
車地蔵は大きなお地蔵様が立派な祠に納められている。何故、車地蔵と呼ばれているのか案内板もなく不明。
 
安楽寺の西側を通っていた旧中原街道は車地蔵の西の道と繋がって行たのではと、定かではないが想像する。

新たな本道・47号線に戻り、南北に走る産業道路を一之宮小前交差点の歩道橋で渡る。昔はこの辺りに寒川神社の門前町である一之宮宿場があったという。藤沢宿から用田を経由してくる大山道と瀬谷から用田を経てくる中原街道の継立場であったといわれる。
一之宮小学校を過ぎると本道・47号線は右に曲がっているが直進して八角広場に向かう。

八角公園は1984(昭和59)年まで相模線の支線(西寒川支線)の西寒川駅があった場所である。支線といっても隣駅は寒川駅でありひと駅の支線である。1923(大正12)相模鉄道東河原という貨物駅として開業した。廃止前までは1日4往復の旅客電車が走っていたという。
一部レールが敷線されており、線路跡の部分は遊歩道として残っている。
 
また、この辺りには海軍工廠があったようでその碑が置かれている。この海軍工廠では3千人以上の徴用工、動員学徒、女子挺身隊、朝鮮からの強制労働者が毒ガス製造に従事させられていた。
その毒ガスらしき容器が近くの縦貫道一之宮高架橋工事で発見された報道はまだ記憶に新しい。

線路跡の遊歩道を歩いて本線に戻る。右に大きくカーブした道の角に一之宮不動がある。
お堂を除くとカーテンの隙間から不動明王と2体のお供の童子が写った写真が掲げられていた。
  
案内によるとこの前の道は大山街道と呼ばれ、東海道藤沢宿から田村の渡しを経て大山阿夫利神社に、厚いはお参りの帰りにと観光地江の島へ、或は景勝地鎌倉にと江戸時代に利用された道であった。
不動堂の脇には不動明王が台座に飾られた道標もある。
 

昔の人は、ここから相模川を田村の渡しで舟を利用して渡った。
現代人は縦貫道の工事を見ながらはるか上流の神川橋(かみかわばし)を渡る。
高架橋の向うには富士山が見えた。

神川橋は全長493mと長い橋である。河原には固まって同方向にカメラを向けているカメ○○が30人近くいる。何を撮っているのだろうか、ヤマセミなのか?
 

県道47号線で平塚市に入る。
橋を渡り終えると右手に八坂八幡が見える。

八坂神社の境内には、田村ばやしの碑がある。
 
田村ばやしとは、平塚市の無形重要文化財に指定されている独特なリズムをもつ祭りばやしという。源流は鎌倉時代に田村の館に住んでいた三浦義村が京都から楽人が楽を招いた時の里大子であるとされる。江戸時代には八坂神社祭典の屋台曳行の囃子になっていたといわれる。
境内の隅には3本の道標がたっている。


県道47号線を八坂神社前の信号機を左折し、ひとつ目の交差点を左折すると、相模川の通見の傾斜地に田村の渡し碑がたっている。

田村の渡し場は簡単なつくりで、川の流路によって変わり、川幅は約54m(30間)。大住郡田村と高座郡一之宮・田端村の3ヶ村が渡船場の業務を勤め、船4艘で常時渡河していた。

そのまま直進すると、市営住宅の隅に三浦義村の田村の館跡碑が建っている。


県道44号線に戻り旧田村の辻交差点に行く。この右手には田村宿があって道の両側には、旅館や茶店、立場等が並んでいて大山詣での中継点として、田村の渡しを控えた宿として旅人で大いに賑わったようだ。
交差点手前右手に、大山みちの道標と十王堂跡碑がたっている。十王堂は1537(天文6)年で小田原北条氏と上杉氏が相模川の合戦で多くの戦死者をだした。近くの妙楽寺の住職が戦死者を弔うために十王堂一宇を建てたといわれる。(一宇・いちう=一棟の建物)


旧田村の辻を左折する。
先ずはじめに祥雲山妙楽寺、右手にある。由緒ある臨済宗のお寺で、開基は足利尊氏の子で基氏。戸古川家康より10石の朱印地(朱印状によって与えられた寺社領地)を与えられている。

2階建ての三門がめいつく。

すぐ先に、田村馬返橋(うまかえはし)跡碑がたっている。
 
家康が鷹狩にこの地に来た折、たまたま大雨の跡で道路がひどく悪かった。そこで、田村の人達は畳を出して便宜を図った。家康はその苦労を思って、そこから馬を引き返したという。また、妙楽寺の門で、古くから馬継の場であったため馬返橋の名が発生したとも案内板に書かれている。
碑の脇には庚申供養塔と道祖神が祀られている。

その先二股のところに、中原街道田村の一里塚がある。案内板によるとこの辺りは八王子街道ともダブっているようだ。中原街道はこの二股で右に行くようである。
近くのバス停の名に鹿見堂(ししみどう)と付いているが、この付近には昭和の頃まで箸立森といわれる森があった。昔、家康がこの付近を通ったとき、弁当に使った箸を地面に突き立てた。その後、箸から芽が吹き杉の木となり、森へと成長したという家康の伝承がある。後にこの地に権現堂が立てられ、鹿見堂と呼ばれた。
 

鹿見堂で道が分かれ、右側が旧道とういことだ。


この後、四之宮の渡し跡、前鳥(さきとり)神社へ向かう。相模川に出る道が分からず、渡し跡は断念、神社に向かうがこれもネットからの拡大地図片手に探したがなかなか神社が見つからず、木が生い茂った場所を目当てに歩き、やっと神社の脇道に巡り合った。様々な場所の散策を始めてから、脇から入って正面から出て来るパターンが多くこの神社もかといった気持で脇から入いる。

前鳥神社。想像以上に大きな神社で、幼稚園も経営しているようで、神社の脇の建物から、園児の声がする。

奈良時代以前からの歴史があり、1000年以上と、平塚市最古の神社である。
参道を出ると湘南銀河大橋の通りに出る。こんなに大きな目標があったのだと反省。


中原街道からは外れているので、鹿見堂の二股で別れた道は、古くは諏訪神社前に通じていたというので、四之宮西町交差点を通り、諏訪神社に向かう。

四之宮西町交差点には石仏が狭い場所に押し込められていた。


諏訪神社は、ブランコが置かれているあまり大きくない神社である。


この神社の手前南西に伸びる道が中原街道と平塚市が発行した中原街道抄に書かれており、平塚市内の中原街道は耕地整理で殆ど無くなっているので、旧道があるところは忠実にと、解説の道を行く。
 中原街道旧道
ところが、目標の庚申供養塔が見つからず、手持ちのネットのコピー地図では縮尺が分からず、挙句には今の位置まで分からなくなってしまった。仕方がなく、コンパクト地図を開いて位置の確認。
結局、次の真土神社には南下しすぎたようで、真土神社の北側に残る中原街道は辿れず、逆の南西からの道からようやくたどり着く。勉強不足である。

真土神社は真土地域内にあった7社を明治時代にひとつにして祀った神社とのこと。
 

その後も旧道と思われる道を辿り、大野中学校の南の道を進み日枝神社に辿り着く。
日枝神社の東側を県道・平塚―伊勢原線が走っているので参道もその道に面していると思ったが間違えで神社の西側が中原街道なので参道はそちら側に面していた。
この神社も脇から境内に入る入口があり、この神社も残念ながら脇から入って正面の参道から出る形になってしまった。神様が、この罰あたりもんと怒っているかも知れない。

日枝神社。中原上・下の両宿の鎮守として祀られ、1640(寛永17)年中原御殿改修の際、御殿の鬼門の位置に村内から完成し、明治初年山王社から現在の日枝神社に改名した。

1909(明治42)年には東照宮を合祀する。4月の東照権現祭は盛大に行われている。
  

鷹狩りが描かれている奉納額

参道入口に江戸時代建立の笠付きの庚申塔が祀られている。


いよいよ、中原御殿が近づいてきた。

中原街道一里塚跡。脇往還である中原街道も東海道にならい大磯宿の化粧坂一里塚を起点として中原に一里塚を築いた。


 バス停「中原御殿」

交番の丁字路を右折すると右手に中原宿高札場跡がある。

高札場とは、幕府などから出された禁令を木の札に書き掲示した場所のこと。当時の画を見ると高札は土台を石垣で固めて柵を結い、高札が掲げられている部分には屋根がついていたという。
また、交番の丁字路から正面の市立中原小学校にぶつかる僅か150mの道のりを古くは御縁場、或いは、大手道と呼んでいた。江戸時代、中原宿はひとつの城下町として縄張りされており、大手道から御殿跡である中原小学校への道は鍵状になっており、防備の工夫がなされていた。

横浜市の歴史講座の講師曰く、当時の世情を考えると、御殿と聞くときらびやかなイメージがするが、決してそうではなく、出城的な存在であったと力説している。
しかし、面白い記述が創業記という書物に書かれているのだが、1607(慶長12)年1月、家康が御殿に宿泊していた際、番衆が夜、辻相撲の見物に出払っていた時に、空き巣が入り茶器を盗まれる出来事があった。空き巣で良かったが防備に強かったのかなと思う。

ついに中原御殿に辿り着いた。江戸城桜田門外を出発して6日目、延べ42時間。
校庭内に大きな「相州中原御殿之碑」建っている。

中原御殿は1596(文禄5)年家康の命により、江戸と駿府間の往復や鷹狩の際に宿舎として中原の密蔵院跡に建築された旅館が前身である。中原御殿は相模川を控えていて川の出水の際は減水するまで幾日かの逗留を否応なしに余儀なくされるので旅館としても意義深い。「御鷹野御殿」「東照宮御旅館」「雲雀野御殿」ともいった。規模は資料によって様々なので平塚観光協会の資料によると、東西約190m、南北110mで、東を正面にし、四方には幅約12mの空壕をめぐらしていた。完成は1615(慶長19)年。この資料で敷地面積を計算すると20,900平方m、約6,300坪となる。
碑の前にてセルフで記念写真を撮る。
 消防団の車庫に描かれた中原御殿

中原街道の第一の目的は終了したが、江戸時代後期の終点は大磯の化粧坂一里塚になったということで、最終目的を化粧坂一里塚としている。

次は徳善寺である。中原小学校の南側の道を西に進む。途中に船地蔵がある。案内板もなかったが、お地蔵さまが舟に乗っているので間違いはないだろう

地元では南原の舟地蔵と呼ばれており、幾つかの曰くがあるようだ。市内にはこれだけではなく、全部で3基の舟地蔵が造立しているそうだ。

善徳寺はその先にある。茅葺きの三門を見て、はるばるここまで歩いて来てよかったと思う。三門に風格を感じた。この三門は中原御殿の裏門に使用されていたものを移築している。


大磯の化粧坂一里塚まで旧道(中原街道)を歩こうと、少々今来た道を戻り、その後右折し古花水橋に向けて南下した。

暫く歩いて大久保公園に着く。

三角の形をした大久保公園を含む諏訪町一帯は、旧小田原藩主大久保家が所有していた。その三角形の頂点にブロックの祠に納まった道祖神が祀られている。祠の中央に新しい代の道祖神が、その左脇に隠退した道祖神が納まっている。

町会の神社部の解説がそばに貼ってあった。
それによると、道祖神とは、
道路の悪霊を防いで行人を守護する神。日本では『さえのかみ(障の神・塞の神)』と習合されてきた。くなと (苦難止)の神、たむけの神ともいわれる。
公園の北側には諏訪部神社と平塚水天宮が祀られている。

諏訪部神社には大久保家発祥の地の愛知県所在の糟目犬頭(かすめけんとう)神社の分霊も併せて祀っているそうだ。また、水天宮では今も豆撒きの行事が行われているという。


神社の西側の道が中原街道で、近くの中学校の生徒が先生を交えてゴミ拾いの作業を行っていた。
再び南下し、休日診療所前の丁字路を右折する。
右手に県立平塚農業高校の校舎が見えて来る。

高校の前の丁字路の左先に八雲神社がある。


この一帯は平塚城があった。平安時代末期の三浦半島一帯に勢力を保持していた三浦氏一族のひとり、三浦大介の弟の孫にあたる武将が館を建てたことが始まりとされ、室町時代中期ごろまで代替わりしたが、城があったようだが、資料がなく、武蔵国平塚城(東京都北区)との混同もあって不明という。
八雲神社で撮影していると、地元の歴史愛好家の方が話しかけてきた。平塚城について研究している方が地元にいるそうだが、細かなことは不明のようだ。

県立平塚商業高校を右に見ながら南下。

前方に太い樹が見えて来る。五霊社のタブの古木である。

樹齢350年、幹周り4.3m、樹高13.5mの市保全樹木指定の巨木である。五霊社の社はというと巨木の影に隠れるように石祠がある。

また、南下し柳町の京方見附に到着。

花水川を渡り、東海道を西に進む。高麗山を右に見て、化粧坂の旧道との分岐まで辿りついた。終点はもうすぐである。


旧道を進んでゆく。緩やかな登りになっている。化粧坂(けわいざか)である。鎌倉時代には大磯宿の中心であり、遊女屋が並んでいて、遊女の化粧に因んで坂の名となった。

虎御前化粧井戸が左手にある。曽我十郎の妾、虎御前がこの近くに住み、この水を使って化粧をしたという。


その先、右手に化粧坂一里塚の案内板がたっている。
江戸より16里の一里塚。3mほどの塚を築き、そこに海側に榎を、山側にせんだんを植え里程(りてい=みちのり)の目印にした。


  化粧坂一里塚付近の化粧坂

「中原街道・大御所様の道」の散策もついに終わった。散策時間44時間。参考ではあるが手元の距離計では110km余であった。中原街道だけを歩けば、桜田門外からおよそ65kmなので4割ほどは寄り道に費やしたようだ。

大御所様の道・中原街道を行く 5日目

2011-12-28 00:00:00 | 街道を歩く
中原街道5日目

前回の続きで梛の木の碑からスタートする。
中原街道はここから上り坂となる。
瀬谷第二小の信号機辺りから平となり、下瀬谷二丁目交差点で環状4号線と交差する。
中原街道は片道1車線になり、下り坂となる。
交差点先左手に地神塔という相鉄バスの停留所がある。バスの停留所にその土地の歴史に関連する名前をつけていることは嬉しい。

バス停そばには4基の石仏群があり、このうちの地神塔は1839(天保10)年と刻まれている。バス停もここから名付けられたのであろう。


下り坂が終えた辺り右側に日蓮宗・宗川寺がある。

三門右側に秋桜、百恵ちゃんのコスモスではなく秋に咲く桜が咲いている。
三門を潜ると夫婦銀杏と呼ばれる2本の背の高い銀杏が植えられている。


三門右手の塀越しに瀬谷宿問屋場跡の案内板が立っている。

案内板によると、問屋場(といやば)は、1578(天正6)年小田原北条氏時代問屋場が設けられ、後に、徳川の江戸時代になっても江戸・平塚間5駅の中宿、瀬谷駅のとして、270年間中原往還の道筋の人馬、諸貨物の運送、継立に役割を果たしたという。
その問屋場は、これより東方80mというから、ホームセンターの駐車場辺りであろう。

宗川寺の北側を行く小道は旧鎌倉街道であり、道を一歩入ると石蔵が屋敷内にある旧家が幾つか望める。
 街道裏の旧家

境川を新道大橋で渡り、横浜市瀬谷区から大和市に入る。
 
中原街道は江戸の繁栄とともに生産物の輸送要路としての需要も高まり、街道の改修が実施された時に旧来の道に対し、新道の呼称が定着したのではなかろうか。
その当時の呼称がそのまま地名、橋名になったと書物に書かれており、大和市の上和田から福田の間を新道と呼んでいる。



高低差がある坂となる。大阪と呼ばれている。


坂を上がり切り左手の小道を少し行くと左馬神社がある。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の父義朝が祭神として祀られている。境内の縁には石仏像もある。
 
由来としては「古くより、相模の七サバ神社のひとつと数えられ、社名も鯖大明神(宝暦14年)、左馬大明神(文化13年)、和田左馬大明神(慶応2年)と変遷して、明治42年現在の左馬神社となり、村社に列せられた」とある。
境川の流域に位置する大和市、藤沢市、横浜市瀬谷区・泉区には「左馬」「左婆」「左波」「鯖」と”サバ”と名付づけた神社は現在12社あり、江戸時代中期には13社あったといわれる。
サバ神社ついての記述は新たに機会を設けることとして先に進む。

道の拡幅工事が行われている。この辺りの道は中原街道とはいわず丸子中山茅ヶ崎線と呼ぶようだ。


藤沢町田線(国道467号)と交差する桜ヶ丘交差点にさしかかる。ここには道標兼庚申塔が置かれていたが現在は金毘羅神社に移設してあるので、少々外れて社に向かう。

金毘羅神社は明治時代中頃に地域の人々により勘請したといい、比較的新しい神社のようだ。
道標兼庚申塔は境内左隣に据えられていた。塔の左右に「大山ミち 八王子ミち」と刻まれている。1710(宝永7)年建立。
 

すぐ近くに小田急江ノ島線の桜ヶ丘駅がある。
旧滝山街道を通って本線に戻り、小田急の踏切を渡る。

道は下って、引地(ひきじ)川を新道下(しんみちした)大橋で渡る。そして上りとなる。
代官一丁目の交差点で道がふたつに分かれている。直進する方が自然であろうと。右側の真っ直ぐ伸びた道を行く。

暫く行くと厚木基地で直進がさえぎられる。
ただし、中原街道の綾瀬方向への道路案内板が直線状に見える。恐らく基地が中原街道を迂回させたのだろうと思う。

厚木航空基地の南側に出る。現在、ゆとりの森という広い公園になっている。基地を望む場所は一段高くなっており眺めがよい。
 大和市ゆとりの森
 厚木航空基地

綾瀬市に入る。
基地に角で道は分かれる。一方は厚木・海老名方面である。
ゆるやかな下りとなって菱川という小さな川を渡った後再び上る。

鶴島緑地という花壇があった。


その先に廻り坂という変わった名のバス停がある。


しばらく行くとフェンスに囲まれた中に堅牢大地神塔や道標を兼ねた庚申塔がある。庚申塔には「文化11年 南大山道」「西あつぎ □江戸道」と刻まれている。(文化11年=1814年)


右手に瓦屋根の門構えの家が目についた。旧家であろうか。


藤沢・座間・厚木線との交差点手前右手に法鏡山大法寺がある。


大法寺の先左手フェンスに囲まれた中に1819(文政2)年建立の堅牢大地神や1860(萬延元)年の庚申塔等がある


比留川を新道橋で渡る。


中原街道もこの辺りになると春日新道(かすがしんみち)という現代名になる。
綾瀬市の広報によると一般公募によって中原街道を綾瀬市全域では春日新道と呼称するという。


吉岡交差点左折してすぐに御岳神社がある。

鳥居の前に、金網に囲まれて不動尊塔と堅牢地神塔が入っており、網の外には、庚申塔がある。
不動明王は、1856(安政3)年の建立で、庚申塔は1838(天保9)年で、銘文には「東 江戸道、南 ふじさハ道、西 おおやま道、北 ほしのや(星谷)道」と刻まれている。
 

江戸時代、この辺りは吉岡村と呼ばれ春日局の領地であった。
春日局ゆかりの寺が中原街道から離れるがあるというので向かった。
吉岡交差点から30分ほどかけてゆかりの寺である吉岡山済運寺に向かう。
そこまでの道筋に江戸道というバス停があり古い名が残っていて嬉しい。

また、比留川の橋の袂には道祖神が祀られており、この道は昔からあったのかなと想像する。


吉岡山済運寺の案内板によると、三代将軍家光の乳母である春日局が化粧料として吉岡、用田等に3千石の所領を与えられ、この辺りに屋敷を設け大山の参詣の宿泊所にしたといわれている。
済運寺には春日局の位牌とともに、局が使用していたと伝えられる茶臼と茶釜が寺宝として保管されている。
 

春日新道に戻る。次は山根の道祖神である。

山根の道祖神はガソリンスタンドの隣に祀られていた。1922(大正11)年と比較的新しいものだった。


女坂にさしかかった。
女坂三差路交差点を渡った右脇にサイホウ塚がある。以前、サイホウ塚はこの三差路の中央に祀られていたという。
 

ここで綾瀬市から藤沢市に入る。


次は、中将姫の祠であるが、中原街道より少々奥まって分かりにくい位置にあるようなのでネットで地図を用意した。
新幹線に通じる下り坂にあるリサイクルガーデンを過ぎたところで右の細道に入った。両側は新しい住宅が建て並び、新築中の建物もある。作業員が外人ばかりのようで建設業界も外国人が職を奪っているようだ。
余談だが、丹沢・塔ノ岳の小草平を整備している職人さんの食事時に登ったことがあったが中国語が飛び交い暫くその場で休憩したが日本語は全く聞かれなかったこともある。その時は雪が積もった山の中まで来て御苦労さまと思った。

住宅の中の上り坂を詰めて右折して少々行くと「中将姫の入口」の案内板がある。思いもよらぬ案内板を頼りに畑の中の道を進んで行った。

中将姫の祠は畑から下った竹藪の中にあった。
 
そこにたてられた案内板は文字がかすれて読み取れないが、1260年ほど前のことで、中将官位の聡明な美しい娘がのちに中将姫と呼ばれるようになる。中将姫は、継母のいじめに遭い16才で仏門に入り、五色の蓮糸で一夜にして縦横とも約4.5m(1丈5尺)の当麻曼荼羅(たいままんだら)を織り上げた。29歳で西方極楽浄土に旅立ったという話で、浄瑠璃、歌舞伎の題材になった。中将姫伝説は各地に伝わっており、ここ用田の中条伝説は、中将姫は継母の策略のために家を追われ、人里離れ暮らしていた。いつの頃か姫は用田に住まわれ、人目を恐れて面をつけていた。この面が寿昌寺に預けられていたというが、現在は失われているということだ。

その護法山寿昌寺は祠から傾斜地に施された木道を下ってゆくと建っている。
 
 
寿昌寺の前の道を辿り、東海道新幹線のガードを潜り中原街道に戻る。合流するところにお地蔵様を安置した祠がある。


新用田辻を通り越し用田の辻に至る。


ここは中原街道(県道45号・丸子中山茅ヶ崎線)、大山道(県道22号・横浜伊勢原線)、厚木道(県道43号・藤沢厚木線)が交差する辻で、江戸時代、継立の宿(人馬を替えて、貨客を送り継ぐ宿駅)として繁盛していた。
当時の面影が交差点を渡った右脇に建つ道標を兼ねた仏像が載った庚申塔に見る。


暫く真っ直ぐな道を歩く。
中原という名のバス停を見つける。地図をみるとこの辺一帯を中原という。ここも川崎市の中原同様、中原街道に因んで名付けたのだろうか。


高座郡寒川町に入る。


小谷(こやと)バス停手前で右に折れて20分ほどかけて小動(こゆるぎ)神社へ向かう。
境内には地神宮塔等の石仏像が祀られていた。地神宮塔には天保10年(1839年)の年号が刻まれている。
 

大蔵(おおぞう)に入る。
僅かに左にカーブした道沿いに巨木の屋敷林が植えられ長屋門が備わった旧家を見つける。長屋門があることは歴史のある家なのだろう。
 
この家のまえに直線に延長した細い道が旧道のようだが、暫く行くと日産車体の工場に突き当たってしまう。


今回は、旧道には行かず、丸子・中山・茅ヶ崎線で岡田に入る。
十三塚という室町時代に造られた供養塚がある。

寒川町商工会の案内によると、
丸子・中山・茅ヶ崎線に沿って点在する塚で、現在は5基ほどが残っていす。中でも最大の規模が、小谷交差点南側にある「おこり塚」と呼ばれるもので、塚を盗掘した者が瘧(おこり)という病にかかったといういい伝えがある。(瘧という病は疫病で、マラリアの一種)

次は安楽寺西側にたっている中原街道案内板に向かう。

先ほどの日産工機に突き当たった旧道の延長した旧道が安楽寺の西側を通っていることが案内板に書かれている。この先は、梶原景時の館跡まで直線で延びていたようだ。
 

本日は安楽寺で終了し寒川駅に向う。

大御所様の道・中原街道を行く 4日目

2011-12-25 00:00:00 | 街道を歩く
中原街道4日目

前回は中原街道から外れた位置で終了したので、中原街道に戻るべき、市営地下鉄センター南駅のひとつ横浜よりの仲町台駅よりスタートした。
駅の脇を走っている片道2車線の広い道路が向原で右から来た中原街道とぶつかり、次の交差点の大塚原までは中原街道と共通の道となって、その後中原街道は左折し片道1車線の細い道になる。

暫く行くと右手に東方農業専用地区の看板が立っている。

この辺りは、港北ニュータウン計画の一環として、農地を計画的に保全する場所ということだ。

東方原まで緩やかに上っている。そこから下りが始まる。
原バス停付近右手に庚申塔祠が、その先左手に馬頭観世音祠が続く。

町の人が大事にしているのであろう、祠に安置されている。
馬頭観世音は世代交代して古い石塔は脇に置かれ、新しい石塔が前面になっている。

その後も石仏像が続く。

開戸の交差点を過ぎる。
右手に庚申塔御伊勢大神宮の祠と続く。
 

滝ヶ谷バス停付近の庚申塔群地蔵尊と続く。
  

第六社神社


山王神社


山王神社前の分岐を右手に行く旧道は、歩道も確保できないほど細い。


右手に東漸寺の参道入口があり、地蔵・庚申塔群が置かれている。


東漸寺の階段を上がる。
東漸寺は佐江戸城主・竹尾左五左衛門元孝の墓がある。

また、徳川家康・秀忠・家光三代の将軍に加え秀忠の正室で家光の母・崇源院(於江与)の御霊碑が祀られており、江戸時代、境内の敷地は御朱印地内の3,691坪で、寺領5石の御朱印を賜っていた。とても大きなお寺だったようだ。於江与の方といえば、今年放映の「お江」である。

大御所様の街道らしく沿道には徳川家の歴史がある。

東漸寺から佐江戸の交差点に行く。
佐江戸は、「西土」と書いた地名が「佐江戸」に変化したといわれる。また、中原街道を通る旅人の「さあ明日は江戸に着く」ことに由来しているともいわれる。佐江戸には、中原街道の荷物の受け渡しをする継立場が設置されていた。

交差点を渡ってすぐ右手に子育て地蔵が道路に接した祠に置かれている。

この辺りも道路は狭く、道の端に白線が描かれただけの歩道を歩く。
右手を少々入ったところに無量寺と杉山神社が隣り合ってある。
先ず、無量寺に。
 
古義真言宗に属するお寺で、徳川三代将軍家光より寺領を賜り1,500坪(約5,000平方m)の境内があったという。ここにも徳川家の息がかかるお寺がある。

杉山神社の勧請の年代は伝わっていないが、『新編武蔵国風土記稿』によると1613(慶長18)年再興の棟札があったと記されている。

参道の階段脇に関東大震災の震災復興碑が建てられている。

杉山神社の北側には、鎌倉時代初期に猿渡氏が佐江戸城を築城したといわれ、神社の参道が当時の大手門筋であったようだ。
猿渡氏は佐江戸城築城の際に杉山神社を奉斉し、社殿を築造したとの説もある。

地蔵尊前交差点に出る。
祠に祀られた二体の地蔵尊と隣には地神塔がある。

この辺りは道路の拡張工事が行われ歩道も整備され地蔵尊の前をお参りするために道巾半分をスロープ状に高く配慮されている。
中原街道はここからは暫く片道2車線の広い道路となる。

鶴見川を落合橋で渡る。

横浜市旭区に入る。

ファミレス「バーミヤン」の先に庚申塔が二体祀られている。



JR横浜線を中山橋で渡り、宮の下交差点を右折すると、またまた杉山神社である。

ミニの若い女性がお参りして、車でさっと帰って行った。何の願いごとだろうか。

隣が、長泉寺である。真言宗のお寺。

境内と思う敷地にいつの時代のものか大砲と弾が祀られ、先の大戦の忠魂碑も建てられている。

寺の入口に庚申塔がある。1693(元禄6)年と刻まれている。


宮の下交差点まで戻り中原街道の左側を短い距離だが旧道があるのでそこを歩く。


その先は長坂である。その名の通り長い坂道が続く。

坂のピーク手前右手に県立四季の森公園の入口がある。公園の広さは10万坪余(35ヘクタール)。

この辺りは見るべきものがないので街道を先へとどんどん歩く。
ズーラシア動物園前交差点の少し先左に入る僅かな長さの旧道がある。旭陵高校交差点に出る道である。

庚申塔日蓮大菩薩塔都筑郡役所創設之跡が続く。






帷子(かたびら)川を御殿橋でわたる。
 
御殿橋と呼ばれるのは、案内板によると、徳川家康が、江戸城入場の際にこの橋を渡ったこと、鷹狩や民情視察、平塚の中原御殿に向かう際に利用したという。
また、中原御殿に向かう際に家康が休息の利用した武蔵川井御殿がこの先右手に建っていたという。
 奥の木々が茂る辺りが下川井御殿跡と思われる
そこで家康が休息した御殿に因んで橋の名をつけたといい、以前は太鼓型の土橋であった。

その先、三猿を刻んだ地蔵尊がコンクリート造りの祠に納まっている

雨がしのげるよう地域の方が配慮されていることに感謝。

左手に三嶌神社参道の石柱がある。

少々入ると三嶌神社の鳥居が目につく。

イベントが行われたのか境内には白線が引かれていた。今は、人っ子ひとりもいない静かな境内だ。

中原街道に戻る。
左手に相鉄バスプール。バスと運転手の通勤用に使用していると思われる車群が止まっている。
右手には相鉄バスの営業所が奥にあり、その手前に消防団の建物がある。その右手にいくつかの石造物が見える。
石像物のひとつが、狐や狸がこの道を避けて通ったという伝承がある青面金剛が刻まれた庚申塔ではなかろうか。


矢指川を桜橋で渡る。

保土ヶ谷バイパス下川井インターのガードを潜る。
その先左手の石段が旧道の入口のようだ。階段を上がるとそこは老人介護の施設の敷地のようだ。

施設内を進んで道をひとつ越えた先の電柱の陰に矢指の一里塚跡の傍示杭がある。中山の宮下から一里、大和の桜株から一里の位置である。


その先、岩船地蔵に行く。

岩船地蔵には1724(享保9)年の銘が刻まれている。この地蔵は病気平癒の御利益があると伝えられ、近郷の人々が参詣したという。


旧道を西部病院入口交差点に向かう。途中、追分市民の森に立寄る。
散策した時は、コスモスの咲く季節である。夏にはひまわりやサルビアの花が一面に咲いていた。
 ブルーの橋が中原街道

 ひまわりが咲く夏の矢指しの森

中原街道に戻り、トンネルに入る。かなり長いトンネルである。トンネルに入って暫くすると救急車がサイレンを鳴らして入ってきた。サイレンの音がトンネル内に響きけたたましく大きい。ウォークマンのレシーバをしていても素晴しく大きな音である。運が悪い時にトンネルを歩いたものである。

相鉄線のトンネルを潜って、二ツ橋に達する。


二ツ上橋交差点を渡った左手に二ツ橋地名由来の碑、道標、石橋供養塔、歌碑が置かれている。
 
歌碑と地名由来の碑には1612(慶長18)年家康がこの地に休息した折詠んだ「しみじみと 清き流れの清水川 かけわたしたるたる 二ツ橋かな」が刻まれている。また、地名由来の碑には道光親王が1484(文明16)年に「相模野の 流れもわかぬ 川水を 掛けならべたる 二ツ橋かな」と呼んだことを併せて紹介している。
道光親王がどんな人物かは不明だ。
中原街道は二ツ上橋、すぐ脇を通っている厚木街道に二ツ橋が和泉川に架かっている。二ツ橋とはその二つの橋を指すようである。

家康に関する話はほかにもあり、
三ツ境駅北部にある楽老峰という地名があるが、名前は、徳川家康が訪れた際に命名したと言われている(当時は美屋古山と呼ばれていた)。家康が駿河に行く途中ここで休憩をし、住民が差し出した茶湯を飲んだといわれ、記念碑も楽老峰南公園にたっている。
それ以来この辺りは御茶の産地となり、近くの小学校の校章はお茶の花をデザインしている。
 お茶の花の校章
また、楽老峰は小田原北条氏が中原街道を直線的に開削するために狼煙を挙げた場所のひとつとされている。
徳川家康が瀬谷を通過した際、瀬谷の絶景を「瀬谷八景」と命名したとの言い伝えもある。

中原街道を進む。
坂を上り詰めたところは南台。厚木街道との交差点である。
そこから緩やかな長い下り坂となる。
坂の下りきった辺りに梛(なぎ)の木の碑がある。 
 
 ひょろっと伸びた梛の木
碑の前のサツキが伸びていて読みにくくはなっているが、江戸時代寛文年間(1661~1673)この地を治めていた島津久利が薩摩から取り寄せた梛の木を植えた。1844(弘化元)年江戸城で大火があった時に梛に木を伐採して中原街道を急送し、復興に貢献したと伝えられる。
碑に左側にヒョロっと植わっている木が梛だという。
 
梛の木の碑のほぼ真下を相沢川が中原街道を横切っている。橋の名は山野橋である。
相沢川 


足もだいぶ疲れたことで本日は梛の木の碑で終了。



大御所様の道・中原街道を歩く 3日目

2011-12-22 00:00:00 | 街道を歩く
中原街道3日目

中原街道3日目は前回の続き、東急東横線「新丸子」駅からスタート。

駅から北へ歩き丸子橋を渡って西に走る中原街道に出る。


右手に大きな門構えの家がある。原家である。門前に旧原家母屋跡地の碑がある。それによると、
当家の九代目が総ケヤキ造りの母屋を1891(明治24)年から22年かけて建てたという。明治時代を代表する建築物で篠重要歴史記念物に指定され現在市の民家園に移築されているとのことだ。

 屋敷内には土蔵も建っている
門前には新しい道しるべも建っている。「中原街道 右東京十粁 左平塚五十粁」


その先、通りを隔てて直ぐ右手に長屋門の安藤家がある。安藤家は、小田原北条市の家臣、安藤因幡守につながる旧家で、江戸時代この辺りの名主代表だった。江戸時代の中ごろ、代官から賜った長屋門が今に残る。代官の娘が安藤家に嫁入りしたことで長屋門を賜ったようだが、この門は代官屋敷の裏門のようだ。
 

少々先に2棟続きの土蔵を持つ石橋醤油店がある。
ガイドによると、「キッコー文山」の商標で石橋醤油店が醤油造りを中原で始めたのは、1870(明治3)年という。1949(昭和24)操業を終えるまでは、ここには大樽を据えた醸造工場や蔵が立ち並んで活況を呈していた。
 

その先に八百八橋の碑がある。碑に依ると、18世紀中頃に肥料問屋を営んでいた野村文左衛門という人物が、人々のために中原街道筋に千の石橋を架けることを思い立ち亡くなるまでに多くの橋を架けたという。


その先正面に、西明寺(さいみょうじ)がある。その手前が小杉御殿の表門跡がある。

小杉御殿は徳川家康のために二代将軍秀忠が建てたもので、家康は駿府城と江戸との往還や鷹狩など街道を通行する際に利用した。1660(万治3)年に廃止される。敷地は1万2千坪(約4万平方米)あった。
神奈川県内には中原御殿、神奈川御殿、藤沢御殿が徳川時代初期にはあったが、これらの建物も同じ頃に廃止される。

小杉御殿の表門跡の路地を入る。
左手に御主殿稲荷がある。
 御主殿稲荷

他にこの辺りには御蔵稲荷、陣屋稲荷がある。
陣屋稲荷は、ここにあった小杉陣屋の守り神として祀られていた。
  陣屋稲荷
子狐を抱いた狛狐
江戸時代初期、多摩川右岸の稲毛・川崎領に二ヶ領用水を、左岸に世田谷・六郷領に六郷用水を開削した時に小泉次大夫が設けた陣屋である。この辺りの町名「小杉陣屋町」の由来となっている。

西明寺
  川崎七福神「大黒天」
参道を入口左手に「小杉御殿跡」の碑がある。金剛力士像を安置する三門をくぐると左手に田中丘隅の歌碑がある。この歌は、二ヶ領用水を100年ほどたって補修する際に丘隅が、西明寺の門前まで来ていた流路を変えた。完成した後に西明寺の松に向かって、
                 後の世に残り手ことのはとならん 
                     松やちとせのひとにこたえて

                                    と、詠んだ。


西明寺の前のカギの道を通って小杉十字路に向かう。
 小杉御殿見取図「カギの道」

庚申塔
この庚申塔は「見ざる 聞かざる 言わざる」で知られる庚申信仰最盛期の江戸時代のもの。道標を兼ね、「東 江戸道・西 大山道・南 大師道」と彫られている。昔はここから出しへ向かった。


府中街道と交差する小杉十字路を過ぎ、二ヶ領用水を神地橋(ごうじばし)で渡る。

「ごうじ」と変わった名であるが「耕地」からの変化か、近くの春日神社の土地「神地(しんち)」が変化したものか、はっきりしない。昭和初期までは木橋であったという。

その先、右手に泉沢寺、左手に旧中原村役場跡がある。

泉沢寺は室町末期、世田谷から火災で焼失しこの地に再建した吉良氏の菩提寺である。かつては寺の周囲に「構堀(かまえほり)」と呼ばれる水堀があったという。
 
吉良氏は門前市を開き、夏の泉沢寺の市は、世田谷のボロ市と並び広く知られていた。

旧中原村役場跡は、(明治22)年6ヶ村が合併して中原村が誕生したが、村名は「中原街道」に面していることであった。そして村の両端からの中央であるこの地に役場を設置したという。


この先、武蔵中原駅までいくつかの庚申塔や地蔵が脇道や用水の交差点に建ち並んでいる。




井田堀との交差点には井田堀の陶板が歩道に埋められていた。井田堀は現在、暗渠となっている(右)。


南武線のガードを潜る。右手に武蔵中原の駅がある。
そのガードから250mほど進むと、右側に大戸神社がある。

大戸神社には砲弾を抱えた狛犬が置かれている。何故なのか、調べたが分からなかった。訪れた翌日が宵宮で、出店の準備をしていた。

この先千年へと進む。ここで、寄り道をして交差点を左折して橘樹神社に向かう。
橘樹神社は、日本武尊と弟橘媛を祀っている。近くには弟橘媛の御陵とされる富士見台古墳もあり、郡名、橘樹もここから来たといわれる。


丁度、宵宮の日であったため祭の飾り付けで多くの氏子さんが集まっていた。

富士見台古墳への案内が道筋に立っていたが寄らずに再び千年交差点に向かった。
千年交差点から旧道が残っている

旧道を入ってゆくとすぐにイヌツゲで生垣を施した屋敷林の家があった。昔はこのような屋敷林の農家が多くあったと聞く。

その後、新しい蔵構えの屋敷があった。


影向寺(ようごうじ)、能満寺、野川神社の順で回る。
影向寺付近に7世紀に大和政権の役所である郡衙(ぐんが)があったようだ。

影向寺
影向寺には国重要文化財指定の薬師如来と日光・月光菩薩像が安置されている。
縁起によれば、739(天平11)年光明皇后が、病気のおり、聖武天皇は夢のお告げで武蔵国橘樹郡橘郷に霊石のあることを知り、早速、高僧を使わし祈願したところ霊験あらたかで、皇后の病気も快癒した。そして、聖武天皇はこの地に伽藍がそびえたという。

聖徳太子は職人の祖として、篤く信仰されている。
 太子堂


能満寺
現在の本堂は、1739(元文4)年に建立され、内部には本尊の木造虚空菩薩立像(県重要文化財)や木造聖観世音菩薩立像が祀られている。
 
 不動堂

野川神社も翌日が宵宮ということで業者が屋台の準備をしていた。
 
 

野川神社から中原街道に戻る道を下ってゆくと金木犀の大樹が見事な花を咲かせていた。


野川交差点に出て第三京浜を潜る。時間的に早いなと思いながらも次の目標は第三京浜なのであっさり潜ってしまった。暫く行ってポカに気が付き再び野川交差点に戻る。やはり、第三京浜を潜るには早かった。
暫く進み矢上川を渡り、やっと横浜市に入る。横浜市都筑区である。

今度は間違いないところで第三京浜を潜る、道中坂となる。

鎌田堂

堂の背後に鎌田兵衛正清の館があったことから鎌田堂と呼ばれるようになった。
鎌田正清とは源頼朝の父源義朝に仕え、生死を共にした武将である。

道中坂下で旧道に入る。
右の道が旧道
 大棟におめでたい鶴亀の絵柄が

少々進むと右手に狭い石段がある。のちめ不動である。1864(文久2)年、のちめの住民が八王子から不動を背負ってこの地に祀ったという。


古道を暫く行く。中原街道と交差したところに地蔵像や百万遍供養塔群が祀られていた。

隣には山田神社の石の鳥居がそびえていた。

鳥居を潜り石段の参道を上ってゆく。参拝者がいないと見えて参道にクモの巣が張っている。
社は小高い丘の上にある。


勝田橋で早渕川を渡る。少し行くと二股になって旧道が現れる。
旧道に入る前に直進して関家に向かう。

関家は『新編武蔵風土記稿』にも載る旧家で、小田原北条氏に仕えた地侍で、江戸時代には代々名主をつとめたという。
 
主屋は17世紀前半以前、表門の長屋門は19世紀中頃の建物で、両方とも茅葺きの建物である。明治時代中頃より長屋門を2階建てにして養蚕をしていたという。国の重要文化財に指定されている。
建物を公開する日もあるようだ(詳しくは広報よこはま)。

旧道と分岐する二股まで戻る。

途中に都筑区消防署の訓練場があり隊員が大きな掛け声を出して訓練をしていた。


旧道すぐ右手に最乗寺がある。


旧道の上り坂を行くと左手に石段の参道がある。杉山神社である。
この辺りには多くの杉山神社がある。
 
『続日本後紀』によると武蔵国都筑郡に式内社(当時の国家の保護を受けた官社)があるという。それがどの杉山神社かは不明だという。そのようなこともあり、港北、都筑、緑区で22社祀られ、とても多い。

道はやや左に巻いて下っている。左側は先ほどの関家の屋敷のようだ。
旧道がマンションのビル群に突き当たる。港北ニュータウンに入った。
左手に行けば中原街道に行くが、右に大きく巻いて茅ヶ崎城址に向かう。

道をかなり遠回りしたようで横浜市営地下鉄センター南駅を通って茅ヶ崎城址公園の西側から進む。

茅ヶ崎城は14世紀末から15世紀前半に築城されたと推定されている。

室町時代には扇谷上杉氏(おおぎやつうえすぎし・足利尊氏の母方の叔父の家系)が、戦国時代には小田原北条氏が関与していたとみられる中世の山城。江戸時代に入ると、徳川氏の領地となり、村の入会地(共有地)として利用されていた。

平成17年より横浜市が整備を進め、平成20年より公開している。
以前はただの雑木林だったが、土塁、空堀、郭の跡がはっきり確認できる。
 空堀

第3日目は茅ヶ崎城址を最後に市営地下鉄センター南駅に向かう。

大御所様の道・中原街道を歩く 2日目

2011-12-19 00:00:00 | 街道を歩く
中原街道2日目

2日目は、前回の続き、議院宿舎前の高輪三丁目交差点からスタート。
交差点を直ぐ右折、桜田通に進み雉子神社に向かう。

雉子神社の前に地域の鎮守社である袖ヶ崎神社があった。

社は1137(保延元)年、基忍田(しのだ)稲荷大明神と称し京都稲荷山より奉斎された。明治維新の際に現在の袖ヶ崎神社に改称。実に870年の歴史がある古い神社である。

その先通りに御神灯の提灯が遠くから見える。翌日は例大祭の前夜祭が行われる雉子神社である。

文明年中(1469~1487)の創立といわれ元荏原宮と称した。慶長年間に三代家光が当地に鷹狩に来た時に、1羽の白雉がこの社地に飛び入ったのを追って社前に参詣し、「以後雉子宮と称すべし」との言葉があり、雉子ノ宮と改称、1994(平成6)年、境内にビルが建ち、社殿はその1階部分に改築された。
ということで、都市内の近代的な神社そのものの感じがした。
手水舎がアクリル板で蓋をするなんて都会的

五反田駅が見える。

駅を過ぎ、中原口で東海道と中原街道に分かれる。その上、中原街道の旧道に入る。


旧道に入って、ふたつ目の交差点右角に子別れ地蔵がある。1727(享保12)年に建てられている。

ここは、かつて桐ケ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親が、その亡骸を見送った場所であったといわれている。今も桐ケ谷斎場は存在している。

次は、ハイツの入口に旧中原街道供養塔(一)がある。地蔵菩薩2基、馬頭観世音、聖観音(しょうかんのん)像が安置されている。都会の中で移転せずに、その場で良く守られている。


子別れ地蔵とそれほど離れていないので距離を見誤り、見過ごして先に旧中原街道供養塔(二)に行ってしまい戻る形となった。


旧中原街道供養塔(二)

庇(ひさし)の下に地蔵堂が納められ、高さ2m位の石の地蔵尊が安置されている。
その隣に五輪塔のような供養塔が入っている。その左隣には剥落した青面金剛で下方に三猿がいる。
その隣の小さなお堂には、剣形の庚申塔と笠付きの庚申塔が安置されている。それがすべてお堂に安置されているので、とてもめずらしい。
案内によると、旧中原街道の昔の姿や戸越村、桐ケ谷村の民族信仰を示すところとして貴重。この付近で僧行永が旅人に藪清水を与えていたというとある。
庇の奥に子育て銀杏と呼ばれる銀杏の大木が植えられている。

ここから、20分少々かけて戸越銀座の先にある戸越八幡神社に向かう。
旧中原街道供養塔(二)の先を左折して中原街道の荏原二丁目を直進すると店が建ち並ぶ繁華街になる。戸越銀座である。

ここは全国で○○銀座と呼ばれる発祥地である。
また、テレ朝「土曜ワイド劇場」に登場する中村梅雀演ずる森江春策弁護士事務所があると設定されているところでもある。
池上線の戸越銀座駅を左に見て、さらに進むと国道1号線にぶつかる。暫く進んで信用組合前を右折する。緩やかな上り坂になっており、やがて戸越八幡神社の参道脇に出る。


戸越八幡神社には、「江戸越え」が変化して「戸越」となったと云われる地名の起りの碑がある。

1526(大永6)年、山城国(京都府)石清水男山八幡の分霊を勘請して一緒に祀ったことが八幡神社の創立の起源とされる。


中原街道の平塚橋まで戻り、先を進む。
右手のファミレス「バーミヤン」の先を曲がり左手に平塚の碑がある。

1083(永保3)年の後三年の役で、兄の八幡太郎 源義家を助け平定した新羅三郎 源義光が出羽からの帰途、この辺りで野営をしたところ、盗賊の夜襲にあい多数の配下を失った。その霊を祀ったのが、この塚の由来とされているが、一時取り壊され、現在の碑は第二次大戦後地域の有志によって建立されたという。

その先、旗の台一丁目に石造り庚申供養塔が小祠に納められている。

1665(寛文5)年、旧中延村の庚申講中が造立したもので、区内現存で3番目に古い。中央に「南妙法蓮華経」の髭題目(ひげだいもく)が彫られている。本塔は板碑型で日蓮宗の影響か、青面金剛(しょうめんこんごう)・三猿・日月が彫られていない。これは全村の殆どの住民が日蓮宗の檀徒であったためとされる。

庚申供養塔のすぐ先に札場跡の石碑がある。

案内によると、高札場は札場(ふだば)ともいい江戸時代に高札が掲示された場所を云う。高札とは法度(はっと・法令、禁令)などを板札に墨書したもので町辻、橋詰など多くの人々の目にふれる場所に設置されここ中原街道は江戸から相模国中原へ向かう主要な道路であったとされる。

その先、昭和大病院前の交差点手前左側に木霊稲荷がある。詳細は不明。


東急大井町線を過ぎ、南千束で環状七号線の陸橋を潜り先に進む。


延命地蔵


洗足池に着く。


図書館との間の庭園を入って行くと、御袈裟懸松と刻まれた石標と松がある。
それもふたつもある。何故なのか?
ひとつは碑に六代目と刻まれていた。
もうひとつは三代目で、調べてみると五代目もあるようだ。
 三代目御袈裟懸松
御袈裟懸松とは、1282(弘安5)年、日蓮上人が身延山から常陸国に当時に向かう途中に日蓮に帰依していた池上本門寺を訪れる前、千束池の畔で休息し、傍らの松に袈裟を架け、池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから袈裟懸けの松と称するようになり、洗足池とも称されるようになったという。

御袈裟懸松から奥に進んでいくと妙福寺の境内に出た。
妙福寺祖師堂(旧七面大明神堂)が登録有形文化財(建造物)に2002年国から指定されている。

1833(天保4)年の建造物である。文化庁の国指定の文化財等のデーターベースによると、国土の歴史的景観に寄与していることから指定されているという。
解説によると、もと天保4年再建の七面大明神堂で、後に曳屋(建物をそのまま移動させる)されて祖師堂となった。奥の深い三間堂で、桟瓦葺の屋根は正面入母屋造、背面寄棟造になる。規模は小さいが、洗足池畔の景観を象徴する建物となっている。


妙福寺を三門から出ると、正面は勝海舟の別邸跡で、左に折れて奥へと進んでゆくと勝海舟の妻の墓所西郷隆盛の留魂祠がある。
海舟の別邸は茅葺きの農家風の建物で戦後間もなく焼失したという。
無血開城のため官軍の参謀西郷隆盛と会談の際、通りがかった洗足池の趣ある自然に感嘆し、この地に洗足軒という別邸を建てた。


1899(明治32)年、77歳で没したが生前より洗足軒の背後の丘に墓を設けていた。石塔に書かれた海舟の文字は十五代将軍徳川慶喜の筆とされる。

妻である民子の墓は後に青山墓地より移されたという。ただ、民子は海舟のそばには埋めないでほしいと話していたそうだ。
海舟23歳、民子25歳で結婚したが、海舟は女遊びが激しく妾を3人もつくり、家にまで連れて来て民子と同居させていたということからのようだ。

海舟の墓の隣には西南役の戦いで死んだ西郷隆盛のその死を海舟が惜しみ、隆盛の漢詩を建碑し、さらにその後、その魂魄(こんぱく)を招祠し、留魂祠を建立した。

両国に海舟生誕の碑が建てられているが、その碑の文字は隆盛が書いている。
 両国の公園に建てられている「生誕の地碑」。
                                碑には、法務大臣 西郷吉之助書と刻まれる。

幕末の江戸城無血開城の会議以降ふたりはよほどウマが合ったと見える。


洗足池を左廻りに進んでゆく。
屋根がブルーシートで覆われた洗足池辦財天(厳島神社)がある。

創建の年代は不詳であるが、古来より洗足池の守護神として祀られていたが、一時池に水没してしまったが、昭和初期に再建されたという。

その先は、「旗揚げ神社」の千束八幡神社があり、その近くにはブルー色をした名馬池月之像がある。

源頼朝が石橋山の戦いに敗れ、鎌倉に向かう際にこの地で陣を構えて平家討伐の幟旗をあげた。また、何処からともなく青い毛並みで白い斑点の馬がやってきた。その馬は、池に映る月影のようだったので池月(生食)と名付けたとのこと。

洗足池から別れ中原街道を西へ。

中原街道を進むと右側に庚申塚がある。
ガイド板によると角柱型に文字を刻んだ庚申供養塔は江戸時代後期に得見られる特色である。
 
右側面に「従是先九品佛道」と刻まれて銘文により、九品佛(世田谷区奥沢の浄真寺)への道しるべを兼ねており、ここが中原街道から浄真寺に至る古道の分岐点であったようだ。
九品佛(くほんぶつ)とは、浄真寺に安置されている9体の阿弥陀如来像のことであるが、一般に同寺の通称となっており、広くはこの一帯の地域を指している。

その先、呑川(のみがわ)の手前に石橋供養塔がある。1774(安永3)年雪ヶ谷村の住民が、石橋の安泰を祈って建てられた供養塔。
 

ここで、一旦中原街道と別れ庚申塔群のある雪ヶ谷八幡神社に向かった。

八幡神社の庚申塔群は元々、村内各所に建てられたものを後にこの場に移したという。1681(天和元)年から1857(安政4)年までの7基で、いずれも駒形といわれる形式の石塔である。中には新田神社への道しるべを兼ねた石塔もあるとガイド板に記されている。

境内には、元横綱大鵬の出世石なる碑がある。節分の豆まきや子供に稽古をつけるなど神社に縁のある不世出の大横綱の直筆と手形が刻まれている。


東急・池上線の線路をまたいて中原街道に戻る。
   池上線に走る町に あなたは 二度と来ないのね 池上線に揺られながら 今日も帰る私なの

1976(昭和51)年に大ヒットとなった西島三重子の「池上線」の歌詞である。
青春時代のひとコマを歌にしたような曲で、イントロ部分もいい。

その池上線・石川台駅を撮る。赤い車両が停車しているのが見える。
昭和2年石川駅として開業。翌年石川台駅と改名、線路の両側はその名の通り高台の住宅地となっている。と、ちい散歩のひと駅散歩の番組で放送されていた。

商店街の一店舗で「向日葵の唄が聞こえるかい」という東日本大震災の写真展が行われていた。


中原街道に戻り田園調布警察署前の斜め左の細い道に入る。東急多摩川線「沼部駅」までほぼ直線の旧道である。
暫く行くと桜坂に達する。
   君よずっと幸せに 風にそっと歌うよ 愛は今も 愛のままで

昨年大河ドラマ・竜馬伝に主演した福山雅治が作詞作曲した桜坂の歌詞で、2000年に発売している。
この桜坂をモデルに作ったといわれ、たくさんのカップルがこの地を訪れたという。

坂の両側は桜に覆われているので花の季節には美しいことであろう。
その昔は、中原街道の切通しで、古くは沼部大阪と云い、現在の緩やかな坂からは想像できないほど当時は急な勾配で交通の難所のひとつ。
 

桜坂を下る途中左手においと坂がある。

案内の傍示杭によると、北条時頼が行脚してきたところ、病を得たが、井戸水を使用したところ全治した。その井戸は沼部にひとつ、中原にひとつあったが、中原の井戸を沼部に移し、雌井(めい)、雄井(おい)と称した。おいと坂は、すなわち雄井戸のことだろうと書かれている。「おいと」というから女性の名と思えばこのような謂れなのか。
北条時頼とは鎌倉幕府第五代執権(在職1246~56年)で、病により執権職を委ね、出家したが厳然として幕府の最高指導者の地位を占め続けていた。宗教心が厚く民衆に善政を行ったことでか、時頼伝説なるものが全国に分布している。謡曲「鉢の木」や歴史物、軍記物、その他各地の寺社の縁起や地誌などに広く記されており、このおいと坂もそのひとつなのか。

坂を下り終えたところ右手に東光院がある。室町時代の板碑があるという。
 
三門を入って左手の墓所に入ると、舟形菩薩像群の傍らに舟形の板碑の破片が置かれていた。板碑に刻まれた永正という年号は室町時代なのだが。これも板碑のひとつか。
 舟形板碑の破片 

東光院前を左に折れて六郷用水沿いを歩いてゆくと大田区最古の庚申塔がある密蔵寺に着く。
江戸時代から「庚申さま」と慕われてきたお寺。
 
 舟形の庚申塔が大田区最古のもの

再び、東光寺前に戻る。
この先、多摩川に突き当たる。昔の旅人は「丸子の渡し」で川を渡った。

東急多摩川線「沼部」駅の踏切を渡り多摩川に向かう。丸子の渡しの案内板がグランドにたっている。


今一度東光寺の西を流れる六郷用水に戻り、流れに沿って上がって行く。
六郷用水は、徳川家康の命を受けて川崎の二ヶ領用水と並行して開削し、14年の歳月をかけ江戸時代初期の1597慶長2)年に完成した。六郷用水は多摩郡和泉村(現狛江市)の多摩川の取水口より、世田谷領(世田谷区)と六郷領(大田区)に至る、全長23km、49ヶ村に水を供給した用水路である。
今年は400年を迎えたが、1945(昭和20)年廃止され、1970年代には大半が埋め立てられたり、下水道となっている。
現在、六郷用水は湧水を利用して中原街道の手前を起点として一部が再現され流れている。
 

 
六郷用水の起点 

中原街道を潜って進むと、浅間神社がある。
 
800年前の創建、田園調布の氏神様。
社殿は1973(昭和48)年につくられたもので、境内も綺麗に整備され、多摩川が広く展望できる。
神社の北側は亀甲山、現在は多摩川台公園となっているが、子供の頃は小学校の遠足に、そして桜の花の季節には家族揃っての花見によく訪れていた。その隣には多摩川遊園地があって子供同士で乗物に乗ったなど懐かしい思い出が沢山この辺りにはある。
 海舟直筆の富士講中興の祖 食行身禄(じきぎょうみろく)の碑

江戸城外桜田門から16時間かけてようやく東京都に別れを告げ丸子橋を渡り神奈川県に入る。昔で云えば武蔵国荏原郡下沼部村から舟で武蔵国橘樹郡上丸子村に入る。

多摩川を眺めると中州が見える。こんなところに中州など以前はなかったのにと思いながら多摩川を渡る。

子供の頃は多摩川の砂利をとるために浚渫船(しゅんせつせん)という砂利を機械で掻き揚げる船が定期的に川底をさらっていたと思う。それが高度成長期のビル建設の材料になっていたのだ。

丸子の渡しは丸子橋が出来た1935(昭和10)年まであった。但し10月から3月までは幅約1.8m(1間)の土橋が架けられていた。天保の時代の記録にも橋の渡り賃が3文とあるので乾期の橋はかなり古くからあったようだ。
だが、昭和の時代にまで渡しがあったのには驚く。既に自働車も走っていた時代なのに未だ渡し?といった感じだが、1935年当時で自動車の渡し賃30銭とうい料金、人は2銭であった。

橋を渡り終えて先ず、丸子の渡しの碑を探した。川崎市側の渡し碑を探す。雑草に半ば埋もれた碑を見つける。
 

以前、読売ジャイアンツ2軍の合宿所があった脇を通り、日枝神社へと向かう。

日枝神社は中原街道からは離れるが、1595(文禄4)年当時の代官頭4人連署の寺領証文を所蔵している神社と聞き立ち寄りたいと思った。

日枝神社は、1200年ほど前の平安時代初めの809(大同4)年に創建された、正式には丸子山王日枝神社という。

 山王神社に宛てた寺領証文の連署部分

東急東横線「新丸子」駅に向かい2日目を終了した。



大御所様の道・中原街道を歩く 1日目

2011-12-17 00:01:00 | 街道を歩く

大御所様の道・中原街道

わが町を東西の直線で横断している道、神奈川県道45号線、中原街道。
中原街道は、東京都と神奈川県を斜めに縦断する直線的な道路で、古代から中世にかけて使われた奥州道で
はないかと云われている。小田原北条氏時代は、関東の各支城に連絡する軍用道として使われ「相州道」とも
呼ばれていた。のちに1590(天正18)年、徳川家康が関東へ支配替えになり江戸城の入城する際、平塚の中原を経る中原街道を利用したと云われ、家康が整備した道。

一度、全線を歩いて見たいと思っていたが、今回6回に分けて歩いて見た。
順路は、
千代田区桜田門(江戸城外桜田門)-虎ノ門(江戸城虎ノ門)-港区芝-港区三田(三田・功運町)-港区高輪(高輪・二本榎猿町・白金台町)-品川区大崎-品川区中延-大田区南千束-川崎市中原区小杉御殿町(小杉御殿)-横浜市都筑区佐江戸(佐江戸の辻)-横浜市瀬谷区瀬谷(瀬谷宿)-藤沢市用田(用田の辻)-高座郡寒川町一之宮(一之宮)-平塚市田村(田村の宿)-平塚市四之宮-平塚市中原(中原御殿)-平塚市平塚(平塚宿篋方見附)-中郡大磯町化粧坂(大磯宿化粧坂一里塚)である。


中原街道 1日目

中原街道完歩を目指す初日。
スタートは中原街道当初の起点である江戸城外桜田門とした。
 スタートの江戸城桜田門外より霞が関方面を見る
 桜田門交差点、奥のレンガの建物は法務省
桜田門は、井伊大老暗殺で有名だが1590(天正18)年、徳川家康が関東入国した当時は、小田原街道の始点として小田原口(門)と呼ばれていた。また品川口・桜田口・桜田土橋・品川土橋・芝口土橋と多くの別称があ
り、いずれも小田原に向かう中原街道の起点でもあった。古来この付近一帯を桜田郷といっていたことから、三の丸桜田門(現在の桔梗門)に対応して外桜田門と名付けられた。

右手は警視庁。左手は赤レンガの法務省。1888(明治21)年、ドイツの建築家の手によって7年をかけて竣工した、当時は司法省の建物。関東大震災では絶えたが、東京大空襲では壁と床を残して焼失してしまった。それを平成になって復元したという。

霞ヶ関二丁目の交差点の脇に「霞ヶ関跡」の案内標識傍示杭がある。
ネットによると、案内標識は警視庁前だ、総務省前にあると様々、お陰でこの1ブロックを1周してしまった。
 「霞が関跡」の傍示杭
 「霞が関跡」の傍示杭のある霞が関一丁目交差点
案内によると、この辺りは、江戸時代、霞ヶ関と呼ばれ、武家屋敷が建ち並んでいました。そして、その名は代々受け継がれ、現在では中央官庁街の代名詞になっている。
霞ヶ関は、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の中にあったといわれているが、正確な場所は分かっていない。今のところ、霞ヶ関のあったとされる場所として、千代田区・多摩市・狭山市が考えられている。名前の由来については、『武蔵野地名考』に「この場所から雲や霞の向うに景色を眺めることができるため」と記されている。とある。
 「霞が関の由来」案内板
現在の外務省ビルは黒田氏邸宅跡にあたり、第二次大戦の戦火に遭うまで江戸時代からの長屋塀が残り、面影を留めていた。
官庁街は丁度出勤時間と重なっていたため桜田門から虎ノ門の間は公務員と思われる人々の波の中に埋もれて歩いて行く。

虎ノ門交差点では工事が行われており、虎ノ門の碑や地下鉄の階段に虎のブロンズがあるようだが見当たらぬまま金毘羅宮に進む。

金毘羅宮は案内板によると、丸亀藩の京極貴和が讃岐の金毘羅大神を、1660(万治3)年、三田の江戸藩邸内に邸内社として勘請、その後1679(延宝7)年に藩邸の移転と共に現在地に移った。
 銅の鳥居と本殿
 鳥居の青竜と玄武
こんぴら人気が高まった文化年間に京極家では毎月10日に限り一般の参詣を許し、大変賑わったといわれる。
銅の鳥居は、1821(文政4)年の銘があり、左の円柱に青竜と玄武、右の円柱に朱雀、白虎の四霊獣が取り付けられている珍しいものだ。江戸庶民の信仰を反映した派手な鳥居は、当時の人々の宗教的、文過程活動の実態を示す貴重なものだという。

虎ノ門三丁目を左に入り愛宕神社に向かう。
  出世の石段

正面の男坂といわれる階段を上った。86段あるそうで上がり終わって下を眺めるとその急勾配にあらためて驚く。角度は40度というのだが、講談「寛永三馬術 誉れの梅花 愛宕山」でおなじみの讃岐丸亀藩の家臣、間垣平九郎が三代家光の命を受けて上がった石段である。どこかのTV局がこの石段を馬で上がる挑戦をし、見事上がり切った映像を見たことがある。
 間垣平九郎
また、井伊直弼を襲撃した水戸浪士の結集の場や、西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城会談の場でもあった。
 西郷隆盛と勝海舟
境内には、小舟を浮かべた池がありなかなか風情のある神社である。

 本殿

NHK放送博物館を左に見て、工事中の仮階段のようなパイプで造られた細い階段を下って天徳寺へ向かう。


 
天徳寺には秩父産緑泥片岩製の弥陀種子板碑がある。
板碑は鎌倉時代から戦国時代にかけて、鎌倉武士の所領地・出生地などで造られた板状の石造物で、本来は先祖の供養など民間信仰によって立てられた塔婆の一種。
 弥陀種子板碑

次の目的地「雁木坂」を探すために脇道に入ると露天のエスカレーターがあったので珍しいと思いカメラに移す。この辺りは旧道が残っているようだ。


雁木坂

階段なのになんで坂なのとびっくり。普通、坂はスロープなのでは。案内によると階段になった坂を一般に雁木坂というそうだ。千代田区神田駿河台に同名の坂があるそうで、そこは現在スロープになっているが、昔はやはり木製の階段状の坂であったといわれる。

この辺りから中原街道の両脇の道や街道そのものが坂となり、案内の傍示杭が目につくようになる。
 
 狸穴坂、榎坂、土器坂、雁木坂、永井坂と飯倉交差点付近は坂が多い

飯倉交差点の先が土器(かわらけ)坂となり中原街道(桜田通り)は下ってゆく。
交差点右手にノアビルが建っている。焼け焦げたようなレンガと漆黒の円筒ビルが独特の存在を示している。


土器坂を進んでいくと左手に東京タワーが見えて来る。

東京タワーの真下に心光教院がある。

表門は江戸・享保期の建築だそうで、登録文化財になっている。この門を入ってすぐのところに、「お竹如来」のお堂がある。
 朱の表門左手の白いお堂にお竹如来が安置
お堂には、お竹如来像及び流し板を祀ってある。寛永年間、江戸大伝馬町の名主の下女のお竹は、生まれつき慈しみの心が深く、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤の隅に網を置いて、洗い流しの上、隅にたまったものを食料にしていたという。信仰は厚く常に念仏を怠らず大往生を遂げたという。この話を聞いた五代将軍綱吉の生母桂昌院は、いたく心を動かされ、金蘭の布に包まれた立派な箱に、お竹さんが当時使った流し板を納めて、増上寺別院であった心光院に寄進され、その功徳を顕彰されたというもの。
  お竹如来
倹約の神様のようだ。なお、境内には宝篋印塔や蓮の蕾を持った如意輪観音の石像などもある


東京タワーの敷地を通って増上寺へ向かう。

1958(昭和33)年に建てられ東京の観光名所になっていたが、最近ではムサシの東京スカイツリーに人気を奪われている。この日も平日とはいえ駐車場には観光バスがマバラであった。
そのタワーの足元に「南極観測ではたらいたカラフト犬の記念像」がある。現在、TBSTVで放映中の「南極大陸タロジロの真実」原作の「南極大陸」人気にあやかって、この記念像に観光客が沢山訪れてもらいたいと思う。


通りの向うの公園に如意輪観音がお堂に祀られていた。


増上寺は浄土宗大本山で徳川家の菩提寺でもある。丁度、徳川霊廟と三解脱門の公開があったので拝観した。

 
 「西国の果てまで響く芝の鐘」実に大きい

増上寺の隣には、現在プリンスホテルの所有地になっているようだが旧台徳天院霊廟惣門がある。

惣門を潜ると開けた公園になっていて東京タワーの絶景が見られる。

台徳天院霊廟惣門は、徳川二代将軍秀忠の霊廟の門であり、東京大空襲の被害に遭うまではこの一帯は秀忠とお江の霊廟であった。

  港区平和の灯(ひ)

その先は徳川家康を祀る芝東照宮がある。
 
芝東照宮は当初、増上寺境内に勘請されたが、明治初期の信教分離で、増上寺から分かれ東照宮と称し安国殿に祀られていた御神体(家康の等身大の寿像)を安置した。

中原街道(桜田通り)を少々外れていたので赤羽交差点まで戻る。
東麻布一丁目のキューバ大使館の向かいに飯倉公園がある。そこには赤羽接遇があった。
 
幕末に於ける外人のための宿舎兼応接所があった。2階建て2棟の建物は黒の表門を持ち、高い黒板塀で囲まれていた。オランダ商館付きの医師・シーボルト父子も滞在したという。

先を進む
慶応義塾大学の北側にイタリア大使館がある。ここは旧伊予松山藩・松平隠岐守(54万石)の中屋敷があった。そこには沢庵和尚が設計したという庭園が今も残っており、NHKTVの「ブラタモリ」でも紹介されたことがある。
また、元禄赤穂事件では大石主税以下浪士10名を預かった藩でもある。


桜田通りは三田二丁目の交差点を右折するが、中原街道は直進し、ひとつ先の三田三丁目の斜めの道を進む。

二本榎通りとなる。ゆるい上り坂となっている。これが聖坂(ひじりざか)である。

聖坂の由来は、古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)の宿所があったためという。古奥州街道であり、江戸時代は坂ではなくここも階段状になっていたという。

聖坂の途中、右手に亀塚稲荷神社の祠がある。ここに港区最古の1266(文久3)年の弥陀種子板碑がある。

弥陀種子板碑

その先右手に済海寺がある。最初のフランス公使館跡である。1859(安政6)年から1870(明治3)年までフランス公使館として使用されていた。
 

亀塚公園、三田台公園と公園が続く。東京都は人口が多いからかも知れぬが、小さな公園が各所にある感じである。

亀塚公園付近は江戸時代、上野沼田藩土岐家の下屋敷で、明治維新後は皇族華頂宮邸となった。華頂宮が廃屋となった後は一時、内大臣官邸になっていた。
また、平安時代、菅原孝標女(たかすえのむすめ)(1008(寛弘5)年~1059(康平2)年以降)が著した「更級日記」に紹介された竹芝皇女の物語の遺跡といわれ、亀塚の伝説が残されていると紹介されている。
この地の伝説を刻んだ亀山碑

公園の右奥に進んで行くと亀塚公園ビオトープ カントウタンポポ保全地区というエリアがあった。ビオトープとはドイツ語で野生生物の生息空間という意味で、ここではカントウタンポポ、シロバナタンポポの保護、育成を行っているようだ。

今年の春、街路樹の脇に咲くカントウタンポポを見つけたが、その花に比べると排気ガスもない良い環境で花開いてここのタンポポがうらやましい限りだ。
               

三田台公園には伊皿子貝塚と竪穴住居の復元模型がある。竪穴住居は4千年前の縄文式時代後期の頃のようだ。

竪穴住居の中は当時の家族の暮らしが眺められる

両公園とも災害用なのか井戸ポンプが設備されていた。
亀塚公園の井戸ポンプ

聖坂を上り切る途中の右手に幽霊坂がある。

三田の幽霊坂と呼ばれ、坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたようだが、有礼坂の説もあるという。後の有礼坂の由来は明治時代、この辺りに文部大臣・森有礼(ありのり)の屋敷があって殊に因む。但し、後者は定説ではなく、単純に幽霊がもつ負のイメージを嫌って、地域にゆかりがある人物名にこじつけたと考えるのが自然であるとの解説もある。
この辺りは何故かお寺が多い。地図をみると20余を数える。

その先、左手に伊皿子坂と右手に魚籃坂の交差点となる。
 

いよいよ、本日のハイライト、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士が切腹をした場所と墓がある泉岳寺へと向かう。

案内板には「大石良雄外十六人忠烈の跡」と書かれている。
その場所は赤色系を配した都営のアパートを進んだ正面にあった。入口には大石良雄等自刃ノ跡」碑がたっている。
都営高輪住宅の入口に碑がある
ここは、旧肥後熊本藩(54万石)細川越中守下屋敷である。
大石内蔵助外16人は当藩に御預けとなった。藩主細川綱利は、大藩の威力と識見を以って優遇した。
1703(元禄16)年、幕府より切腹の沙汰が下った。
赤穂義士自刃の場所は団地の外れとはいえ、静かなところであった。自刃跡がこれほど立派に保存されているとは思わなかった。
 


次は、中原街道からは外れるが赤穂浪士が眠る泉岳寺へと向かった。
スリランカ大使館先を左折、一部高輪学園の塀に囲まれた細い路地を曲がりくねって泉岳寺へ進んでいった。

この路地を利用しなかったら中原街道(二本榎通り)からは、とんでもない距離を迂回しなければならない。

早速、大石良雄の像が迎えてくれる。
泉岳寺
曹洞宗のお寺で元は外桜田にあったものを大火で焼失後三代家光が5大名に再建の命じ、その中に浅野家も入っておりそれ以来の縁となっている。
 

再び中原街道(二本榎通り)を進む。
道筋に"とらや"を見つける

承教寺

コミカルな狛犬が可愛い
参道入口に二本榎の碑」がある。

二本榎の由来が書かれた立て札も一緒にたっている。

それによると、品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいたが、そこにある寺に大木の榎が2本あって、旅人のよき目印になっていたそうだ。
誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになった。それがそのまま「二本榎」の地名になったということだ。


仁王門の脇を通って境内に入ると、本堂の左手に英一蝶(はなぶさいっちょう)の墓がある。

一蝶は、江戸中期の絵師、英派の始祖。1698(元禄11年)『当世百人一首』や『朝妻舟』などが将軍綱吉を風刺したものとした12年間三宅島に配流となった。赦免の報を聞いた時に、蝶が花に戯れる様子を見て「一蝶」と号するようになった。軽妙洒脱な筆致で江戸庶民や都市風俗を描くことを得意とした。73歳で没。

承教寺の先の交差点に、高輪消防署二本榎出張所と高輪警察署がある。

消防署はクリーム色の磁器タイルで覆われていて3階建てで、建設当初の昭和8年では、周囲に高い建物がなかったことから、東京湾が一望できたという。3階から上は円筒形の望楼となっており1971(昭和46)年までは使用されていたという。「東京都選定歴史的建造物」に指定されている。

消防署と警察署の道を桂坂という。昔、蔦葛(つたかづら)がはびこっていた(桂は当て字)。かつらをかぶった僧侶が品川からの帰途急死したからともいう。


坂には花壇が造られて「桂坂を花いっぱいにする会」が運動を行っているようだ。

その交差点を進んで行くと、
ゆうれい地蔵の光福寺がある。


その先に味の素研修センターは創業者の鈴木三郎助の屋敷だったそうだ。
創業者の屋敷門
約3~4万冊の食に関する蔵書を閲覧することができ、2階には食のミニ博物館があるそうで、江戸時代からの絵や食に関する資料が陳列されている。手続きをすれば誰でも無料で入館できるそうだ。

高輪三丁目の交差点前に衆議院高輪議員宿舎がある。取り壊しが決まっていて人のいる気配がしない。



第1日目はここで終了して品川駅に向かう。

                 主な参考資料:平塚市博物館史編さん 平塚市史資料叢書4 中原街道抄
                           亀井俊夫氏著 中原街道
                           HP百街道一歩の中原街道



 

程ヶ谷宿帷子番所

2011-02-08 17:15:02 | 街道を歩く
鉄道会社が主催する「保土ヶ谷宿」の散策をした。ゴール間際の「金沢横町」の「其爪の句碑」の並びに「程ヶ谷番所」の看板が目に付いた。スタッフのオヤジさんが通りに出ていたので話をする。
「保土ヶ谷宿」の案内やトイレ、記念スタンプを提供するサービス機関だそうだ。
暖房が利いた建物に入ると石仏像や名所の写真が掲示され案内書も置かれていた。「保土ヶ谷宿」を散策する人にとっては便利な場所であるのだが、知られていないようで残念ながら利用する人は少ないようだ。




              

番所のオヤジさんは「お寺はいいよ」と古いけれどと最後の1冊となった保土ヶ谷宿ガイドの小冊子を手渡し、散策コースを案内された。
そのコースは東海道ではなくこの金沢横町の延長「かなざわかまくら道」であった.


          

「保土ヶ谷宿」番外かなざわかまくら道


御所台地蔵尊

          



細い階段を上がりつくと沢山の石像物が目にはいる。
一瞬、「なにっ、これっ!」と唸る。今までこんなに沢山並んでいる石像を見た記憶がなかったからだ。
でも、案内板にはこの場所が紹介されていない、ネットで調べても分らない。
「かまくら道」にあるのだから鎌倉時代のものであろうと軽く書かれているサイトもあるが、石像に江戸時代の年号が刻まれていると詳しく観察されている方もいた。
保土ヶ谷区の歴史的な案内サイトにも御所台の石像物については解説していない。
となると、歴史的には古い石像物だが、石像物「群」としての意味はないのかもしれない。この地域も開発が進み開発の過程で点在していた石像をこの場所に集めて安置したのではないのかなとも思ってしまう。



政子の井戸

              

「かまくら道」と「政子」と云えば、「尼将軍」で名をはせた源頼朝の妻である。
鎌倉時代、政子がここを通りかかった際にこの井戸水を化粧につかったと云われ、江戸時代でも本陣に将軍が休息した時に御膳水に利用したと伝えられる。



北向地蔵

いわな坂の急な斜面を暫く登り、登りつめたところにこの「北向地蔵」がある。

    

この地蔵は、道に迷った旅の僧が夢の中で地蔵に助けられたので地蔵に対する感謝と旅の安全を願う気持から、北(江戸)を向いた地蔵を寄進したと云う。その後、修繕の時などに地蔵の向きを変えても、いつの間にか北向きに戻っているので「北向地蔵」と呼ばれるようになった。

この「北向地蔵」は背の高い「南無阿弥陀佛」の名号塔上に鎮座されていてそばに寄ると見上げる形になる。
北向地蔵は日本全国に400以上もあると云われるが、この地蔵については何故北を向いているのか分ったが、ほかの「北向地蔵」は何故に北向の冠をつけて呼んでいるのだろうか。