松陰神社は、江戸時代末幕末の思想家・教育者である吉田松陰を祭神とする神社である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/ec/cf65d14d344e61fe57daa731ce496ec5.jpg)
この地にはかつて長州毛利藩主の別邸があった。
鳥居をくぐり、参道を進んで行くと、右手の掲示板に「1月 松陰先生の言葉」が貼られてある。
『1月にして能くせずんば、則ち両月にして之を為さん。両月にして能くせずんば、則ち百日にして之を為さん。 安政4年5月(諸生に示す)』
とあるり、下に口語訳と解説が書かれている。
それによると、
『ひと月で出来なければ、ふた月かけ、それでも出来なければ100日かけて出来るようにする。』という言葉で、目標達成まで諦めない志士のあるべき姿を語っているようだ。
松陰は、私塾松下村塾を主催して、このようなことを塾生に語り、明治維新を成し遂げた多くの若者を教育した。
しかし、安政の大獄で伝馬町牢屋敷にて30歳の若さで刑死した。
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この地にはかつて長州毛利藩主の別邸があった。
鳥居をくぐり、参道を進んで行くと、右手の掲示板に「1月 松陰先生の言葉」が貼られてある。
『1月にして能くせずんば、則ち両月にして之を為さん。両月にして能くせずんば、則ち百日にして之を為さん。 安政4年5月(諸生に示す)』
とあるり、下に口語訳と解説が書かれている。
それによると、
『ひと月で出来なければ、ふた月かけ、それでも出来なければ100日かけて出来るようにする。』という言葉で、目標達成まで諦めない志士のあるべき姿を語っているようだ。
松陰は、私塾松下村塾を主催して、このようなことを塾生に語り、明治維新を成し遂げた多くの若者を教育した。
しかし、安政の大獄で伝馬町牢屋敷にて30歳の若さで刑死した。
関連(伝馬町牢屋敷) : 甘酒横町界隈を歩く
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塾生たちへは、『身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』と、辞世の句を残した。家族たちにも別の句を残している。
松陰は本来、暗殺計画が実行以前に頓挫した事や、素直に罪を自白していることから、"遠島"が妥当ということが幕閣らの考えであった。
しかし、松蔭自身が"死罪"が妥当と主張し、これが井伊直弼の逆鱗に触れ斬首刑となったようだ。
その政敵、井伊直弼が藩主を務めた彦根藩関連の資料から、松陰直筆の辞世の句が新たに見つかったことが、昨日の夕刊に書かれていた。
『此程に 思定めし出立は けふきくこそ 嬉しかりけり』というものであって、松蔭自身が"死罪"が妥当と主張しした気持ちそのものがあらわれていることを感じる。
しかしながら、井伊直弼の屋敷に何故に辞世の句が残されていることが不思議なことだ。
「松陰の敵方が、最後までその動静に関心を持っていたことをうかがわせる貴重な資料だ。」ともその記事に書かれていた。
その井伊直弼の菩提寺・豪徳寺がここから歩いて10分少々のところにあることも面白い。
松陰神社は、世田谷ボロ市と一緒に回ったのだが、単独で出すには、もうひとつインパクトが足らないと思い少々書いただけで、10日ほど止まっていた。
それが、吉田松陰辞世の句が政敵井伊家で発見される、という記事が昨日の夕刊にたまたま載り、「書け!」と背中を押された感じで、タイミングが生じ、まとめて見た。
面白い。
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塾生たちへは、『身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』と、辞世の句を残した。家族たちにも別の句を残している。
松陰は本来、暗殺計画が実行以前に頓挫した事や、素直に罪を自白していることから、"遠島"が妥当ということが幕閣らの考えであった。
しかし、松蔭自身が"死罪"が妥当と主張し、これが井伊直弼の逆鱗に触れ斬首刑となったようだ。
その政敵、井伊直弼が藩主を務めた彦根藩関連の資料から、松陰直筆の辞世の句が新たに見つかったことが、昨日の夕刊に書かれていた。
『此程に 思定めし出立は けふきくこそ 嬉しかりけり』というものであって、松蔭自身が"死罪"が妥当と主張しした気持ちそのものがあらわれていることを感じる。
しかしながら、井伊直弼の屋敷に何故に辞世の句が残されていることが不思議なことだ。
「松陰の敵方が、最後までその動静に関心を持っていたことをうかがわせる貴重な資料だ。」ともその記事に書かれていた。
その井伊直弼の菩提寺・豪徳寺がここから歩いて10分少々のところにあることも面白い。
関連(菩提寺・豪徳寺) : 豪徳寺
1863(文久3)年、小塚原の回向院にあった松陰の墓が、高杉晋作など松陰の門人によって、この地に改葬され、1882(明治15)年には、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/33/9a8fb01841e40a45558ef6d2485cd9ff.jpg)
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拝殿前の両脇には、32基の燈籠が寄進されている。
この燈籠は、1908(明治41)年の松陰の50年祭に際して毛利家諸氏をはじめ、伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などが寄進したもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/85/ba3563065414066ccf40689d3dac3115.jpg)
境内右手には、山口県萩市の松陰神社境内に保存されている、松下村塾を模した建物が建っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/1e/b9546399a1eda6520b7f3a0e12e2207a.jpg)
床の間の掛け軸には、次のことが書かれている。
『万巻の書を読むに非ざるよりは、寧(いずく)んぞ千秋の人たるを得ん。一己(いっこ)の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん』
多くの書物を読まずに、どうして将来語り継がれるような人になり得るだろうか。自分の労苦をいとう者にどうして人々の安らかな生活を築くことができようかという意味。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/02/551e0dc1f1ad4a19821e2462115a3eab.jpg)
松陰らが眠る墓所は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、1868(慶応4年(明治元年))、木戸孝允がこれを修復整備した。
墓所には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/d7/bf1f1ee49181c5b38e61a9d2a4313b87.jpg)
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1863(文久3)年、小塚原の回向院にあった松陰の墓が、高杉晋作など松陰の門人によって、この地に改葬され、1882(明治15)年には、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。
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拝殿をバックに松陰、ふたつ目の像
拝殿前の両脇には、32基の燈籠が寄進されている。
この燈籠は、1908(明治41)年の松陰の50年祭に際して毛利家諸氏をはじめ、伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などが寄進したもの。
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境内右手には、山口県萩市の松陰神社境内に保存されている、松下村塾を模した建物が建っている。
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床の間の掛け軸には、次のことが書かれている。
『万巻の書を読むに非ざるよりは、寧(いずく)んぞ千秋の人たるを得ん。一己(いっこ)の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん』
多くの書物を読まずに、どうして将来語り継がれるような人になり得るだろうか。自分の労苦をいとう者にどうして人々の安らかな生活を築くことができようかという意味。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/02/551e0dc1f1ad4a19821e2462115a3eab.jpg)
松陰らが眠る墓所は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、1868(慶応4年(明治元年))、木戸孝允がこれを修復整備した。
墓所には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。
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松陰神社は、世田谷ボロ市と一緒に回ったのだが、単独で出すには、もうひとつインパクトが足らないと思い少々書いただけで、10日ほど止まっていた。
それが、吉田松陰辞世の句が政敵井伊家で発見される、という記事が昨日の夕刊にたまたま載り、「書け!」と背中を押された感じで、タイミングが生じ、まとめて見た。
面白い。