第二次世界大戦末期の昭和19(1944)年、この地芹沢公園は高座海軍工廠の一部であった。
空襲の激しさが日々増す中で地下壕がこの段丘につくられた。
ここで製造する迎撃戦闘機「雷電」の部品や書類を保管するためのものだった。
戦後地下壕は埋められたが、このほどその一部が整備され、日中は照明が点灯し、外部からではあるが見学が出来ることとなった。
地下壕堀の作業は、主に朝鮮の若者によってツルハシ等の道具で手彫りであった。爆風の衝撃を緩和させるため見事な「あみだくじ」の形に掘られており、縦横3.5m前後、長さ1.5kmに及んでいる。
下図は地下壕の平面図で、この図を作成された方によると
『●印2つが今回整備して公開した地下壕で、従来から公開している地下壕はこの図にはなく、この図の下に位置する。』
とのことである。
地下壕内部には、高座海軍工廠でつくられていた迎撃戦闘機「雷電」の模型が展示されている。
地下壕は25mの等間隔で配置されていたようで、埋められたトンネルの位置がそこから想像できる。
公園の丘の上には、高座海軍工廠の主力として働いていた元台湾少年工来日75年の記念碑と少年工が働いていた海軍工廠、生活していた宿舎の位置が表示された立札が置かれている。
この10月に来日した際に除幕式が行われた。
高座海軍工廠 台湾少年工寄宿舎
働きながら上級学校の卒業資格が取得できると云う募集条件で、12~19歳の若者を現地、台湾で数回に分け試験をして日本に呼んだ。
当時の台湾の主要な仕事は全て日本人が占めており、おのずと就職先を日本に選択せざるを得なく、8,400余名が高座海軍工廠をはじめとする軍事工場で働いた。
現在の相鉄線さがみ野駅前に30万坪(100ha)の広大な高座海軍工廠が存在していた。完成していれば3万人の工員が年間6,000機の戦闘機を生産する当時としては国内最大規模の工場となるはずであった。
この高座海軍工廠には学徒動員で、東京帝国大学法学部の学生であった三島由紀夫氏が入廠していた。
彼は、自伝小説「仮面の告白」で当時を振り返り、
「工場を疎開するための大きな横穴壕を、台湾人の少年工たちと一緒に掘るのであった。この十二三歳の小悪魔どもとは私にとってこの上ない友だった」と記している。
彼は入廠数ヶ月前に本来は軍隊に軍に入隊するはずであったが、入隊時の身体検査ではねられ免除されている。はねられた原因は、たまたまひどい風邪をひいていたことと、軍医の誤診であったようだった。入隊予定の部隊はフィリピン戦線に赴いており、アメリカ軍の市民を含む無差別攻撃による壊滅的な被害があった戦闘地域であったので、彼が入隊していたら現在読まれている三島文学は、世に生まれていなかったかも知れない。
また、後の「フジヤマのトビウオ」の異名を取った古橋広之進氏も勤労動員されていた。彼は工場の近くに住みこんで開墾とサツマイモづくりに従事していた。
彼の自伝(古橋広之進力泳30年)によると
「つらい思い出だけが残っているが、なかでもいちばん苦しかったのは、やはり食料事情であった。昼の弁当は、ニギリメシ1個と炒った豆。空腹をかかえて宿舎に着けば、待っているものは豆カスとグリーンピース。たまにサツマイモでもあれば、その皮はおろか、尻っぽ先まですべて胃袋に直行してしまう。」と述べている。
ここで働いていた海軍一等工員の日記では、高座海軍工廠での雷電製造はおよそ2年間で、50~60機にすぎなかった。当初の目的は大きく達成していなかった。ズブの年少者に短期間で戦闘機を製造させること自体無理がありやせぬか。ちなみに、ここで完成した1号機のテスト飛行では戦闘機が空中分解したという。
様々な軍需品を製造する海軍工廠は全国各地にこれだけあった。
訪れた日:2018.11.28
11.30
12.15
11.30
12.15