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歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

戦争遺産「登戸研究所」を見学する

2020-03-13 14:02:05 | 歴史散策
登戸研究所では、欧米の秘密戦技術を参考にしながら、当初は電波兵器を中心に開発を進めていたが、戦争が拡大する中で、偽札・風船爆弾・生物兵器などの多様な秘密兵器の開発に力を入れた。
戦争の拡大につれて登戸研究所も拡大され、1944 年には建物約100 棟、人員約1,000名に達したと推定されている。
正式名称は第九陸軍技術研究所であったが、外部に研究・開発内容を知られぬために「登戸研究所」と秘匿名で呼んでいた。
研究所は第一科~第四科に分かれていた。





現在、研究所資料館になっている建物は、鉄筋コンクリート造りの当時、生物兵器研究棟であり、第二科が細菌・ウイルスなど生物・化学兵器の研究開発で使用してをしていた。
大学の所有となってから2009年までは、「36号棟」と命名され、農学部の教育施設として利用された。

それを改装して2010(平成22)年3月から現在の資料館になった。


第一科・電波兵器、風船爆弾の開発
風船爆弾は和紙とコンニャク糊で作った気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカ本土を攻撃した兵器で、当初は関東軍、陸軍によって対ソ連の宣伝ビラ配布用として研究されたが、小型の気球爆弾は、ジェット気流を利用し、気球に爆弾を乗せ、日本本土から直接アメリカ本土空襲を行うものとなった。
気球の直径は約10m、総重量は200kgとかなり重いものであった。装備は15kg爆弾1発と5kg焼夷弾2発である。ジェット気流で安定的に米国本土に送るためには夜間の温度低下によって気球が落ちるのを防止するため、気圧計とバラスト投下装置が連動する装置を開発し搭載した。
爆弾を2発搭載したものや焼夷弾の性能を上げたものも発射した。


気球はおよそ9300発を放ち、うちアメリカ本土に到達したのは1000発前後と推定されるが、大きな被害はなかったようだ。
しかし、心理的効果は大きく、日本兵が風船に乗ってアメリカ本土に潜入するという懸念もあった。
また、731部隊が開発した炭疽菌、ペスト等の搭載が検討もされ、アメリカ側も恐れていたが、細菌戦は実現しなかった。理由としては、風船爆弾が飛ぶ上空10,000mでは、気温零下50℃で、こういった環境下で、細菌類は耐えられないからであった。
コンニャク糊を使用したことでコンニャク芋が軍需品となり戦時中は食卓から姿を消した。

第二科・生物兵器、スパイ道具

登戸研究所の中でも第二科は、暗殺用毒物、各種薬物、穀物を枯死させる生物兵器(昆虫・線虫・カビ・細菌)、家畜を殺傷する生物兵器(細菌・ウィルス)、スパイ用兵器(時限爆弾・放火兵器・犬迷い剤・小型カメラ・特殊インク・変装用具等)などを開発した。
暗殺用毒物「青酸ニトリール」の開発のためには、中国において人体実験まで行ったこともあり、第二科の活動については、戦後40年以上、語られることなく、その実態は秘匿されてきた。
この青酸ニトリルは、戦後1948(昭和23) 年の「帝銀事件」での使用が今日でも疑われているとのことだ。


第三科・偽札製造
参謀本部は偽札をばらまいて中国経済を混乱させて,中国の抗戦力を減殺しようと考えた。
1941(昭和16)年12月、日本軍が香港を占領した際に法幣印刷工場から、本物の法幣の原版・印刷機などを接収した。(法幣とは政府の信用で流通するお金。)
中国の法幣は、アメリカやイギリス領の工場で製造・印刷されていて、高い技術が必要なため偽造が不可能であったが本物の原版が入手したことで、中国法幣の大量製造が可能となった。
印刷は、国内民間の高度な印刷技術者を総動員して、この登戸研究所の五号棟で行った。その建物も現在はなく、空き地となっている。
偽札は、1ヶ月に1~2億圓(元)が印刷・出荷され、総額40億圓(元)が印刷され、中国の上海に輸送された。
当時の法幣1圓(元)はほぼ日本円1円なので、日本円でもほぼ40億円に相当し、当時の日本の国家予算が200億円という時代では、国家予算の1/5ほどの偽札を製造したこととなる。
その偽札をばらまく実行部隊は、ダミー商社数社で、様々な物資を購入して偽札を拡散した。
併し、これだけの額を中国市場にばらまいても、日本軍の目的であったインフレは発生しなかったという。当時の中国市場も今同様でかかった。


明大キャンパスに残る戦争遺産
動物慰霊碑
生田キャンパス正門の守衛所裏手に鎮座。動物慰霊碑としては国内最大級。
1943(昭和18)年、研究で用いられた実験動物の霊を慰めるために登戸研究所が建立。台座を含め、高さ約3m、幅約95cm、奥行約15cmの大きさは動物慰霊碑としては国内最大級である。
裏面には「陸軍登戸研究所」の文字が刻まれている。

消火栓
生田キャンパス内に2つ残されている。日本陸軍の☆マーク、五芒星が刻まれる消火栓。
 

倉庫跡
資料館の裏手にある建物で、通称「弾薬庫」と呼ばれているが詳細な用途は不明。
外観は台形だが、内部は奥行約3.2m、間口約2.7mの長方形をしており、天井までの高さは約3m。

弾薬庫跡
第一校舎1号館の裏手に草に覆われた建物。
登戸研究所時代に設置された建築物で、通称「弾薬庫」と呼ばれるが詳細な用途は不明。
明治大学となってからは、一時、花卉園芸部が部室として使用していたこともあり、「花卉園芸同好会」と表記が残る。
資料館裏手の倉庫跡より内部は広く、入り口すぐの前室と奥の広い部屋の二間に分かれているという。

弥心(やごころ)神社
もとは登戸研究所が1943(昭和18)年に建立した神社で、研究(知恵)の神様である「八意思兼神」を祀る「弥心神社」と呼ばれていた。現在は生田神社と呼ばれる。

境内向かって右手には、元所員有志により建てられた「登戸研究所跡碑」が立っている。

以前から見学したい施設であったが、なかなかその機会がなかったのだが、『新校舎建設に伴い、撤去される可能性が浮上している。』という新聞報道を見て足を運ぶことが出来た。




訪れた日:2020.01.30

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横須賀製鉄所見学ツアーに参加して

2019-11-19 14:17:27 | 歴史散策

現在の米海軍横須賀基地周辺には、明治になる3年前、1865(慶応元)年に建設が始まった横須賀製鉄所という造船施設があり、同年11月15日に造船技術者であるフランス人のヴェルニーと徳川幕府の小栗上野介による鍬入れの竣工式が行われた。
現在でもその功績を称え、その日に合わせた日程で「ヴェルニー・小栗」祭式典が行われ、横須賀製鉄所のドッグの見学ツアーが行われる。



     👆3号ドッグ                👆2号ドッグ                   👆1号ドッグ
このドッグは現在でも使用されている。

配られた資料からであるが、上の写真は明治初期の横須賀製鉄所全景。
下は1881(明治14)年製、横須賀製鉄所の絵図である。この絵図に似たものが旅館のお土産として横須賀を訪れた旅人に配られたそうである。


船舶修理施設「米海軍横須賀基地艦船修理廠」(略称SRF-JRMC)

米海軍横須賀基地内の「艦船修理廠及び日本地区造修統括本部」という組織。
米海軍第七艦隊の艦船修理、改造工事、ドック内や海上での工事や緊急修理などを行っている。設立は1947年4月、従業員は佐世保も含め2,588人。


1号ドッグ
1871(明治4)年完成、全長137m。



2号ドッグ
1884(明治17)年完成、全長151m。





1、3号ドックは艦船が止まっていたので撮影が不可、唯一2号ドックのみが内部の撮影が許された。

3号ドッグ
1874(明治7)年完成、全長96m。

見学ドックは3号までであるが、ドッグは全部で6つあり、4号以降は艦船の大型化の流れで規模が大きくなっている。
4号ドッグ 1901(明治38)年、全長240m
5号ドッグ 1916(大正6)年、全長324m
6号ドッグ 1935(昭和10)年、全長366m
6号ドッグでは、戦艦・大和、武蔵に次ぐ第3の戦艦製造の予定であったが、1942(昭和17)年のミッドウェー海戦で敗北し、多くの空母を失ったことであり、空母・信濃が建造された。しかしその信濃は、呉海軍工廠へ回送される途中、米海軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、戦う前に沈没した。
現在、6号ドッグは大型ドッグと云うことで原子力航空母艦・ロナルド・レーガンの整備に使用されている。

下士官クラブ
旧横須賀工廠時代の昭和初期の建物。
現在は米海軍のCPO(Chief Petty officer:下士官)クラブとして利用されている。


イオンゲート
以前は「ダイエーゲート」と云われていた。京急・汐入が徒歩8分で最寄り駅である。今回の見学ツアーの出入に使用した。




どぶ板通り





どぶ板通りに喫茶店「まどか」は数年前までは存在していたが、時代の流れで今はなくなっていた。


訪れた日:2019.11.16
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座間市芹沢公園の地下壕

2019-01-26 11:51:20 | 歴史散策

第二次世界大戦末期の昭和19(1944)年、この地芹沢公園は高座海軍工廠の一部であった。
空襲の激しさが日々増す中で地下壕がこの段丘につくられた。
ここで製造する迎撃戦闘機「雷電」の部品や書類を保管するためのものだった。
戦後地下壕は埋められたが、このほどその一部が整備され、日中は照明が点灯し、外部からではあるが見学が出来ることとなった。



地下壕堀の作業は、主に朝鮮の若者によってツルハシ等の道具で手彫りであった。爆風の衝撃を緩和させるため見事な「あみだくじ」の形に掘られており、縦横3.5m前後、長さ1.5kmに及んでいる。

下図は地下壕の平面図で、この図を作成された方によると
印2つが今回整備して公開した地下壕で、従来から公開している地下壕はこの図にはなく、この図の下に位置する。』
とのことである。


地下壕内部には、高座海軍工廠でつくられていた迎撃戦闘機「雷電」の模型が展示されている。

地下壕は25mの等間隔で配置されていたようで、埋められたトンネルの位置がそこから想像できる。

公園の丘の上には、高座海軍工廠の主力として働いていた元台湾少年工来日75年の記念碑と少年工が働いていた海軍工廠、生活していた宿舎の位置が表示された立札が置かれている。
この10月に来日した際に除幕式が行われた。



     高座海軍工廠                         台湾少年工寄宿舎

働きながら上級学校の卒業資格が取得できると云う募集条件で、12~19歳の若者を現地、台湾で数回に分け試験をして日本に呼んだ。
当時の台湾の主要な仕事は全て日本人が占めており、おのずと就職先を日本に選択せざるを得なく、8,400余名が高座海軍工廠をはじめとする軍事工場で働いた。

現在の相鉄線さがみ野駅前に30万坪(100ha)の広大な高座海軍工廠が存在していた。完成していれば3万人の工員が年間6,000機の戦闘機を生産する当時としては国内最大規模の工場となるはずであった。

この高座海軍工廠には学徒動員で、東京帝国大学法学部の学生であった三島由紀夫氏が入廠していた。
彼は、自伝小説「仮面の告白」で当時を振り返り、
「工場を疎開するための大きな横穴壕を、台湾人の少年工たちと一緒に掘るのであった。この十二三歳の小悪魔どもとは私にとってこの上ない友だった」と記している。
彼は入廠数ヶ月前に本来は軍隊に軍に入隊するはずであったが、入隊時の身体検査ではねられ免除されている。はねられた原因は、たまたまひどい風邪をひいていたことと、軍医の誤診であったようだった。入隊予定の部隊はフィリピン戦線に赴いており、アメリカ軍の市民を含む無差別攻撃による壊滅的な被害があった戦闘地域であったので、彼が入隊していたら現在読まれている三島文学は、世に生まれていなかったかも知れない。

また、後の「フジヤマのトビウオ」の異名を取った古橋広之進氏も勤労動員されていた。彼は工場の近くに住みこんで開墾とサツマイモづくりに従事していた。
彼の自伝(古橋広之進力泳30年)によると
「つらい思い出だけが残っているが、なかでもいちばん苦しかったのは、やはり食料事情であった。昼の弁当は、ニギリメシ1個と炒った豆。空腹をかかえて宿舎に着けば、待っているものは豆カスとグリーンピース。たまにサツマイモでもあれば、その皮はおろか、尻っぽ先まですべて胃袋に直行してしまう。」と述べている。

ここで働いていた海軍一等工員の日記では、高座海軍工廠での雷電製造はおよそ2年間で、50~60機にすぎなかった。当初の目的は大きく達成していなかった。ズブの年少者に短期間で戦闘機を製造させること自体無理がありやせぬか。ちなみに、ここで完成した1号機のテスト飛行では戦闘機が空中分解したという。

様々な軍需品を製造する海軍工廠は全国各地にこれだけあった。


訪れた日:2018.11.28
11.30
12.15
コメント (1)
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東京湾の要塞・猿島を歩く

2017-07-03 11:43:20 | 歴史散策

鎖国をしていた19世紀中ごろ、江戸幕府は異国船の江戸湾侵入を防ぐために、全国初の大砲を据える台場を猿島に建設した。
以後、明治から昭和にかけてその時代に応じた軍事防衛施設として活躍した。

発電所
蒸気機関による発電所として1895(明治28)年に完成した。
ここでつくられた電気は、建物の裏から切通しを伝わって島の中央部高台にある照明所に送られていた。



兵舎
この部屋は小窓があるので兵舎。
室内はかまぼこ型に造られている。


兵舎には高窓が施されてあり、余裕がある時代の建物と感じる。

第二砲台塁道(露天掘り幹道)


壁にもいたずらに彫られた跡がある。
発電した電気は幹道の壁に埋め込まれた土管内を通って送られている。

トイレ跡
兵舎のはす向かい幹道沿いに設けられている。これもレンガ造り。

弾薬庫1
幹道にはいくつかの部屋が掘られており、兵舎と弾薬庫が交互に並んでいる。窓がない部屋が弾薬庫である。



弾薬庫内部


井戸のような竪穴があり、これを使って弾薬を真上の砲台に運び上げた。
現在のように整備、管理する前に心無い観光客がいたずら書きをした。これも遺産だとそのまま残している。





愛のトンネル
トンネル内は暗いためカップルは自然と手をつないで歩くため「愛のトンネル」と云われていて、それが拡大解釈され、ここでお祈りをすると恋愛運アップや縁結びにご利益があるとなったのでは?







司令室
長さ90mほどのトンネルの壁沿いにも兵舎、弾薬庫、病室や司令室が設けられている。壁はフランス積レンガで化粧されている。代表的なものとしては富岡製糸場で、明治初期の建物に多い。



連絡通路
西側斜面へ上がるための階段。山頂付近にあった司令所や照明所への通路であった。

天空の城ラピュタ
この風景が「天空の城ラピュタ」の廃墟に似ているとの評判で、アニメファンのコスプレイベントが戦艦三笠を含めた会場で催されている。




弾薬庫を利用したトンネル




8cm高角砲砲座跡


スマホやタブレットのアプリを利用すると高射砲が画面に再現され、現代の人物と合体写真が撮れる。

12.5cm高角砲砲座跡



展望台
TVドラマ「仮面ライダー」でショッカーの基地として撮影されたこともある。




今回の猿島巡りはある公共施設が主催したツアーで、事前の座学もあり、現地のガイド説明のほか、横須賀市教育委員会職員の説明付きというこれ以上ないというものであった。
兵舎、弾薬庫内の見学もたっぷりあった。内部写真はフラッシュを使用せず、PCの画像処理を行った。

日本海海戦の記念日まで2日に迫った日に訪れたので、船首に日の丸、船尾には旭日旗、そして連続旗の小旗が全体を飾っていた。今年は112年の記念だそうだ。
日露戦争では、ロシアの太平洋艦隊が東京湾内に入ることも想定して、猿島の要塞を造ったとも聞く。


訪れた日:2017.5.25

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小机城とその支城をめぐる

2016-05-06 16:25:13 | 歴史散策
小机城
小机城(横浜市港北区)は関東官僚上杉氏によって、1438(永享10)年頃築城されたと云われるが定かではない。(室町時代中期)
1478(文明10)年、その小机城は太田道灌によって、落城する。
その後は廃城となったが、この地域が小田原北条氏の勢力下に入ると北条氏綱の手により大規模な改修が施された。城の周囲に現在も残る土塁や空堀、高台の2カ所には本丸と二の丸を配置、城のふもとには城を防御する家臣の居住地区を設けた。
信綱は早雲時代からの家臣笠原越前守信為を「城代」に任じた。以後、笠原家は代々小机城の城代を務める。
1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原攻め、無血開城によって小机城は廃城となった。
笠原氏は、北条氏没落後徳川家康に仕え、都築郡台村(緑区台村町)を知行し、200石の旗本として代々続いた。
また、小机城周辺の領地は徳川氏の領地として、側近の代官が支配し、旧小机城の小机衆は、代官の手代としてそのまま城の周りに住んだ。

小机城は別名「飯田城」とも呼ばれていた。『新編武蔵国風土記稿』によると、「この城は、別名で飯田城ともいうことがある。隣村の下菅田村(現、神奈川区菅田町)に飯田道と称す道路が通じており、小机城址に通ずるので、そのように称されたと住民は言っている。」と記述される。
この飯田道は神奈川宿の中心部飯田町に通じる道である。飯田町は現在の神奈川警察署や成仏寺・熊野神社あたりとされる。
本丸
           

          

二の丸
          
二の丸と呼ばれているが、明確に断言できないそうだ。

井楼
          
井楼(せいろう)とは、敵陣を偵察するために,木材を井桁(いげた)に組み立てた物見やぐらのこと。

櫓台
          

           
「櫓は、矢蔵すなわち兵庫や高櫓井楼(こうろうせいろう・火の見やぐらのこと)と呼ばれる見張り台を云う」と解説されている。

根古屋
           
「城山の根の処(こ)にある屋」、つまり、麓にあった城主の館やその周辺の屋敷地。主に東国で用いられた語で,後に集落の地名となって根古屋、根小屋、猫屋などと書かれる。         

空堀
          
富士仙元
          
「富士仙元大菩薩」の石碑、1861(文久元)年建立で、江戸末期の時代となるので小机城とは関係ないのだろう。富士仙元大菩薩は、木花咲耶姫神のことで、富士講の信者が出城だった位置に、奉ったと思われる。
          
「富士仙元」への道で写す。
下に第三京浜、右上がJR小机駅、左上に日産スタジアム。その日はゲームがあって多くのマリノスファンが押しかけていた。 
竹林
          

          


小机城址は現在「小机市民の森」となっており、その遺構はほぼ原型が残されていると云われるが、第三京浜道路によって分断されている。


支城篠原城
『新編武蔵国風土記稿』によると、「篠原村の古城跡は、村の北方にある。」とされ、鎌倉時代初め、或いは戦国時代に金子氏が築いた城とされ、「現在、見たところによると、わずか4反か5反(約1200~1500坪)ばかりの芝地とし、あるいは断崖の所にあり、空堀の形も残っている。」と記述される。
別名金子城と呼ばれていた。地元の武士と農民が、戦の際の防御・避難目的で築いた平山城である。小机城の支城といわれるが、小田原北條氏の小机城ではなく、戦国時代初期の上杉氏時代の小机城の支城である。但し、金子氏は代々当地に住み、小机城の直轄代官を勤め、江戸初期には篠原村の名主を務め現在に至っているようだ。
城址は、現在住宅地の雑木林で「篠原城址緑地」となっている。


空堀




支城大豆戸城
東急東横線の菊名駅と、JR新横浜駅のちょうど中間地点である港北区大豆戸(まめど)町の八杉神社の裏手はかつて城があったとされる。



『新編武蔵国風土記稿』によると、「大豆戸村の小畑泰久の屋敷跡について:同村の東南にある八王子社(現、八杉神社)の西に続く場所にある。現在は、すべて陸田となっている1反5畝余りの地(およそ450坪)
が、これは本乗寺を創建した小幡伊賀守泰久の居館跡である。(略)泰久の子は勘解由左衛門政勝というが天文の頃(1532~54)の人と言われる。この人もこの館に居住したことになっている。」ということで、小田原北條氏に仕える父子二代の館であった。小机城の東2キロに位置し、その支城として機能していたといわれる。
別名安山城、小幡泰久館とも云われる。
『新編武蔵国風土記稿』には大豆戸村の屋敷跡と書かれおり、城址というよりも屋敷跡に分類する歴史家もいる。
小幡家もまた徳川氏の旗本として代々勤めている。家康は北條氏の多くの家臣を取り立てている。
 
周辺は坂道の続く丘陵地域の住宅地と化して、遺構がないようだ。


支城佐江戸城
都筑区佐江戸町に小机衆のひとり、猿渡氏が佐江戸城を築いた。本丸・西丸などが鶴見川北岸の台地に築かれている。かつては中原街道と、南多摩から神奈川に達する古道の交差する要衝であったという。
戦国時代に扇谷上杉氏と北条氏による覇権争いで、北条氏が撃破しこの地を領有することに成功。小机城を整備し南武蔵の防衛ラインとして幾つかの支城を設けたが、そのひとつとされる。しかし築城年代など詳細は不明である。
、『新編武蔵国風土記稿』に、「塁蹟:平台と云うところは猿渡佐渡守一族の住まいである。ここは山に築造した砦で、今は畑になっているが、西丸などがあった。」と記されている。
塁とは土や石などを積んで作った防御用の土手を巡らした砦を云う。

          
               左:杉山神社                         右:無量寺
 
         佐江戸城は猿渡氏が城の鎮守のために勧請した杉山神社から無量寺の背後にかけての丘が城域

支城茅ヶ崎城
茅ヶ崎城(横浜市都筑区)は、早渕川を北に臨む自然な丘を利用して、14世紀末から15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなる。16世紀中ごろは二重土塁とその間に空堀が設けられ強化されている(この築城方式は小田原北條氏独特のものとされる)。築城にはそれぞれの時期に相模・南武蔵を支配していた上杉氏(室町時代)や小田原北條氏(戦国時代)が関与していたと推定され、小田原北條氏での城主は小机衆のうちの座間氏や深沢備後守という説がある。
中世城郭は、軍事拠点だけではなく、戦時における地域の避難施設でもあった。城内には籠城に備える食べ物を蓄え、井戸が掘られている。また、食料になるような植物も植えられて管理されていたと考えられる。
江戸時代は廃城となって、徳川氏の領地となり村の入会地(共有地)などとして利用された。
          

      

   
          




数年にわたった発掘調査では、かわらけ・陶磁器をはじめ、石臼・硯などのかけらや鉄釘・銭などの茅ヶ崎城に関係する出土品があった。
それ以外に、弥生時代後期・古墳時代後期・平安時代の竪穴住居跡など古い時代の遺構も見つかり、それらの時代の土器のかけらや、縄文土器のかけらもみられた。


小机城の支城は、このほか荏田城(横浜市青葉区)と川和城(横浜市都筑区)もある。
小田原北條氏は現在の関東の茨城・栃木県をのぞく広範囲で、およそ240万石の領地を所有していたとされ、主要な城も30余となっている。
戦国の世の城なので、小田原城を除けば大したことがない城址なのかもしれないが、これからも北條氏の城を巡りたい。
                       
                                      訪れた日:小机城・・2016.4.10 
                                             篠原城・大豆戸城・・2016.3.24
                                             茅ヶ崎城・・2011.10.7
                                             佐江戸城・・2011.10.12
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義経終焉の地・平泉

2014-10-14 18:04:56 | 歴史散策
北上川を望む高館(たかだち)には奥州藤原氏の居館である衣川館(ころもがわたち)が建っていた。
少年期を過ごし、再び平泉へ義兄・頼朝に追われ、落ち延びた義経の住いに与えられ、人生の終幕を過ごした場所と言われている。(近年では、奥州市の接待館遺跡が衣川館であると言う説がある。)
          

義経(通称・九郎)は源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。父が平治の乱で敗死したことで鞍馬寺に預けられた。
京都鞍馬寺
牛若丸は鞍馬寺に6歳から遮那王と名のって過ごした。その間には武芸を習った鞍馬天狗が登場する。また、平泉に下る際に名残を惜しんで背を比べた、「義経公背比べ石」が残されている。
お供には、弁慶と金売吉次という奥州商人がいた。当時藤原氏は平氏軍に匹敵する10万騎の勢力があった。この時16歳であった。
鞍馬寺では、遮那王として義経堂に祀られている。
 
          (左)囲内に「義経公背比べ石」                         (右)義経堂

                    
          
頼朝が平氏打倒の兵をあげる(治承・寿永の乱)と馳せ参じる。義経25歳。
その後、一ノ谷、屋島、壇ノ浦合戦で平氏を破り進軍していった。
四国屋島寺
屋島の合戦では、有名な那須与一の「扇の的」や義経の「弓流し」の武勇がある。





屋島の合戦跡


平氏を討ち破り、鎌倉に凱旋していった。しかし、義経が官位を受けたことや平氏との戦いに於いで独断専行を行ったことに頼朝は怒り、鎌倉には招き入れなかった。義経27歳。
満福寺腰越状
完全に敵視した頼朝宛に、嘆願状(腰越状)を頼朝の信望が篤かった家臣宛てに差しだし、申し開きをしたが、鎌倉に入ることは許されなかった。
          

          

仕方がなく吉野等を巡り、一旦京(比叡山)に戻るが、再び藤原氏を頼って奥州平泉に旅立つ。義経29歳。
             

高館義経堂
四代泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられている。義経31歳。
殺害された妻・北の方と子・女児は金鶏山の麓にある千手堂の境内に祀られている。
北の方は頼朝の乳母の次女で、頼朝の命によって義経に嫁ぎ、義経の逃避行にも従った正室。伝承では郷御前と呼ばれていた。平泉では貴人の妻のことを北の方と呼ぶ。
千手堂には郷御前の守り本尊・不動明王と義経夫婦の位牌が祀られていた。
それから500年の後、義経が自害した地に仙台四代藩主・伊達綱村が、義経を偲んで義経堂(ぎけいどう)を建てた。中には義経の木造が安置されている。
          
 
             (左)義経木像                                (右)供養塔  

義経堂が出来て6年後に、松尾芭蕉が曾良を従えて「おくのほそ道」の道中にこの場を訪れた。実に、江戸を旅立ち44日目のことだった。
そして、有名な句である『夏草や 兵どもが 夢の跡』を詠んだ。 
          

高館からの眺望は平泉随一といわれ、東にとうとうと流れる北上川、束稲山(たばしねやま・別名東山)が眺められる。昔は桜の名所とされたが、現在はツツジだと言う。
8月16日には観光協会主催の「平泉大文字送り火」が催されている。今年は50回目となり先祖、戦没者並びに東日本大震災の犠牲者の霊を供養した。
また、西にめを転じると、前九年・後三年の役の戦いの場であり、弁慶立往生の故事でも知られる衣川が北上川に合流している。
          

 
       北上川の左手上あたりが衣川古戦場                      中央やや左に束稲山   

     

弁慶の墓
中尊寺月見坂の入口に弁慶松の下に弁慶の墓と言われる五輪塔が祀られている。
 

今年は、計画的ではなかったが、義経のゆかりの地・片瀬万福寺、京都鞍馬寺、そして平泉を訪れた。昨年も瀬戸内旅行で屋島を訪ねた縁もあり、義経のストーリーをまとめてみた。
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裕次郎灯台へ 葉山・堀内地区を歩く

2014-03-07 10:39:38 | 歴史散策
         
真名瀬から海岸に降りて森戸神社に向かう。目指す裕次郎灯台が見えてくる。
一色地区から堀内地区に入る。

裕次郎灯台と名島(なじま)
森戸神社の磯辺より沖合い700メートルに浮かぶ小さな島が名島。赤い鳥居が目印。
名島には裕次郎灯台が建っている。夕陽によって茜色に照らし出される夕景は美しく、神奈川の景勝50選に選ばれている。
裕次郎さんの三回忌を記念して、兄の石原慎太郎さんが約1億円の基金を集めて建設した。灯台のプレートには「海の男 裕次郎に捧ぐ 葉山灯台」と刻まれている。
森戸神社の境内の磯辺近くにも石原裕次郎記念碑がたっている。

         
         
             

森戸神社
今から約840年前の1160(永暦元)年、平治の乱に敗れ伊豆に流された源頼朝公は、三嶋明神(現在の静岡県・三嶋大社)を深く信仰し源氏の再興を祈願した。
1180(治承4)年、その加護により旗挙げに成功し天下を治めた頼朝は、鎌倉によるとすぐさま信仰する三嶋明神の分霊を、鎌倉に近いこの葉山の地に歓請した。
 
千貫松(せんがんまつ)
神社裏手の磯辺の岩上に切り立つ松の木で、その枝ぶりは見事なもの。
源頼朝が衣笠城に向かう途中、森戸の浜で休憩した際、岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と褒めたところ、出迎えの和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたと言い伝えられている。
         
石原裕次郎記念碑
神社裏手の海岸入り口には、湘南で青春を過ごし、この地をこよなく愛した俳優、故石原裕次郎さんの記念碑。
石碑には裕次郎さんを偲ぶ文字が刻まれている。
「夢はとおく 白い帆に のって 消えていく 消えていく 水のかなたに 太陽の季節に 実る 狂った果実たちの 先達 石原裕次郎を 偲んで」
遠くに裕次郎灯台が見える。
          
みそぎ橋(かながわの名橋100選)
この森戸の海浜は、鎌倉時代に七瀬祓の霊所と定められ、事あるごとにお祓いやみそぎが行われたと「吾妻鏡」に記されている。
このような故事により、この海辺で「みそぎ」が盛んに行われ、神社から海辺に通じる橋を「みそぎ橋」と呼ぶようになったと言い伝えられている。
 
詩人・堀口大学詩碑 「花はいろ 人はこころ」 堀口大學
この詩は女優の森光子さんが好んで色紙に書いたそうだ。また鎌倉の日本料理屋の紙袋にも書かれているという。堀口大学は1950(昭和25)年から亡くなるまで葉山町に住んでおり、葉山の名誉町民にもなっている。家族が今も住んでいる。因みに大学は本名だとか。この碑は町制50周年を記念して建てられた。
         
               
マルチーノ公使ベルツ博士記念碑
マルチーノ公使・ベルツ博士は葉山が黒潮の影響で冬は暖かく夏は涼しい温暖の地で、風光明媚であるということに注目し「葉山」が保養の地として最適であると皇室に進言し、1894(明治27年)に葉山御用邸が造営される。

境内には、他に昭和天皇の即位50年記念の「昭和天皇即位の御大典記念碑」「大正天皇即位の御大典記念碑」明治天皇・照憲皇太后の歌碑や高橋是清の歌碑「堪忍の 股からのぞけ 富士の山」などがたっている。
また、「源頼朝公別野跡」の碑も立っている。
源頼朝がこの地に別邸を建て、笠懸(かさがけ)を催したり、三代将軍・源実朝や四代将軍・藤原頼経なども来遊した記録が「吾妻鏡」に残されている。
笠懸とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を放ち的を射る、日本の 伝統的な騎射の技術・稽古・儀式・様式のこと。格式としては流鏑馬より略式となり、余興的意味合いが強い。

庚申祠 1843(天保14)年
      

森戸海岸
昭和30年代の太陽族ブームで全国有数の海水浴場となり、葉山の一時代を築いた。
「頭を慎太郎狩りにした太陽族が肌をギラギラさせてワイワイ騒いでいた。」と、当時のことが書かれている。実に60年も前のことだ。
         

葉山コロッケ・旭屋牛肉店  葉山町堀内898
裕次郎さんのなじみの店でもあるようだ。
         
以前、葉山コロッケを求めに、今回と同じ道を辿って、ここを訪れたことがある。その時に、勉強していれば森戸の裕次郎灯台を見ていたはずだった。

森戸川・亀井戸橋
         
橋の中央に飾られている。調べると葉山工芸美術集団の磁器板ということ。この集団は、三浦半島の風景をモチーフにした磁器製品、磁器板、及び油彩、水彩等の絵画を制作している。

長徳寺(臨済宗)
1675(延宝3)年造立の庚申塔。六字の名号(南無阿弥陀仏)を主尊とする。庚申の文字はない。三猿が刻んである(左)。
名号(みょうごう)とは、仏・菩薩の称号をさしていう。「六字名号」・「九字名号」・「十字名号」などがある。
                
庚申塔群にも、明和、安永、天明など江戸中期の年号が刻まれている。

六地蔵
         

古き魅力ある建物
県道沿いの狭い範囲で魅力ある古い建物が並ぶ。中には江戸時代から続く商店もあるとか。
        

 

脇町の庚申塔(道標)
1772(明和9)年造立。碑型。正面に「庚申講中」とあり、向かって右側面に「右みさきみち」、左側面に「左うらがみち」とある。三崎街道と浦賀道の岐路にあったものが移設されたと思われる。道標の庚申塔は中央奥に安置されている。
          

諏訪神社
江戸の昔に、「お諏訪様」が祀られたと云われる。
諏訪の大神は、風占いの神として漁の安全を祈る漁師たちから篤い信仰があり、古くから守護神として祀られていた。
社殿の前には狛犬の代わりに猿の親子がいる。猿は古代では神の使いを務めていたという。
          
 

鐙摺須賀神社(天王社)
葉山郷堀内邑の神社。祭神は須佐之男命。
ご神体は、歴史の古い神社によくある、海辺の漂着物だが、その名が珍しく「肥びゃくし」という。
         
 
社前参道には古めかしい常夜灯が建っている。
神社の隣は、海宝寺(戒宝寺)である。以前の本堂は鈴喜三郎助(味の素創始者)邸敷地内の2階屋を移築した建物だったという。

旗立山(伊東祐親供養塔)
1180(治承4)年に源頼朝が挙兵。それに呼応した三浦党が小浜から出港し、その帰りに畠山軍と由比ヶ浜で小競り合いしたとき、この小山に旗を立てて気勢をあげたことから「旗立山」の名がついたという。
小田原北条氏と戦った三浦道寸がこの山から敵を偵察したので、軍見山ともいう。伊東祐親(すけちか)を祀ったとされる供養塔がある。
伊東祐親は、東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、1159(平治元)年の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。
頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、助命嘆願があり、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。
子孫には、富士の巻狩りの場で仇討をした曾我兄弟がいる。

旗立山を上ろうとしたら、後ろから「独歩の記念碑がこの上にありますか。」と、50がらみのご婦人が声をかけてきた。武蔵野を書いてる作家が逗子とどう関係するのだろうかと思った。
そのご婦人、服装からしてプロの散策家という感じがして。私も負けそうとうい気がした。
気になって、調べると、『初冬の逗子の浜辺の暮れなずむ頃の情景を、叙情的にうたいあげた詩「たき火」の中の一遍が刻まれています。   
葉山町との境にある逗子市浄水管理センターの敷地内にあります。』とのことで、この旗立山の海側になるようだ。 ただ、立ち入り禁止の公園にたっているようである。

葉山マリーナ・ヨット発祥の地
葉山マリーナの先に「鐙摺(あぶずり)葉山港入口」という信号がある。ここを左(東)に折れて入った所が 葉山港の管理事務所近くに、ヨットの帆の形をした発祥碑がある。
日本にヨットが伝えられたのは、横浜の居留地に住む外国人がヨットクラブを作ったのが最初とされるが、当時の農商務司法大臣 金子堅太郎伯爵の子息が 1882(明治15)年にヨットを建造し、葉山で楽しんだことが日本人による最初のヨットと言われる。
葉山港はかつて鐙摺港と呼ばれる小さな漁港だったが、これを契機に多くのヨットが集まるようになり、1955(昭和30)年には国体ヨット競技会場になり、ヨットハーバーとして名を知られるようになった。
 

            

         

>「太陽の季節」文学記念碑
渚橋の先。逗子海岸東浜
逗子海岸の葉山より渚橋のたもとに石原慎太郎の芥川賞を記念した文学記念碑「太陽の季節」がたっている。
記念碑の左上のゴールドの太陽のモニュメントは印象的。岡本太郎作「若い太陽」である。
         
 

文学碑がたつ渚橋付近は、昔逗子駅から幾度となく歩いたところなので、ここから歩いて駅に向かう。
珠屋洋菓子店
「昭和」の感じが残った建物が並ぶ駅前通りに、数年前改装されたケーキショップがこの店である。
1950(昭和25)年創業。創業以来、長く老舗の洋菓子屋として地元の人々を中心に人気のある洋菓子屋であり、石原慎太郎や石原良純、石原伸晃ら石原家各氏の御用達のお店として、たびたびメディアに取り上げられている。 添加物無添加の高級感のある身体に優しい洋菓子を提供していることが特徴という。
個人的には、半世紀近く前の初夏に、この店に訪れたことがある思い出の店である。
しばらく忘れ去っていた喫茶店だったが、10余年前に、担当の医師がこちらに移動したことで、検診のために逗子駅に、定期的に降り立つことが、思い出させたきっかけとなった。
思い出の喫茶店は、改装して当時と店内のレイアウトが少々変わってはいるが、私の「昭和」がそこには残っている。
 

定期的に葉山に来ているのに、裕次郎灯台にはこれまでお目にかかっていなかった。今回こそは予定に入れようと、睡眠前の床の中で思った。
翌日、朝刊の土曜特集にその裕次郎灯台の記事が載っていた。
それは、1月末のことであった。



                              関連 : 葉山の海岸通りを歩く・一色編

                              資料:葉山を歩こう3  堀内 葉山まちづくり協会

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葉山の海岸通りを歩く・一色編

2014-03-06 11:32:32 | 歴史散策
今回の「葉山・一色から堀内の海岸通りを歩く」は、御用邸近くからスタートし、県道207号線の周辺を歩きながら逗子市渚橋までを北上するコースである。(葉山公園通りは国道134号線)
         

下山口神明社
由緒は、
『1704(宝永元)年に現在地の伊勢山に祭祀される。御神体は衣冠束帯姿の木像で、長者ヶ崎の海中より引き上げられた。
元の名主 沼田八右衛門が村に悪い病気が流行り病魔に倒れる人が多いのを憂い、悪疫退散を天神地祇に祈願し、その満願の夜、白衣の老翁が枕頭に立ち現れ「爾吾を念ずること久し、洗心の懇祈により悪疫退散心身安泰疑いなし」と仰せになり、長者ヶ崎の方へと去って行った。八右衛門が翌朝その跡を訪ねて長者ヶ崎に行くと、海上に木片が漂流していて引き上げてみると、それは衣冠束帯姿の御神像であった。
御神像を現在地の伊勢山に奉安したところ、御神徳により悪疫は忽ち退散し村は無事平穏に復した。』
と、ある。なお、「伊勢山」の地名は、「天照皇大神宮」=「お伊勢さま」から伊勢山と命名されたものと思われる。
         
参道入口の階段脇に祀られている2mを超すと思える庚申塔はみごとである。
         
平成7年に落雷によって落雷で本殿が全焼してしまい、そのせいで神明社を守ってきた人達の気持ちが随分沈んでしまった。そこでみんなの元気が交流する場所にと「あさいち」が毎月第1日曜日に開催されている。と地元の方のブログに書かれていた。

         
葉山御用邸
イタリア公使・マルチーノ、ドイツ人教授で皇室お抱え医師・ベルツの勧めで一色打鯖(うつさば)に御用邸が造立。
昭和天皇はここで皇位継承し、昭和が始まった。生物学者としての昭和・今上天皇のご研究も葉山の海がフィールドとなっている。
   

玉蔵院(真言宗)
奈良の東大寺別当良弁(ろうべん)僧正の開基で1250年以上の歴史を持つ葉山町最古の古刹。
海の近くであることから、恵比寿さまが祀られている。(湘南七福神)
         
境内にある庚申塔は、1665(寛文5)年で、町内最古とされる(左)。
   
宝篋塔は、1775(宝永4)年造立で、地元では「ほうき星さま」と呼ばれている。造立当時接近したハレーすい星の関連か。右の祠は熊野、秋葉、金毘羅の三権現を祀っている。
   

森山神社
創建は749(天平勝宝元)年で、1300年近い歴史を持つ神社で、奇稲田姫(くしなだひめ=櫛名田比売)が祭神。
33年ごとに催される行合(ゆきあい)祭は、逗子市小坪の須賀神社の須佐之男命(すさのおのみこと)が妻のもとに訪れ「夫婦水入らずの」一時を過ごす形で執り行われる珍しいもので、町重要文化財・無形文化財になっている。近年では1996(平成8年)に三十三年大祭が行われている。なぜ33年ごとに催されるか、理由は不明。
 

桂太郎別荘跡
日露戦争前後には、政府要人による重要会議が別荘を中心に度々開かれている。司馬遼太郎原作「坂の上の雲」でも「葉山会議」と称して登場している。
         
県道沿いのレストランの塀に「桂太郎別荘・長雲閣跡」の案内が掛かっていた。が、
私が聞いた話では、県道から少々入った建物である。
下の写真は、「長雲閣こみち」と、中央に建物が写っているが、その建物が、数年前まで桂太郎別荘とされていた。しかし地元歴史家よると、ここではなく、向かい側の建物ががそうだと変更になった。
今回、その住所に行ったが古い建物は見当たらなかった。
         

しおさい公園
旧御用邸附属邸あと。
御用邸附属邸で崩御された大正天皇に代わって昭和天皇が皇位継承されたのがこの地で、昭和の元号はここから始まった。正門前に昭和天皇皇位継承の碑がある。
 

engawa cafe&resraunt
 
ちい散歩で地井さんが立ち寄って、至福の一時を過ごした店である。
築80年以上している、昭和天皇の主治医の別宅だとか。この地域は先ほどの桂太郎の別荘といい、元別荘が多く建ち並んでいてツアーを組んで歩くグループもある。

現役の円柱ポスト
         
ちい散歩で「本当に見られなくなってきたが、妙に可愛く感じる。色といい、形といい、痛み具合といい。」と地井さんが感心したポスト。
今回、遠方からポストに貼り紙があるのが見えたので、「現在使われておりません」の貼り紙と思ったが「ペンキ塗りたて注意」だった。まだまだ現役で頑張るのだな。 

小村寿太郎終焉の地碑
「蓬莱こみち」の手前の路地を入る。奥に建つ、民家のこんもり茂った松の木の下に碑はあった。見つかりにくい。
日露戦争後のポーツマス条約の立役者、小村寿太郎が退任後3ヶ月の療養生活を送り、亡くなった借家の門脇に、故郷宮崎に向ってたっている。
 

ワカメ漁
県道134号線から海側の道に入り、真名瀬という所から富士山を眺めた。時期であればしらす干しの作業をしているはずである。
現在は、ワカメ漁が盛んのようで、釜でゆでたワカメを洗濯バサミで挟んで干している光景が見られる。ワカメ漁は2月から解禁、しらす漁は3月11日に解禁という。
 

         

         
訪れた前後の日は雨模様、中1日の晴れの日に、富士山を三ヶ下海岸付近で眺めることが出来た。
とても温かく感じられ、皇族の別荘地に薦めたことが、よくわかる。
葉山5時間半の散策は、ボリュームが大きくなってしまったので、2つに分けた。後編の『堀内編』をお楽しみに。


雛段飾り
病院内で飾られていた。季節ものなので写す。
この病院、全てにゆとりがあって段飾りが置けるのだ。
          

                              資料:葉山を歩こう4 一色 葉山まちづくり協会
                                  ちい散歩 テレビ朝日
 

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江の島を歩く

2014-02-06 11:03:35 | 歴史散策
江島神社の節分祭が開かれた機会に江の島をぐるっと一回りした。
        
竜宮城をあしらった小田急片瀬江ノ島駅を出て、江の島に向かう歩道を歩いて行くと、平成作品の大きな「龍燈」一対が迎えてくれる。江島神社鎮座1450年記念で、永々の繁栄を祈念して建てられた。
 
弁天橋を渡る。右手にはるか彼方、うっすらと富士山が顔を出している。朝から気温が高く各地で霧の影響がでている気候では残念だが富士は望めないだろう。
弁天橋を渡ると、参道には向かわず、東側のバス停付近にある公園に行く。
公園にはゆめ国体開催を記念記念して、弁天像と世界女性群像噴水池が造られている。
        
                     
このほか、「日本近代動物学発祥の地」記念碑が置かれている。

モース記念碑・「日本近代動物学発祥の地」
大森貝塚の発見で有名なエドワード・S・モースは、1877(明治10)7月から8月末まで、江ノ島に日本最初の臨海実験所を開き、シャミセンガイなどの研究をしていた。
         

青銅鳥居
1821(文政4)年再建。「江島大明神」の額が掲げられている。以前は「大弁財天」が掲げられていた。
柱には吉原の松葉屋など遊郭の名前や花魁(おいらん)代々山という名も刻まれている。その他多くの江戸町人の名も連ねている。
 
この鳥居から、瑞心門前の朱塗りの鳥居までが江島神社の門前町で、旅館、土産物屋、食堂などが並んでいる。
『島の玄関に立つ青銅の鳥居をくぐる。ずらりと並ぶ土産物屋の間を進むと右手に旅館「岩本楼」が現れた。「ほら、弁天小僧が育ったところだよ」。年配の男性が連れの女性に説明している。』
この文章は、3日前の夕刊に掲載された「街プレーバック・江の島」という特集記事の文章を引用したものだ。
『弁天小僧のせりふを実感する島』という見出しも付いている。
江の島と云えば弁天小僧。このブログにも何処かに書き添えておきたいと思っていたのだが、今回も偶然にも新聞記事に「江の島」が載ったことで、書くきっかけを与えてくれた。このブログの合間、合間にもその記事の内容を引用してみたい。

岩本楼(岩本院跡)
頼朝の家来・佐々木四郎高綱を先祖に持つ佐々木氏が小田原北条氏の時代に、江ノ島一山の総別当となり、弁財天に属する三坊すなわち上中下三坊の内、岩本院の経営とお岩屋および奥津宮を管理していた。
参拝者から多くの収入を得ており、江戸時代には勅使、将軍、大名などの宿泊として栄えた。
     
弁天小僧は、歌舞伎の「白波五人男」(河竹黙阿弥作)の登場人物。
私には歌舞伎というよりも、中村錦之助さん(勢ぞろい喧嘩若衆・1955)や美空ひばりさん(ひばり十八番 弁天小僧・1960)の弁天小僧がなじみがある。
『美しい武家の娘に化け、仲間と呉服屋をゆする。男と見破られて、もろ肌脱いで、「知らざあ言って聞かせやしょう」で始まるせりふは、岩本楼の前身の寺院、岩本院で年季勤めをする稚児だった生い立ちを語る。』
        
          知らざあ言って聞かせやしょう
          浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の種は尽きねえ七里ヶ浜、
          その白浪の夜働き以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
          百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
          百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に悪事はのぼる上の宮
          岩本院で講中の、枕捜しも度重なりお手長講と札付きに、
          とうとう島を追い出され、それから若衆の美人局
          ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの似ぬ声色でこゆすりたかり
          名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ!
映画の一シーンが浮かんでくる。
旅館岩本楼は現在、普通の旅館であって、かつての坊舎の雰囲気を残すものはない。
              
朱塗りの鳥居をくぐり石段を上がる。
        
瑞心門
龍宮城を模して1986(昭和61)年造営された神門で、その両袖には鮮やかな色彩で唐獅子画や牡丹の天井画が描かれている。
        
福石
杉山検校が社殿に参籠したとき、この石につまずき、転んだその際に、竹筒に入っていた松葉が体を刺したところから、管鍼(くだばり)の妙術を考案し、将軍綱吉の持病をなおし、厚遇を賜った。
それからのち、この石のそばで物を拾うと福を授かるという。
福石の脇には現在江の島弁才天道標(市指定文化財)のひとつがたっている。これはもともとここにあったものではなく、島外から移設されたと思われる。
        
一見して、どれが福石なのだろう。
辺津宮の拝殿で、今日1日の安全祈願をする。賽銭箱が巾着袋の形をしていて、何故なのかと首をかしげる。

辺津宮
江の島三神社のひとつ。
江島神社は、辺津宮、中津宮、奥津宮の3社からなる。社伝によると欽明天皇13年(552)、勅により島の南側の竜窟に祠をたてて3女神を奉祀したのが始まりといわれている。
この年は、日本書紀によると、仏教が公に伝わった年、「仏教公伝」の年に当たる。ということで、この時代は、伝来の仏教と古来からの神教が共に大切にされていた。
当時は、御窟(おんいわや)を本宮、奥津宮を本宮御旅所、中津宮を上の宮、辺津宮を下の宮と呼んでいた。
その後、1182(寿永元)年源頼朝が文覚上人に命じて諸社殿を建立、弁財天を勧請し、参籠祈願してから江ノ島弁財天として有名になり日本三弁天のひとつとなった。現在の3社殿は江戸時代の再建。
        
奉安殿(裸弁財天、八臂弁財天)
弁財天は七福神の紅一点としても人々の信仰を集めている。
鎌倉時代には先勝祈願として八臂(はっぴ・8本の腕)像、江戸時代からは芸能、音曲上達祈願で二臂像と信仰目的が変わってきた。
 
八坂神社
江島神社の末社で、須佐之男命を祭神とし、向拝つきの社殿は1844(弘化元)年の建造。例年7月7日に神輿に御霊移しが行われる。それから14日までが、天王祭で有名な唐人囃、竜神囃などの音が響き、神輿の海中渡御などがあり、島を上げての祭となる。
八坂神社と腰越小動(こゆるぎ)神社の相方の神は夫婦神で年に一度会いに行かれるという。

撒豆会場となる辺津宮の参道を通り、石段を下る。「みどりの公園」の先で海に開けた展望台がある。
片瀬の海岸とヨットハーバーが望める。
        
石段を上がり、中津宮の境内に入って行く。
弁天小僧のせりふ「悪事はのぼる上の宮」の上の宮(中津宮)である。

不老門再建祈念碑(再造記)  江の島2-3-21
昔、中津宮の社前に東京忍池弁財天の門と同様な桜門があり、そこには当初「妙音弁財天裸像」(鎌倉時代後期から室町時代前期の作)が安置されていた。その後、この桜門は、長い年月の間に天災や風雨を受け、破壊された姿をさらしていたが、1861(文久元)年相州津久井郡勝瀬村の富豪・岡部政右衛門が私費を投じて再建を果たした。しかし、門は明治政府の神仏分離令によって、1873(明治6)年に三重の塔などとともに取り除かれてしまい、今はこの記念碑のみとなっている。
              
中津宮
イチキシマヒメノミコトを祀っている。慈覚大師が853(仁寿3)年に創建し、1689(元禄2)年に再建。
芝居小屋の中村座、市村座や商人たちが奉納した石燈籠など、当時の江ノ島詣の盛況が伺える。
        
中宮殿を出て坂を上り切った場所に片野写真館がある。新聞によると「江の島ふぉとみゅうじあむ」を併設していて、昭和初期から戦後にかけての写真を展示しているとあり、見学したいと思っていたのだが、開いていなかった。時間が早いのかなと、もう一度お昼近くに寄ったが開いていなかった。月曜休館なのだろう。
        
展望灯台が右手に、灯台が新しくなってからは一度も上がっていない。今回もパス。古きを訪ねる江の島巡りである。

展望灯台
以前の灯台は、中古品であって、その前身は「よみうり落下傘塔」といって、1940(昭和15)年、読売新聞社が東京都世田谷区二子玉川に建設した。主たる目的は出征兵士などの訓練用の使用であった。しかし、民間施設のため、兵士以外の人による利用もあったといわれる。
終戦から2年後、観光都市への脱皮を図ろうとしていた藤沢市によって、江の島植物園の整備事業が着手され、江の島のシンボルとして展望塔が計画。
そこで落下傘塔の転用が決まり、「平和塔」という名称で2002(平成14)年まで活躍した。
                
江の島大師の先、左手には。
一遍成就水
1282(弘安5)年、一遍は鎌倉から片瀬に移り江ノ島に参詣した折り、飲料水に窮する島民を助けるために掘り当てた井戸と伝えられている。上人自筆の「一遍成就水」の額が江島神社に残されている。
        
「山ふたつ」という案内の石柱が眼につく。何だろうと思っていたら、案内板があった。
山ふたつ
ここが江の島をちょうど二分する境となっていることから俗に「山ふたつ」といわれる。
断層に沿って浸食された海食洞が崩落したことで、「山ふたつ」が出来たと云われる。
 
木食上人行場窟
山ふたつの谷底に、木食上人行場窟と呼ばれる洞窟がある。そのほぼ中央に、高さ1m、幅80cmに扁平石組み合わせて石廊を築き、その上に石造阿弥陀如来の立像が安置されている。
木食とは、五穀(米、麦、アワ、キビ、豆)を絶ち、木の実で生活すること。この修行を木食行といい、木食行をする僧を木食上人といった。
         
次は、今回一番の目的の庚申塔である。奥津宮に至る道の左側に建っている。
群猿庚申塔
多数の猿がその本尊である山王神をたたえ、祝っている大変珍しい庚申塔である。
総高143cn、塔身高86cm、幅42cm、江戸時代後期のものとされる。
基壇は岩座のように造られ、塔身の基座には蛇が巻き付いているように造られているのは、弁財天信仰に因んだものである。四面には合計36匹の神猿がそれぞれ異なった姿態で、その本尊である山王神に奉賽しているという珍しい構図である。市重要文化財に指定。

通常の庚申塔には、1~3猿が彫られている。36匹の猿に3猿がいるのかな?と探したものの「キカザル」きり見つけることが出来なかった
頼朝寄進の奥津宮鳥居
『吾妻鏡』によると、1182(寿永元・養和2)年、源頼朝は奥州藤原秀衡調伏のため、高尾の文覚上人に命じて岩屋に弁財天を勧請し、参詣の際に鳥居を寄進したとある。
左右に見える石灯籠(常夜燈)は、文政12年(1829)、大百味講中建立とある。
        
亀石
鎌倉四名石のひとつで、別名を「蔵六石」という。
1806(文化3)年に弁秀堂なる人物が金光明最王経の写経を納めたときに、亀甲模様を呈する亀甲石を奉納したものである。
                
奥津宮
タギリヒメノミコトを祀る奥津宮は「御旅所」といい、岩屋のご本尊は夏にここへ避暑のために移ってくる。
        
        
八方にらみの亀
神門の天井に「八方睨みの亀」が描かれている。江戸時代の粋人、酒井抱一の力作で、どこから見てもこちらを睨んでいるように見える不思議な絵である。
   
龍宮
江の島は、涌出以来龍の住むところとなり、龍神様のご信仰は弁財天信仰と習合せられ、共に密接な結びつきから、江ノ島縁起をはじめ、多くの伝説が残されている。
        
岩屋道石灯籠
天保4年、八王子の護摩講中建立。
 
ここで歴史散策とは関係ないが、江の島の人気スポットなので立ち寄ることにした。
竜宮の前で、二股に分かれる道を左手に進んで行く。人気は待ったくなく、猫1匹が昼寝をしていた。
龍恋の鐘
江の島に古くから伝わる「天女と五頭龍」伝説に因んでつくられた恋人の丘「龍恋の鐘」。
この鐘を鳴らしたふたりは決して別れないといわれており、多くの恋人同士が訪れ、愛を誓う人気のスポットになっている。
また鐘を囲む柵には、「ふたりの愛に鍵をかける」という意味で、ふたりの名前を書いた南京錠が一杯だ。
 
 
予備知識もなく観光スポットと思って訪れたが、この地は、江の島ができる伝説の場所だと案内板で知った。
その「天女と五頭龍」伝説とは、

昔むかし、鎌倉の深沢山中の底なし沼に五つの頭をもつ悪龍が住みつき、村人を苦しめていた。子供をいけにえに取られることから、この地を「子死越」と呼んで恐れられていた。
ある時、子死越前方の海上に密雲が何日もわたってたてこめたが、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、雲が晴れると、今まで何もなかった海上にひとつの島ができていた。これが現在の江の島とか。
天女の美しさに魅せられた五頭龍は、結婚を申し込むのだが、悪行が止むまではと断られた。
その後、心を改め結婚できたと云われている。
この伝説の天女が江の島に祀られている弁才天と云われ、五頭龍が瀧口明神社として鎌倉市腰越に祀られている。
この鐘は藤沢市観光教会が設置した。
参道に戻り、階段を下りていく前方が開けた。
龍灯の石灯籠・稚児ヶ淵句碑
稚児ヶ淵の上に建つ。灯台の役目を果たしていた。
 
稚児ヶ淵
稚児ヶ淵の名は、鎌倉相承院の稚児白菊が、自休という建長寺広徳院の僧に思い慕われ、断りきれずに思い余って、この淵に投身したことに由来している。
自休も「白菊の 花のなさけの 深き海に ともに入り江の 島ぞうれしき」と詠んであとを追った。
稚児ヶ淵は、江の島南西端の幅50mほどの隆起海食台。
大島、伊豆半島、富士山が一望でき、1979(昭和54)年かながわ景勝50選のひとつに選ばれた。磯釣りのスポットとしても知られる。
 
この日は、海が荒れていて稚児ヶ淵にはストップがかかっていて、降りることが出来なかった。
新聞の写真には、稚児ヶ淵と大きな富士山がバックに写っている。こんなに大きな富士山が眺めれれるのだろうかと期待してきたのだが、富士山どころか、稚児ヶ淵にさえ降りられないことは残念である。

        
岩屋
江の島南西部の海食崖基部の断層線に沿って侵蝕が進んだ海蝕洞群の総称。
古来、金窟、龍窟、蓬莱洞、神窟、本宮岩屋、龍穴、神洞などさまざまな名で呼ばれており、宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきた。一時は御窟に籠る修験者や、行を練る僧たちが神の功徳を仰いでいた。
弘法大師が訪れた際には弁財天がその姿を現し、また源頼朝が戦勝祈願に訪れたとも云われている。
富士山風穴をはじめ、関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説がある。
1971(昭和46)年)3月に崩落事故が起き、以来立ち入り禁止措置がとられていたが、藤沢市の手で安全化改修工事が行われ、1993(平成5)年第一岩屋と第二岩屋が有料の観光施設として公開された。
        

再び、辺津宮まで戻る。
往きと違って、西側の道を辿る。

朱塗りの橋の手前に鉄の門扉が片側だけ開いていて、下る石段がある。下乃坊墓地といい、杉山検校の墓所がある。

杉山検校の墓 
本名を杉山和一という江戸時代の鍼師。
徳川五代将軍綱吉の病気を治して総検校の地位を獲得した。その時使った管鍼術は江ノ島の弁財天から授かったと伝えられている。【福石】
このお礼に江ノ島に三重塔を建てたり、江戸から江ノ島弁財天への道標を建てた。
杉山検校は伊勢の出で、1610(慶長15)年出生。幼い頃失明し、江ノ島弁才天に篭り、管鍼の術を創案したといわれる。
1694(元禄7)年本所の私邸で没し、弥勒寺に埋葬される。ここの墓所は翌年に次の総検校三島世一が分骨し、建立したと云われる。
なお杉山検校が寄進したという江ノ島弁才天道標は現在48基のうち11基が現存する。
        
三重塔跡
三重塔跡は大鳥居をくぐり、楼門手前の急な坂を上がってすぐ右にある。
そこは平坦地になっていて現在は「市民の家」(藤沢市立片瀬小学校江ノ島分校跡)が建っている。
そこには塔跡をしのばせるものは何もない。
1868(明治元年)の神仏分離令により、僧侶は皆神主となり、廃仏毀釈により、三重塔と共に、竜宮門や全ての堂宇が取り壊され、仏像・仏具のほとんどが廃棄される。
        
         

江の島には、このほか、日露戦争の満州軍総参謀長官、陸軍大臣、内務大臣、台湾総督など偉業のある、児玉源太郎大将の偉徳を偲んで大正10年に建立された児玉神社が祀られている。
拝殿前の台湾の人たちが寄進した狛犬は、口の中にある玉がころころと動かせる珍しいものである。

児玉神社
 

江の島は参道の土産物店の多さに感違いしていたが、島そのものが江の島神社、そのものだと云うことを気がついた江の島散策であった。但し東側の海縁は東京オリンピックの開催以降ヨットハーバーに化けてはいる。

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サバ神社巡り

2013-12-07 15:58:11 | 歴史散策
かなり以前のことだが、通勤時に車のナビに様々な「サバ神社」が表示していることに気づき、「なんだ、これは。」と驚いたことがあった。そしてバラバラではあるがサバ神社12社に参ったことがあった。
今回、あらためて『12サバ巡り』として、1日で巡ることとした。
サバ神社とは、神奈川県中部の境川中流域、横浜市瀬谷区・泉区、大和市南部、藤沢市北部にかけて12社ある、「サバ」と読む社名を持つ(あるいは過去に持っていた)神社である。


今回、12社のうち、西俣野の左馬大明神社と石川の佐波神社は最寄駅からバスを利用し、残る10サバは小田急線の湘南台駅からテクで通してサバ巡りをした。12月初旬の暖かな日であった。

最初の左馬大明神社には小田急線湘南台駅東口より、神中バス・湘27ドリームハイツ行に乗って西俣野BSで下車、すぐ。
左馬大明神社   藤沢市西俣野837辺り
この神社は神奈川県神社庁には登録されていない。新編相模風土記稿には、高座郡大庭庄西俣野村、神禮寺持とある。




次の佐波神社は小田急線六会日大前駅西口より、神中バス循環バスで4号西BSで下車、西方向へ徒歩6分。
佐波神社   藤沢市石川141
由緒
祭神は源義朝公で、1611(慶長16)年頃創立。一説によると戦国時代末期石川に勢力のあった石川六人衆によって勧請されたと伝えられる。社名については初め左馬頭神社、次に鯖神社と称したが、水害にあったとき再度、佐波神社と改めた。
石川六人衆とは入内嶋、西山、田代、伊沢、佐川、市川氏だが、六人衆がなぜ義朝を祭神としたのかは不明。






ここからは、小田急線湘南台駅より徒歩で進む。今田鯖神社には10分ほどで到着。
鯖神社   藤沢市湘南台七丁目201
由緒
1702(元禄15)年当地井上瀬兵衛発起より「鯖大明神」造立。1826(文政9)年改築。1873(明治6)年村社列格。
地元では「今田鯖神社」と称して、保存会が小冊子を発行している。



 
次は境川を渡り、藤沢市より横浜市泉区にはいる。
途中、道筋には石仏が祀られている。


中には双体道祖神らしき石仏もあった(右)


道端に祀られている石仏群が泉区には沢山あるようなので、改めて訪れたい。
20分少々で旧字名鍋屋の鯖神社に着く。

鯖神社   横浜市泉区下飯田町1389
由緒
勧請年代は不詳であるが、伝承では飯田郷の地頭、飯田五郎家義が勧請したといい、小田原北條の時代に下飯田を治めた川上藤兵衛も武運長久の祈願をしたという。
また1590(天正18)年に下飯田の領主になった筧助兵衛(かけいすけひょうえ)為春は、地域の鎮守として信仰し、社殿の修復をしたという。
1873(明治6)年に下飯田村の村社に列せられた。
社殿右手前の銀杏は横浜市の名木古木に指定されている。
またこの近くの神社の近くには鎌倉古道のひとつである「上の道」または「西の道」が通っている。




次の鯖神社には25分ほどかかる。
鯖神社   横浜市泉区和泉町705
由緒
慶長年間(1596~1615)に当地の郷士、清水、鈴木の両氏が勧請したと伝承されている。1689(元禄2)年に氏子住民の浄財で社殿の修復が行われたと記された棟札が保存されているが、1836(天保7)年に神祇管領卜部朝臣良長(じんぎかんれいうらべあそんよしなが)が京都から参向奉弊し「鯖大明神」の額を奉納した旨を記した棟札も保存されている。








再び、境川を渡って藤沢市に。境川は美しい木製の渡戸橋を渡る。

先代の橋の一部が先ほどの鯖神社に保存されている(右)


30分ほどで七ツ木神社に到着。
七ツ木神社   藤沢市高倉1128
由緒
文禄年中(1592~96)渋谷義重崇敬厚かりしと伝う。1826(文政9)年再建。新編相模風土記稿に七ツ木郷鯖神社と記せるは当社なり。往古より鯖神社と称せるを明治初年七ツ木神社と改称す。1873(明治6)年村社列格。



先ほどの神社同様 両部鳥居という特徴ある鳥居が迎えてくれる

ここの神社も双体道祖神らしき石仏が祀られている


境川沿いの道を遡ると、田んぼの脇に石祠が祀られている。

三度、境川を渡り環状4号線にさしかかる。信号機は「左馬神社入口」名。


七ツ木神社から30分近く、旧字名中宮の左馬神社に到着。

左馬神社   横浜市泉区和泉町3253
由緒
伝承では源氏隆盛の頃の勧請という。昔から「相模七サバ」の一社と崇められた社で、新編相模風土記稿にも「鯖明神社」と記している。1625(寛永2)年に三河松平氏の分家・能見松平(のみまつだいらけ)の勝左衛門昌吉が和泉村の領主になった時に村の鎮守として再興、また能見松平家累代の祈願所とした。また代々の領主は氏子と共に社の護持や社殿の修復に尽力しており、1816(文化13)年、1835(天保6)年の棟札が残されている。1873(明治6)年に和泉村の「村社」に列せられた。





 
今度は、境川の支流である和泉川沿いを遡ること20分余り。
佐婆神社   横浜市泉区和泉町4811
由緒
勧請年代は不詳であるが、伝承では、寛文年中(1661~72)に伊予河野氏の後裔、石川治右衛門が当地に往来した時、一統の守護神として奉斎したのが創祀という。また1878(明治11)年に当地に伝わる伝承類をまとめた「和泉往来」の文書には「慶長年中(1596~1615)の勧請という」とある。
おそらく当社も境川の両岸に祀られている境の神としての性格を持つ古い社と思われる。当地字名の「神田(かみだ)」は当社の「神饌田(しんせんでん)」があったからという。1835(天保6)年に社殿修復をした時の棟札が残されている。境内の「たぶのき」は推定樹齢380年で、横浜市の名木古木に指定されている。
通称「へっついさま」といわれ、むかし社殿がへっつい(竈)のように土塁に囲われていたからだといわれている。
199(平成11)年に湘南台まで延伸した相鉄いずみ野線の線路が、社殿の背後を高架で通っているため、神社の環境は著しく変わった。






環状4号線を渡って、25分ほど。
飯田神社   横浜市泉区上飯田町2517
由緒
勧請年代は不詳であるが、社伝に「1239(延応元)年に飯田三郎能信(よしのぶ)、当時の地頭に復するや篤き奉幣(ほうへい)の儀あり猶知行平山源太郎の崇敬特に深かりし社なり」と伝え、1800(寛政12)年、式部権大輔菅原長量(ながかず)が「飯田大明神」と刻まれた銅製の神号額を奉納、また1816(文化13)年に神祇管領占部朝臣良長が当社に幣帛(へいはく・神前に奉献するものの総称のこと)を献上して祝詞を奏上している。
新編相模風土記稿に「飯田明神社、鯖明神とも唱ふ、村の鎮守なり、稲荷、山王を合祀す、村持。」と記され、鯖明神とあるように昔から境川沿いに多く祀られているサバ神社の一社で、「相模七鯖」のひとつに数えられている。
1873(明治6)年に村社に列した。








四度目の境川渡り、境川沿いに社があることを体感。川を渡ると大津家の長屋門が見えてくる。
         
大津家の長屋門は、桁行き11間(およそ20m)、梁行き2間半(4.5m)、屋根は寄棟造りで妻側を切り上げた鉄板葺き(建築当時は茅葺き)。建築年代は江戸時代末期と考えられる。長屋門は家格の象徴として村役人層の屋敷に設けられていた。大和市の重要文化財(有形文化財)に指定。


20分弱で次の左馬神社に。
左馬神社  大和市下和田1110
由緒
『新編相模国風土記稿』には「鯖明神社、村内鎮守とす。1670(寛文10)年の棟札あり。眞福寺持、 鐘楼・鐘は1670(寛文10)年造」とある。
1789(寛政元)年銘の常夜燈には「鯖大明神」と記されている。
『新編相模国風土記稿』に記述がある眞福寺は鯖宮山と号する真言宗の寺で、かつては左馬神社と深いつながりがあったようだが、大正末期に廃寺となり、詳しいことはわかっていない。左馬頭義朝を祭神とし七サバ参りの一社にあたる。










次のサバ神社までの距離が一番遠い。しかも車の往来が激しくセンターラインがない車道を進む、35分余りである。
左馬神社   大和市上和田1168
由緒
桃園天皇の1764(宝暦14年)、徳川九代将軍家重の代に当村の名主渡辺兵左衛門・小川清右門がこの地に宮を建立したと伝えられる。左馬頭義朝の霊を勧遷し村民の精神修養道場となるや漸次庶民の崇敬の的となる。
1816(文化13)年、上和田信法寺十四世住職の憧挙上人が氏子の賛同を得て、五穀豊穣の祈願をなしたところ其の御神徳の偉大さに武家・一般庶民に深い感銘を与え、以来五穀豊穣はもとより家内安穏の守護神として広く庶民の崇敬をえて来た。
古くより相模の七鯖神社のひとつに数えられ、境川流域を挟んで位置しており、神社名も鯖大明神(1764(宝暦14年)・左馬大明神(1816(文化13)年)・和田左馬大明神(1866(慶応2年)と変遷し、1909(明治42年)に現在の左馬神社となり村社に列せられる。








上和田の左馬神社北を走る中原街道で五度目の境川を渡り、最後の左馬神社に20分余りで到着。
左馬社   横浜市瀬谷区橋戸三丁目20-1
由緒
瀬谷左馬社の創建年代は不詳である。
当社近くの境内の岸に古宮と呼ぶ森があり、往昔その社を源家縁りの人等が当地に移し、源義朝公を斎ったものと伝えられる。
その昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民俗信仰である「七サバ参り」が盛んであった。 当左馬社も「七サバ神社」と呼ばれるうちのひとつであり、祭神は左馬頭源義朝である。
隣接の真言宗西福寺が、この左馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願したとのことである。






境川の中流域に、点在して源義朝(みなもとのよしとも・左馬頭:サマノカミ、サバノカミ)、或いは源満仲(和泉川沿い3社)を祀る神社が何故12社もサバ神社の名であるのだろうか。江戸時代にはもう1社、東俣野(現在の横浜市戸塚区の俣野と東俣野をあわせた地域)に在ったといわれている。
これらの神社の中で、飯田神社(上飯田)、鯖社(下飯田)、左馬神社(中の宮:和泉)の3社の創建は特段に古く、鎌倉時代中期には在ったと言われている。
その時代にこの地を治めていたのは源氏に縁が深い飯田氏である。そこでサバ神社の創建に飯田氏が関わっていたのではないかとの説がある。
また、何故和泉川沿いの3社だけが源満仲を祀っているかだが、和泉地区に信濃国出身の泉小次郎親衡(ちかひら)という人物が、鎌倉北条氏を倒すために、居住していた。そこで、この地域の人たちは何故か信濃源氏に思い入れがあり、その心意現象が伝承されて、同じ源氏の祖でも信濃源氏に近い源満仲を祭神としたのであろうということだ。
その他サバ神社には諸説あるようだが、下和田付近の伝承を紹介しておく。
「大雨による洪水が発生した後、水が引くと、木に沢山の鯖が引っ掛っていた」ことがあり、それから鯖を祀ったと云われ、サバ神社となったのではと。


江戸時代末期から大正年間にかけて7サバ巡りという、1日に7カ所のサバ神社を参る風習があった。子供の疱瘡、麻疹、百日咳に御利益があるとされたと云う。
「相模七サバ」と呼ばれていたのは、上和田、下和田、高倉、今田、下飯田、上飯田、瀬谷のサバ神社である。
今回、1日に7サバを上回る12サバ巡りを行ったが、それにはどんな御利益が現れるか楽しみだ。


                                            参考資料:神奈川県神社庁
                                                   横浜市泉区
                                                   下和田左馬神社

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