あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

久々の大倉尾根登高

2013-03-31 10:28:00 | 丹沢大倉尾根
久々の大倉尾根登高


         
         

下界、戸川公園の桜は「散りモード」に切り替わってしまった(↑)この日、霧雨の下、久々に大倉尾根を登る。
登りながら桜の開花を注視していく。
高原の桜はやっと咲いたばかりの状態(↓)。そうなるとその先の桜の開花は推して知るべしである。
                   
         
雑事場前の斜面にもちらほら咲く桜の木があった。
見晴茶屋に顔をだす。
奥多摩の七つ石小屋が荒らされた情報を聞かされた。この小屋は雲取山に登る際に通過する小屋でお世話になったこともある小屋である。小屋番になりすまして数日間いたようで被害は大きいようだ。
この大倉尾根でも数軒の小屋が荒らされたことが数年前発生しており、他人事とは思えず、見晴茶屋の小屋番さんも大倉着一番バスの常連さんに呼びかけたと話されていた。
大倉着一番バスの常連さんには毎日のように登る方も多く居り、山小屋監視の目としては有力な方々である。

見晴茶屋上の坂にも咲いていた(↓)。
         

         
木道の両脇には、最近植栽された笹が見かけられた(↑)。
一本松付近にも数本の桜が植わっている(↓)。この辺りが本日の開花の限界だろうか。標高は750m前後というところだろう。
         
         
駒止茶屋オーナーの名刺用の小屋写真を撮ったのだがガスでぼやけてしまい日を改めてという天候でもあった(↓)。
         
今回も堀山の家まで足を延ばす。
小屋に掛かっていた温度計で4.8度(↓)、ストーブの暖かさが有難かった寒さであった。
                   
今年の丹沢表尾根の山開きは4月21日(日)である。
大倉尾根にお世話になっている者はこの日には登らなければ!
                  

恒例になった「山男5人衆」の丹沢の写真展が4月8~14日に開かれる。
          特別企画として今回は、丹沢の山小屋の写真を展示している。

大倉尾根を今回はファミリー6人で登る。いつもは日曜日なのだが天候の加減で土曜日を選択。曇り空で午前中は晴れ間もある予報だったはずなのだが、濡れはしなかったものの終止霧雨模様の寒い1日であった。  

かねさわ北条氏の称名寺

2013-03-14 15:31:59 | 横浜歴史散策
称名寺

                                      横浜市金沢区金沢町212-1
                                      京浜急行金沢文庫駅下車徒歩15分

 
 鎌倉幕府三代執権北条泰時が自ら現場に赴いて指揮し切り開いた朝夷奈切通が開かれると、泰時の弟実泰(さねやす)が鎌倉に接した六浦の地頭となり、その子実時(さねとき)は、鎌倉から六浦荘金沢に館を移した。実時は金沢(かねさわ)北条氏の祖といわれる。
1260(文応元)年、実時は別邸敷地内に母の菩提を弔うため持仏堂を建立したのが称名寺のはじまりとされるが称名寺創建年は明らかではない。
称名寺はその後、子孫が発展させ全盛期には、三重塔を含む七堂伽藍を完備した大寺院となった。
1333(元弘3)年、新田義貞の鎌倉攻めによって北条氏が亡びた後衰退する。後醍醐天皇、豊臣秀吉や徳川家康らの庇護を受けたが、寺運は回復せず、江戸期には大きく衰退した。但し、現存する建物は江戸時代に造られている。
創建当初は念仏宗だが、真言律宗別格本山の寺院で金沢北条氏一門の菩提寺である。本尊は弥勒菩薩。

1771(明和8)年の赤門
  
赤門は徳川幕府から御朱印をもらった証として門を赤く塗った。四脚門、切妻造、本瓦葺(再建当初は茅葺)である。山門を潜ると桜並木の参道となっている。

関東では最大級の仁王が納まる仁王門
 
1818(文政元)年に再建されたもので、三間一戸の楼門、入母屋造、軒唐破風付、銅板葺(再建当初は茅葺)で、間口10m(5間半)奥行6m余(3間半)の楼門。
納められている木造金剛力士立像は、1323(元亨3)年製作、神奈川県指定重要文化財。

金堂
 
1681(天和元)年再建、禅宗様。桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺(再建当初は茅葺)。

釈迦堂
 
1862(文久)年建築、禅宗様。方三間、廻縁付、宝形造、茅葺。
堂内には鎌倉時代、1308(徳治3)年銘の釈迦如来立像が安置されている。国の重要文化財に指定。

称名晩鐘
 
称名寺の鐘は、かねさわ北条氏の祖・実時が、1269(文永6)年に父実泰の七回忌に寄進したもの。のちに破損していた鐘を、嫡子・顕時(あきとき)が1301(正安3)年に改鋳した。このため、鐘には実時と顕時の二人の銘が刻まれている。
鐘の総高は128.5cm。形の美しい鎌倉時代を代表する名鐘のひとつで、国指定の重要文化財。
         
立ち込めた夕もやの中、称名寺のこんもりとした森の中から鐘がゴーンと鳴りひびいてくる。
辺りは静かに暮れていく情景の金沢八景のひとつ「称名の晩鐘」として知られる鐘である。なお、「称名晩鐘」と呼ばれるようになったのは、元禄時代に中国の心越禅師が金沢八景詩を詠んだ以後のこと。

阿字ヶ池を中心に中之島・反橋・平橋を配した浄土庭園
 
配置は平安時代中期以降盛んになった浄土曼荼羅の構図に基づき造られた梵字「ア」をかたどっている。
顕時の嫡子、鎌倉幕府十五代執権・貞顕(さだあき)の時代、1319(文保3)年から翌年にかけて造られた。現在の阿字ヶ池は昭和時代末になって復元された。

新宮とかねさわ北条氏の祖・実時の銅像
 
熊野新宮を祀る、新宮は称名寺の鎮守。1790(寛政2)年に再建。 三間社造、銅板葺(再建当初は茅葺)。

三重塔址
 
この地に七堂伽藍を完備した全盛時代には三重塔が建っていたと「称名寺絵図」(1323(元亨3)年)に描かれている。

北条実時廟
 
墓地中央の宝篋印塔が、実時の墓と伝えられている両脇左手に3基、右手に2基の金沢北条一門の墓がある。

境内の石仏像
 
半ば土に埋もれた野仏のような感じで祀られている


金沢文庫
金沢文庫は、鎌倉中期の武将、北条実時が晩年に金沢館で過ごした1275(建治元)年ころ建設した武家の文庫である。実時の遺志は、顕時・貞顕・貞将(さだゆき)の三代にわたって受け継がれ、膨大な書籍を遺した。その後、小田原北条氏や徳川家康などにより各地に流出した。
日本の初期における私設図書館とも位置付けられている。
現在の建物は1990(平成2)年に新築され、鎌倉時代を中心とした所蔵品を展示公開する歴史博物館と、国宝や重要文化財を含む金沢文庫の蔵書を分析・研究する施設が設置されている。
 
称名寺からはトンネルを抜けると金沢文庫

歴史的、慣例的に金沢文庫は「かねさわぶんこ」と読まれている。しかし、地域名や駅名が「かなざわぶんこ」と発音しているため、神奈川県立金沢文庫も同様に「かなざわぶんこ」と発音するようになったようだ。

やっと、春到来

群れて咲くタチツボスミレとカントウタンポポ


トビのカップル、オナガガモとアマサギか


八角堂
 
金沢山山頂に置かれている八角堂の休憩所。境内からは大した距離はないが階段となっている山道の勾配はきつかった。
この八角堂は浅見光彦登場する「横浜殺人事件」で物産会社の課長が服毒変死する現場として使われている。
探偵・浅見光彦は我がBlogに3度目の登場となる。
山形県酒田市の日和山公園東京都北区の団子の平塚亭である。

展望
 

 
金沢山から八景島シーパラダイスが展望



称名寺は1月15日の鶴岡八幡宮の左義長神事の帰りに回る予定にしていたが、生憎の積雪となり日を変えての散策となった。
本日は、京急新逗子から金沢文庫下車となった。
阿字ヶ池に浮かぶ朱色の反橋と平橋を楽しみにしていたのだが、意外と色あせていたという印象だ。「写真で見る橋はもっと赤かったのに。」と思った。同じように感じた御仁がいて地元の人に話しかけていた。
金堂裏では園児がお昼をとっていた。
参道に桜が植わっているので花の咲く時期か、境内の古きいちょうの紅葉時期が訪れるには良いかもしれぬ。


称名寺ライトアップ:5月6日(月祝) 17:00~21:00



小田原城を巡る

2013-03-11 00:00:01 | 東海道宿場町
小田原城

        
小田原城がはじめて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃のことと考えられる。
         
1500年頃に戦国大名北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張され最大時には、閑八州240万石に達していた。因みに豊臣秀吉が天下統一を達成した頃の禄高は、秀吉222万石、徳川家康250万石である。
また、四公六民の税制は直轄領としては最低で、なおかつ飢饉の際には減税を施すなど善政を行い農民にとってはありがたい領主さまであったようだ。
城はまた、秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、中世の日本最大城郭に発展し、不落の城、無敵の城とまでいわれるようになった。

江戸時代を迎えると徳川家康の家臣、大久保氏が城主となり、城の規模は縮小された。しかし、稲葉氏が城主になってからは大規模な改修工事が行われ、近世城郭として生まれ変わった。その後、再び大久保氏が城主になり、箱根を控えた関東地方の防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきた。

明治維新を向かえ、小田原城は1870(明治3)年に廃城となり、ほとんどの建物が解体される。残った石垣も1923(大正12)年の関東大震災によってことごとく崩れ落ちた。



その小田原城を歩いてみた。

天守
天守は城の象徴として本丸に構えていた。
三代将軍家光が天守に上って武具を見たり、展望を楽しんだという記録が残っている。
1703(元禄16)年の大地震で崩壊、1706(宝永3)年再建され、1870(明治3)年に壊された。
1960(昭和35)年、宝永年間時に作成された設計図を参考に鉄筋コンクリートで外観復元した。
因みに天守閣という呼称は明治以降とのこと。
         

本丸
東西約150m(83間)、南北114m(63間)ほどの規模をもち、その西端に天守、中央に本丸御殿が存在した。
本丸の周囲は石垣と土塀がめぐらされており、東南に常磐木門と北側には裏門にあたる鉄(くろがね)門が設置されていた。
本丸御殿は、家光が上洛に際して宿泊するために建築されたもので、1703(元禄16)年の地震によって焼失して以来建設されなかった。
            

本丸東堀跡
江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいた。絵図によると堀は二の丸堀とつながって水堀となっていた。
         
         

本丸の巨(おお)マツ
「御本丸に七本松という老松・・・」と天保年間の雑誌に書かれていた松の生き残りと思われ、樹高30m、樹齢400年以上のクロマツである。
                 

二の丸隅櫓(すみやぐら)
曲輪(くるわ)の隅に配置される櫓。廃城の際にも壊されなかったが、関東大震災で崩落した。現在の櫓は1934(昭和9)年に復元したもので形状は当時と異なる。
         
この堀の中に建てられていた「二の丸御殿」は、藩主在国中の居館として、また藩の行政を行う政庁としての役割を持つ御殿として利用されていた。
「二の丸御殿」は寛永年間(1624~44年)のころが最も壮麗で、能舞台や唐門も備えた立派なものであった。しかし、1703(元禄16)年の大震災により小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御殿」も倒壊炎上した。その後再建、増築されているが、以前のような姿には及ばなかったという。
現在は歴史見聞館の建物と広場となっている。その広場には、かつて城内小学校がおかれていた。

二の丸東堀
本丸、二の丸を護る中で最も大きな堀で最大幅は40mある。
現在の石垣は、1923(大正12)年の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧した。江戸時代の石垣はもっと高く威厳のある姿を見せていた。
         
         

常磐木門
本丸の正面に位置し、城内で最も大きく堅固に造られていた。記録から江戸時代初期から設けられており、1703(元禄16)年の地震で崩壊した後、多門櫓と渡櫓から構成される枡形門形式で再建されている。
常磐木とは常緑樹の意で、小田原城が永久不変に繁栄すること願って名付けられている。
1971(昭和46年)復元。
         

銅門(あかがねもん)
江戸時代の二の丸表門で、江戸時代を通してそびえていたが、1872(明治5)年解体される。
1997(平成9)年、門や土塀は古写真を基に江戸時代工法で復元される。銅門の名前の由来は、大扉などに銅の飾り金具が使用されているからである。
         
         

馬出門(うまだしもん)
二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期から現在の場所に存在し、1672(寛文12)年に枡形形式の門に改修され、江戸時代の終わりまで存続した。
2009(平成21)年に総工費5億円余りをかけ復元される。
         
         
         

大手門跡
稲葉氏が城主であった1633(寛永10)年、三代将軍家光が京に上る際に、箱根口付近にあった大手門を江戸に向く現在の位置に移し、大手門前までの道を将軍が入るための御成道として整備、江戸見附もその時に、現在の国道1号線の位置に移された。
この門を入ると三の丸となり、道の両側には家老級の屋敷が建ち並んでいた。
         
鐘楼の石垣は、大手門枡形虎口の石垣である。
                 
         
御用米曲輪
またの名を「御城米曲輪」とも呼ばれた。
小田原城は藩主のものではなく、江戸城の出城として徳川家の所有であった。前記のように、本丸には将軍家専用の本丸御殿があり、そのため藩主は二の丸に居館を置いていた。 このため米蔵も徳川家の兵糧米を格納するものであって、稲葉氏時代には御用米曲輪には五棟の瓦葺の米蔵があり、八千石、俵にして21,600俵余の米を収納していた。
         
この場所、かつては野球場であったり、臨時駐車場でもあったようだ。
現在は発掘現場となっており、北条氏時代では、重要な建物があったといわれいている。
         


         
平成22年度から史跡整備に伴う発掘調査が行われており、北条氏時代の建物跡が新たに発見されたと時折地方版の新聞記事を眼にする。
今後も新たな発見があるのではと、楽しみである。

            
        
                                 【別ブログを閉鎖・編集し掲載:2012.3.29散策】


旧東海道「小田原宿」を歩く

2013-03-07 00:00:01 | 東海道宿場町
小田原宿

           
江戸日本橋を出発しておよそ80km(20里)、9番目の宿場が小田原宿。旅人にとっては箱根越えを控えた2泊目の宿でもあった。
最盛期には約100余軒の旅籠屋が軒を並べたという。また、参勤交代で往来する大名行列も同様に休泊し、利用した本陣4、脇本陣4の計8軒にのぼり、東海道随一を誇っていた。
 
小田原宿は譜代大名・大久保氏11万3千石の城下町でもあって神奈川県最大、東海道でも屈指の宿場として栄えた。
大久保氏以前の戦国時代に小田原を治めていたのは北条氏で、鎌倉幕府執権の北条氏と区別するために後北条氏(ごほうじょうし)、或いは小田原北条氏と後世の歴史家からは呼ばれている。


          
         その北条氏の祖である北条早雲の像が小田原駅西口に建てられている


東海道小田原宿は江戸見附近くの山王神社からスタートする。
         

 
山王神社
山王神社は『新編相模風土記稿』に、1558年頃(川中島合戦があったころ)に村の鎮守として祀られていたと記されている。
         
          
社にある井戸の水面に夜空の星や月が写って見えたことで、別名「星月夜の社」と呼ばれる。
江戸時代初期に活躍した儒教学者の林羅山が山王神社を参拝した折に、箱根山を登る旅人の「百千の籠(たくさんのちょうちん)」が見えたと「星月夜」の詩を詠んだ。
また、徳川家康が小田原攻めの際に、戦の勝利を祈った神社でもある(当時の山王神社はこの場所ではなかった)。

江戸口見附・山王原一里塚
山王神社の先に江戸口見付跡があった。小田原城下に入る東の出入口でここからが小田原宿内である。
見附とは、枡形門に設けられ鍵の手の状態に通行し、昼夜番士が警戒にあたる見張番所もあった。
見附には北条氏時代の小田原城防衛のための土塁が築かれていたので、東海道を通す際にこの土塁を壊して枡形門が作られた。
ここは江戸より丁度20里(およそ80km)にあたり、やや海よりの場所に山王原村一里塚が設けられていた。
          
         

蓮上院土塁
北条氏時代の小田原城の外郭遺構。
北条氏は、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築いた。この辺りは、その総構の最も南部にあたり、小田原合戦時にはこの東側に徳川家康が陣取った。
         

 
新宿町から古い町名が続く
旧東海道は「新宿交差点」で左折して蹴上げ坂を上る。坂とはいえない坂を100mほど進んで右折をする。昔はもっと傾斜があったのだろうか。
万町(よろっちょう)と呼ばれた町である。道の両側に蒲鉾屋が目に着く。
旧東海道はこの先、高梨町(甲州街道の起点、問屋場があった)、宮前町(高札場、本陣:1 脇本陣:1 旅籠:23で本町とともに宿の中心)、本町(本陣:2 脇本陣:2 旅籠:26)、欄干橋町(本陣:1 旅籠:10)、筋違橋町(すじがばしちょう)、山角町(瓦職人が多い)、御組長屋(おくみながや)などの町並みが続く。
小田原市は「歴史的町名保存事業」を実施し、旧町名を調査するとともに、この調査に基づいて町名保存碑を設置している。現在保存碑は77を数えるようだ。

新宿町
江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。
町は藩主帰城の時出迎場であったほか、郷宿(ごうやど・藩役所などへ出向く村人達が泊まる宿屋)や茶屋があり、小田原提灯造りの家などもあった。
                  
万町
町名は古くから『よろっちょう』と呼ばれた。町内には、七里役所という紀州藩の飛脚継立所があった。江戸時代末期には、旅籠が5軒ほどあり、小田原提灯造りのいえもあった。
         

高梨町
東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠が並んでいた。町の中央 南寄りには下(しも)の問屋場(人足や馬による輸送の取次所)が置かれ、中宿町の上(かみ)の問屋場と10日交代で勤めていた。
         

宮前町
小田原北条氏時代、この町は、上町、下町に分かれていたと伝えられている。江戸時代には、 町の中央に城主専用の出入り口である浜手門と高札場(幕府の法令などを掲示する場所)が あり、同時代末期、町内には本陣1、脇本陣2に旅籠が23軒ほどあって、隣の本町ととも に小田原宿の中心であった。
         

宮小路
町名の由来は、松原神社の門前にあたるためといわれている。
この横町は神社の門前から東へ延び青物町に至るまでの通りをいう。
         

脇本陣古清水旅館
江戸時代、大清水本陣とその隣の古清水脇本陣は兄弟で経営していた。明治以降、本陣と脇本陣を合併した古清水旅館が脇本陣跡に建てられ平成の時代まで続いた。現在は高齢者専用の賃貸住宅になっている。その2階には「脇本陣古清水旅館資料館」がある。希望すれば見学できるようだが、訪れた日は管理人が不在で残念ながら見学できなかった。
         

明治天皇宮ノ前行在所(あんざいしょ)跡・清水本陣跡
 
明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣跡である。行在所とは天皇が外出した時の仮御所をいう。
清水金左衛門本陣は、小田原宿にあった4軒の本陣のうちの筆頭で、代々町年寄も勤め宿場町全体を掌握していた。
清水本陣は、天保期には間口およそ33m(18間)、屋敷面積1,320平方メートル(400坪)、建坪およそ800平方メートル(242坪)の大本陣で、尾張徳川家61万石をはじめ諸大名や宮家の宿泊にあてられていた。明治天皇も1868(明治元)年から5回ほど宿泊されている。
          

松原神社
旧東海道の青物町交差点を過ぎた辺りから松原神社の前辺りまでが、かつての小田原宿の中心地である。
松原神社は日本武尊を祀るが北条氏綱の時、海中より出現した金剛十一面観音像を祀ったのが始まりとされ、北条氏の庇護も厚かった。
「松原明神」とも呼ばれる。江戸時代、1686(貞享3)年、老中大久保忠朝(忠世から五代目)が佐倉より小田原に転じた折、小田原宿惣町の総鎮守として盛大な祭礼を行うようになった。
1873(明治6)年、足柄県の県社に指定され、以後、現在に至るまで小田原の総鎮守的象徴である。
         

小田原なりあい交流館
「なりわい交流館」の元は、住吉屋吉衛門と呼ばれた江戸時代の旅籠で、その後、大正時代はブリ漁などに使われる魚網の問屋として栄えていた。
この辺は、海(御幸ノ浜)からの恵み(干物、鰹節、蒲鉾、はんぺん等)を活用したなりわい(生業)が盛んな場所であった。現在は、そのなりわいの紹介や観光案内、お休み処として利用されている。
この建物は、関東大震災で被災した建物を再建したもので、江戸時代から続く「出桁(だしげた)造り」という小田原の伝統的な商家の建築方法だという。


北条氏政・氏照の墓
小田原駅から数分のところにこの墓所はある。
北条氏政は五代の領主、氏照は、その弟。豊臣秀吉の小田原攻めで時の城主氏直が高野山に追放され、父である氏政、その弟氏照は責任を負って自刃した。
この墓所は永く放置されていたものを稲葉氏の代になって北条氏追善のためつくり直したという。
         
         
ここは、願掛けの「幸せの鈴」を結ぶ場にもなっている。
「願」をかけ鈴を持ち帰り、願いがかなったらここに結ぶという。たくさんの鈴が結ばれている。
「幸せの鈴」についての解説板が置かれているが何故に北条氏と結びつくのかは理解できない。
         

第二次世界大戦最後の空襲
いくつかの空襲被害のいたいたしい記録を小田原市内の各所で眼にとまった。
・小田原空襲の碑
碑は青物町交差点脇の建物の壁にはめ込まれていた。
これによると、大戦最後の日、1945(昭和20)年8月14日夜半、B29爆撃機に焼夷弾攻撃を受けた。
高梨町、青物町、宮小路、一丁田などが被害を受けた。
8月14日無条件降伏を決定したあとの小田原空襲であった。
         
・8月15日空襲の記録
空襲の記録は「脇本陣古清水旅館」に掲示されている。
1945年8月15日の1時か2時ごろに空襲を受けた。
この空襲は、埼玉県熊谷市、群馬県伊勢崎市の空襲の帰りに行われたもので、アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には記載もなく、計画されていなかった空襲だったようだ。
行き掛けの駄賃というやつか。
         
・太平洋戦争焼夷弾着弾の跡(蓮上院土塁)
太平洋戦争が終わりに近づくにつれ日本各地で空襲がはげしくなり、小田原市内でも1945年4月以降たびたび空襲を受けた。
戦争終結前の8月13日に空襲が蓮上院の土塁に着弾し、大きく土塁を損壊した。
戦国時代の土塁に昭和時代の戦争の傷跡が残る貴重な場所である。
         

小田原城
小田原城は箱根外輪山麓の台地上に築かれた。平安時代末期、相模国の豪族土肥一族の小早川氏による築城が起源で、その後、大森、北条氏が居城とした。
上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐え難攻不落を誇こる。特に北条氏末期には、豊臣軍に対抗するため城下全体を総延長9kmにも及ぶ土塁と空堀で囲んだ。これは、後の豊臣大阪城の惣構(城郭構造)を凌いでいるという。
江戸時代は大久保、阿部、稲葉氏と城主が変わり再び大久保氏の居城で幕末を迎えた。現在の天守閣は1960(昭和35)年に復元されている。
大手門跡の鐘楼、学橋、銅(あかがね)門、常磐木門などの見所もある。
         
         

報徳二宮神社
小田原の生んだ農聖・二宮金次郎を祀るため1894(明治27)年に建てられた。
二宮尊徳(たかのり)、通称は金治郎であるが一般的には金次郎と表記される。江戸時代後期の農政家・思想家。小田原藩家老屋敷で武家奉公し、その時に才をなしたという。
柴刈り縄ない草鞋をつくりの金次郎像や成人の尊徳像が祀られている。
         
         
        
右は小田原駅にも金次郎像が置かれているのでそちらを使用。        

対潮閣跡
対潮閣は山下汽船(現商船三井)の創始者山下亀三郎の別邸である。対潮閣には同郷である海軍中将秋山真之(さねゆき)が古希庵に滞在する明治の元老山縣有朋を訪ねる際にしばしば利用された。
秋山真之は司馬遼太郎原作『坂の上の雲』に登場する日本海海戦時の連合艦隊参謀である。虫垂炎を悪化、腹膜炎を併発させこの地で亡くなっている。49歳。
                   

ういろう本舗
中国の元朝に仕えていた公家が日本に帰化し、中国での官職「礼部員外郎(れいぶいんがいろう)」からとって「ういろう」と名乗ったとのこと。
「ういろう」とは痰(たん)切り、口臭予防の丸薬で、『東海道中膝栗毛』にも出てくるという。
また、歌舞伎役者の二代目団十郎は、持病の咳が外郎によって治ったことに感謝して「外郎売」を演題として歌舞伎にとりあげた。外郎の効能を早口でおこしろおかしくまくしたてる内容のようで、中に出てくる台詞は、新劇の若手俳優も練習に取り入れるようで、亡くなった「ちい散歩」の地井武雄さんもここを訪れた際に話していた。
お菓子のういろうである練羊羹の製法は江戸中期に広まったといわれる。
「ういろう」を販売している「外郎家の建物・八棟造り」は、1523(大永3)年に外郎家が建設した建物を再建したもので、棟の数が多いので八棟と呼ばれる。
『東海道名所図会』には、八棟造りの中国風の住居が描かれているが、関東大地震によって崩壊。当時の八棟造りとは若干趣を異にする建物とのこと。
         

ちん里う
梅干しは、城主北条早雲がその薬効と日もちの良さに目をつけ奨励したという。江戸時時代には宿場の土産物として街道を往返する旅人の疲れを癒した。
街道の南側に梅干しの老舗「ちん里う」がある。明治になっての開業という。
         
小田原宿は宿泊者が多かったため、土産物や旅の必需品を売る店も多く、蒲鉾・梅干・ういろう・小田原提灯などが名物として広く知れ渡るようになった。

西海子(さいかち)小路
その昔は、武家屋敷が集まる風情のある小路。
かつて谷崎潤一郎や三好達治など多くの文学者たちが周辺に居を構え、数々の文学作品を生み出したゆかりの地でもある。
         

           尾崎一雄邸書斎                 白秋童謡館

小田原駅跡碑
1896(明治29)年、熱海方面への陸上輸送道路として豆相(ずそう)人車鉄道が開設の際、現小田原駅から南側の東海道早川口に小田原駅が出来ていた。
人力で車両を押して走る鉄道であり、小田原-熱海間、駕籠で6時間かかるところ、4時間で走ったという。
                   

伝肇寺(でんじょうじ)
浄土宗の寺。北原白秋が寺の竹林に家を建て、創作活動に励んだ。白秋の活動を称え、境内には自筆の「赤い鳥」の記念碑が建立されている。
         
         
         
大久寺(たいきゅうじ)
日蓮宗大久寺は小田原藩主大久保家の菩提寺である。1590(天正18)年、初代大久保忠世が建立した。
         
         
                       大久保家墓所

居神(いかみ)神社
境内には鎌倉時代末期の古墳群がある。城下に残る古碑としては最古のもので、根府川石で作られた。
1317(文保1)年銘の大日、1322(元享2)年銘の阿弥陀の両種子板碑(しゅじいたび)や線刻五輪塔など5基が小田原市の文化財に指定されている。「種子」とは梵字のこと。

         
                   

光円寺
浄土宗光円寺は1633(寛永10)年、三代将軍家光の乳母である春日局が開基したといわれている。
         

上方口見附(板橋口)
光円寺の前の交差点が「板橋見附跡」。
ここが、小田原宿の上方口(板橋口)で、箱根への第一歩を印すことになる。
戦国時代の末期、小田原北条氏は東海道をも取り込み、城下の外周を土塁や空堀で囲んで防御する壮大な総構(大外郭)を築いた。この辺りは、東海道に対応する小田原城外郭の西側の出入口が設けられていた場所である。
       

醤油工場
旧東海道は板橋口で国道1号線から分かれる。
しばらく行くと、土蔵と繋がった赴きある家を見かける。
醤油工場の看板がかかっている。
1903(明治36)年創業の内野醤油で、日露戦争の勝利から「武功」と名付けた醤油を製造販売していたが、現在は作業はしていないという。
         

古希庵
明治の元老山縣有朋が1907(明治40)年に古希を記念して営んだ別荘。板橋の南向き丘上に総面積11,630平方メートルに、和風木造平屋建ての本館、木造2階建て洋館、煉瓦平屋建ての洋館が建ち並び、入口には、茅葺き屋根の門がある。山地回遊式庭園は毎週日曜日に一般公開されている。
         

山王神社板橋の地蔵尊
「板橋のお地蔵さん」と地元で親しまれている。1569(永禄12)年香林寺九世の文察和尚が、湯本宿の古堂に祀られていたものを現在地に移奉した。堂右手には直径1.5mほどの一木から彫られた恵比寿様が祀られている。
    
小田原用水取水口
北条氏時代に小田原では古水道が造られ、城下での飲用水として使われていた。その際の早川からの取水口。

取水口からは先をしばらく現在の東海道を歩く。

風祭一里塚跡
箱根登山鉄道・風祭駅から箱根寄りに江戸より21里の風祭一里塚跡がある。道祖神が同じところに祀られている。
         

長興山紹太寺
江戸時代には、東海道に面したこの場所に石造りの門が建っていたという。
紹太寺は、春日の局と、その子で小田原城主となった稲葉氏一族の菩提寺である。
開基当時は東西1.65km(14町70間)、南北1.12km(10町16間)という広大な寺域に七堂伽藍が配置されていたという。
         
         
茅葺きの本堂から550m、石段を360段余上ったところに稲葉家一族と春日局の墓がある。解説によると二代城主正則とその正室の墓以外は春日局をはじめとした墓石は実際には供養塔であるとのこと。
         

箱根登山鉄道
箱根登山鉄道の入生田駅先の踏切を渡る。
小田急線が箱根湯本まで乗り入れていることで、車両の軌間が違うためレールが3本走っている。
         

日本初の有料道路
1875(明治8)年、小田原の板橋から湯本まで、全長4.1km、幅員平均5mの我が国初の有料道路が開通した。
江戸時代の東海道を広げ、急坂も人力車が通れる勾配に付け替えた。
開通してから5年間、道銭(通行料)を取った。人力車は1銭、大八車7厘、小車は3厘であったと案内に書かれている。
調べると、「有料の人力車道」という表示もあった。
日本初と案内板には書かれているが、「我こそは日本初の有料道路」という路線が全国各地に乱立しているようだ。
         

三枚橋交差点
「箱根湯本駅」を遠くに眺める三枚橋交差点で旧東海道は分岐して湯本の温泉街に入ってゆく。
         



小田原宿は小田原城を中心とした観光地として残ったことで、これまで歩いた宿場町に比べ案内板が多く置かれて迷うことなく巡ることが出来た。

小田原宿を抜け、神奈川県内の東海道の宿場も8つ巡ったことになる。
残るは「天下の嶮・箱根宿」である。


                                 【別ブログを閉鎖・編集し掲載:2012.3.29散策】

古民家 雛の飾り

2013-03-04 00:00:01 | 散策
 

 

     

 

 

          

3年ぶりに見学した。
昨年から始まった「手毬」の展示に人気があるようだ。
ひとつひとつ糸をかがった「糸かゞり手毬」と木目込み手法の「木目込み手毬」が展示されている。
「吊るし飾り」や「布絵」などが、案内の家人が住まいとされる部屋内に飾られている。
また、平安時代から伝わる「貝合わせ」の展示はめずらしい。貝に蒔絵が施されているので江戸時代の流れの「貝合わせ」なのだろうか。

 

 

 

 

茅葺を新しい屋根で覆っている築百数十年の建物、調度品や尺(30cm)太さの大黒柱も魅力だが、2階に蚕棚がある事を聞き、そちらのほうに興味をそそった。でも、上がれないようだ。
この辺りの養蚕業は、明治の中ごろで農家の20%前後で行われていたが、大正期に入ると80%以上と大幅に増加し、近隣の製糸工場が姿を消した時代になっても農家の大きな収入源として行われていた。
蚕を育成中の農家は、蚕中心の生活となり、孵化(ふか)から繭をつくるまでの1か月余は休眠期間を除いて、蚕が24時間休みなく桑の葉を食べるので、毎日3~4回補給する作業が行われ、朝早くから夜遅くまで桑の葉の刈り取りと蚕の世話に追われ、家族にとって養蚕は大変な労働であった。
1935(昭和10)~1938(昭和13)年の養蚕終末期になっても、この辺り一帯は70%強の農家が養蚕業を営んでいた。
しかしながら、太平洋戦争を前にして食糧増産を図るために国策によって殆どの桑園が畑に切り替えられ、養蚕も桑園もこの地域から姿を消してしまった。
戦後の化繊にその座を奪われる以前に戦争によって養蚕業が消えていたのである。

 



 

              


                                             味噌蔵を改造した茶室
              



この展示は今年で10回目を迎えた。
ご当主の女性は80歳ということで、今回限りで展示は終了するとのこと。残念な限りである。
しかし、 糸かゞり手毬つくりはこれからも続けていくと話される。お元気で。
 

中屋敷の古民家吊るし飾り

2013-03-03 00:00:01 | 散策
吊るし飾り雛祭り作品展


 

 

 

 

                 

 

 

 

 

吊るし飾り雛祭り作品展は今年で9回目を迎える。
会場は、瀬谷区北部の中屋敷にある築130年余の古民家である。この建物、以前は1894(明治27)年設立の石井製糸場があった。建物2階部分はリフォームされているものの、1階部分には製糸場時代の名残りがみられる。

 

 

当時の製糸場で働く女工は、村の小作人の子女や他県の山奥の僻地から募集し、寄宿生活をしていて、午前3時から夜の10~11時まで働いた。休みはというと、ひと月に1日休みが1回、半日休みが1回であったという。
製糸業は、世界的にも第一次世界大戦後の1920(大正9)年に、糸価がピークに達していて、その後はたちまち暴落に転じ、製糸工場、養蚕農家とも大打撃を受けた。つづいて1923(大正12)年の関東大震災で多くの製糸工場が倒壊し、廃業に追い込まれている。
瀬谷に7社ほどあった製糸工場が1937(昭和12)の調査で2社のみの存在にすぎないので、石井製糸場もこの時代に廃業したと思われる。
明治政府の富国強兵の国策によって外貨獲得の一翼を製糸業が担っており、現在日本の礎となったことは確かであろう。

吊るし雛 天王森泉館 2013

2013-03-02 00:00:01 | 散策
 
      
 

横浜市泉区にある天王森泉館でひな祭りに因んで、創作アート吊るし雛が飾られている。
庭の梅の木の下には早咲きの三寸アヤメが花開いている。今年は、寒い冬で咲が例年より遅いという。

 
 
 
 
                
 
現在では、吊るし雛(雛のつるし飾り)は奥方の趣味の手芸で各地に広がっているが、もともとは、江戸時代後期から伝わる伊豆稲取地方の風習である吊るし飾りのことのようだ。
長女の初節句に、無病息災、良縁を祈願して雛壇の両脇に細工を吊すものであり、古くは庶民の雛壇代りでもあった。

 
 
 
 
               

この建物、もとは清水製糸場という製糸工場の本館であった。
         
本館左側を復元し現在の建物となっている。
右側1階はまゆ選(え)り場と食堂で、2階は女工の宿舎となっていた。1916(大正5)年当時は90名の女工が寄宿していた。
ここで使用されていた道具類などが、近くの中和田南小学校の郷土資料室に展示されている。
 


天王森泉館の公園には、冬に花弁の様な形になるシモバシラがつくられる。
このシモバシラというのは、シソ科の多年草のシモバシラ(霜柱、学名:Keiskea japonica)という日本固有の植物の枯れた茎に霜柱が出来る現象である。
シモバシラの茎は冬になると枯れてしまうが、根はその後長い間活動を続けていて枯れた茎の道管によって水が吸い上げ続けられる。そして、外気温が氷点下になると、道管内の水が凍って、茎から氷柱・シモバシラが出来るようだ。
訪れた日の朝は気温が下がり、この公園近くの田んぼには氷がはり、霜柱が立っていた。この気候ならもしかしてと期待があった。
 
公園には、シモバシラのなごり程度の形が出来ていた。手前の枯葉からシモバシラの大きさが想像出来ると思う。公園の係の方に伺うと、今期は12月ごろからその現象が起こり、最盛期は1月上旬から中旬にかけてで、風がなく放射冷却でよく冷えた朝に見られるという。ほんとに花弁のような時もあるとのことだ。最盛期過ぎると吸い上げる力が弱くなって、いくら寒くても写真のようななごり程度の大きさにきりならないようだ。また、年によっては全く出来ないこともあるそうだ。 
この近くでは、高尾山のシモバシラが有名である。
ここのシモバシラ、来年に期待である。

阿久和長屋門の雛飾り

2013-03-01 13:44:25 | 長屋門公園
 
 
 
 
 
 

     お内裏様(だいりさま)と おひな様
    二人ならんで すまし顔
    お嫁にいらした ねえさまに
    よく似た官女(かんじょ)の 白い顔


と、童謡「うれしいひなまつり」で歌われているが、本来「内裏雛」とは雛人形の男雛と女雛一対を指しており、歌詞の男雛をお内裏様というのは誤りのようだ。
そして、「関東雛」と「京雛」では男雛と女雛の並ぶ位置は逆となる。
その理由は、内裏雛は宮中での天皇の並びを模したもので、日本古来「左が上位」とする考え方(日の出の方角=左が上座、日没の方角=右が下座とする)から、人形が座る位置からみて、お内裏様が左、お雛様は右であった。ところが、明治の文明開化で日本も西洋式に習い、大正天皇が即位式で右に立ったことから、以降はそれが皇室の伝統となり現在に至ったといわれる。
しかし、「京雛」は伝統を重んじ旧来のままとなっていることから「関東雛」と「京雛」では並ぶ位置は逆となっている。
ひな壇の三人官女以下のその他大勢の随臣、従者人形は供揃いという。



おとぎ話を題材にした人形が一緒にひな壇に飾られていた。
 
 
 
 
 


3月3日は季節の節目である五節句のひとつ、上巳(じょうし・じょうみ)の節句であり、桃の花が咲く季節で桃の節句といわれる。
桃の節句の起源は平安時代より前のようで、京の貴族階級の子女が、天皇の御所を模した御殿や飾り付けで遊んで健康と厄除を願ったことが始まりとされている。
平安時代になり、川へ紙で作った人形を流す「流し雛」も生じ、上巳の節句(穢れ払い・けがれはらい)として雛人形が「災厄よけ」の守り雛として祀られる風習となった。
しかしながら、当時は男女別ない行事であったが、江戸時代ごろから、豪華な雛人形は女の子に属するものとされ、5月5日の端午の節句(菖蒲の節句)は武道・武勇を重んじる「尚武(しょうぶ)」にかけて男の子の節句とされるようになった。
「流し雛」の風習は鳥取県の用瀬町(千代川)、奈良県五條市(吉野川)や兵庫県たつの市(揖保川)、近くは埼玉県岩槻市(岩槻城址公園菖蒲池)などで今でも行われている。
また、残りの五節句は1月7日の人日(じんじつ)の節句(別称七草の節句)、7月7日の七夕(たたばた・しちせき)の節句と9月9日の重陽(ちょうよう)の節句(菊の節句)である。
9月9日はともかく四節句は今でも私たちの生活のなかで長い歴史を持って生きている。