あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

除夜の鐘

2016-12-30 14:52:02 | その他
除夜の鐘をつく理由は諸説あるが仏教では、人の心にある煩悩を祓うためと云われている。それは人には百八つの煩悩があるり、その煩悩を祓うために除夜の鐘は108回撞くとされているそうだ。
煩悩とは、人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心のはたらきのことを云い、心の乱れ・汚れを指し、代表的な煩悩には、精神的や肉体的な欲望、怒り、執着、猜疑などがあり、それを細かく説明をするサイトも見受ける。
煩悩を祓うには、修行を積んだ者しかできないとされるが、除夜の鐘には一般の我々に於いても心の乱れや汚れを祓う力があるという信仰が今日まで伝わり、除夜の鐘の儀式となって続いているようだ。それで、普通の日ではなく、除夜、つまり大晦日に鐘を撞くのだが、我々凡人はそれを知らずに昔からの風習と云うことで撞いていると思う。なお、除夜とは、除日(じょじつ)の夜のことを指し、「除」には、古いものを捨てて新しいものに移るという意味がある。
つまりは除日とは、一年の最後の日ということで、大晦日を指していると書かれている。
除夜の鐘を108つ撞く寺院では、107つを旧年に、最後の108つ目を新年に撞くと云う。そうではなく、一般信者に数は関係なく鐘撞きができる寺院も見ける。
ここ、横浜市旭区の浄性院も後者で、わが家族も撞いたこともある。





江戸時代初期、徳川家康から当地を拝領し治めていたのは、平安時代の武将・源頼光四天王のひとりで京都の一条戻り橋に於いて鬼の腕を切り落としたとされる渡邊綱を先祖とする渡辺家が浄性院を再興した。

渡辺家の墓

正式名は「源圓山 浄性院 長安寺」であり、これは寺を再興した渡辺富次の法名、浄性院殿源譽月法道圓大居士からの由来とされる。
また本尊の阿弥陀三尊は、大本山光明寺第42世直蓮社玄譽無上人が1674(延宝2)年に総本山知恩院38世になった後、富次の逝去と重なって知恩院より下付されたもので、350年近くの古い仏像である。
また、梵鐘は区内で最も古く、1788(天明8)年、物部氏の作といわれる。

浄性院の梵鐘

浄性院の梵鐘には、1590(天正18)年8月、徳川家康が「関八州を保有した翌年、武蔵国二又川の地を分けて、渡辺孫三郎源勝(みなもとのかつ)に与えた。」と記されている。
また、鐘の鋳造しているころの世状で、1783(天明3)年7月に浅間山の大爆発があり、鐘銘には苦しかった当時の様子を伝えている。
「この年浅間山の災いがあった。これ以来不作の年は続き、武士も農民も悉く困り果てた。富める者にして施しを好む者も、近隣をはばかり寄進しなくなった。とりわけ、貧しくしても仏の道を信ずるものが、毎日の米塩にこと欠く有様となった。貧者らは、上人に対し、喜捨ができないことを嘆いた。しかし、上人は、『古えより能(よ)くなる年もあれば成らぬ年もある。天が我をして任ずることが出来なければ、必ずや後に続くものが生まれる。わたしは此の事を信ずるが故に、一時の困窮に志を曲げることができない』といい放ち」さらに続けたとある。1786(天明6)年十代将軍家治が没した年、宮仕えの者が上人に喜捨したという。そして、不況つづきだった作物は、7年に入ってやっと実るようになり、村々は生きかえり仕事に精を出したという。
梵鐘は1788(天明8)年4月8日に完成した。
浅間山の噴火では、火山灰が関東・甲信越に降り注ぎ、浅間山を中心に死者は2万人を越えた。作物は降灰のため枯死し、空を覆う噴煙は陽光をさえぎった。上州・信州では救米を叫び農民騒動が起きている(資料:旭区の郷土史より)。

天明8年4月や武州都築郡二股川村の銘が読める


昭和39年頃までの本堂

日本の三大梵鐘と梵鐘をランク付けするが、それは京都の知恩院、方広寺と奈良の東大寺。この夏、その東大寺を訪れたが、あまりのデカサに驚いた。

東大寺の梵鐘 下のカップルと比較すると・・・

最近は寺院が住宅地に囲まれているため除夜の鐘撞きが中止になったとか、除夜ではなく徐日に撞く寺院も出てきている。信仰からは外れるが、古くから伝えれている日本の文化が消えてしまうことは寂しいことである。
NHKの「ゆく年くる年」で鐘の音を聞くだけになってしまうのだろうか。その「行く年くる年」の番組でその年訪れた寺院が紹介されると本当に一年の締めくくりと感じるのは私ひとりだろうか。残念ながらその偶然は、これまで2回程だったのだが、今年はどうかな?。

我が家では、遠く鐘の音が聞こえ新年を迎える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬至に高尾山山頂で

2016-12-26 15:48:26 | 観光
毎年冬至の高尾山山頂は太陽と富士山が彩なすダイヤモンドショー「ダイヤモンド富士」が現れる日である。
ダイヤモンド富士に関心を持ったのは5年前で、江の島弁天橋でそのショーを待ちうけたことが始まりである。その時は沈む30分ほど前に一気に黒雲が富士を覆い隠し、期待が一瞬に消えてしまった。
それからは地元で見ようと調べスーパーの屋上にたったこともあるが、いかんせん地元では年2回のチャンスは季節の変わり目で晴れることもままならず「ダイヤモンド富士」は見られぬ5年が過ぎた。
では、見る確率が高い冬は何処で?と探した場所が高尾山であった。
その確率高い高尾山の当日の天気は、「晴れのち曇りで翌日は雨」と云う週刊予報であった。そこで今年はパスするつもりであった。
そうであったのだが、当日の昼前の天気予報で「今日は穏やかに晴れるでしょう。」と放送したものだから、急遽支度をして高尾山に向かった。




山頂まで徒歩では間に合わないと、初めてのケーブル登山となった。
ケーブルの中間から高尾山駅近くは日本一急勾配の31.8度を体験。前向きに座っていたが、背中に重荷重を感じる。


高尾山薬王院の参道を進み、108段の男坂を上がると、最近つくられた新しいルート、「三密の道」がある。人間の日常生活では、身体・言葉・心の3つの働きから成り立っている。これこそが煩悩の元になるものなので、煩悩を消すことを念じてこの道を歩けと解説されている。

日没20分ほどの前の景色。太陽は丹沢蛭ヶ岳の間にボヤケテ見えている。
これでは、と思った。

それでも太陽は左から傾斜して富士山頂へと下がって行く。

太陽が山頂に降りはじめると、近くで、
   「今、入り始めた。」
     「今、半分。」
       「今、四分の三。」
         「完全に入った。」
           「今年はこれで終わり!」
                       なんて、解説があった。
残念ながら、薄い雲のフィルターを通しての輝きで、せめて一条か、二条の光が前面に差し込んで欲しかった。
光がほし~い。


登山者と云うより、観衆が見守る中、太陽は沈んだ。
 

太陽が沈み始めたころから、後ろでスピーカーからの声が聞こえてきてはいたが、何の放送か耳を傾けていなかった。帰る時になってミニパトが泊まっていたことを知る。
599mの低い山ながら山頂は山頂であるから、山頂でも車がはいるんだ。
帰りもケーブルカー。この混み具合だと1本待つかなと思ったが、最後のひとりで乗れる。ダイヤモンド富士の期間、9日間は時間を延長して輸送している。


ダイヤモンド富士が望めるのは年に2回あるはずなのに、高尾山だけは1回、しかし他の地域は1日か2日きり見えないのに、ここでは9日間も見えることが今回解った。方角的にここが折り返しなのか。
それで17日のダイヤモンド富士は見事であったことをネットで知る。
次があるか、来年考えよう。

訪れた日:2016.12.21

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横浜港防衛の台場跡を歩く

2016-12-08 14:56:51 | 横浜歴史散策
台場(お台場)と云うと品川の台場と認識するが、神奈川宿近くにも存在したことはあまり知られていない。台場が建築されるまでを鎖国の開始からその歴史を考える。

1624年 南蛮(スペイン)船入港禁止
1637年 島原の乱
1639年 南蛮(ポルトガル)船入港禁止

       徳川幕府は禁教政策の徹底と植民地政策をとる諸外国と断行し、200年近くの長い眠り
       につく「鎖国」の時代に入る。
1804年 ロシア国ニコライ来航 通商の要求
1808年 英国長崎港侵入

       19世紀に入ると諸外国の船舶が航行し、尚且つ通商・開港の要求を迫り世情があわただ
       しくなる。
1811年 浦賀・灯明堂、平根山台場設置
1812年 富津台場設置

       全国で100~200もの台場や見張所が大名各藩に設けられ、江戸湾の防衛も開始され
       る。ただし、当時の和製大砲の威力はお粗末なもので三浦、房総の両岸から撃ったとして
       も届かず、楽に航行出来たようだ。
1825年 異国船打払令 
       海外の出来事が日本にも影響した事件に伴って徳川幕府から発令された法である。
       18世紀末、フランス革命戦争が勃発し、オランダ国はフランスに占領される。オランダ国
       王はイギリスに亡命した。当時アジアの制海権はイギリスが握っており、オランダ船を拿捕
       する目的で長崎港内にイギリス海軍がオランダ国旗を掲げて入港してきた。一時はオラン
       ダ人が拿捕されることもあった。これを侵入したイギリス海軍の船名からフェートン号事件
       といわれる。
       結果的には日本側の被害はなかったが、長崎奉行の焼き打ち命令に対し、警備担当の鍋
       島藩は対抗する力はなく手薄な兵力を露呈した。
       その後もイギリス船が出没したため異国船打払令を出し、日本沿岸に接近する外国船を
       見つけ次第発砲、追い返した。
1840年 アヘン戦争
1842年 薪水(しんすい)給与令
1847年 猿島台場
1853年 ペリー来航
1854年 品川台場
       徳川幕府は強国と信じていた清国がアヘン戦争で敗れたことでこれまでの大平の眠りから
       覚め、攘夷派と開国派に分れ歴史は進んで行く。
       当面、薪水給与令によって幕府は諸外国船に対し穏便に済ます対応措置を取った。この
       法令が後の開港への布石となる。
       一方で江戸湾警備のため猿島に台場を設けた。のちに猿島は終戦まで帝都防衛のため
       の要塞化が進む。
       ペリーの最初の来航は琉球王国、小笠原諸島を経て浦賀沖に現れる。4隻の艦隊はこれ
       までの帆船の外国船と違い黒煙を上げた蒸気機関でも航行する黒塗りの船(うち2隻)であ
       って、見物に来た町民はそれを黒船と呼んだ。大砲は合わせて73門。
       この時ペリーは浦賀から20マイル(32km)北上、アメリカ大統領の開国親書を幕府に渡し
       1年後に再来航すると引き上げた。10日間の滞在であった。
       世情益々不安となり、幕府は品川に台場を設置することを代官・江川太郎左衛門に命じ
       た。
       江川家は代々太郎左衛門を名乗った。伊豆の韮山に本拠を置き、豊臣秀吉が小田原北
       条氏征伐の折り家康に寝返り、明治維新まで駿河、甲斐、相模、武蔵の天領最大で26万
       石の代官として治めた家系である。この時代の太郎左衛門は、西洋の沿岸防衛の知識を
       得て、反射炉を築き、洋式の台場を品川に築いた。そのためペリーの二度目の来航の際
       は江戸湾奥深く入れずに横浜に上陸したと云う。
1858年 日米修好条約締結
1858年 浦賀・宮津台場廃止
1859年 横浜港開港
1859年 桜田門外の変
1860年 神奈川台場
       日米修好条約が締結されたことのよって、江戸湾防衛の台場が不要となった。翌年横浜・
       神戸・箱館が開港し、神奈川台場の建設が始まった。
1868年 明治元年

          
当時、横浜・芝生(しぼう)村から川崎にかけて警備を担当していた松山藩は新町(現子安付近)に新町台場を築いたが、藩主がその規模では物足らなかったのか、改めて神奈川宿の猟師町に台場を築くことを幕府に申請した(幕府が命じたと云う説も)。
          
神奈川台場の形状は西洋の城や要塞に用いた稜堡(りょうほ)形式で5段積み。この形式は五稜郭の星型が有名で、外に向かって突き出した角のような形状をしている。設計者は、なんと幕末の事柄になると必ず顔を出すあの勝海舟(1823~99)。蘭学、兵学に優れており、オランダの書物を参考に設計したと云う。工事請負は幕末から維新にかけて活躍し、品川台場にも関与した江戸の平野弥十郎(1823~89)。北海道開拓にも貢献しており、弥十郎の名は北海道時代で、その前は弥市と名乗っていた。この人、タレントの中川翔子さんの祖先でもある(NHKファミリーヒストリー)。
費用はおよそ6万700両で、これは松山藩の1年分の予算に当たると云う。台場の西側の権現山を削り埋めたてして、伊豆や真鶴の安山岩などの堅石を切り出し、船で運搬してきた。
台場は延27万人の作業員でわずか1年足らずで完成した。
砲台の向きが横浜港に向いており、江戸湾警備と云うよりも横浜港に付随する施設の世である。但し、威力は横浜港までとどかない大砲のようであった。幸い、軍事には使用されず、祝砲、礼砲に用いられた。1873年の岩倉使節団が横浜港から出港する際にも祝砲を放ったと云われる。
その台場も1899年、横浜居留地の廃止と共に台場も閉鎖され、1921年頃から埋め立てが始まり、貨物線の線路が敷線され、現在はJR貨物の東高島駅となっている。

台場跡を歩く

 諏訪社の跡に会館が建つ


                                       西取渡り道がそのまま路地として残る
                                       突き当たりに石垣の一部と石碑が建つ
 花壇の土留めに石垣が






 石垣を金属で止めた穴

 船溜りの一部が残る

 
                                 船溜りの水路と西渡り道部分の公園・台場公園
台場の殆どが東高島駅敷地

 東高島駅は貨物線

赤矢印の先に石垣が展示
2012年マンション・ヒストリアレジデンスヒストリア海舟の工事現場から台場の石垣が発掘され一部が保存されている。マンションの一画に資料室が開港資料館の協力のもと設けられているが、開設期間はわずかで現在は閉鎖されている。
 上赤矢印の展示の石垣

 星野公園の碑

 宗興寺 
台場公園から徒歩4分の宗興寺に招魂之碑が建つ。宗興寺と云うと、江戸時代末期の横浜開港時にはヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士が、当寺に施療所と開いていたといいます。
  招魂之碑 
                              石碑左には「為神奈川砲臺死者建之」と刻まれている

1885年に建立された砲台死者慰霊のための招魂之碑には39名の名が刻まれている。中尉から二等兵のであるが、当時の砲台の隊員と思われるが、ひとりだけ異質の人物が刻まれている。砲台用達商人の小野籐八で、現在は閉めたが国道1号線沿いに建つオノトー薬局の先祖である。
 オノトー薬局
品川台場は第三と第六がそのままの形を留めており遺跡として保存されている。それに比べ同じ時代の台場でありながらそのほとんどが埋もれたままになっており、再開発によってタワーマンションが建つ計画もあるようだ。消えゆく歴史の証言遺跡となってしまうのか。


開港横浜之全図


明治30年代の神奈川台場


訪れた日:2016.11.26
2016.12.19
>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする