あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

松陰神社(世田谷)

2014-01-30 15:07:33 | 東京散策
松陰神社は、江戸時代末幕末の思想家・教育者である吉田松陰を祭神とする神社である。
          
この地にはかつて長州毛利藩主の別邸があった。
鳥居をくぐり、参道を進んで行くと、右手の掲示板に「1月 松陰先生の言葉」が貼られてある。
『1月にして能くせずんば、則ち両月にして之を為さん。両月にして能くせずんば、則ち百日にして之を為さん。 安政4年5月(諸生に示す)』
とあるり、下に口語訳と解説が書かれている。
それによると、
『ひと月で出来なければ、ふた月かけ、それでも出来なければ100日かけて出来るようにする。』という言葉で、目標達成まで諦めない志士のあるべき姿を語っているようだ。
松陰は、私塾松下村塾を主催して、このようなことを塾生に語り、明治維新を成し遂げた多くの若者を教育した。
しかし、安政の大獄で伝馬町牢屋敷にて30歳の若さで刑死した。
関連(伝馬町牢屋敷) : 甘酒横町界隈を歩く
             
塾生たちへは、『身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』と、辞世の句を残した。家族たちにも別の句を残している。
松陰は本来、暗殺計画が実行以前に頓挫した事や、素直に罪を自白していることから、"遠島"が妥当ということが幕閣らの考えであった。
しかし、松蔭自身が"死罪"が妥当と主張し、これが井伊直弼の逆鱗に触れ斬首刑となったようだ。
その政敵、井伊直弼が藩主を務めた彦根藩関連の資料から、松陰直筆の辞世の句が新たに見つかったことが、昨日の夕刊に書かれていた。
此程に 思定めし出立は けふきくこそ 嬉しかりけり』というものであって、松蔭自身が"死罪"が妥当と主張しした気持ちそのものがあらわれていることを感じる。
しかしながら、井伊直弼の屋敷に何故に辞世の句が残されていることが不思議なことだ。
「松陰の敵方が、最後までその動静に関心を持っていたことをうかがわせる貴重な資料だ。」ともその記事に書かれていた。
その井伊直弼の菩提寺・豪徳寺がここから歩いて10分少々のところにあることも面白い。
関連(菩提寺・豪徳寺) : 豪徳寺
1863(文久3)年、小塚原の回向院にあった松陰の墓が、高杉晋作など松陰の門人によって、この地に改葬され、1882(明治15)年には、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。
          

          
拝殿をバックに松陰、ふたつ目の像

拝殿前の両脇には、32基の燈籠が寄進されている。
この燈籠は、1908(明治41)年の松陰の50年祭に際して毛利家諸氏をはじめ、伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などが寄進したもの。
   
              
境内右手には、山口県萩市の松陰神社境内に保存されている、松下村塾を模した建物が建っている。
          

 
床の間の掛け軸には、次のことが書かれている。
万巻の書を読むに非ざるよりは、寧(いずく)んぞ千秋の人たるを得ん。一己(いっこ)の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん
多くの書物を読まずに、どうして将来語り継がれるような人になり得るだろうか。自分の労苦をいとう者にどうして人々の安らかな生活を築くことができようかという意味。

                
松陰らが眠る墓所は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、1868(慶応4年(明治元年))、木戸孝允がこれを修復整備した。
墓所には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。
          

          


 


松陰神社は、世田谷ボロ市と一緒に回ったのだが、単独で出すには、もうひとつインパクトが足らないと思い少々書いただけで、10日ほど止まっていた。
それが、吉田松陰辞世の句が政敵井伊家で発見される、という記事が昨日の夕刊にたまたま載り、「書け!」と背中を押された感じで、タイミングが生じ、まとめて見た。
面白い。

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「横浜小満んの会」初笑い2014

2014-01-21 17:43:33 | その他
横浜小満んの会」初笑い




この日をもって正月の行事は終了するという、「二十日正月」のこの日、「横浜小満んの会」の初笑いが開かれた。
120回と節の良い回から新しい年がはじまった。そして、出てくるお囃子まで違っていた。

今年の予定は次の予定だ。
  第121回(3月)・・・・松竹梅、橋場の雪、胴乱幸助
  第122回(5月)・・・・雛つば、髪結新三(上、下)
  第123回(7月)・・・・たらちね、有馬のおふじ、大山詣り
  第124回(9月)・・・・粗忽長屋、お札はがし、寝床
  第125回(11月)・・・猪買い、忍三重、八五郎出世

おたのしみに。
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豪徳寺

2014-01-20 11:39:18 | 東京散策
「世田谷城主・吉良氏ゆかりの寺社を巡る」を先にみてからこちらにどうぞ!
「世田谷城主・吉良氏ゆかりの寺社を巡る」へ飛ぶ ここをクリック


大谿山豪徳寺
(だいけいざんごうとくじ)
豪徳寺は世田谷城主・吉良氏のゆかりの寺院ではあるが、近江彦根藩主・井伊家の菩提寺や招き猫(「招福猫児(まねぎねこ)」)で名が知られている。

三門

鐘楼 1679(延宝7)年製作、世田谷区内現存最古の鐘

仏殿(奥) 1677(延宝5)年製作の木造仏5体が安置

本殿

三重塔
三重塔の四方には干支が刻まれており、子には猫が一緒にいる。招き猫のお寺らしい思考だ。

  牛                    猫(猫の代わりに子(ネズミ)が小判を銜えている)                  猪

招猫堂
猫は農作物や蚕を食べるネズミを駆除するため、古くは養蚕の縁起物でもあったが、養蚕が衰退してからは商売繁盛の縁起物とされるようになった。
招き猫は一般に右手若しくは左手を掲げて、小判を首から下げているが、こちらの招き猫は全部右手を掲げ、小判を持っていない。これは井伊家の菩提寺であることと関わりがあり、武士にとって左手は不浄の手であるため右手を揚げている。そして小判をもっていない理由は「招き猫は機会を与えてくれるが、結果(=この場合小判)までついてくるわけではなく、機会を生かせるかは本人次第」という考え方からだという。
井伊家と縁の深い彦根城の築城400年祭マスコットは、ここから猫=「ひこにゃん」となった。



彦根藩主井伊家墓所
井伊家は、遠江国井伊谷(とおとうみのくにいいのや)を中心に勢力を持った武士で、戦国時代は今川氏の配下であった。後に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いや大坂夏の陣で功績をあげ、譜代大名の筆頭格となり、時には大老職に就き、徳川幕府政治に参与した。
1633(寛永10)年頃、世田谷が井伊家の所領となり、領内の弘徳院が菩提寺となった。後に二代直孝の法号より豪徳寺と改め、江戸で亡くなった藩主や家族の墓所となった。





唐破風笠付位牌型の井伊直弼の墓


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弦巻・実相院

2014-01-19 16:59:03 | 東京散策
「世田谷城主・吉良氏ゆかりの寺社を巡る」を先にみてからこちらにどうぞ!
「世田谷城主・吉良氏ゆかりの寺社を巡る」へ飛ぶ ここをクリック

鶴  松  山  實  相  禅 院
世田谷ボロ市通りから1条西に隔てるだけで、拝観者も少なく、味わい深いお寺である。













      













木々の陰陽でうまく写らず、味わい深さが薄れてしまっているかも知れぬ。
物足りぬ方は、一度訪れてみては。


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世田谷城主・吉良氏ゆかりの寺社を巡る

2014-01-19 15:29:41 | 東京散策
「ボロ市」を歩いた日に、関連のある世田谷城主吉良氏にゆかりのある寺社を巡る。

吉良氏の歴史は、
家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の一門。
足利家三代目当主義氏の四男・義継が三河国吉良荘からとって「吉良」姓を名乗った。のちに足利政権の奥州統治の要となり、奥州(武蔵)吉良氏となる。
これは、長男・長氏が「吉良」姓を名乗ったことにならったものであり、こちらは三河吉良氏と名乗り、後に赤穂浪士に登場する吉良上野介の流れである。
一時は衰退の一途をたどるが、鎌倉公方家に仕えると、公方と同じ足利氏の流れを汲む家として「鎌倉公方の御一家」という別格の扱いを受ける。
1366(貞治5)年、吉良家が武蔵国荏原郡世田谷郷(東京都世田谷区)を与えられる。その後、成高の代に世田谷城を構える。
戦国時代に入り、成高の子頼康は、関東の覇者となった小田原北条氏と政略結婚し、武蔵国久良岐郡蒔田(神奈川県横浜市南区)に城を構えて、「蒔田殿」と呼ばれる。   
                                        関連 : 吉良氏の城・蒔田城を歩く
頼康は今川氏の一族堀越氏から氏朝を迎えて養子とし家督を譲るが、豊臣秀吉の小田原攻めによる小田原北條氏滅亡により、氏朝は下総国に下るが再び旧領世田谷に戻り、実相院に閑居する。
その後、氏朝の子・頼久が徳川家康に取り立てられ、家格の高さを認められ、高家旗本となり、「蒔田」姓を名乗るようになった。
江戸中期なって、元禄赤穂事件により三河吉良氏が断絶したことを契機に、「吉良」に復姓した。明治に至ると、知行地であった千葉県長生郡寺崎に移る。

出発は東急田園都市線・三軒茶屋駅
三軒茶屋駅前で、渋谷方面から来た大山道は二手に分かれる。その1条は世田谷ボロ市通りの代官屋敷前を通り、弦巻(つるまき)地域を横断して用賀駅近辺で合流する。沿道には道標やブロンズ像が置かれている。

三軒茶屋・大山道道標  三軒茶屋2-13
江戸時代、大山街道が世田谷上町へと向かう登戸道と、二子の渡しへ向かう二子道とに分かれる三叉路に三軒の茶屋があった。
田中屋、信楽(後に石橋楼)、角屋で、この三軒の茶屋があったことに由来して、文化文政(1804~29)ころには既に三軒茶屋という呼称が一般的になっていた。
田園都市線・三軒茶屋駅の世田谷通り口を上がると、不動尊が乗った道標がその三叉路にたっている。1749(寛延2 )年建立、1812(文化9)年に再建されたといわれる。
道標の正面に、「左相州通大山道」側面に「右富士、登戸、世田谷通」「此方二子通」と刻んである。






旅人の像(大山道児童遊園)  弦巻4-32
三軒茶屋で二手に分かれ、ボロ市通りを抜けた一方の大山道は、弦巻地域を横断するが、その道沿いの公園脇には「旅人の像」がある。
1985(昭和60)年、大山道児童遊園が開設され、その時に建てられた。
この道は、用賀駅近辺で再び合流する。

公園脇の道が大山道、むかしは雨ごいのために雨降り山と呼ばれる丹沢・大山に参詣する大山詣の習慣があった。  

大山詣の商家の主人が一服している。隣に座って話しかけたい雰囲気をかもし出している。

   
三軒茶屋駅から大山道を歩いて駒留八幡神社へ向かう。
駒留八幡神社  上馬5-35-3
永禄年間(1558~70)世田谷城主の吉良頼康の側室・常盤はありもしない不義の疑いを受け、子どもを身籠もったまま自害した。頼康は死産した子どもを駒留八幡宮に祀り、若宮八幡と称した。
また、常盤を弁財天として厳島神社に祀ったとされる。
創建は、鎌倉時代後期、1308(徳治3)年この辺りの領主北条左近太郎入道成願により、八幡大神を勧請した。この時、成願は自分の乗った馬が留まったところに社殿を造営したことから「駒留八幡」と称するようになったと伝えられる。

          

 

          
側室・常磐のサギ草伝説百花物語
 

勝國寺  世田谷4-27-4 
世田谷城の裏手鬼門除けとして1554(天文23)年、薬師如来を安置し、吉良氏代々の祈願所としたのが起こりと言われている。
寺伝によると、薬師如来像は、吉良頼康のもとに小田原北條氏より嫁いできた側室の持仏とされる。
石高年12石と朱印状を与えられ、赤門寺として、近在の人々の信仰を集めた。真言宗豊山派の寺院。徳川幕府もこれにならい、石高年12石と朱印状を与えた。
 

代官屋敷  世田谷1-29-18
吉良氏の室町時代からの有力な家臣である大場氏は、1590(天正18)年主家が没落した後は世田谷に土着し、郷氏となる。
1633(寛永10)年に、この地が近江彦根藩世田谷領となった時、代官に任じられ、以後1871(明治4)年の廃藩置県まで代官職を世襲し、領内20カ村を支配した。今も、敷地内に十六代目の子孫の方々が生活している。
大場氏は居宅を役宅として代官の執務を行なった。現在の建物は当時世田谷村名主で世田谷宿の問屋役であった1737(元文2)年に建築。
茅葺・寄棟造の主屋および同じく茅葺・寄棟造表門(長屋門)は国指定重要文化財。敷地内に世田谷区立郷土資料館が設けられており、前の通りは、「世田谷ボロ市通り」である。
 

           

実相院  弦巻3-29-6 
鶴松山實相院、勝光院の末寺。曹洞宗。
境内には木々がうっそうと茂り、森閑としている。町の中の寺とは思えない風情がある。代官屋敷のちょうど裏手あたりになるが、この辺は江戸時代の世田谷の中心だったところだ。
勝光院の末寺。開基は、吉良左兵衛佐氏朝で開山は天永琳達大和尚、1616(元和2)年入寂。
豊臣秀吉軍による小田原攻後に、九代当主氏朝は一時下総国に下ったが、再びこの地に帰り閑居した。 その閑居した旧跡が、この実相院である。
          

               
もっと詳しく弦巻・実相院

延命山勝光院  桜1-26-35
世田谷城主吉良家の菩提寺。江戸期には家康から御朱印寺領30石を与えられた格式の高い寺で、境内には風格ある庭木も見られる。とくに美しいのは竹林で、竹垣とあいまって品のよい雰囲気をかもし出している。
鐘楼の梵鐘は、戦争中応召されたが、鋳つぶされず、元の姿で無事戻ってきた。
勝光院は初め金谿山龍鳳寺といい、1335(建武2)年世田谷城主・治家の創建になると伝えられる。
1573(天正元)年吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号により興善山勝光院と改称し、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
1737(元文2)年に山号を延命山に改めている。
当寺には、本尊虚空蔵菩薩坐像のほか、左右の腕を頭上に高く挙げた清水寺式の千手観世音菩薩坐像がある。墓地には、吉良氏歴代の墓のほか、幕臣の墓もある。
          

    

 

世田谷城跡  豪徳寺2-14-1
世田谷城は東京都世田谷区豪徳寺及びその周辺にあった、奥州吉良氏が代々居を構えた城。
初代吉良氏が南北朝のころ、関東管領足利基氏から戦の手柄により武蔵国世田谷領をもらい受けて、築城したことが始まりといわれる。平城で、三方を塀で囲んだ防備の堅固な城であった。
現在はわずかに小高い台地の中に枯山水風の谷や小川があり、緑の茂る公園となっている。
 

豪徳寺  豪徳寺2-24-7
寺の周辺は、奥州吉良氏が居館とし、1590(天正18)年の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
1480(文明12)年、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ。当初は臨済宗に属していたが、1584(天正12)年曹洞宗に転じる。一説には招き猫発祥の地とされる。
鷹狩の帰りに通りかかった近江彦根藩主井伊直孝に対して寺の飼い猫が手招きをしたため、直孝はここで一休みすることにした。そして寺の住職からお茶の接待を受けている最中に空模様が悪くなり雷雨になってしまう。「猫が招いてくれたおかげでずぶ濡れにならずに済んだ。これは縁起がいい。」と直孝は喜んだ。
これが縁で1633(寛永10)年井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備した。直孝が没すると、直孝の院号「久昌院殿豪徳天英居士」にちなみ寺の名前を豪徳寺と改めた。
桜田門外の変で暗殺された第十五代藩主・直弼もここに眠る。
          

                
もっと詳しく豪徳寺

世田谷八幡宮   宮坂1-26-3
世田谷城主吉良頼康が1546(天文15)年社殿を再興させて発展させた。これが実質的な創建と考えられる。
それより以前、1091(寛治5)年、後三年の役(1083〜87)の帰途、源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、滞在した。それが縁となり、豊前国の宇佐八幡宮の分霊をこの地に勧請し祀った。
境内には土俵や力石が奉納されていて、かつては奉納相撲の勝敗によって豊作・凶作を占ったり、豊作を感謝したことで、今でも毎年秋の例祭には、東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われている。
最寄駅、東急世田谷線「宮の坂」の駅名は、この神社の脇にある宮の坂に由来している。
          

 

今ひとつのゆかりの寺
泉澤寺 川崎市中原区上小田中7-20-5
吉良氏の菩提所として1491(延徳3)年に多摩郡烏山(現在の世田谷区烏山)に創建された浄土宗の寺院であるが、1549(天正18)年焼失したため、翌年頼康が現在の上小田中の地に移し再興した。
門前町を指定して居住者に諸税を免除し、市を開きこの地の繁栄を図った。夏の泉沢寺の市は冬の世田谷ボロ市と並び広く知られていた。
                              関連 : 大御所様の道・中原街道を歩く 3日目

帰りの商店街で
                    

この先、梅ヶ丘の羽根木公園の650本の梅林を見る予定もしていたが、まだまだ鑑賞には早いようなので、手前の小田急線豪徳寺駅から帰宅する。
                                         関連 : 世田谷ボロ市を歩く

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世田谷ボロ市を歩く

2014-01-17 14:13:01 | 東京散策
          
1578(天正6)年、当時関東を支配していた小田原北條氏四代当主氏政が、世田谷城主吉良氏朝の城下町である世田谷宿宛てに「楽市掟書(らくいちおきてがき)」を発した。
その楽市は、毎月一の日と六の日の月6回開いたので六斎市ともいった。当時世田谷は相州街道の重要な地点として栄えており、この市によって地方の物資の交流は一層活発になり、江戸と小田原など南関東を結ぶ中間市場として繁栄した。
その後、小田原北條氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、吉良家の世田谷城が廃止された。
徳川家康が入府、のちに江戸幕府を開くと商人は江戸へと移り、世田谷宿の存在が薄れてゆき、市も急速に衰えていった。
だが、その伝統は根強く続けられ、近郷の農村の需要をみたす農耕具・古着・正月用品として毎年12月15日に市が開かれるようになった。わらじをボロと一緒に編むと、何倍も丈夫になるということや、野良着のつくろいなどの補強用に、ボロが盛んに売られたところから「ボロ市」と名づき、歳の市として変化し継続していった。
明治になって、現在のように12月15、16日そして正月15、16日に開かれるようになり、関東大震災から昭和10年代の最盛期には2千軒の露店が並んだ。この頃になると、世田谷も都市化が進み農家が減少したため、扱う品もこれまでの古物・農具・正月用品などのボロ市本来の品物に代わって、食料品・装身具・玩具・植木市などを売る店が次第に増えていった。
                   
          

世田谷ボロ市通り周辺を歩く。

東急世田谷線・世田谷駅を降りるとすぐボロ市の露店が並ぶ

 

   

 
むかしで云うとドーナツ盤のレコードがぎっしり段ボール箱に入っている

 

 

          

 

 

 

 
                                        めじろ専用餌付台・ワラボッチ

 

   

          

430年余の歴史を持ち、冬の風物詩にもなっている「ボロ市」の開催期間中には、700もの露店が軒を連ね、毎日20万人近くの人出で賑わっている。
期間中は、最寄り駅の世田谷駅および上町駅を経由する東急世田谷線が、休日42、平日27便増えた臨時ダイヤで運行されている。

資料参考:せたがやボロ市保存会   

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大磯左義長・ヤンナゴッコ2014

2014-01-14 18:55:28 | 神奈川民俗芸能

セエトバレエとヤンナゴッコ


左義長当日、朝早くから大磯北浜海岸に、注連縄やお飾り、両眼の入ったダルマなどの縁起物が運ばれ9つの円錐型のサイトがつくられる。サイトはなまってセエトとか云われたり、オンベと書かれているようだ。
サイトは、道祖神が祀られている1~9番所ごとの9つがつくられている。
         

そもそも、この祭りの由来は、昔この辺りで目一つ小僧と呼ばれる厄神が、村人のおこないを帳面に書いてまわっていたところ、夜が明けてしまいあわてて帳面をセエノカミサンに預け、そのまま帰ってしまった。
帳面を預かったセエノカミサンは困り果て、自分の家とともに帳面を燃やしてしまう。
という話からきたという。

カウントダウンの掛け声とともに そのサイトに、定刻に火が点けられる。
火は代々家に、火付け役は受け継がれ、火付け役の家の人が点けると関係者が話されていた。しかも、点火はその年の神様がおられる恵方から行われると云い、東方向から点けていた。今年の恵方なのかだろう(厳密によると今年の恵方は東北東やや右ということだ)。
定刻6時、点火された火はあっという間に広がった。9つのサイトに一斉に火がつけられている。セエノカミサン(道祖神)の火祭り、セエトバレエの開始だ。
今年は点火時刻が1時間早まった。来年は解らないと云う声を聞いた。遠くから来た私のために”おもてなし”をしてくれたのかと手前ミソで思ってしまう。

点火









最上の飾りまで火が点いた
今年の左義長は、大磯だと昨年の鎌倉八幡宮の左義長を終えてすぐに決めていた。それをセエトカミサンがお聞き頂いたのだろう。おまけに地方版の新聞から情報も頂け有難いことである。
来年の左義長も当然決まっている。
                    関連 : 鶴岡八幡宮左義長2013
                        : 鎌倉荏柄天神左義長2013

大磯の左義長は、単に小正月の火祭りだけではない。
サイトの火が燃え盛るころにヤンナゴッコが始まる。
                   
若い衆やメタボなむかし若い衆が下帯び姿で木ソリに載せたセエノカミサンの仮宮を壊して海に引き入れる。さらに海方の若い衆とお陸(おか)方の観衆とが木ソリの前後に分かれた綱を引き合いはじめる。
仮宮には、その町内の1年の災いを閉じ込めているとガイドが説明していた。仮宮を第4番所で見たが、ほぼ四角の宮で網が巻かれている。
つぶされた仮宮を乗せた木ソリは、これでもかというほど何度も何度も、陸と海を往復していた(実際には海に3回、陸に3回引きあうようだ)。
私も陸組に入って綱引きに混ざったが、砂にまみれて、汐の香りがする綱は重かった。前年の災いを捨て、新しい福を呼び込むのであろう。





浜での引き合いを終えると、宮入である。
木ソリの上に海に入った若い衆を乗せて、観衆の面々が綱を浜から神社までを曳いていくのである。
幾つの木ソリが出たか分らぬが左義長が始まる前には浜で2機、神社で1機を見ている。
私が見た木ソリは北下町の浅間神社付近の旧東海道に路地から出てきて、旧東海道を上下に浜と同じ動作を若い衆を乗せて、繰り返し繰り返し行った。一気に引かれて、若い衆が木ソリから転倒する場面もあった。





一定以上進まぬように電柱に縄をくくる
 
上りに或いは下りに方向を変える前には、木遣や甚句のような歌がうたわれる。どこかで聞いた歌だなと思ったら、伊勢音頭が入っていたようだ。
♪ 伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ  尾張名古屋は城で持つ 
 お前百まで  わしゃ九十九まで  共に白髪の生えるまで 

そこが終わると大磯駅に通じる道を1本渡って、道祖神社の前の路地に入って、再び路地を上下する。
いいかげん若い衆を乗せて走り、木ソリも疲れたのか、木ソリの下の鉄プレートが外れて、直に舗装道路を滑って走り、焦げ臭くなった。それに、長い間下帯一枚の若い衆は風邪をひかないかなと余計な心配も出るくらいである。
           

           
ようやく、気勢をあげながら道祖神社に入って行った。
最後は、シャンシャシャンではなく胴上げで終わる。
終わった後に木ソリを見ると、ヤンナゴッコの宮は、若い衆の尻の下になって、残っていた。 





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大磯ななとこまいり(左義長)2014

2014-01-13 18:05:54 | 神奈川民俗芸能
およそ400年以前から続くと云われる、大磯町の道祖神(どうそじん、どうそしん)の火の祭・左義長が1月12日に北浜海岸で行われた。

この左義長に先立って、3日にかけて、各町内ごとにある道祖神、七ヶ所を参る「七所参り(ななとこまいり)」が行われていた。明治末に道祖神は、一ヶ所増えて八カ所になると「七所参って八所 (やあとこ) せ」などと言われるようになった。最近になっては、九ヶ所となった。
この地方では、道祖神を「セエノカミサン」と呼ぶそうだ。道祖神の呼び名のひとつである「塞の神(サエノカミ・サイノカミ)」がなまったのではとも云われる。
村や集落の境や村の中心、道の辻(三叉路)などに石碑や石像の形で祀られ、はじめは道の安全の神であったものが、子供達の守護神となり、更に男女生殖神にもなった。
大磯の九ヶ所のセエノカミサンは、旧東海度沿いに祀られている。

第一番所  南下町坂下
国道1号線の照ヶ崎海岸入口信号を海岸側へ80m入った交差点を左に曲がる。この道が旧東海道である。少々歩いた左手奥の住宅に囲まれるように第一番所がある。
朱い鳥居と祠がある小さなもの。ここのセエノカミサンは石の御神体ではなく、御弊(ごへい)。





海岸につくられた第一番所のオンベ(セエト・サイト)


第二番所  南下町浜之町  住所:大磯142付近
第一番所から平塚方面へ進む。右手の芦川酒店の角を入ると、第二番所がある。
社と鳥居は石造りのもの。
左の赤い屋根の社は、お稲荷さん。
この道祖神の左隣に、もうひとつ鳥居が付いた空の社がある。これは一体何だったのか。



御神体 双体道祖神



第三番所  南下町大泊 熊野神社  住所:大磯1532
更に平塚方向へ歩くと、左手に熊野神社がある。
三番所はこの境内にある双体道祖神で、銘文、年代は不明。






第四番所の二  南下町子之神
そのままずっと旧東海道を平塚方向へ歩く。熊野神社から、海側最初の路地を入る。この路地は防潮堤を潜るのだが、その手前左側にある防潮堤に昇る階段があり、左脇に第四番所の二がある。鳥居も、お社もなく、双体道祖神の輪郭が解る石柱が露座の状態で置かれている。
現在は、祠が次の「第四番所の一」に新設されている。


第四番所の一  南下町子之神  住所:大磯1545付近
旧東海道に戻り、左手すぐの路地を入る。両手を広げられないほどの路地を50mほど進むと、第四番所の一がある。旧東海道からは社は見えず、案内もないので解りにくい住宅に囲まれたところにある。
祠が3つ、どれが道祖神が祀られているのか解らない。多くの道祖神が左義長のために海岸に移動しているので空の社がそうであろう。






第五番所  北下町中宿
平塚方面へ進み、右手ふたつ目の路地を海側へ入る。ここも防潮堤上の道沿いに五番所がある。






第六番所  北下町浅間町  住所:大磯1592
旧東海道をさらに平塚方面へ。道沿い左手にに浅間神社がある。木の傍らに祠があり、中の石には「庚申」と書いてある。




第七番所  北下町大北 塞神社  住所:大磯1681
大磯駅入口の交差点に通じる道を横断する。すぐ右手に第七番所がある。その名の通り道祖神社である。
左義長の準備をしている関係者に聞いたら、左義長はここから始まったという自負があるようだ。だが、肝心の道祖神は盗まれてないとのこと。
だが、案内板には「祭神は猿田彦命社殿内に祀る」とある。真偽はどちら。






第九番所  山王町日枝神社境内  住所:大磯1825
そのまま旧東海道を進んで、突き当たった日枝神社が、第九番所である。ここは、ここは庚申。
境内右手に沢山の庚申塔が祀られている。





右から2番目が青面金剛、左義長のシンボル



第八番所  長者町老人憩いの家前  住所:大磯1922-22
第九番所が先になったが、第八番所は日枝神社の前の道を海側に進み2つ目の左折し、山王町信号機の道と交差する角にある。
道祖神は既に海岸に移動して祠内には団子が置かれていた。双体道祖神が祀られている。テントが張られ、提灯が飾られている。








左義長開催の前日、新聞の地方版に左義長に関する記事が載っていた。
『大磯の「左義長」存続ピンチ』『毎年の運営費、地方住民の負担に』『保存会、清酒販売し資金集め』との見出しで報道されている。
これによると、この祭りの準備や運営を担ってきたのが、地元の約400世帯だ。親から子へノウハウは伝承してきたものの、材料費など毎年2百万円が毎年負担となっている。各戸で1~5千円工面しているが、高齢化も進み支えられなくなってきた。
そこで清酒「大磯左義長」の売り上げの一部を運営費に充てることとしたと云う。
たまたま第1番所と第2番所の近くで店を構える芦川酒店のご主人と話ができたのだが、自治体に資金援助を陳情しても政教分離で援助はできないと云う。「国指定の重要無形民俗文化財」に指定されていても、金を出すとなると建前論がでてくるようだ。政治家は使い分けが上手である。
この辺りは、5千円どころか7~8千円負担しているとも話された。
報道のおかげか、ここの酒店では、予定の販売数を終了したと喜んでいた。これからも協力者が続けて頂きたいものだ。
 



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今、注目陶芸家の京都襖絵

2014-01-12 11:10:28 | 京都
京都市東山区大和大路四条下る小松町
臨済宗大本山建仁寺塔頭
鎌倉時代 正平年間建立
織田信長の弟で大名茶人・織田有楽斎と熊本藩主の菩提所






茶室「如庵(じょあん)」


襖絵「知音・秋聲」 2013.3 16面奉納

非公開文化財特別公開
2014.1.8~3.18


2013秋の公開時に撮影

関連 : 秋の京都の紅葉を愛でる2013
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鎌倉へ初詣2014

2014-01-09 11:27:46 | 鎌倉巡り
2014年の松の内に鎌倉の好きになった寺院3社を中心に初詣へ出掛ける。

先ずは、杉本寺。

時間を短縮するために、駅をおりると、乗客が込みあったバスが停車していたので、それに乗った。
松の内とはいえ官庁・企業は仕事が始まった平日なのにバスは、渋滞にはまった。壇葛(だんかずら)を歩いて八幡宮に詣でる参拝者がバスを次々に追い抜いてゆく。
バスに乗ったのは失敗だったのかと思ったが八幡宮を過ぎるとスムーズに進んだ。逆に八幡宮に向かう対向車線の車の列が何処までもつながっている。渋滞の元は、八幡宮の交差点のようだ。
杉本観音で降りたが、渋滞の列はまだまだ、はるか彼方まで続いている。鎌倉渋滞は、話には聞いているが、こんなにすごいのだとは驚きである。平日だが、まだ松の内だからなのか。
 
杉本寺の参道を上がってゆく。
拝観料を払って、参道を上がって行くと茅葺屋根の仁王門の金剛力士像が迎えてくれる。運慶作と伝えられる。
さらに本堂までの細い参道を上がってゆくと、ところどころでスイセンが咲きはじめている。
           
本堂は、秋から始まった、屋根の茅葺き替え工事のためパイプで覆われたり、苔むす石段には工事用機材が乗っているのは残念だ。
本堂に上がると、お勤め中で、ひとりの僧侶が般若心経を読んでいた。それが太鼓を叩きながらの読経である。すぐ後ろに正座して拝聴した。太鼓での般若心経も感動的だ。
昨年花まつりの建長寺での2~30人ほどの僧侶による般若心経も良かったが、この読経は、太鼓というイッパクトがあって、胸を突いた。
本堂内の仏像が、間近で拝めることもうれしい。
開山の行基作や頼朝が寄進した等の十一面観音像5体があることも素晴らしい。その中でも、本堂中央奥の薄明かりの中に安置された3体の十一面観音像を、他の参拝者を気にせず拝観できることがうれしい。
また、右手の毘沙門天像や不動明王像も素晴らしい。
杉本寺は、八幡宮の雑踏とは裏腹に、数人の参拝者が訪れているにすぎなかった。
 

次は、長谷観音参道を1本北に入る光則寺である。
鎌倉駅までもバスの予定だったが、この渋滞では時間が読めないので、歩くことにした。
途中、1180年に鎌倉幕府が開かれた時代が修正された、大蔵幕府跡や法華堂跡(頼朝の墓)も立ち寄り、八幡宮をかすめた。
 
大蔵幕府跡がある小学校前と源氏の家紋「ささりんどう」(右)

 
白幡神社(左)と頼朝法華堂跡への参道
 

その先、下馬の交差点から長谷へ道のりも遠い。江ノ電に乗っても3駅目だ。
だが、道筋には、六地蔵や庚申塔群、それに古い建物があって変化がある。
 

 
寸松堂(すんしょうどう):鎌倉彫の店舗併用の住宅、寺院建築と城閣建築が合体した外観、1936年建造。

きんつばの店「鎌倉いとこ」の右手を入る。左手は参拝客が多い長谷寺への参道だ。
人がまるっきりいない広めの路地を進むと光則寺参道へと続く。。
拝観料を賽銭入れのような箱に入れ山門を入る。四季を通して花が楽しめる案内のマップが置かれているが、この時期は侘助をはじめとする椿がちらほら咲くばかりであった。
日蓮の弟子で、この寺を開山した日朗が捕らわれていたと云う土牢へ、久々に向かう。途中で20人ほどの団体と行き交う。年齢構成からして墓参に来た方々のようだ。鎮まった寺院も、その時だけ賑わった。
土牢前から墓地が見渡せ、傾斜地にはスイセンの群生が眺められた。
境内には宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の横長の碑がある。ある本によると賢治は、中学時代より法華経の信仰を深め、この詩は、法華経の真心を説いたものとされる。
 

 
光則寺を後にする。参道には蝋梅の花がわずかばかり咲いている。
再び下馬の交差点まで戻り、その先は八雲神社に向かった。
八雲神社は、初神楽が奉納される。
                    関連 : 鎌倉八雲神社・初神楽

八雲神社から好きになった寺院の最後にあたる、妙本寺に向かう。
道筋のぼたもち寺・常栄寺も正月飾りが山門に供えられていた。
               

そこからすぐに妙本寺の三門に行きつく。
               
三門横に関東のわらべ歌が貼られてあった。

      お正月さまござった
      どこからござった
      山からござった
      ゆらゆらと
      ゆずり葉にのって
      山からござった
         (ゆずり葉:春に古葉と新葉が一斉に入れ替わるので譲葉「ゆずりは」の名があり、
                                 正月の飾りや神事に用いられる。交譲木(こうじょうぼく)と書いて「ゆずりは」とも)


これは、「お正月さまござった」というわらべ歌で、江戸では『お正月さまござった どこまでござった 神田までござった』と歌ったようだ。
ここに出てくる「お正月さま」とは、歳神様のことで、年のはじめに家に訪れ、家族に幸福を授けて下さる神である。
歳神さまは稲の魂であると共に祖先の御霊(みたま)とも一体であるという信仰から来ていて、正月にはご先祖様が、私たちに幸せを授けに来て下さるという意味を持っているそうだ。
「お正月さまござった」を調べるとこんなことが出ていた。そういえば、子供のころは、正月になると、ラジオをはじめとして、こんな話をどこかで聞いたような気がする。今は忘れられていたことを思い出させてくれた。

                     

三門から左手の方丈門を潜って本堂を進み、その先の二天門に向かう。
 
午後4時を少し回った時間だが、参拝客は目に着かぬ。
途中に鐘楼があるが、春はシャガが一面に咲いていて美しかったことを覚えている。
二天門とは、帝釈天に仕える四天王の内、持国天と多聞天を安置してある門を指す。秋の二天門前は、紅葉で美しいと寺の解説に載っている。
二天門前には手をつないだカップルがひと組いたが、ガランとした祖師堂前の境内を見渡して帰って行った。
人がいなくなった二天門の写真を撮る。持国天と多聞天がライトアップされ、2像が昼間より引き立ち良いアングルとなっていた。


ここから本覚寺を通って駅に戻った。
本覚寺の「本えびす」は、1月10日のこと。点灯した提灯が美しかった。
 

              

          

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