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絹の道・浜街道を歩く 2日目

2013-05-21 14:27:11 | 街道を歩く
絹の道・浜街道を歩く 2日目
初日は思った通りの距離を確保できず、その上帰路にコース外の無駄な距離を1時間も費やしてしまった。
2日目はとりあえず鶴ヶ峰までの目標を立てたがどうなったか。
今日は、1日目終了の小山(おやま)コミュニティーセンター前がスタートだ。


片所バス停~常磐・上宿
横浜線橋本駅で下車、神奈中バスで10分余り。片所バス停を下車すると、小山コミュニティーセンターの金次郎さんが迎えてくれた。スタートである。9:00
次のバス停は御嶽堂である。近くの小山御嶽神社からきたのであろう。
すぐ先左手に細い路地があって小さな祠が見えた。地蔵尊である。
丁度お世話をしているご婦人がいたので話を聞いた。もとはこのお地蔵様は奥に建つ屋敷の地蔵様でその家の代が変わって、その後は家とは関係ないといわれたため、それ以後ご婦人が守っているという。お陰で二十数年、娘も外務省に努めアメリカ赴任も無事に勤めることができたと話された。
奥の屋敷だが、長い板塀に囲まれていて、アンバランスに一部がアルミ製の塀に変わっている。そこに以前は立派な門があっって、テレビの隠密剣士の撮影に使われたこともあったという。残念ながら母屋と一緒に焼けてしまった。右側に立派な門が見えているが、これは裏門だという。この門を見ても表門の立派さが伺える。江戸時代から続く豪農といった名家のようで、養蚕もしていたようだ。古い建物が残っていないのでその痕跡もない。

屋敷前を通って小山御嶽神社にむかう。かつては御岳堂神明寺といい、御岳信仰を流布する中心的役割を果たしたと推測される。御嶽神社の創建は明らかではないが、1666(寛文6)年の検地の際御嶽社領として、除地(じょち・よけ地ともいい、領主から年貢免除を受けていた)を与えられる。境内地は朱印地(徳川歴代将軍の朱印状によって領有が保証された土地)でもあった。9:20
小山駐在所先の旧道を進む。道路工事がなされ新しい道ができつつある。

その先広い道(都道503号)をひとつ渡ると、すぐに四つ辻がある。右角には1865(慶応元)年の大きな石燈籠がたち、左角には1827(文政10)年の普門品(ふもんぼん)供養塔などの石塔がたつ。普門品供養塔は、法華経のうちの観世音菩薩普門品(観音経)を、 一定回数読誦した記念に造立した供養塔である。何故にここにたっているのだろう。

その先、右手には古樹を大きく刈り込んだ桑の木を6本見かける。やっとシルクロードに桑が植わっている光景に出会う。

この先、左奥長泉寺がある。階段を上る。門前に「禁葷酒」の文字を深々と彫込んだ石塔がたっている。
葷(くん)とは、ニンニク・ネギ・ニラ・ラッキョウ・ノビルなど、においが強く臭い野菜のことを五葷といい、精力がつき過ぎて人間の心を乱すところから、修行の妨げになると考えられて、酒と五葷は持ち込んではいけないとされている。

山門前に身丈1.5mほどの金剛力士像が迎えてくれる。寺は永禄年間(1958~70)の創建、室町時代である。
境内には六地蔵や七福神など石仏などいろいろとある。9:40

小山郵便局前~常磐・上宿
歩いてきた脇道は小山郵便局あたりで、町田街道と合流する。
街道の右手に石仏が沢山集っており、中村地蔵尊がある。1756(宝暦6)年造立である。地蔵尊は13体あり、「明和」、「安永」、「天明」期の銘がある。これらは大飢饉、大洪水、悪疫等の時期と重なり、安寧を願った人々の気持ちが込められている。庚申塔や道祖神の石塔、その他石仏も並んでいる。

店の前の歩道に小山長寿会園芸部の花壇があって綺麗に花が開いている。努力賞を受賞している。10:10
中村不動前の信号機にさしかかる。
中村地蔵に中村不動、現在の地名は小山町になっているが、昔は字中村ではなかったのか、中村があれば上村に下村もと想像がふくらむ。と、思ったら中村町内会マップなるものを探し当て、中村に上中村、中中村、下中村があるようで中村自体が大きな集落のようだ。
予定はなかったが、信号機の名にある中村不動を探しに左手山側に向かう。祀るものは大体小高い場所が定まりだと思い左手の小高い丘側を進む。
路地が1本道を交差して急に細くなる。進んで行くと参道らしき道の右手に馬□菩薩の石柱があって、石段を上ると社を見つける。社名は書いていないが、おそらくこれが中村不動なのだろう。先ほどの町内会マップにも記されてはいない。ということでこのお不動さまのいわれは不明である。でも、様々なところを歩いていて、お不動さんの祠を多く見かける。お不動さんは広く庶民に信仰されていたようだ。

下馬場(しもばんば)信号の先、右手にわずかの区間、旧道がある。
竹藪と木々が生い茂った景色を見てカメラに写す。これまで殆どが住宅街と車が頻繁に通るところを歩いていたのでこんな景色でさえがアクセントになっている。

町田街道をしばらく進み、常盤バス停手前から又右斜めに旧道が続いている。中常磐で町田街道と合流して、常磐駐在所北信号に着く。10:50
信号機左手に稲荷社が祀られている。箭幹(やがら)八幡宮のお札が貼られている。屋敷稲荷の延長程度の規模で社名は見当たらない。信号を右手へ曲って町田街道をそのまま進むと、両側に桜美林大学キャンパスが広がっている。右側の桜美林の桜寮の先を曲がる。4階建の外層がレンガ造りの洒落た建物である。裏が野球場になっていてゲームをやっているようで選手の名前が放送されている。
左側が次の目的地、箭幹八幡宮である。脇から入っていくと武官姿の随身像を安置した随身門が待ち受ける。
八幡宮は616(推古24)年勅令によって勧請されたとある。また、1062(康平5)年に源義家が先勝を祈願したとの伝承である。 現存する本殿および随身門は1720(享保5)年の建造というから、江戸時代中期の建物ということだ。 神仏習合の産物、鐘楼が残っている。

町田街道に戻り、上宿バス停まで進む。

上宿~滝の沢
上宿バス停から一時町田街道と別れ、右折して行くと大きく弧を描くように旧道が延びる。木曽宿である。この区間は最も良く浜街道の道筋を残しているといわれ、道幅約6m、明治初期の集落はおよそ600mの長さであったという。大きな屋敷が多く、蔵もある。

しばらく歩いていくと右手に秋葉神社がある。1685(貞亨2)年遠州秋葉山三尺坊より勧請したという。樹齢400年余の欅がある。
秋葉神社の隣には、もと木曽宿の入口にあった上の地蔵が祀られている。神社の隣に福昌寺の山門が建ち、奥に境内が広がっている。家康の遺骸が駿河久能山から日光へ移送された折り、休息所となった歴史を持つ寺である。。境内には入れなかったが、ここには樹齢400年のイチョウがある。
  
わずかに旧道のたたずまいを感じる道をさらに進むと、やがて変則の四つ辻へ出る。正面は覚園坊、その前に左折して伝重寺に行く。町田街道沿いにある。12:05
左隣の金毘羅社がああるが、もとは境内にあった社である。

先ほどの変則の四つ辻まで一方通行の道をもどる。
覚円坊(木曽観音堂・武相観音第33番札所・木曽町1502)は、木曽の観音「矢拾観音・矢受観音」と呼ばれ1351(観応2)年、当地に移設されて以来親しまれてきた。鉄の柵の中に道祖神も祀られている。

覚園坊から出て、この先は?と考える。道路標示を見るとここで大きく曲がっている。それで道なりに進むと右手に木曽一里塚跡がある。これで正解と思った。
徳川家康が二代将軍秀忠に命じて江戸日本橋を基点に、東海道、東山道、北陸道に一里塚を築かせ全国に普及させた。一里塚は旅行者の目印として一里(およそ4km)の間隔で道の両側に築かれた塚で、木陰で休憩が取れるように、榎や松が植えられた。
その先を行く。農家風の家が続いている。そのうち広い道路に出た。頭の順路の中でこんな広い道あったっけと疑問符がつく。旧道は弓状にまがっているが、曲が少々大きすぎるのではという思いになった。暫くはと進んでいくと境川に差し掛かった。しかもその先は上り道になっていて雑木林まで現れた。迷子である。
地図を見て、境川沿いを歩き境川住宅という大きな団地の脇を抜け。町田街道の木曽中原交差点にと向かうこととした。実に長方形四辺のうちの三辺を歩いたことになった。帰宅して何処でで誤ったのか調べてみると覚園坊前であった。お蔭で予定していた覚園坊先の木曽宿下の地蔵は、Googleの画像で拝むこととなった。
ただ、道を間違えたことで木曽中原交差点南西のド根性つつじを見ることが出来たことが、ムダ足での救いだ。

木曽中原交差点から町田街道を滝の沢に向かう。
すぐ先で斜め右に入る旧道っぽい道を進む。すぐに本道と合流する。
滝の沢信号で現在の町田街道は左右ふたつに分れるが、右へ行く。左手に「応急給水拠点」の看板が見える。東京都水道局の滝の沢浄水所である。災害時の給水所であるが、横浜市はこんな看板掛かった給水所あるのかなって疑問に思って調べると近くの学校に災害用給水地下タンクが備えてあった。不勉強である。でもそんな看板はないよネ。
森野差点で交差する左右の道は鎌倉街道。右折をして小田急町田駅方向へ進んでいく。段々賑やかになってきて、小田急線の踏切に出る。
 
町田駅~町田南駅
小田急線を渡る。線路を渡ると駅前の広場に1983(昭和58)年、絹乃道の石碑がたっている。両側面には「此の方よこはま」、「此の方はちおゝじ」と刻まれ、裏面に「原町田誕生四百年記念」とある。

横浜開港により一躍脚光を浴びるようになった絹の道。横浜開港以前はここ原町田から長津田-十日市場-中山-本郷-岸根-篠原―六角橋―神奈川と結び、神奈川宿から生活物資などを運ぶ道として大いに使われた。神奈川宿から八王子への道は「八王子道」と、逆に、八王子から来る場合は「神奈川道」とか「神奈川往還」と呼ばれていて、生糸もこのルートで運ばれていた。しかし、開港の翌年幕府は江戸の問屋を守るために、生糸を含む五品目の貿易統制令「五品目江戸廻送令」発行した。しかし、生糸商人たちはその対抗として八王子-原町田-芝生-横浜港という港への直行ルートを運送手段にとった。それが、この先歩く芝生へのルートであって、鉄道が開通するまでの「絹の道」として続いた。
小田急駅前の商店街を進んで行く。GWの休日とあって人通りが非常に多い。その雑踏の中を超ミニの制服を着た4人の女性がキャリーバックを引きながら歩いている。キャリーバックをみると店名新装開店などと書かれている。こんな宣伝方法もあるのだなと感心する。渋谷を歩いていると大型の車数台で宣伝をしているケースを見かけるが、町田はそれの超ミニ版だネ。

原町田中央通りの信号機を渡るとすぐ左に浄運寺がある。14:00
入口を入ると、すぐ左手に原町田七福神と書かれた赤い幟旗を両脇にして毘沙門天の石像がたっている。境内に入ると、本殿左脇に「野盗塚(武藤塚)」がある。武藤家が名主だった頃、夜盗の武士団に入られ、村人達が協力して倒した。その夜盗らを供養した塚で、以前は中町一丁目にあったという。その隣には、自由民権運動で殺害された医師とその右隣には、新撰組の隊士が弟子にいたという神道無念流剣士の墓がある。

さらに進んで行くと左手の町田市商工会館の前に、「原町田七福神」の福禄寿の石像がある。その右隣には「二・六の市」の碑がたっている。この碑は、原町田商店街の発祥が解説されていて、もとは一村であった町田郷から原町田村が独立した。のちに1587(天正15)年にそれまでの市を分けて「二の市」が原町田、「七の市」が本町田が開設したことがはじまりといわれている。原町田の“市”は、炭・薪・蚕糸・畑作物のほか、衣料や農具など多くの物産を取り扱い、文政・天保年間(1818~1843)には「二・六の市」となって月に6回も開かれるようになった。横浜が開港すると、原町田は繭や生糸を運ぶ「絹の道」の中継地として、各地から生糸商人が集まり"市"の規模も大きくなったとのことで、この「二・六の市」こそが今日の原町田商店街発展の礎を築いたといえるとのこと。

さらに進み、51号で交差すると左折して勝楽寺に行く。14:15
ここには「原町田七福神」の寿老人の石像がある。
この寺は、山門と本堂以外はリニューアルされ、納骨堂のビルも建っていて、新旧の建物や境内が美しくマッチしている。

勝楽寺からは歩いてきた町田街道旧道を交差して、JR横浜線に沿った道を進んだのち、JRを跨ぐ歩行者専用の跨線橋を渡り町田天満宮に参る。
ここには「原町田七福神」の恵比寿神の石像がある。これで、「原町田七福神」のうち4神にお詣りしたことになる。「原町田七福神」はほかに、町田駅前広場の大黒天、母智丘神社の弁財天、宗保院の布袋尊がある。


原町田とはこのあたりから、成瀬街道が分岐する三塚(さつか)辺りまでを指し、明治初期には原町田村といって、浜街道沿いの集落としてはこの辺り最大のものであった。昔はJRの駅が原町田といっていた。
先ほどの跨線橋を渡り、三塚の交差点へ。14:40
三塚から町田街道を横浜方面に。ここからは長い距離、史跡がないので黙々と歩くのみである。

東急田園都市線をまたいでいる小鶴橋で本日は終了。15:30
時間的にはまだ余裕があるが、帰宅ルートの最寄り駅の関係でここで止めた。
右折して16号を渡り町田南駅で田園都市線に乗り帰る。
町田南駅は、南側はモールが出来て開けているのに、北側は未だに鉄線が張られている未開の土地である。駅が開業して久しいというのに。目の前の16号が高架になるのを待っているのだろうか。

参考にした先人の「絹の道を歩く」の1日分をようやく終えた。あと2日かかることだろう。 
その日の夕刊に三越と藤岡(群馬県南西部の都市)とが絹取引が縁で233年前に三越(三井越後屋)が贈った神輿が日本橋を練り歩くという。「絹の道」を歩いた日に、滅多に話題とならない絹が関係するニュースが社会面に出るとは、偶然



                 関連 : 「絹の道」浜街道を歩く 1日目  
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 3日目 
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 4日目(西谷~芝生の追分)  
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 4日目(芝生の追分~象の鼻)


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