江戸近郊八景之内 羽根田落雁
むかし、羽田に「羽田猟師町」という町名があった。「羽田の渡し」が存在していた頃は、上殿町(川崎市)と行き来していた町でもあった。
淡水と海水とが混じり合う豊かな海では、中世のころから漁業が行われたと云われる。江戸時代になると幕府によって御菜(おさい)八ヶ浦(御菜肴八ヶ浦とも)のひとつとして保護され、江戸城の将軍が食べる魚を1ヶ月に3度献上し、御用船の曳き船などの役を引き受けるかわりに、江戸湾内で自由に漁業をする権利など漁猟特権が認められたとのこと。
そのため、漁業技術者の尊称をこめて「漁師」ではなく「猟師」と呼ばれていたと東京都のある区のBlogに書かれていた。
その羽田猟師町は、現代では弁天橋通りの南側で、西の中村地区(現大師橋の上手、流水部が堤防に接近して河原が無い辺り)から、東の大東地区(海老取川沿い)までの範囲のようだ。
羽田猟師町の町名は、1889(明治22)年に東京市15区が成立した際に羽田村に編入され後、大字としては名が残ってはいたが、それも1932(昭和7)年、蒲田区が成立した際には消えてしまった。
今回、羽田猟師町周辺を歩いてその名残を探してみた。
「羽田漁業」の絵
スタートは京急糀谷駅である。
駅前の糀谷南商店会から環八通りを渡ると、にぎやかな糀谷商店会に入る。
すぐに路地に入ってくねくね曲がり歩いて行くと、遠くから聞きなれた音楽が流れてくる。「圭子の夢は夜ひらく」である。町工場の作業場のスピーカーから大きく流しているようだ。作業能率が上がるのかな。
その町工場からすぐに最初の散策場所である萩中東官守稲荷神社に着く。
駅からでは10分たらずのところだ。
いつもの通り、今日1日の安全を祈願する。
東官守稲荷神社は羽田七福神いなりのひとつで、むかし旧萩中町7番地辺りに祀られており、この地に住む村人は半農半漁の生活をしていたので、海における仕事の安全を祈る守護神として、村人達の信仰を集めた。 1917(大正6)年の風水害により社は被害を受けため、萩中神社再建の際、萩中神社のこの境内に移された。
そこからは出雲小学校を巻いて上田妙法稲荷神社に向かう。羽田七福神いなりのひとつである。
1801(享和元)年の大洪水被害から立直るため、京都伏見大社の分霊を賜り、大松の下に社殿を建立し、鎮座されたものと伝へられている。この松の根元には白蛇が住み、神の使いと云われた事から、蛇稲荷とも呼ばれ信仰を集めていた。。
ここから東に向かう。
バス通りに出る。かつてここは「筏道」と云われた通りである。道は羽田の弁天橋まで続いている。
筏道の謂れは、かって多摩産の材木は一大消費地江戸の需要をまかなうため、五日市や青梅から六郷まで筏に組んで運ばれていた。この水運は江戸時代に始まり1897(明治30)年ごろに最盛期を迎え、大正末期(1926年頃)トラックに運搬をゆずるまで続いた。
筏乗りは六郷で木材問屋に引き渡すと、復路を竿をかついで多摩川沿いの道を辿り、1泊2日ほどで青梅まで帰りついたという。その道筋には道祖神が祀られているという話もある。
重幸稲荷神社に着く。ここも羽田七福神いなりのひとつ。
昔、この辺り一帯は大野上田と呼ばれていた。大野重幸(じゅうこう)稲荷神社の創建年代は不詳だが、文化文政年間(1804~29)には既に創建されていたと思われる。度々の洪水に悩まされた村人達が、多摩川の旧六郷土堤のきわに、田畑の守護と五穀豊饒を祈って社を建立した。
都南小学校を過ぎて中村高山稲荷神社である。
この辺りは中村と呼ばれる。中村高山稲荷神社は、中村天祖神社の境内に鎮座。元は名主の橋爪家の前にあったが、1929(昭和4)年六郷土手の改修のため、現在地に遷座する。高山の名は、元の社殿が飛騨高山の大工によって建てられたことに因むと伝えられる。かつて、この土地では、子供たちが寺子屋に入門するときには、初午の日に高山稲荷の社前に作った小屋にお籠もりをして、それから入門したという。
その先は、右手に公園、左手には広いグランドを持ち近代的な大きな建物が建っている間を進む。
近代的な大きな建物は都立つばさ総合高校。素晴らしく立派な建物で、学んでいる生徒が羨ましい。
「つばさ」の名は羽田の地名の由来が、海老取川を境に2分されいて、その形が海上から見ると鳥が羽を広げたよう見えることから来たのかな?
校門前で写真を撮っていると先生らしき人が出てきてタバコを吸いはじめた。学校内はすべて禁煙なのか、タバコを吸うにも大変なことだ。台風の時はどうするのだろうかと人ごとながら心配する。
校門前から右に折れて産業道路に出る。
この通りには、北から自性院、羽田神社、正蔵院の寺社が続く。
常呂山自性院本覚寺は真言宗智山派の寺院で、の自性院は、平安時代に創建されたと伝えられる。
境内にあった牛頭天王社は、明治維新後羽田神社として分離、現在境内に残されている牛頭天王堂は大森の弁天神社(三輪厳島神社)より1929(昭和4)年に移築したもの。文久元(1861)年に建築されたといい、区内では、数少ない江戸末期の精巧な社殿彫刻である。
牛頭天王社
羽田神社は、小田原北条氏が当地附近を治めていた頃に領主が牛頭天王社を祀ったことにはじまる。江戸時代には、旧羽田村(本羽田)・旧羽田猟師町(羽田)の鎮守となっていた。明治維新の神仏分離により、八雲神社と改称、その後羽田神社と改称する。
拝殿左奥には、羽田富士と呼ばれる富士塚がある。
羽田富士
正蔵院の創建年代は不詳だが、本尊の不動明王像をから推定して、室町時代以前の創建と思われる。
山門手前に新しい道標がたっている。『羽田街道 左七曲 要嶋 右三原 東海道』と刻まれている。
裏に解説が書かれていて、
右に行く東海道の三原を起点として左に行く七曲りを通って弁天橋に至るおよそ5kmの道を羽田街道(江戸道)と呼ばれている。起点には、「駿河屋」という有名な旅宿があって、現在でも「するがや通り」という名が残っている。要嶋は過去に穴守稲荷があった地名である。
六郷川(多摩川の六郷橋付近から河口までを指す)を眺めに大師橋を中央付近まで進む。河口近くとあって川幅が広い。
産業道路の下を潜って龍王院へと進む。
医王山龍王院は、戦国時代以前の創建と推定する真言宗智山派の寺院。地域の人々には「羽田薬師」として親しまれ、境内には宝暦年間(1751~53)にたてられた道標があり『是右 石観音 弘法大師 道』と刻まれている。石観音とは川崎大師近くに祀られている観音様のこと
筏道を少々戻り土手に向かう。楽しみにしていたレンガ塀が早くも現れる。
右手には第二水門
羽田第二水門の脇を通り土手の舗装道を歩く。サイクリングロードのようだ。
すぐに羽田の渡し碑が目にとまる。
羽田の渡しは羽田、川崎間を行き来した渡しで、江戸時代には六稲荷の小島六六左衛門が営んでいたので「六左衛門の渡し」とも呼ばれていた。渡し場付近の川幅はおよそ80mで向こう岸で「オーイ」と呼ぶと聞こえたと云う。
羽田空港方向に土手渕を歩く。羽田第一水門付近の多摩川には漁船が停泊している。
漁業組合の建物もあるのでここ辺りが猟師町・羽田の名残がある場所なのだろう。
羽田第一水門は耐震工事をしていて橋梁も架け替えをするようだ。
船溜には数隻の漁船が停泊しているが、漁を糧にしているより、釣り客の乗り合い船で生計を立てている感じがする。
対岸の川崎市の工場群が眺められる。川崎市もベッドタウン化しつつあるが、この辺りの工場は健在だ。
羽田空港を眺めながら先を進み、ひっきりなしに着陸する旅客機が遠方に見える。
土手下に玉川弁財天神社をみつける。
玉川弁財天(別称:羽田弁天)は、江戸時代中期から海上守護神として江戸商家や廻船問屋の信仰を集め、「浦守弁天」とも称されていた。
羽田弁天には上宮、下宮があり、上宮は西町の別当金生山竜王院にあって、弘法大師が護摩の灰を以って作ったとされる弁天像を祀る。
ここからは七曲りの入口までレンガ堤の道を戻る形で歩いていく。
目印の船宿かみやを見つける七曲最初の角である。
正面に鴎稲荷が祀られている。ここが2番目の角。
仲町鴎稲荷は1845(弘化2)年頃に創建。海上安全、大漁祈願、火伏(ひぶせ・防火)の神様として、現在の近辺三町会の守り神として祀られている。社名の「鴎」は大漁の兆しからついた。
隣接して厄除けの「厄神様」が祀られている。
3番目は左手が駐車場の角を曲がる。右手は鈴木新田を開発した子孫の方が住まわれているという。なるほど表札が鈴木姓である。
4つ目は技研の角を右へ。曲るとすぐに水屋を営むお宅があると云うのだが表札を見た限りでは見当たらなかった。この辺り、井戸を掘っても塩分を含んでいたため、むかしは水を買っていたようだ。また、先だって歩いた池上辺りに六郷用水が流れていたが、それがこちらまで開削されており生活用水にも使用されていたようだ。
5つ目の角を曲がると風呂屋の看板を掲げたマンションがある。浴場経営も各家庭に風呂があるため難しいことだろう。むかしは漁師さんの社交場となって昼過ぎから賑わっていたようだが、今は大きく様変わりをしてしまった。ここの浴場は110年の歴史があるという。
6つ目の角は左手に山崎屋の青いひさしが目印で、ここを右折をする。「崎」の文字が欠けている。
7番目の角では、露地全域で水道管の布設替を行っていたので脇を恐縮しながら弁天橋通りに出る。
斜向かいに白魚神社が祀られている。
鷹取白魚神社は、武蔵国風土記に『漁士白魚を初めて得たときは、まずこの社に供える。故にかく云へり”と社名の起源が記されている。
多摩川の砂利砂採取が行われるようになった頃、この事業に従事する人たちの信仰を受け、社殿の前は大いに賑わった。昔、この附近は藁葺き屋根が多く、漁師町特有の建込んだ家並みから、火事が起らないよう祈願する人も多く火伏の神様としても信仰がある。そのためか、この社は第二次大戦の戦火を免れた。
脇の路地の先は鎌倉時代では海で、こちらに漁港があったのではと、古いNHKブラタモリで放送していた。
ここから弁天橋に出て先ずは、海老取川沿いに六郷川方向に向かう。五十間鼻の手前に「羽田の漁業」の案内板が置かれている。
五十間鼻は六郷川と海老取川が交わった突端で、河口に鼻のように突き出ているのでこう呼ばれている。突端に祀られている無縁仏堂は、創建年代は不明だが、関東大震災および第二次世界大戦の昭和20年3月の東京大空襲の折には、多数の水難者が漂着致した。その方々をはじめとする六郷川の河口に漂着した水難者を祀っていると云う。はじめは、角塔婆が一本立っているだけだった。
初日の出のビューポイトだそうだ。仏堂先の露出している細長い砂州・鼻(写真)は満潮時には水没する。
次は、弁天橋を渡って羽田空港エリアに入る。弁天橋には束柱(つかばしら・間柱)を利用して地域で盛んであった海苔の養殖風景絵がはめ込まれている。
50年近く前のベトナム戦争さなかに、ここ弁天橋や稲荷橋、穴守橋で新左翼と称する過激派と警察機動隊が衝突した羽田事件が発生している。
扁額に「平和」と書かれた大鳥居が大きくたっている。
海老川沿いを歩いて行く。
小さな公園を見かける。小さいのにトイレが置かれていて、我々歩き組にとってはうれしいことだ。
先ほどの弁天橋付近にも同型のトイレが置かれていたし、この先通ったマンション脇の公園にもトイレが設置されていてうらやましい。
この公園、「武蔵野の路仲七児童公園」と云う、羽田で何故武蔵野と思われるが、東京を周遊する「武蔵野の路」と云う散策コースがあって、この辺りでは、弁天橋をスタートとする「六郷コース」があり、この公園がその沿道にある。
天空橋を通過、橋の名前は羽田の小学校2校の児童のアンケートによって決まったそうだ。
歩道の脇の花壇には羽田の名産である各種貝がデザインされている。
羽田洲は、干潟広大にして諸貝を産し、中でも蛤貝を名産とし、汐吹貝、赤貝多しと『羽田史誌』に記されていて、古くから多くの貝類が漁獲されていた。
歩道をチャリンコやバイクが占拠している。近くに天空駅があるからだろう。転勤族が多いのか、ナンバープレートは様々だ。逆に地元ナンバーが見当たらぬ。
稲荷橋に着く。
幅の広い朱の橋である。
以前はこの先の羽田空港の一部は、かつては要島という島であった。
要島には、津波や水害からの守り神として信仰の篤い穴守稲荷があり、明治時代になると関東屈指の稲荷として参詣客が増えた。特に賭け事や花柳界の信仰を集めていたと云われる。
1902(明治35)年、京急空港線の前身に当たる「穴守線」が開通して要島は、潮干狩りや海水浴が楽しめる庶民の行楽地として賑わった。
昭和初期には、京急が直営する海の家をはじめ、競馬場や飛行訓練場もつくられ、この飛行訓練場が、1931(昭和 6)年には「東京飛行場」として発展開港する。
太平洋戦争終結後、この羽田空港を連合国軍が接収し、空港の拡張を目的に1945(昭和20)年9月21日、住民に対し48 時間以内の強制立ち退きを命じた。有無を言わせぬ命令を受け、現在の空港敷地内にあった羽田鈴木町・羽田穴守町・羽田江戸見町の全世帯、およそ3,000人の住民は住む場所も用意されず強制的に住居を追われることとなった。一緒に穴守稲荷神社も遷座した。
戦前の羽田は遠浅の干潟を生かした海水浴場が有名で、穴守駅から300mほどに海の家や海水プールなどの施設があり、この先はかつてこんな風景が見られた。
穴守稲荷神社
海水プール
羽田穴守海の家大桟橋
アメリカ国旗がたなびいていた
環八通りの穴守橋に着く。橋には年代の旅客機が紹介されている。
この橋で海老取川沿いを走るモノレールを写す。川だけより絵になるだろう。
環八通りを歩いて左に折れると穴守稲荷の赤い幟旗が見えてくる。
境内には様々な稲荷神社が祀られている。
1804(文化元)年頃、鈴木新田(現在の空港内)を開墾の際、沿岸の堤防がしばしば激浪のため大穴が生じ、被害を受けた。そこで稲荷大神を祀り御加護を願ったところ、その後風浪の害も無く霊験あらたかであった。1945(昭和20)年に米軍の羽田空港拡張のため現在地に遷座した。神社の大鳥居は終戦当時から数々の神秘的現象が起ったため、恐れられ取り壊されずに今でも空港内にたっている。
いよいよ『羽田猟師町を歩く』も終わりである。
残るはむかしながらの派風造りの銭湯があるのでその写真を、その隣は羽田の産業であった「海苔」を売る店だったので写す。
京急の穴守稲荷駅に向かう。京急空港線は穴守稲荷駅から先空港方面はここから地下に潜っている。
この電車も横浜方面に直通便なので便利である。
むかしの記憶で横浜から来ると京急蒲田駅で鋭角となるので、直通はどう進むのか久々の空港線だったので、興味があった。その方法は、乗員が控えていて乗客が降りるとすぐに方向転換して走り出て行った。車両が長いので当然かな。
羽田は、中世以来漁村として、七曲りのような路地が出来るような密集した家並みの漁村として成立したと思われる。
東京湾の良い漁場、特に六郷川の河口にあって豊富な魚貝類に恵まれ、御菜八ヶ浦のひとつの浦となる大きな漁村へと発展して行ったことは前記のとおりのことだ。
羽田出身の友人がひとりいる。空港の拡張工事に伴う漁業権放棄がなかったら漁師になっていたと彼は話す。
彼が漁師だったらどんなのだろう、赤銅色に焼けた顔に白い歯を見せながら「今日も大漁だよ」って船を操って帰って来るのでは、と船溜を眺めていた時に思った。
季節外れなのか、温暖地では10月末までアサガオは咲くと云うが