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羽田猟師町を歩く

2013-10-25 16:58:56 | 東京散策

江戸近郊八景之内 羽根田落雁

むかし、羽田に「羽田猟師町」という町名があった。「羽田の渡し」が存在していた頃は、上殿町(川崎市)と行き来していた町でもあった。
淡水と海水とが混じり合う豊かな海では、中世のころから漁業が行われたと云われる。江戸時代になると幕府によって御菜(おさい)八ヶ浦(御菜肴八ヶ浦とも)のひとつとして保護され、江戸城の将軍が食べる魚を1ヶ月に3度献上し、御用船の曳き船などの役を引き受けるかわりに、江戸湾内で自由に漁業をする権利など漁猟特権が認められたとのこと。
そのため、漁業技術者の尊称をこめて「漁師」ではなく「猟師」と呼ばれていたと東京都のある区のBlogに書かれていた。
その羽田猟師町は、現代では弁天橋通りの南側で、西の中村地区(現大師橋の上手、流水部が堤防に接近して河原が無い辺り)から、東の大東地区(海老取川沿い)までの範囲のようだ。
羽田猟師町の町名は、1889(明治22)年に東京市15区が成立した際に羽田村に編入され後、大字としては名が残ってはいたが、それも1932(昭和7)年、蒲田区が成立した際には消えてしまった。
今回、羽田猟師町周辺を歩いてその名残を探してみた。

                    「羽田漁業」の絵

スタートは京急糀谷駅である。
駅前の糀谷南商店会から環八通りを渡ると、にぎやかな糀谷商店会に入る。
 
すぐに路地に入ってくねくね曲がり歩いて行くと、遠くから聞きなれた音楽が流れてくる。「圭子の夢は夜ひらく」である。町工場の作業場のスピーカーから大きく流しているようだ。作業能率が上がるのかな。
その町工場からすぐに最初の散策場所である萩中東官守稲荷神社に着く。
駅からでは10分たらずのところだ。
いつもの通り、今日1日の安全を祈願する。
東官守稲荷神社は羽田七福神いなりのひとつで、むかし旧萩中町7番地辺りに祀られており、この地に住む村人は半農半漁の生活をしていたので、海における仕事の安全を祈る守護神として、村人達の信仰を集めた。 1917(大正6)年の風水害により社は被害を受けため、萩中神社再建の際、萩中神社のこの境内に移された。
         

そこからは出雲小学校を巻いて上田妙法稲荷神社に向かう。羽田七福神いなりのひとつである。
1801(享和元)年の大洪水被害から立直るため、京都伏見大社の分霊を賜り、大松の下に社殿を建立し、鎮座されたものと伝へられている。この松の根元には白蛇が住み、神の使いと云われた事から、蛇稲荷とも呼ばれ信仰を集めていた。
 

ここから東に向かう。
バス通りに出る。かつてここは「筏道」と云われた通りである。道は羽田の弁天橋まで続いている。
筏道の謂れは、かって多摩産の材木は一大消費地江戸の需要をまかなうため、五日市や青梅から六郷まで筏に組んで運ばれていた。この水運は江戸時代に始まり1897(明治30)年ごろに最盛期を迎え、大正末期(1926年頃)トラックに運搬をゆずるまで続いた。
筏乗りは六郷で木材問屋に引き渡すと、復路を竿をかついで多摩川沿いの道を辿り、1泊2日ほどで青梅まで帰りついたという。
その道筋には道祖神が祀られているという話もある。
 

重幸稲荷神社に着く。ここも羽田七福神いなりのひとつ。
昔、この辺り一帯は大野上田と呼ばれていた。大野重幸(じゅうこう)稲荷神社の創建年代は不詳だが、文化文政年間(1804~29)には既に創建されていたと思われる。度々の洪水に悩まされた村人達が、多摩川の旧六郷土堤のきわに、田畑の守護と五穀豊饒を祈って社を建立した。
         

都南小学校を過ぎて中村高山稲荷神社である。
この辺りは中村と呼ばれる。中村高山稲荷神社は、中村天祖神社の境内に鎮座。元は名主の橋爪家の前にあったが、1929(昭和4)年六郷土手の改修のため、現在地に遷座する。高山の名は、元の社殿が飛騨高山の大工によって建てられたことに因むと伝えられる。かつて、この土地では、子供たちが寺子屋に入門するときには、初午の日に高山稲荷の社前に作った小屋にお籠もりをして、それから入門したという。
 

その先は、右手に公園、左手には広いグランドを持ち近代的な大きな建物が建っている間を進む。
近代的な大きな建物は都立つばさ総合高校。素晴らしく立派な建物で、学んでいる生徒が羨ましい。
「つばさ」の名は羽田の地名の由来が、海老取川を境に2分されいて、その形が海上から見ると鳥が羽を広げたよう見えることから来たのかな?
校門前で写真を撮っていると先生らしき人が出てきてタバコを吸いはじめた。学校内はすべて禁煙なのか、タバコを吸うにも大変なことだ。台風の時はどうするのだろうかと人ごとながら心配する。
 

校門前から右に折れて産業道路に出る。
この通りには、北から自性院羽田神社正蔵院の寺社が続く。

常呂山自性院本覚寺は真言宗智山派の寺院で、の自性院は、平安時代に創建されたと伝えられる。
境内にあった牛頭天王社は、明治維新後羽田神社として分離、現在境内に残されている牛頭天王堂は大森の弁天神社(三輪厳島神社)より1929(昭和4)年に移築したもの。文久元(1861)年に建築されたといい、区内では、数少ない江戸末期の精巧な社殿彫刻である。

         
           牛頭天王社

羽田神社は、小田原北条氏が当地附近を治めていた頃に領主が牛頭天王社を祀ったことにはじまる。江戸時代には、旧羽田村(本羽田)・旧羽田猟師町(羽田)の鎮守となっていた。明治維新の神仏分離により、八雲神社と改称、その後羽田神社と改称する。
拝殿左奥には、羽田富士と呼ばれる富士塚がある。

         
           羽田富士

正蔵院の創建年代は不詳だが、本尊の不動明王像をから推定して、室町時代以前の創建と思われる。


山門手前に新しい道標がたっている。『羽田街道  左七曲 要嶋  右三原 東海道』と刻まれている。
裏に解説が書かれていて、
右に行く東海道の三原を起点として左に行く七曲りを通って弁天橋に至るおよそ5kmの道を羽田街道(江戸道)と呼ばれている。起点には、「駿河屋」という有名な旅宿があって、現在でも「するがや通り」という名が残っている。要嶋は過去に穴守稲荷があった地名である。

六郷川(多摩川の六郷橋付近から河口までを指す)を眺めに大師橋を中央付近まで進む。河口近くとあって川幅が広い。
 

産業道路の下を潜って龍王院へと進む。
医王山龍王院は、戦国時代以前の創建と推定する真言宗智山派の寺院。地域の人々には「羽田薬師」として親しまれ、境内には宝暦年間(1751~53)にたてられた道標があり『是右 石観音 弘法大師 道』と刻まれている。石観音とは川崎大師近くに祀られている観音様のこと

筏道を少々戻り土手に向かう。楽しみにしていたレンガ塀が早くも現れる。
         右手には第二水門

羽田第二水門の脇を通り土手の舗装道を歩く。サイクリングロードのようだ。
すぐに羽田の渡し碑が目にとまる。
羽田の渡しは羽田、川崎間を行き来した渡しで、江戸時代には六稲荷の小島六六左衛門が営んでいたので「六左衛門の渡し」とも呼ばれていた。渡し場付近の川幅はおよそ80mで向こう岸で「オーイ」と呼ぶと聞こえたと云う。


この近くの羽田二丁目23番地付近には「大師の渡し」碑が置かれていると区役所の案内に載っているのだが、そのブロックをぐるっと回ったが見当たらなかった。

羽田空港方向に土手渕を歩く。羽田第一水門付近の多摩川には漁船が停泊している。
漁業組合の建物もあるのでここ辺りが猟師町・羽田の名残がある場所なのだろう。
羽田第一水門は耐震工事をしていて橋梁も架け替えをするようだ。
 
船溜には数隻の漁船が停泊しているが、漁を糧にしているより、釣り客の乗り合い船で生計を立てている感じがする。
          
対岸の川崎市の工場群が眺められる。川崎市もベッドタウン化しつつあるが、この辺りの工場は健在だ。
   
羽田空港を眺めながら先を進み、ひっきりなしに着陸する旅客機が遠方に見える。
          

土手下に玉川弁財天神社をみつける。
玉川弁財天(別称:羽田弁天)は、江戸時代中期から海上守護神として江戸商家や廻船問屋の信仰を集め、「浦守弁天」とも称されていた。
羽田弁天には上宮、下宮があり、上宮は西町の別当金生山竜王院にあって、弘法大師が護摩の灰を以って作ったとされる弁天像を祀る。

           
       
ここからは七曲りの入口までレンガ堤の道を戻る形で歩いていく。
 
 
目印の船宿かみやを見つける七曲最初の角である。
 
正面に鴎稲荷が祀られている。ここが2番目の角。
 
仲町鴎稲荷は1845(弘化2)年頃に創建。海上安全、大漁祈願、火伏(ひぶせ・防火)の神様として、現在の近辺三町会の守り神として祀られている。社名の「鴎」は大漁の兆しからついた。
隣接して厄除けの「厄神様」が祀られている。
          
3番目は左手が駐車場の角を曲がる。右手は鈴木新田を開発した子孫の方が住まわれているという。なるほど表札が鈴木姓である。 
4つ目は技研の角を右へ。曲るとすぐに水屋を営むお宅があると云うのだが表札を見た限りでは見当たらなかった。この辺り、井戸を掘っても塩分を含んでいたため、むかしは水を買っていたようだ。また、先だって歩いた池上辺りに六郷用水が流れていたが、それがこちらまで開削されており生活用水にも使用されていたようだ。
 
5つ目の角を曲がると風呂屋の看板を掲げたマンションがある。浴場経営も各家庭に風呂があるため難しいことだろう。むかしは漁師さんの社交場となって昼過ぎから賑わっていたようだが、今は大きく様変わりをしてしまった。ここの浴場は110年の歴史があるという。
 
6つ目の角は左手に山崎屋の青いひさしが目印で、ここを右折をする。「崎」の文字が欠けている。
7番目の角では、露地全域で水道管の布設替を行っていたので脇を恐縮しながら弁天橋通りに出る。
斜向かいに白魚神社が祀られている。
鷹取白魚神社は、武蔵国風土記に『漁士白魚を初めて得たときは、まずこの社に供える。故にかく云へり”と社名の起源が記されている。
多摩川の砂利砂採取が行われるようになった頃、この事業に従事する人たちの信仰を受け、社殿の前は大いに賑わった。昔、この附近は藁葺き屋根が多く、漁師町特有の建込んだ家並みから、火事が起らないよう祈願する人も多く火伏の神様としても信仰がある。そのためか、この社は第二次大戦の戦火を免れた。

脇の路地の先は鎌倉時代では海で、こちらに漁港があったのではと、古いNHKブラタモリで放送していた。
 
ここから弁天橋に出て先ずは、海老取川沿いに六郷川方向に向かう。五十間鼻の手前に「羽田の漁業」の案内板が置かれている。
五十間鼻は六郷川と海老取川が交わった突端で、河口に鼻のように突き出ているのでこう呼ばれている。突端に祀られている無縁仏堂は、創建年代は不明だが、関東大震災および第二次世界大戦の昭和20年3月の東京大空襲の折には、多数の水難者が漂着致した。その方々をはじめとする六郷川の河口に漂着した水難者を祀っていると云う。はじめは、角塔婆が一本立っているだけだった。
初日の出のビューポイトだそうだ。仏堂先の露出している細長い砂州・鼻(写真)は満潮時には水没する。
 
          
 
次は、弁天橋を渡って羽田空港エリアに入る。弁天橋には束柱(つかばしら・間柱)を利用して地域で盛んであった海苔の養殖風景絵がはめ込まれている。

江戸時代中期に東京湾ではじまったとされる海苔の養殖は、羽田から旧江戸川河口まで広がった。その後その技術は全国へと広がった。しかし海水汚染や埋立てにより300年続いた海苔の養殖はそのほとんどが昭和30年代に幕を閉じる。
50年近く前のベトナム戦争さなかに、ここ弁天橋や稲荷橋、穴守橋で新左翼と称する過激派と警察機動隊が衝突した羽田事件が発生している。

扁額に「平和」と書かれた大鳥居が大きくたっている。
          
 

海老川沿いを歩いて行く。
小さな公園を見かける。小さいのにトイレが置かれていて、我々歩き組にとってはうれしいことだ。
先ほどの弁天橋付近にも同型のトイレが置かれていたし、この先通ったマンション脇の公園にもトイレが設置されていてうらやましい。
          
この公園、「武蔵野の路仲七児童公園」と云う、羽田で何故武蔵野と思われるが、東京を周遊する「武蔵野の路」と云う散策コースがあって、この辺りでは、弁天橋をスタートとする「六郷コース」があり、この公園がその沿道にある。
天空橋を通過、橋の名前は羽田の小学校2校の児童のアンケートによって決まったそうだ。
歩道の脇の花壇には羽田の名産である各種貝がデザインされている。
羽田洲は、干潟広大にして諸貝を産し、中でも蛤貝を名産とし、汐吹貝、赤貝多しと『羽田史誌』に記されていて、古くから多くの貝類が漁獲されていた。
 
歩道をチャリンコやバイクが占拠している。近くに天空駅があるからだろう。転勤族が多いのか、ナンバープレートは様々だ。逆に地元ナンバーが見当たらぬ。
稲荷橋に着く。
幅の広い朱の橋である。
以前はこの先の羽田空港の一部は、かつては要島という島であった。
要島には、津波や水害からの守り神として信仰の篤い穴守稲荷があり、明治時代になると関東屈指の稲荷として参詣客が増えた。特に賭け事や花柳界の信仰を集めていたと云われる。
1902(明治35)年、京急空港線の前身に当たる「穴守線」が開通して要島は、潮干狩りや海水浴が楽しめる庶民の行楽地として賑わった。
昭和初期には、京急が直営する海の家をはじめ、競馬場や飛行訓練場もつくられ、この飛行訓練場が、1931(昭和 6)年には「東京飛行場」として発展開港する。
太平洋戦争終結後、この羽田空港を連合国軍が接収し、空港の拡張を目的に1945(昭和20)年9月21日、住民に対し48 時間以内の強制立ち退きを命じた。有無を言わせぬ命令を受け、現在の空港敷地内にあった羽田鈴木町・羽田穴守町・羽田江戸見町の全世帯、およそ3,000人の住民は住む場所も用意されず強制的に住居を追われることとなった。一緒に穴守稲荷神社も遷座した。

          
戦前の羽田は遠浅の干潟を生かした海水浴場が有名で、穴守駅から300mほどに海の家や海水プールなどの施設があり、この先はかつてこんな風景が見られた。

穴守稲荷神社

海水プール

羽田穴守海の家大桟橋

アメリカ国旗がたなびいていた

環八通りの穴守橋に着く。橋には年代の旅客機が紹介されている。
 
この橋で海老取川沿いを走るモノレールを写す。川だけより絵になるだろう。
          

環八通りを歩いて左に折れると穴守稲荷の赤い幟旗が見えてくる。
境内には様々な稲荷神社が祀られている。
1804(文化元)年頃、鈴木新田(現在の空港内)を開墾の際、沿岸の堤防がしばしば激浪のため大穴が生じ、被害を受けた。そこで稲荷大神を祀り御加護を願ったところ、その後風浪の害も無く霊験あらたかであった。1945(昭和20)年に米軍の羽田空港拡張のため現在地に遷座した。神社の大鳥居は終戦当時から数々の神秘的現象が起ったため、恐れられ取り壊されずに今でも空港内にたっている。
 
 
いよいよ『羽田猟師町を歩く』も終わりである。
残るはむかしながらの派風造りの銭湯があるのでその写真を、その隣は羽田の産業であった「海苔」を売る店だったので写す。
 

京急の穴守稲荷駅に向かう。京急空港線は穴守稲荷駅から先空港方面はここから地下に潜っている。

                  
この電車も横浜方面に直通便なので便利である。
むかしの記憶で横浜から来ると京急蒲田駅で鋭角となるので、直通はどう進むのか久々の空港線だったので、興味があった。その方法は、乗員が控えていて乗客が降りるとすぐに方向転換して走り出て行った。車両が長いので当然かな。

羽田は、中世以来漁村として、七曲りのような路地が出来るような密集した家並みの漁村として成立したと思われる。
東京湾の良い漁場、特に六郷川の河口にあって豊富な魚貝類に恵まれ、御菜八ヶ浦のひとつの浦となる大きな漁村へと発展して行ったことは前記のとおりのことだ。
羽田出身の友人がひとりいる。空港の拡張工事に伴う漁業権放棄がなかったら漁師になっていたと彼は話す。
彼が漁師だったらどんなのだろう、赤銅色に焼けた顔に白い歯を見せながら「今日も大漁だよ」って船を操って帰って来るのでは、と船溜を眺めていた時に思った。


季節外れなのか、温暖地では10月末までアサガオは咲くと云うが



吉良氏の城・蒔田城を歩く

2013-10-18 16:59:02 | 横浜歴史散策
この付近一帯を治めていた吉良氏は、中世後期の室町時代には、この蒔田の地で「蒔田御所」と称せられた館を構え、足利将軍家の一族として諸侯から一目置かれる存在で「蒔田御所」「蒔田殿」などと呼ばれていた。
その後、戦国時代には小田原北条氏三代当主・氏康の娘婿となり小田原北条氏と姻戚関係を持った。
      


丘陵城郭
蒔田城のあった場所は、現在の横浜英和学院校地で、城の形は土塁や空濠をめぐらした簡単なもので、丘陵城郭と呼ばれるものである。
本丸は学院の礼拝堂辺りで、その南に天守台があったとされる。


           横浜英和学院に続く坂              学院の西手は大岡川が流れ、遠くまで見渡せる要害の地の感触

馬場谷
蒔田の森公園一帯は当時、蒔田城の馬場があったと云われ馬場の森、馬場谷(ばばやつ)と呼ばれていた。

左の画像では奥が 右の画像では左手が城であった

蒔田の森公園
かつての馬場谷、蒔田の森公園は、森家が所有していた宅地跡(0.6ha=1,815坪)を横浜市に1997(平成9)年に寄贈したもの。


辰巳の門
鎌倉時代からここに、森家の表門「辰巳門」が設置されていた。
門は4本の柱とかやぶきの屋根で構成。
第二次大戦時に焼失し、礎石のみが残っている。
《註:宅地の広さは様々のデータがあったので横浜市南区の数字を使用 所有の森家については不明》

吉良氏の菩提寺・勝国寺
寺の由来は、
1479(文明11)年に吉良政忠が父の供養のため開基建立したとある。開山は武蔵国一帯に禅風を挙楊した天永琳達大和尚。元禄時代には、諸堂伽藍、鐘楼等を配していた時代もある。
         
         
寺の解説では、「吉良政忠一族の墓」と書かれている吉良家供養塔の五輪塔は4基あり、最も大きなものは高さ102cm。
開基の政忠のものとおもわれる1基には、正面に「祖師西来」、台石に「政忠塔」、裏面に「照岳道旭大居士」「文亀二年六月十七日」と刻まれている。

1569(永禄12)年 武田信玄蒔田城を攻める
武田信玄が小田原を攻撃する際は、同時に蒔田城も攻撃した。
では、信玄は何処からどのように攻め入ったか、3つの資料を結び合わせてそのルートを推測する。

資料1
江戸に攻め入った武田信玄が、品川を焼いて一転敷いて小田原を襲う構えを見せた。
北条方は六郷の橋を焼き落として甲州勢を通さず
(小田原記)。


資料2
武田信玄の小田原攻めの際の記録に、『矢口の渡しを船にて稲毛の平間という所に渡り』とある。
(川崎市発行川崎市地名辞書)

資料3
本隊は相模川沿いに南下して小田原城を直撃し、支隊は多摩川沿いに川崎から横浜市港北区方面に進撃してきた。
蒔田城の吉良勢は大挙して駿河方面に出撃しており、蒔田城は守備の手薄な城になった。
それを知った青木城の軍勢が蒔田城に籠り、武田勢の攻撃を防いだという。
(横浜の戦国武士たち)


この3つの資料に出てくる品川、平間、川崎から横浜市港北区のポイントを結び合わせるルートとして先日散策した平間街道(池上道)を利用したことが無理のない考えだろう。
今回蒔田城を訪れたのは、横浜市のある資料館の主催で行われたの歴史散歩の一環である。その中で武田軍の蒔田城攻めの説明は出なかったが、渡された資料を4つ目の資料とすると、
資料4
武田信玄が小田原城を侵攻した際、片倉・観太寺(かんだいじ・現神奈川区)の筋違いにある帷子(かたびら・現保土ヶ谷区)と言う場所を通過した。(小田原記)

4つ目の資料にある帷子は、平間の渡しから平間街道がふたつに分れ、その一方の終点にあたる。
そこで、4つ目の資料によって武田信玄をはじめとする武田軍は平間街道を利用した事は確実となった。
何を云いたいかと云うと川崎の工場のベッドタウンでもある変哲のないわが町・平間も歴史をひもとけばすごい歴史があることを云いたい。
そしてわが家の前の道を甲冑の音を立ててそのむかし兵士が侵攻したことを創造するのも楽しい一刻になる。
ここで資料に出てくる『小田原記』とは、小田原北条氏の台頭から滅亡に至る五代の歴史、すなわち鎌倉幕府滅亡の1333(元弘3)年頃から1590(天正8)年までを隣接諸大名との関係を中心に記述した軍記物語で作者は不詳である。

その後の蒔田の吉良家は1590(天正18)年の豊臣秀吉小田原征伐の戦いで小田原北條氏が滅亡した以後、下総に逃げて、のちに徳川家に仕え、世田谷に1,120石を与えられた。
そして、代が変わると吉良を蒔田姓に改めため、吉良氏は廃姓となる。

関連 : 平間街道を歩く
 

歴史散歩コース
歩いて学ぶ・歴史散歩の今回のテーマは『海辺の地・蒔田周辺を歩く』と称し、サブテーマが『蒔田湊の可能性と吉良氏の存在を探る』である。
《コース》
吉野駅――吉野橋(中村川)――日枝神社――大岡川――蒔田公園――井戸ヶ谷橋――井戸ヶ谷井戸ヶ谷事件碑・庚申道標――杉山神社――蒔田の森公園――勝国寺――蒔田伊勢山公園――子(ね)の神神社――宝生寺――天神橋(解散)

  中村川                      日枝神社                    堰神社境内の石仏

 
大岡川分岐                 蒔田公園の保育園児               新設の井戸ヶ谷橋

井戸ヶ谷事件碑と庚申道標                杉山神社             横浜中心部夜景スポットの蒔田伊勢山公園

子之神社               蒔田村と堀之内村の境道                    宝生寺



牛込の獅子舞

2013-10-15 21:10:42 | 神奈川民俗芸能
神奈川県・横浜市指定無形無形民俗文化財
牛込の獅子舞


先週の川崎市宮前区菅生の初山獅子舞に引き続き、今週は横浜市青葉区に祀られている驚神社の牛込の獅子舞を見物に行った。

         

牛込とは、現在の横浜市青葉区美しが丘、あざみ野や新石川と言った地域の旧名で、江戸時代にさかのぼると、武蔵国都筑郡石川村で小字に牛込の地名がある。
その石川村は徳川二代将軍・秀忠の正室・江姫の化粧料地となっている。江姫が亡くなった時は、石川村など化粧料地の村々から、江姫の棺を担ぐ人々が結集したと云う。その後は芝・増上寺の御霊屋領(みたまやりよう・徳川家の菩提を弔うための費用を賄うための領地)になった。
旧石川村の金剛山満願寺(青葉区あざみ野4-27)には、江姫と、夫・秀忠の位牌が安置されている。

驚神社の由緒によると、創立は不詳だが奈良時代に造られたとの伝承があり、石川牧の鎮守と云われる。その当時のこの地域は、一定地域の農民が共同で使用した秣(まぐさ)を刈り取る草地であって、御料牧場もあり、朝廷に献上する馬を飼育していて、馬が大事にされていた。
秣場は、1939(昭和14)年、横浜市に合併当時まで残っており、直線コースで200mぐらいの競馬場もあって、第2次世界大戦前まで草競馬も盛んに行われていたとも云われる。
神社前の道は鎌倉街道にあたり、鎌倉時代には、源頼朝の名馬・するすみと畠山重忠の名馬・三日月もこの石川村から献上されたと伝えられる。
石川村は、名馬が生産された場所から「馬を敬う」の二字を合成して「驚」となったという社名の由来もある。
漢字と云うものはうまくできているなとつくづく思うが、逆に「驚」には、「馬を敬う」意味合いが全くないことも不思議である。
話は逸れるが「峠」と云う漢字、これは日本(大和国)で生まれた文字だが、漢字の造り方も意味合いもそのものズバリだと思う。こんな漢字も造られているのだから不思議だ。漢字は中国からの伝来ばかりではなく、日本で想像した文字もあった。
         
      
そういった歴史を背景の地域に、牛込の獅子舞が神社に奉納されている。
神社にたてられている市教育委員会の説明によると、
『この獅子舞は関東・東北・信越地方に分布する一人立ち三頭獅子舞の横浜における代表的な存在。約300年前、元禄年間の悪疫流行の際に始まると伝えられている。
獅子頭は三個で、剣角(けんかく)と巻角(まきつの)を持つ雄獅子二個と宝珠(ほうじゅ)を戴く雌獅子一個である。鶏の羽で飾り、赤い布が垂れている。
獅子の舞手三人は裁著(たつつげ)・白足袋・草履履きで締太鼓を胸につけ、バチを打ちながら舞う。その他に、はい追い(幣負い)、ササラ子、万灯持、小万灯持などの役目が加わる。
この他にホラ貝三人、笛数人、歌上げ数人は大人で古老があたる。
当日は獅子宿で支度をして、道行きの曲に合わせて神社まで練って行き、神前に祭詞を述べてから曲に合わせ三角形になったり、一列になったり、また円形になって舞う。』
とある。





舞は道行(みちゆき)からはじまる。
幣負い(へいおい)が大万灯を従え参道の階段を上がり境内に入る。
『ヨイヤサノ、コレハイサ、ドッコイサ』の掛け声をかけながら拝殿前まで進む。
祝詞(のりと)を奉上すると三匹の獅子舞い開始される。
 
         
五穀成就、天下泰平、悪霊・疾病退散を願って舞う。
前半は岡崎、入庭(いりは)、御舞(みまい)、舞つめと、笛によって各曲が流れて三匹の獅子と幣負いが舞う。
         
         
         
         
         
間に休憩が入り後半は、歌も交る。
『わが国でわが国で、雨が降る気で雲が立つ。おいとま申していざ帰られる。おいとま申していざ帰られる。』で最後の舞となり、ホラ貝の音を合図に終わる。
         
         
         
         


牛込の幣負いは天狗の面を以前は被ったが最近は持つようになった

舞終えると祭神に向かって礼をしたあと、ホラ貝に導かれながら、大万灯持ち、小万灯持ち、ササラ子、笛方、獅子、笛方たちの順で列をなして、ゆっくりと屋台が立ち並ぶ細い参道を降って、神社前の鎌倉街道へと出てゆく。



舞に合わせて演奏するササラ摺であるが、簓と書くが、風流系の獅子舞などで使用する楽器のこと。
ここで使用しているササラは、先を細く割ったササラ竹と、のこぎりの歯のような刻みをつけた棒のササラ子とをこすりあわせて音を出す棒ザサラ(摺ザサラ)タイプである。 余談であるが、富山のこきりこ節で使用されるのは、板を連ねたビンザサラと云われる。また、北海道の冬の風物詩でもあるササラ電車もこれを応用したものだ。
  
         

神社下の通り、鎌倉街道では保木、平川、荏子田、船頭、宮元の各谷戸から旧村社に大太鼓、お神輿、お囃子連が繰り出している(獅子舞終了前には終わっている)。



         
         
          

牛込の獅子舞は、丘陵を隔てた川崎市宮前区菅生神社の初山の獅子舞と芸態や歌詞が酷似しており、18世紀中頃に移入されたと推定さているが、印象は全く別の獅子舞と受けた。
それは、牛込獅子舞にはササラ摺、大万灯や小万灯が加わって、土俵のないところで舞うと云う相違点もあるが、画像を比べると判るのだが、役目の多さの違いだけではなく、全体の色彩の鮮やかさと云う視覚に訴え華美な印象を大きく受けたことによる違いが大きい。
初山の獅子舞の移入の時期が元禄時代と云う時代背景で大きく変わったのではないかと素人ながら感じた牛込の獅子舞である。
ただ、舞の形は初山の獅子舞よりも単調と感じ、雌獅子をめぐって2匹の雄獅子が争う絡みもこの舞にも表現されているとのことだが、それは感じ得なかった。


牛込の獅子舞は、新石川の驚神社で日曜日に、その前日の土曜日には驚神社から1km北西に祀られている神明社の宵宮で神前に奉納される。
更に400mほど先に江姫と夫・秀忠の位牌が安置されている満願寺もある。
         


                           関連 : 初山の獅子舞


丹沢・大山を登る

2013-10-10 13:47:21 | 丹沢
大山詣
享保年間(1716~35)以降、幕末にかけて江戸の人々の信仰熱が高まり、旧暦の6月27日(新暦8月3日)の山開きから7月17日(新暦8月23日)までの期間に大山へ登ることが人気となった。
そこで江戸っ子たちは、講中(こうじゅう)を集めて大山詣(おおやまもうで)へと出かけた。
このことを特別に盆山と云ったそうだ。
盆山とは大山山頂の阿夫利(あふり・雨降りのなまりと伝えられる)神社まで詣で、ここに8寸(24cmほど)から1丈(3mほど)の納太刀(おさめだち)を奉納して、他の講中が納めた別の納太刀をもらって帰る参詣であった。
源頼朝が、武運長久と除災を祈願して剣を供えたことが、納太刀の起源とされる。
体力のなくて山頂まで登れぬ参詣者は、中腹にある石尊不動堂で終わることも少なくなかった。今で云うと、700mの阿夫利神社(大山石尊)や520mの大山寺(不動堂)までということだった。
参詣が終わると江戸っ子たちは、帰りに江の島参詣や鎌倉見物などをする、3~4日の小旅行をして楽しんだようだ。
それが落語・大山詣のはなしである。
また、時代ドラマ「陽炎の辻」で主人公の坂崎磐音とおこんが今津屋吉右衛門夫婦のお供で大山詣でをしたシーンもありましネ。
当時は、富士登山の富士講もあったが、気軽に登れる大山詣では人気が高かったようだ。

あとで知ったことだが「大山は富士山のお父さん」だと云う。
これは何なのかと云うと
阿夫利神社に祀られている神様、大山祗大神(おおやまつみのおおかみ)と富士山に祀られている木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は父と娘の関係に当たると云う。
それで昔から、大山と富士山のひとつだけに詣でるのは片参りと云われ、両方に詣でるのが良いとされていたようだ。

今回の雨降山(大山・1,252m)山頂へハイクは、当時の江戸ッ子がうらやむ中間をパスしてヤビツ峠(761m)からの登山であった。
と、云うことで阿夫利神社よりちょっと高いところから登り始めた。
明け方に雨が降ったのか山道(参道)はもとより草木までも露に濡れていた。
その名の通り、雨降山であった。

         




すぐに深くえぐれている山道に


鎖を手繰って登る鎖場もある


阿夫利神社下社からの山道との合流後はすぐに大きな石ばかり


グレーチングの階段 鹿が山頂に行かぬように設けた


グレーチングの階段を過ぎたら山頂はまもなく


阿夫利神社本社 一の鳥居 寄進者は今は消えた神田の町名がぎっしり記す


阿夫利神社本社 二の鳥居 初代は1798(寛政10)年と記す


二の鳥居の脇には最後の道標二十八丁目の石柱も


雨降り神社と云うことで火消しや鳶の信仰が篤かった


阿夫利神社本社 拝殿




奥の院はシャッターが閉じていた だが休日は開いている(右)

                  
「ご神木 雨降の木」 一説にはブナの木のようだ

 

山道で出会った花々

フジアザミ
表尾根では見かける花だが大山で出会うとは思わなかった



センブリ
薬用として胃の万能薬と云われるが苦いだけで効果がないとの説も



ノコンギク


ノハラアザミ


リンドウ
りんりん りんどうは 濃むらさき



ホトトギス



大山詣について御託を並べたが、今回の大山ハイクは、この夏あまりにも暑くて行動しないことで、足がなまってしまったからである。
何せ、関東大震災の関係場所散策で元町から山手の丘を登るだけでフーフーしてしまうほどであった。
足慣らしが今回の目的である。
        

初山の獅子舞

2013-10-07 17:31:19 | 神奈川民俗芸能
田園都市線宮前平駅から1時間に1本の川崎市バスに乗って10分余りの菅生(すがお)中学校で下車。大都市川崎なのに何故に1時間に1本きりバスがないのだろうかと不思議に思いながら乗って行った。

鳥居をくぐると狭い参道には屋台がぎっしり、お祭の大きさを物語っている。
宮前区菅生二丁目に鎮座する菅生神社、住時は若宮八幡大神と称して、元武州橘樹郡下菅生郷、ジ蔵敷の鎮守であった。1233(天福元)年、同郡平村白幡八幡大神からの分霊を奉斎して創建された。
明治の末に小字初山の正八幡大神、長沢の神明神社、水沢の旭稲荷神社、枝谷の御嶽神社など15社を合併して菅生神社と改称し菅生全域の鎮守となった。
獅子舞奉納の前に子供みこしの宮入りがあった。
 

初山の獅子舞は、3頭の獅子と幣負い(へいおい)からなる。

獅子は2頭の雄獅子と1頭の雌獅子からなる。
雄獅子は角が剣の形をした剣獅子、角が捻じれている巻獅子と呼ばれる。
雌獅子は玉(たま)獅子と呼ばれる。





上から剣獅子、巻獅子、玉獅子

幣負いとは御幣(ごへい)を担いで先導するのでそう呼ばれ、この神社では、天狗面をつけている。
御幣とは幣束(へいそく)の敬称。白色や金・銀の紙などを細長く切り、幣串(へいぐし)にはさんだもの。お祓いのときなどに用いる。おんべ、おんべいと呼ぶ。

舞は境内に設けられた15尺(4m55cm)の円形土俵を舞場として行なわれる(大相撲と同じ土俵の広さ)。

         
前半は篠笛のお囃子で進行する。後半は歌もはいる。
岡崎・入端・渡り笛・変り笛などいろいろなお囃子によって舞う。




 
間に休憩も

観客から投げられたおひねりを元にサイコロ賭博が開かれ天狗が独り勝ちをする。
 

         
終盤のハイライトは1頭の雌獅子を巡り、2頭の雄獅子が争いを始める。
 

争いは天狗の仲裁で和解となる。

納めの舞で初山の獅子舞は幕となる。



初山の獅子舞は、身体を低くして地を這う動作とその動きの素朴さが特徴であり、古い形式を伝えるものと思われる。
江戸時代初期の製作と考えられる獅子頭が保存されていることから、その頃からすでに行なわれていたと思われ、現在は10月最初の日曜日の例祭に菅生神社に奉納されている。
菅生神社に合祀される前にはこの辺り5カ所の鎮守で舞が行われていたという。
ある資料によると、
『3頭の獅子舞は関東から東北、北海道にかけての東日本にだけ広く分布する特徴がある民俗芸能で、その数1,400カ所とされている。
とりわけ武蔵国(埼玉、東京、神奈川東部)は獅子舞王国ともいわれる。現存する数300を超えるようだ。
この舞は徳川幕府の成立当初から江戸を中心にはじまり、これを東国の領主が限られた村々に伝えさせたと推定される。』
とある。
神奈川県内も無形民俗文化財の指定されている同様な獅子舞としては、
横浜市青葉区の神明社・驚神社の牛込獅子舞、鉄(くろがね)神社の鉄の獅子舞が、川崎市には幸区の八幡大神の小向の獅子舞、多摩区の子之神社・薬師堂の菅の獅子舞がある。
それと江戸時代武蔵国の領主の飛地であった相模原市緑区でも御嶽神社(下九沢の獅子舞)、諏訪神社(鳥屋の獅子舞)、諏訪明神(大島の獅子舞)に3頭の獅子舞があり、また県央の愛川町にもあって、県内では9カ所を数える。

福島県内にも3頭の獅子舞が残されている。
が、東電の原発被害によって地域住民が散ってしまい継承者がいなくなったと云う報道もある。
放射能被害は伝統芸能の継承まで脅かしている。


                                      参考資料:川崎市教育委員会
                                             神奈川県 ほか

池上道を歩く(池上~品川宿)

2013-10-02 14:41:20 | 東京散策
池上本門寺の参拝を終えて、ここからの道は"池上道"と名を変えて品川宿へと足を進めた。
だが、池上本門寺前を流れる呑川を渡ってすぐにたっている六郷用水の地図に平間街道と書かれていたり、池上通りと並行して通る池上道には「いにしへの東海道」と刻まれた池上道に因んだ新しい石碑が道端や公園に大田区の手で置かれている。その碑には『此の道は時代により奥州街道、相州鎌倉街道、平間街道、池上往還などと呼ばれていた古道です。』と書かれている。
池上を過ぎてもこの道は平間街道と呼ばれていた時代があり、新しい東海道が出来るまでは主要な道であったのだと得心した。
鶴見の熊野神社を出発するときはマイナーな道と思っていたが、そうではなかったようだ。

池上本門寺から池上道に戻って歩を進め、呑川を浄国橋で渡ると、六郷用水の案内板がたっている。
『六郷用水は多摩川の水を多摩郡和泉村(現、狛江市和泉)から取り入れ、世田谷を経て沼部、嶺を通り矢口の南北引分けて北堀(池上、新井宿方面)と南堀(蒲田、六郷方面)とに分流した』と、地図入りの解説があった。
先ほど記したが、案内板の図には平間の渡しから本門寺前を通り北上する道を平間街道と描かれている。うれしいことだ。
         
この案内板のところで平間街道は六郷用水と交差し北上する。
この道を平間街道とこれからも呼んで歩いていきたい。
平間街道は一方方向の車道としてほぼ直線で遠くまで伸びている。
右手の子母沢児童公園には先ほど紹介した「いにしへの東海道」石碑がある。棟門と云うのか、2本の門柱の上に屋根瓦が敷かれて、公園名を表示している。
この辺りは現在中央4丁目だが、旧町名は「子母沢(しもざわ)」の呼称で、公園名に古き町名が残っている。
「子母沢」というと作家・子母澤寛さんを思い浮かべるが、この地に住まわれていたのでペンネームにされたとのこと。



大森赤十字病院を右に見て、旧新井宿出土橋跡の石碑がたつ辻に着く。
         
ここにも「いにしへの東海道」石碑がたっている。隣に旧新井宿出土橋跡の石碑もたっている。
「でどばし」と読み、その橋がこの位置に架かっていたという。川の名前は内川。新井宿は明治の中ごろまで続いたこの辺りの村名である。

         
出土橋の先、真っ直ぐ伸びる平間街道
写真の前後を通る道は桜並木通りと名付けられているが、内川を暗渠にして造られた道である。それで、むかしはここに出土橋が架かっていた。

この先環七に突き当たるがその手前に春日神社が祀られている。
創建は鎌倉時代と言われ奈良の春日神社から勧請した平間街道沿いの由緒ある神社。祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)、神仏混淆(しんぶつこんこう)の春日権現とも云う。
その先、神社裏の四つ角は南品川に通じる道と平間街道が交わる大事な場所であったようだ。
 

         
武者の絵馬だが誰を意味するか不明

環七を潜った左手に根ヶ原神社がある。
由緒、創建年代は不詳。もとは神仏混淆時代、第六天社として創建したと云う。明治の神仏分離の際、面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)に祭神を変更し、根ヶ原神社となった。社名の根ヶ原は、新編武蔵風土記稿に新井宿村の小名(こな)として記載されている根河原(ねかはら)より付けられたものと考えらる。
         
その先で平間街道は現在の池上通りと合流する。
 
平間街道と池上通りの交差点 左が平間街道より、右が池上通からの眺め

合流してすぐの大森郵便局の向かい側に善慶寺と熊野神社に通じる参道がある。

義民のもとの墓の位置に大きな灯ろうが建てられ”新井宿義民六人衆霊地参道”と金文字が入っている

法光山善慶寺は、1291(正応4)年、増田三郎右衛門が日蓮宗の聖人に帰依して開創した。
 
1678(延宝4)年、干ばつと翌年の多摩川の氾濫や洪水で疲弊した新井宿の農民たちは、領主・木原氏の年貢収奪に耐えかねて新井宿村の村役5人と百姓1人の農民代表6人で幕府に直訴することを決めた。だが事前に領主が察知することとなり、6人は捕えられて斬首の刑に処せられた。
しかし、その結果、年貢は半減されて、6人は義民として境内の墓所に葬られた。
 
善慶寺の境内を抜けて石段を上がると、山王熊野神社がある。
鉄筋コンクリート造りの覆屋(おおいや)の中には日光東照宮造営の際に拝領した余り木で元和年間(1615~25)に造立した木造の本殿が奉られている。
平将門の乱の鎮圧のために関東に下向した藤原恒望の家来の熊野吾郎武道が、戦勝を祈願した場所だとの云い伝えもある。
もと別当寺の善慶寺の稲荷堂として祀っていたと云う。
 

 
何故か手作りの絵馬が奉納されている

しばらくは広い池上通りを北上する。
JR大森駅の西口に差し掛かる。池上通りのこの道は八景坂と云われ、かつては坂の上からの眺めが見事で、江戸近郊の名勝と謳われた。
         


駅の向かい側に天祖神社が祀られている。急な石段を登ると天祖神社の社が構えている。
創建年代は不詳。江戸時代、神明社と云われ、その名の通り祭神は天照大神を祭神とする。
享保年間(1716~35)に伊勢神宮の参詣を目的とした伊勢講をつくり伊勢皇大神宮に詣で、分霊を受けたことがはじまりとされる。
 
そのむかし(平安時代末期、1091年ころ)、八幡太郎義家(1039~1106)が奥州征伐におもむく途中、この社で戦勝の祈願をしたが、そのときに境内にあった松の木の枝に鎧を掛けたと言われる鎧掛の松の伝説がある。この松の木は安藤広重の絵になって、八景坂とともに名勝として広く世間に知られていたが、枯れてしまい、今はその痕跡もない。

階段中段に馬込文士村の住人を紹介するレリーフが掲げられている。
大正後期から昭和初期にかけて東京府荏原郡馬込村を中心に多くの文士、芸術家が暮らしていた地域を馬込文士村と呼ばれていた。現在の東京都大田区の山王、馬込、中央の一帯である。
北原白秋、川端康成、山本周五郎、宇野千代、山本有三、佐多稲子、三島由紀夫など、その他多数にのぼる。
かつて文士達が歩いた閑静な街並と、起伏に富んだ散歩道は、都市化が進んだ今でも散策のコースとなって楽しまれているそうだ。
         
大森駅を過ぎると左手に日枝神社があり、並びに圓能寺がある。
古くは山王社と呼ばれ、1677(延宝5)年から圓能寺が別当になった神社である。
 
圓能寺の境内は若草幼稚園の園庭にもなって園児が飛び跳ねていた。門も閉ざされていたので素通りとした。
この向かい側のNTTビルの裏、線路側に大森貝塚碑がたっている。
1877(明治10)年、横浜から東京に向かう汽車の窓からアメリカ人の動物学者エドワード・モースが貝塚を発見した。これが大森貝塚である。
 
         
大田区から品川区に入る。
貝塚碑の300mほど北には貝塚遺跡庭園がある。
モースは貝塚の住所や地図を明らかにしなかったため、いつの間にか大森貝塚の位置は分からなくなってしった。
1929(昭和4)年にこの地、大森貝塚遺跡庭園(品川区大井六丁目)に「大森貝塚碑」が、翌年先ほどの大田区山王一丁目に「大森貝墟碑」が建てられ、貝塚の位置をめぐる混乱が生じた。
1955(昭和30年)、両方の碑は「国指定史跡 大森貝塚」として国の史跡に指定されましたが、その後大森貝塚発掘時の明らかな文書が、東京都公文書館で発見された。そこに記された発掘地の住所「大井鹿島谷2960番地」で現在の大森貝塚遺跡庭園の位置にあたる。
 


その先すぐ右手に鹿島神社来迎院がある。
鹿島神社は、社伝によると、969(安和2)年に大井の常行寺の僧が常陸国鹿島神宮より分霊を勧請したことに始まる。同時に別当として来迎院を建立したという。
         
現在の社殿は 1931(昭和6)年に竣工。旧社殿は1862(文久2)年の造営で精巧を極めた鎌倉彫の彫刻が施されており、これを後世に伝えるため境内末社として境内右手奥に移設して現存する。
         
 

         
来迎院山門前には数々の供養塔が3つの堂内に納められている。
江戸時代に盛んに行われた念仏講の供養塔で、いずれも江戸初期の供養塔である。この場所はもともと来迎院の境内であったが、道路工事によって分断された。


南無阿弥陀仏と彫られた笠塔婆型の塔と1656(明暦2)年、1659(万治2)年の地蔵菩薩像

品川歴史館の角を曲って池上通りに出る。
ここから西大井にある池上本門寺道標を探しに回る予定だったが時間も押しているので真っ直ぐ大井町駅に向かう。
 
大井三ツ俣の交差点を歩道橋で渡る。むかしは三ツ俣に分れていたのだろうが今は複雑に分れている。
歩道橋を下りると昔ながらの商店街に感じる通りとなる。
左手に地蔵の堂が祀られている。
縁起が幟旗が邪魔をして読めないのだが、鎮座している仏像は古く仏教伝来の時代までさかのぼる十一面観音菩薩像で身代わり地蔵とも云われているそうだ。
あとで知ったことだが、向かい側は以前、直木賞作家・村松友視さんが書いた小説、時代屋の女房の舞台となった骨董店「時代屋」があった場所だという。今は駐車場になっている。
時代屋の女房と云えば映画では夏目雅子さんがパラソルをくるくる回しながら歩道橋を歩いて螺旋階段を下りてくるシーンがある。それがこの歩道橋である。彼女は美人でしたね。

螺旋階段の奥 フェンスの囲まれた駐車場が骨董店「時代屋」だった
私も彼女と同じようにその歩道橋を歩いて大井三ツ又商店街に入った。
この商店街を抜けると大井町駅前の踏切に差し掛かる。ここがむかしの池上通りだとか。
 
ここで駅沿いに大きくえぐれて道を巻て歩く予定だったのだが、コンビニのセブンイレブンに差し掛かるはずが、それは、コンビニはコンビニでもローソンだった。自分の位置が解らなくなった。そのまま歩いて都道420号の交差点に着いた。池上通りを歩いていることが解っていたが、本来はむかしの池上道を歩く筈であった。この交差点で道を正せばよかったのだが、どうせ京浜第一国道に合流するのだからとそのまま進んだ。
エトワール女子高で道を修正して斜めに路地を入った。ようやく池上道に戻った。この池上道のパスした道のりがあとの悔やみとなった。
品川銀座通りを歩く。
  
すぐ左手に東関森(とうかんもり)稲荷神社があり、その先右手には、馬頭観音像。
東関森稲荷神社は、「新編武蔵風土記稿」にはこの辺りに稲荷森稲荷、熊野神社が書かれており、その後熊野神社に稲荷森稲荷が合祀されたようだ。稲荷森稲荷とは稲荷社も変わった社名である。「稲荷森」は「とうかもり」と呼ばれようだ。
 

続いて海蔵寺がある。
海蔵寺は、1298(永仁6)年、藤沢遊行寺の上人が創建。江戸時代には数多くの無縁仏を供養し投込寺とも呼ばれた。品川宿で死亡した人や、鈴ヶ森刑場で処刑された人、品川遊郭に於いて死亡した遊女等も葬られていて、1691(元禄4)年から1765(明和2)年に至るまでの74年間でもその数7万余人と云われている。
 
 
第一京浜に合流して、目黒川を渡る。

品川神社である。
 

富士塚の登り口                         浅間神社
ここに来ると品川宿の中心に到着した感じである。
階段を上がって左手に浅間神社、そして拝殿へと参る。その後境内端の包丁塚を撮る。これがサプライズであった。
         
この日、TV東京の夕方の番組で「お祭直前!旧東海道品川宿めぐり」と云う品川宿を歩く放送があった。
品川宿にはこれで3回目となるのだが、なぜか3回が3回ともTV放送と係わるサプライズがある。
初回は、区の歴史散策で東海七福神を回った時のことである。
七福神を回り終えて午後はフリーとなったので他の寺社等を回った。その中で高村智恵子終焉の地があることを知り、回ったのだが場所が解らず、足も棒となり諦めて帰った。
その日の夜、サスペンスドラマで智恵子の生誕の地が出てきたのである。終焉の地を巡って生誕の地がでてくるとは。
その終焉の地だが、今回、大井町から道を間違えず予定の道を歩いて入れば、辿り着いたようだ。そんなおまけもあった。
2度目は品川宿を八つ山橋から入ったのだが、同じようにその日のテレ朝の「雄三のゆうゆう散歩」で品川宿散策の放送があり、八つ山橋からはいっていた。
2度あることは3度あるで、3度目の今回、女優のいとうまい子さんが品川宿を南から入ったのである。
その上、品川神社で出したクイズがまたサプライズであった。品川神社に富士塚があるが、神社の境内に置かれているもうひとつの塚は『A筆塚 B包丁塚 C布団塚』のうちどれかと云うものだ。
それが、境内に上がって拝殿の後に私が撮った唯一の写真がクイズの答えとなるなんて、サプライズですネ。
品川神社も3度目なので写真も撮る必要がなかったのだが、たまたま写した包丁塚の写真だったのだが。
偶然もこんなに重なるとは。マー、4度目はないだろうね。
品川神社の参道を下りて、商店街を入って行く。
おいらん道中のお祭のポスターが貼ってある。明日のことだ。TVで知ったのだが品川宿北の入口・八つ山を出発して2時間かけけこの京急新馬場駅近くの商店街に着くそうだ。
そういえば、前回も荏原神社のお祭を週末に控え提灯が並ぶ商店街を写したことを思い出す。これも偶然。

この後は、正徳寺の赤レンガの路地を通り、養願寺、一心寺、法禅寺、善福寺に参る。一心寺は門が閉まっていた。こんなこともあるのかな。
         
 
         
 
それと、おやすみ所を使って街道関連の古本を扱っている街道文庫の店がこの夏に移転していた。
本の量からして手狭な店だったのでさもありなんである。街道書籍のみを扱っていることでTVなどのマスコミに取り上げられた店である。店主は散策のガイドも務める人なので気さくな方である。鎌倉街道の本を求めて前回窺った。
           
京急の踏切に差し掛かる。相互乗り入れになって聞いたことがない印旛沼○○行きの電車が通り過ぎた。
 
踏切を渡った右手に『従是南 品川宿 地内』と書かれた木製の柱がたっている。
振り返って、これより南に、北宿・南・、新宿にわかれた品川宿がある。日本橋を起った旅人の最初の宿場町である。
         
八つ山橋に着く。
 
今回の散策もあとひとつの神社のみとなった。イチョウ並木の第一京浜を品川駅目指して進む。
イチョウの木の下には銀杏が落ちている。品川駅前に神社があったのかと思うほど意外な場所に高山神社がある。裏はプリンスホテルの高層ビルがそびえたっている。
高山稲荷神社は京都伏見稲荷大社の分霊を祭祀している。
往時の文献によれば今からおおよそ500年前、この地に神社の建立を勧請建立したと記されている。
当時高輪の地形は小高い丘陵で社殿は二百数十段の石段の山峰に位置する山上の神社。故に高山神社と称されたと伝えられている。 現在の社殿前方、品川駅一帯は見晴らすかぎり海辺がつづき遠く房総方面より往き来する舟の目標となったものと記されている。
明治初期、境内からの眺望は目を見張るものがあったと思われ、明治天皇が京都より江戸への遷都に際に、休息・野立をなされたと伝えられている。
1923(大正12)年の関東大震災ののち、国道の拡張に伴い境内を失い参道も現在の位置になった。





JRと京急の品川駅

平間街道を2回に分けて歩いたのだが、冒頭にも書いたが、徳川様の東海道が出来る前はこの道がメインであったのだから決してマイナーな散策ではなかった。ただ、平間の渡しまでの沿道にはこの道の証が塚越の御嶽神社の道標だけなのは淋しい。
それと、この道は鎌倉街道下道と云う方もおられる。勉強不足で平間街道がそうだとは解らぬが鎌倉街道と鎌倉街道をつなぐバイパス道であることは感じた。
東海道の確立した道とは違い、その時代に生きた人々の生活の中で、便利さを求めて道が変化して行ったし、時代によって道の呼称も様々に変化していったのかもしれない。