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歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

横浜・都築区の古民家を訪ねる

2018-02-21 12:08:28 | 横浜歴史散策
昭和の末には横浜市内には280棟余りの古民家が確認されていたが、現在ではそれも数えるほどになってしまった。
その中で、今回は都築区の古民家3棟を訪ねた。

内野家住宅母屋
建設年代については、資料に乏しく明らかではないが、手法から18世紀後半とされる。
建物は、当初広間型三間の平面で、後に座敷及び納戸の外側に小屋根である下屋を付け足し、土間の外側には厩と味噌部屋を付け足し、広間に間仕切りをするなどの増改築が施されている。
かつては、現在の青葉区荏田町の小高い丘陵地の裾を切り崩したところに建っていたが、港北ニュータウン建設に伴って、現在のせせらぎ公園内に移築された。
公園(都筑区新栄町17)内には東京都目黒区に建っていた旧小杉家長屋門も展示されている。








時代的には徳川九代将軍家重から十一代将軍家斉のころで、田沼意次、松平定信の改革が進められた時代である。また、浅間山の噴火に代表される天災の続発の影響により農民層の困窮を招いていた時代である。ただ、地域的には大山参詣や富士山参りが流行し、大山道が賑わい宿場ができたといわれる。
内野家はもとは京都の出身で、大阪夏の陣の功績により荏田に領土を与えられ、それ以降現代まで続く旧家である。

長沢家住宅
かつては都築郡牛久保村(現在の牛窪1丁目)にあって、18世紀中ごろから後半にかけて建てられたと考えられる。土間に4つの部屋が隣接する5室広間型である。
通常は居間、寝間、座敷の3室で構成されているが、当家は名主や組頭を務めており、幕府の役人役人などの接待用のスペースも用意していた。廊下でつながる馬屋は、馬を飼育する厩と味噌部屋がある。
港北ニュータウン建設に伴って、現在の都筑民家園(大棚西2)内に移築された。
長沢家住宅は丘陵の南側の裾建っていた。















関家住宅
横浜市で唯一、現在も生活で使用されている古民家である。表門、母屋、書院が建つ。表門は19世紀中ごろに建つ、茅葺の長屋門で、1891(明治24)年に養蚕のために2階建てに改造した。
母屋は17世紀中ごろに建てられた、長沢家同様、土間に4つの部屋が隣接する5室広間型である。書院は主屋の西側に建てられた10畳2間の寄棟造りで、小高い丘陵に挟まれた袋状の谷戸の中腹に屋敷を構えている。









関家は、「新編武蔵風土記稿」にも載る旧家で、江戸時代初めから名主を務め、後期には代官職も兼務した。

訪れた日:2017.12.2
     2011.10.7


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麻布の七不思議を尋ねる

2018-02-18 15:04:05 | 東京散策
麻布地区総合支所地下1階には、次のものを江戸時代「麻布の七不思議」として取り上げ壁面のレリーフに取り上げている。

永坂の脚気石(五嶋家門前の要石)
都営環状3号線を鳥居坂下交差点から鳥居坂を上ってゆくと5分ほどで右手に麻布地区総合支所の建物がある。かつてこの地には五嶋近江(または大和)守の屋敷があり、その門前に「かなめ石(永坂の脚気石)」があったという。
この石に塩を供えて願いをすると、足の病に霊験があるとの評判であった。江戸時代江戸では上流階級を中心に白米が流行ったことで、ビタミンB1欠乏症となった。これを「江戸患い」と呼ばれた。このためこの脚気石の人気も高かったと想像する。
しかし、道の中央にあって通行の邪魔であったので移動しようとしたが、掘っても掘っても底が見えず、明治になって、露出した上部だけを取り除いたという。このため殆どの部分は今も地中に存在していると云われる。

要石が埋まる道の前に建つ麻布地区総合支所

狸穴の古洞
麻布地区総合支所の建物前をさらに進むと外苑東通りの六本木5丁目交差点にぶつかる。ここを左折し麻布通の飯倉交差点も直進すると左手に麻布郵便局があり、その向かい側の坂が狸穴坂である。
狸穴坂
タモリさんが書いた東京の坂の本を持って坂道散歩をする年配のご夫婦が歩いていた。
坂道は工事していて、掘った土がトラックに載っていたが、それはきれいな砂であった。
坂を下り切った辺り(坂の途中という説もある)に江戸時代大狸が住む洞穴があったという。当時は、狸が住むに相応しい場所であったと考えられる。それが「狸穴古洞」といい、「麻布狸穴町」の地名の発祥ともなっている。現在はこの町名はごく一部で、その多くは「麻布台」と現代的な地名になっている。
以前も「狸穴」の歌詞が含む歌謡曲について書いたことがあるが、「狸穴」は古き名称になってしまったのか?
参考までに「狸穴」の歌詞が含む歌謡曲は、都はるみさんの「東京セレナーデ」、ロス・インディオス&シルヴィアさんの「別れても好きな人」の原曲。それとサザンオールスターズさんの「愛と欲望の日々」である。
坂の近くに狸穴公園がある。狸に関するものがあるかな?と思ったが、その公園には小さな社が祀られていたが、「狸穴稲荷大明神」ということで狸ではなく狐であった。
狸穴大明神

一本松
十番通りの麻布十番の人気ストリートから暗闇坂を上がると一本松になる。たぬき坂、大黒坂からも登り切ったところである。ここからは一本松坂の登り道が、氷川神社方向へと続く。一本松を中心に四方が坂となっている。
中央に一本松。奥の坂が一本松坂、手前が大黒坂、右手が暗闇坂と狸坂に分かれている。

一本松とは、様々な由来があるが、古くは閻魔庁の役人を務めたという小野篁(たかむら・802~53)が京都から旅した高貴な松の宮がここで亡くなったので埋葬し、松を植えたといわれる。その後の時代では平家の落人が自害した場所とか、源経基(つねもと・平安時代中期)がこの松に衣冠をかけた。関ヶ原の戦いで送られてきた多くの首級を埋めた首図塚、人を呪う丑の刻参りに使われた、元麻布の氷川神社のご神木、秋月邸の羽衣の松、etc。
またまた、一本松の呼び名も多種あり、冠松、呪いの松、羽衣の松と由来に関係する名がついている。
江戸名所図会 麻布一本松
池波正太郎原作の「鬼平犯科帳」に一本松の茶店が登場し、配下の木村忠吾が何気なく蹴った小石がドラマの発端となる。
そして、浪人集団に一本松に呼び出された長谷川平蔵が、途中の鼠坂で襲われるシーンもある。
麻布狸穴町、麻布永坂町の間の坂で、江戸では、細長く狭い道を、ねずみ坂と呼んだそうだ。
「江戸名所図会」の「麻布一本松」に描かれている茶屋「ふじ岡」は「鬼平犯科帳」にも登場する。

一本松から通づるたぬき坂(旭坂)の由来は、大正の頃までこの坂には石塔や石地蔵を使ってイタズラをする古狸が住んでいた。この坂は、昔から樹木が鬱蒼としていたため、昼中でも婦女子は通るのをためらったほどであった。
ちなみに、狸坂の先には狐坂も存在する。この坂には明治の初め頃まで1匹の狐が住んでいて、狸坂の狸と化け比べをしていたと。また、美しい娘に化けて人さまを化かしたという。

蟇池
江戸時代後期の大名、備中国成羽藩(びっちゅうのくになりわはん)の屋敷が現在の港区元麻布2丁目にあった。その屋敷には大きな池があり、そこに巨大な蟇(がま)が棲んでいた。ある時、2人の家臣に毒気を当てて殺してしまったため、断った主税助(ちからのすけ)は池の水を抜いて巨大な蟇を退治しようとしたところ、主税助の夢枕に立ち、詫びを入れた上で命乞いをした。今後は火災から屋敷を守ると約束し、火傷の薬を伝授した。
数日後、山崎家の屋敷に火の手が迫った時、この巨大な蟇が火災を防いだことから「上(じょう)の字さま」と呼ばれるようになり、防火・火傷にご利益があるといわれるようになった。
池の広さが500坪(1,650㎡)あり、四面が深い樹林に囲まれ、いかなる日照りでも枯れたことはなかってといれれていたが、現在、埋め立てられマンションの敷地の一部として残っており、竹やぶの隙間よりわずかに眺められる。コンパクトカメラでは焦点が合わず、池を写すことはできなかった。




「上の字さま」は麻布十番稲荷神社に祀られ、「〇〇かえる」のお守りとして授与されている

蟇池の近くの旧渡辺千冬邸に「七色椿(化け椿)」咲いていた。枝を四方に張り、七色の椿の大輪の花を咲き誇っていたと言う。「朝晩、花の色を異にする」とか「花の色が異なっていた」などと噂されていたが、1937(昭和12)年に枯死した。これも七不思議に数えられている。
近くに椿の生け垣が植えられていたので写す


柳の井戸
氷川神社の前の道を100mほど南に向かうと仙台坂上の交差点となる。ここを左折し仙台坂を下ってゆく。2つ目の信号が「麻布山入口」。ここを左折するとすぐに善福寺の広い参道が左手にある。
「柳の井戸」は山門手前右手にある。
この井戸は、弘法大師が鹿島大明神に祈願して、手に持つ錫杖(しゃくじょう)を突き立てると、そこから清水が湧き出したという。その代わりに常陸の国の鹿島神宮にあった霊水「七井」のひとつが空井戸なってしまったという。
これも各地にある空海伝説のひとつなのか?ただ、関東大震災や太平洋戦争時の東京大空襲の際には多くの人がこの水によって救われたという。清水は今も湧き出ている。
柳の下に清水が湧き出ている


善福寺の逆さ銀杏
善福寺の山門から境内に進むと右手に東京都天然記念物の大銀杏の巨木が立っている。乳根(気根)が多数垂れさがって、幹が逆さに伸びているように見えることから「逆さ銀杏」と呼ばれている。
樹齢770年、幹回り15m。こちらは親鸞上人が立てた杖が、そのまま地に生えて大木となったと云われる。空襲で本堂と共に罹災した。
善福寺は最初のアメリカ公使館が設けられた。
江戸名所図会 善福寺

善福寺山門 左手に逆さ銀杏が見える

乳根が垂れ下がる逆さ銀杏

広尾の送り囃子
江戸名所図会 広野原
天現寺橋交差点を中心とした恵比寿2丁目から古川を挟んで広尾5丁目から南麻布辺りを以前は広尾の原、土筆ヶ原と呼ばれ、江戸時代には江戸名所図会にも描かれた庶民の散策の地であった。
秋の名月のころになると、どこからともなくお囃子の音が聞こえてきて、近づいてはいつの間にか消えたという、「送り囃子」が聞こえる一帯である。
交差点前には多聞山天現寺で、毘沙門天を安置している。
広尾毘沙門堂

古川には「狸橋」と名の付く橋が架かっているが、その由来は、
むかし、橋の南西にそば屋があって子供を背負い手ぬぐいをかぶったおかみさんにそばを売ると、そのお金が、翌朝は木の葉になったという。
麻布七不思議のひとつ。狸そばと呼んだのが、それが橋の名になった。ほかに、江戸城中で討たれた狸の墓があったからとも(由来碑より)。
親柱に擬宝珠が乗った狸橋

古川に架かる「四之橋」は土屋相模守下屋敷があったことから、「相模殿橋」ともいわれた。この橋の近くに尾張屋藤兵衛が商う「狐しるこ」の店があった。そこに時々狸が化けて買いに来た。翌朝お金を数えると、中に発破が混じっていた。これが評判となって、大変に繁盛したという。



土屋相模守の下屋敷が描かれている四之橋

橋は、天現寺橋、狸橋、五之橋、四之橋と続く。

港区麻布は不思議話の多い地域であって、知られているだけでも40近くある。その中で七不思議に取り上げられている話だけでも30以上あり、どれが麻布七不思議なのか諸説あるので、区では7話を選択しているが、それだけではでは収まらないのでプラスアルファで列記した。

資料参考:(東京の「怪道」をゆく)
訪れた日:2017.11.10
        12.14
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花川戸の姥ヶ池

2018-02-12 11:21:07 | 東京散策
浅草寺を二天門から出て東に向かうと、
「花川戸」という町名が目についた。昔の名が残っていることがうれしい。
と、言っても以前は「浅草」が頭について「浅草花川戸」と呼ばれていたようだ。
町名の由来は、
『川や海に臨む地に戸を付けることが多いという。花川戸の地は桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など桜と隅田川に結びついていたので、この名が付いたのであろうか。』
とのことである。

「花川戸」からイメージする人物となると、「お若えの、お待ちなせえ」の幡隋院長兵衛が出てくる。
この人、歌舞伎でも有名だが、江戸時代前期の町人で、ここ花川戸で口入屋を営んでいたとされる。が、片や、日本の侠客の元祖とも云われる人物でもある。
旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領として名を売るが、若い者の揉め事の手打ちを口実に、旗本奴の頭領・水野十郎左衛門に呼び出され、罠で、殺されることも承知で屋敷に出向き、湯殿で裸でいるところを襲われ、殺害されたという。享年36歳。墓所は、東京都台東区東上野6丁目の源空寺。

少々進むと、大きな公園があった。
花川戸公園(台東区花川戸1丁目4-15)である。
ここにはいくつかの碑が立っている。

姥ヶ池旧跡の碑
ここに1891(明治24)年に埋め立てられるまで、姥ヶ池というかなり大きな池があった。池は隅田川まで通じていたと言われているので、相当な面積であったと推測される。
浅草寺が創建された頃、この周辺一帯は浅茅が原と呼ばれ、奥州へ向かう街道ではあるものの、見渡すばかりの荒れ地であったという。その荒野にあばら屋が一軒、老婆とその娘が暮らしていた。
この辺りで日が暮れてしまうと、旅人はこの一軒家に宿を借りるしかなく、二人もそれを承知して旅人を泊めていた。しかし親切な老婆の正体は、旅人が石枕に頭を置いて眠りに就くと、吊した大石を落として頭を叩き潰して殺し、遺骸は近くの池に捨てて金品を奪ってしまうという鬼婆だったのである。そしてその所業を浅ましく思う娘は何度も諫めるが、老婆は聞く耳を持たなかった。
あと一人で千人の命を奪うところまできたある夕刻、一人の稚児が宿を請うた。老婆はいつものように床に案内すると、稚児が寝てしまうのを待った。そして頃合いを見計らって、いつものように大石を頭めがけて落とした。そして遺骸を改めたところで、異変に気付いた。いつの間にか稚児は女の身体にすり替わっていた。しかもそれは我が娘であった。さすがの冷酷無比の鬼婆も事の次第に茫然自失するしかなかった。
そこに全てを悟ったかのように稚児が姿を見せた。その正体は浅草寺の観音菩薩。老婆の所業を哀れんで、稚児に姿を変えて正道に立ち戻らせようとしたのである。
その後の老婆であるが、娘を自らの手に掛けた報いと己の所業を悔いて池に身を投げたとも、観音菩薩の法力によって龍となって娘と共に池に沈んだとも、仏門に入って手を掛けた者の菩提を弔ったともいわれる。いずれにせよ、この“浅茅が原の鬼婆”にまつわる池として姥ヶ池と呼ばれるようになったという。                                     (「一ツ家伝説」・日本伝承大鑑より)
この伝説に出てくる「石枕」が浅草寺の子院・妙音院に所蔵されている(非公開)。


社に祀られているのは、福壽稲荷大明神である。

助六歌碑
1879(明治12)年、9世団十郎が中心となり、日ごろ世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、菩提寺の仰願寺に建立した。(大正12)年の関東大震災で崩壊し、しばらくは地中に埋没していたが、その後関係者の子息によって、この地に再造立された。
碑面には、『助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり 団洲』と刻まれている。
団洲は、9世団十郎の雅号である。
「助六」は歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である歌舞伎十八番のひとつで、中でも特に上演回数が多く、また上演すれば必ず大入りになるという人気演目である。
助六は実在の人物であるが、その実態は不明である。関東大震災までは浅草清川にあった易行院(現、足立区伊興町狭間)に墓がある。

履物発祥の地碑
下駄、草履時代からの履物問屋が並び発祥の地として栄えている。
12月には履物のみならず、財布、小物、バックなどが販売される「花川戸はきだおれ市」が開かれ、賑わっているそうだ。
私も独身時代に一度父に連れられ靴の問屋に来たことがあり、それ以来よく足を運んでいた。
帰りは、銀座を通り、東京タワーまで歩いて帰った思い出がある。半世紀も前のことである。


公園の前の道を東に進むと隅田川沿いとなる。



訪れた日:2017.12.30


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