あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

天皇誕生日2017皇居参賀

2017-12-23 18:15:23 | 東京散策
9:28






9:37


9:56


10:15










10:20










10:33








10:55




平成天皇陛下への参賀は数年前から実現したかったことであった。
予定では2回目のお出ましを目標にして家を出たのだが、運悪く1回目の最終グループになってしまった。
手荷物検査に続き、新体検査。ここでは万歩計が反応した。
長い行列の末、中門から宮殿前の広場に着いた時には皇族方々はお出ましになっており、あっという間の参賀であった。
参賀者は午前中だけでも昨年を上回ったようだ。

参賀は1956年の二重橋事件以来のことであるから、実に60年ぶりのことになる。それ以前にも2度ほど親に連れられて来ていた。それで事件当日の混雑は異常なことを子供心にも感じた。
その時は参賀はせずに人混みの中からやっと抜け出して帰宅した。帰宅してから重大な事故が発生したことを知った。

訪れた日:2017.12.23

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彫刻の寺「帝釈天」を参拝(柴又・矢切を歩く2)

2017-12-16 11:57:38 | 東京散策
柴又帝釈天は、江戸時代初期の1629(寛永6)年に開創された、葛飾区柴又にある日蓮宗の寺院。
正式名称は経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)である。その後、今から240年前、徳川10代将軍家治の時代、1779(安永8)年に、本堂修理の際に一時不明だった板本尊が棟の上から発見された。それが、庚申(かのえさる)の日であったことから、庚申日を縁日に定め、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになったという。
題経寺が略称して呼ばれている「帝釈天」とは仏教の守護神のひとつである。
1933(昭和8)年に始まった柴又七福神巡りでは、毘沙門天(多聞天)が祀られている。




二天門
1896(明治29)年建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施している。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置しており、門の名はこれに由来する。


帝釈堂
内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置している。
堂の前には、樹齢約450年、高さおよそ12mの「瑞龍の松」が植えられている。この松がここにあったことで、この地に庵を開くきっかけになったひとつだそうだ。


彫刻ギャラリー
帝釈堂の外部、東・北・西の全面に装飾彫刻が覆われている。
メインは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び浮き彫り10面の作品である。これは、1922(大正11)年から1934(昭和9)年にかけて、10名の彫刻師が1面ずつ分担し制作している。
これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している。












庭園・邃溪園(すいけいえん)
大客殿前に広がる池泉式庭園で、1965(昭和40)年造られた。庭園の周囲に設けられた屋根付きの廊下から回遊して見ることができる。
大客殿は、1929(昭和4)年完成で、入母屋造瓦葺、平屋建で左右に細長い建物である。東京都の選定歴史的建造物になっている。















()柴又帝釈人車鉄道
1899(明治32)年から1913(大正2)年まで、丸13年間金町駅から柴又村までの1.4kmを日本で5番目の人車鉄道が走っていた。その模様である。『人車』の通り、6人乗り客車を人が押して運んでいた。
寅さん記念館にもジオラマが展示されていると云う。

()渡し船



祖師堂(本堂)
帝釈堂の向かって右にあり、帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。
こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。


釈迦堂(開山堂)
江戸時代末期に建立された、寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。


大鐘楼
1955(昭和30)年完成。高さおよそ15mの総欅造り、関東一の鐘楼と云われる。


御神水
開山以前より湧き続け、題経院日栄上人がこの地に庵を開くきっかけになったという名水。
人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)が産湯に使った御神水。


淨行菩薩
日蓮宗・法華宗では、『法華経』に登場する上行(じょうぎょう)、無辺行(むへんぎょう)、安立行(あんりゅうぎょう)、そして浄行(じょうぎょう)を四菩薩と称する。
菩薩は修行の初めに願を起こし、淨行菩薩は「人間を悩ませる数限りない煩悩を断ち切ること」を誓い願う。と云うことで、浄行菩薩像を水で洗い清めることによって、自分自身の煩悩を清めることになり、さらに自分の身体の悪いところと同じ部分を清めて祈願をすれば霊験をいただけるという信仰もあって、タワシで菩薩像を洗い清めているようだ。


観音菩薩座像と大日如来座像(?)
祖師堂(本堂)に向かって右に建つ。観音菩薩座像は、元は富士山頂に位置した下山仏であったようだが、明治時代の廃仏毀釈令によってこの地まで流れ着いたようだ。
右に座する大日如来座像も同様か?




南大門
1982(昭和57)年に建てられ、ニ天門に向かって右側に位置する。門扉には当寺の紋である「稲妻(雷)紋」が彫られている。





納めの更新日、今年は11月29日で、その日にこだわって参拝した。
寅さんの映画では、庚申日には神輿が出たのだが、これも映画ではなのか。
ただ、人出は多かったようだ。数日前にNHKで参道が放送されたが、同じ昼時での人出が全く違っていた。

庚申日前日には帝釈天まといが参道を巡行し、帝釈天に奉納されるとTV東京で放送された。
それなら前日に。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京国立博物館の庭園散歩

2017-12-08 12:17:37 | 東京散策

東京国立博物館に庭園があったなんて!
知らない人が多いのでは、
それもそのはず、春と秋のそれぞれ1か月余の期間限定で公開する庭だった。

元々はこの敷地は寛永寺の境内であった。現在本館が建っているところは本坊があって、その北側に庭園が広がっていたようだ。ただ、庭は何度も改築されており、その上、5棟の茶室も移築しているため、昔の面影今いずこではある。




六窓庵
慶安年間(1648~52)に奈良の興福寺に建てられたものを1875(明治8)年に移築された。名は窓が六つあることにちなむ。



応挙館
1742(寛保2)年、尾張国(愛知県)の天台宗寺院・明眼院の書院として建てられ、一度移築後1933(昭和8)年にこの地に。



鉄灯篭の基壇
石の上に鉄灯篭が据えられていたが、錆が著しくついてしまい、台風によって竿から上が倒壊してしまった。そのため基壇だけが置かれている。







転合庵
武家・茶人の小堀遠州(1579~1647)が桂宮から茶入「於大名(おだいみょう)」を賜った折、披露のために京都伏見の六地蔵に建てた茶室。

五重塔
徳川五代将軍綱吉が法隆寺に奉納した高さ570cmの銅製の塔。「大和国法隆寺元禄元年(1688)十二月日常憲院徳川綱吉の」銘文が基壇にある。常憲院とは綱吉の院号。


雨が傘が必要な雨脚となってしまったので、残念ながら短時間で引き上げた。

今回の博物館訪問は、「運慶展」である。

上野駅を下りたったのは朝の9時半を回っていた。今は横浜から乗り換えなしに来れることはうれしい。
博物館に到着。チケットを買うのに30分待ち。





入館まで再び30分待ち。
この日、入場者が40万人を越え、セレモニーがあったことをあとで知る。






展示会場に上がり、先ずは音声ガイドをレンタルする。展示されている仏像でも、何故か案内がない像もあった。


外に出るとムサシがかすんで見えた。

来年1月からは横浜の金沢文庫で運慶展が開かれるようだ。上野で見られなかった方はチャンスである。

上野公園では寛永寺山門「文殊楼」をモチーフとし、かつてそこに存在したものや時間、空間、記憶の 連鎖を体感させる大型インスタレーション(作品展示)が開かれていた。
文殊楼は、入母屋造重層の門。1627(寛永4)年に建立した仁王門が1688(貞享2)年焼失したため、のちに1697(元禄10)年に建てられたのが文殊楼であるが、それも上野戦争で焼失した。

上野も秋が深まった。

訪れた日:2017.11.14

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野菊の墓と矢切りの渡し(柴又・矢切を歩く1)

2017-12-06 16:42:49 | 東京散策
              「まァ綺麗な野菊、政夫さん。」
              「私にも半分おくれったら、私ほんとうに野菊が好き」
              「僕はもとから野菊がだいすき。民さんも野菊が好き・・・・・・」
              「私なんでも野菊の生まれ返りよ。
              野菊の花をみると身振が出るほど好もしいの。
              どうしてこんなかと、自分でも思う位」
              「民さんはそんなに野菊が好き・・・・・・
              道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
              民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。
           
(野菊の墓碑「野菊の人」より)


15歳の少年。斉藤政夫と2歳年上の従姉、民子との淡い恋物語である。
舞台は明治時代の千葉県松戸市矢切付近であり、矢切りの渡しは政夫と民子の最後の別れの場となったところである。

船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個(ひとつ)につめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗する訣でもう船は来て居る。僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでも咽がつまって声が出ない。民子は僕に包を渡してからは、自分の手のやりばに困って胸を撫でたり襟えりを撫でたりして、下ばかり向いている。眼にもつ涙をお増に見られまいとして、体を脇へそらしている、民子があわれな姿を見ては僕も涙が抑え切れなかった。民子は今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返しに薄く化粧をしている。煤色(すすいろ)と紺の細かい弁慶縞で、羽織も長着も同じ米沢紬(よねざわつむぎ)に、品のよい友禅縮緬(ゆうぜんちりめん)の帯をしめていた。襷(たすき)を掛けた民子もよかったけれど今日の民子はまた一層引立って見えた。
(青空文庫『野菊の墓』より)


その後、民子は他家に嫁に行き、流産で命を落とす。死んだ民子の手には紅絹(もみ・女ものの薄手の絹地)のきれに包んだ政夫の写真と手紙が握られていた。
政夫は民子の墓の周りに、好きだった野菊を一面に植えた。
原作は、伊藤左千夫で、百恵さんや聖子さんがTVや映画で民子を演じている。


矢切の渡しで江戸川を渡って20分、「野菊のこみち」をたどって野菊の墓の記念碑が建つ西蓮寺(千葉県松戸市下矢切261)に向かった。

矢切の渡し
徳川幕府は、戦略上、江戸城を守るために、交通の要衝となる川には橋を架けなかった。そのかわり、川を渡るために「渡し」を設けた。柴又と対岸の矢切を結ぶ「矢切の渡し」は江戸時代初期に地元民専用として、耕作、日用品購入、社寺詣などの目的で利用を許されていた。一般の通行は、上流の金町~松戸関所の渡しを利用しなければならなかった。
現在は、柴又に来る観光客のための渡船として楽しまれている。大人片道200円。





矢切側船着場


「矢切の渡し」と云えば、細川たかしさんがレコード大賞を受賞した歌謡曲として知られているが、TBS-TVで「寂しいのはおまえだけじゃない」というドラマがあったが、その中でちあきなおみさんの「矢切の渡し」が流れていたことが印象にある。そのドラマでセリフ回しが一本調子だと思った旅役者芸人役で登場していた人物がいたが、後に誰もが知る下町の玉三郎こと梅沢富雄さんであった。今から35年も前のことである。

野菊のこみち
渡しを降りてからは西蓮寺までをスマホの地図頼りに歩く予定で住所を控えておいたのだが、その住所が誤っていたようで、行き先不明になってしまった。あとで調べたら松戸市には西蓮寺が2寺あることが分かった。
しかし、江戸川の堤に上がると、目の前に矢切の渡しの大きな看板や地図も備えられていた。
しかも「野菊のこみち」のネーミングも付けられて要所には道標が建つ親切な案内が備えれているコースなので、迷わずに目的地にたどりつけた。
















矢切のネギ
「野菊のこみち」はネギ畑の中を歩いて行くので、ネギの匂いがたっぷりだ。
この辺りは川砂地で、江戸川の氾濫によって大地ができたようだ
で、その土壌がネギの栽培に適しているようで、ネギの品種名にもなっている。ただし品種は一説に2万種もあるようだ。この矢切ネギは明治時代から「焼いてよし、鍋によし」で松戸の名産品(地域ブランド)にもなっている。




大井戸之碑
坂の改修で井戸を埋めることとなり、記念に碑が建てられた。
ここにあった井戸は徳川時代からあって、いかなる時も枯れることなく、生活用水に田畑への往復の際に喉を潤す水であったことが刻まれている。1958(昭和33)年に建てられる。


伊藤佐千夫文学碑
西蓮寺(松戸市松戸1900-1)境内に『野菊の墓』の記念碑がある。
文学碑は、左千夫の門人である土屋文明の筆になるものであり、小説『野菊の墓』の一節が刻まれている。
「僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡を東へ渡り、小高い丘の上でやはり矢切村と云ってる所。・・・・・・」




八幡山西蓮寺(はちまんざんさいれんじ)
境内には「伊藤佐千夫文学」の碑が建てられている。
また、この地は北条氏と里見氏の国府台合戦の主戦場でもあり、その合戦の模様が本堂裏に掲示されている。
それによると今から400年程前、二度ほどの大戦争があって、敵味方千人以上の死者が出たという。また、当地に庚申板碑が出ている。板碑は1543(天文12)年と室町時代の作品である。板碑としては比較的に新しいようだ。








野菊苑
西蓮寺の向かい側の崖上の小さな公園で「野菊の墓」の舞台とされるところ。政夫が民子を待った大きな銀杏の木は西蓮寺の入口にかつてはあったと云う。
ここからは江戸川方向が望める。



矢喰村庚申塚
矢喰村庚申塚の由来によると、この地は下総の国の重要な地点であったことで、北条氏と里見氏の国府台合戦の主戦場となり、戦没者がこちらの解説では1万人余を数えた(西蓮寺の解説と大きな隔たりがある)。家は焼かれ、田畑は荒らされ、女子供年寄りは逃げまどい、男どもは人足に狩り出され、一家離散。この塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり、「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれた。
江戸中期に二度と戦乱のないよう、やすらぎと健康を願い、庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻み朝夕祈ってきた。







庚申塚は角地に青面金剛像、馬頭観世音像、地蔵尊像などが鎮座している。

矢切神社
1704(宝永元)年、長雨により、江戸川が大洪水を起こし、水高が地面より3m近く(8尺余り)に及んだ。当時は江戸川沿岸に民家があったため、多数の死者を出し、産業も甚大な被害を受けた。そのため村民が台地上に移住し、鎮守として京都より稲荷を勧請して祀った。かつては稲荷神社と呼ばれていたが、現在は第六天神、稲荷、天神(菅原道真)を祭神として祀っており、矢切神社に名を変えている。
扁額には「葛飾郷」と記されている。葛飾「郡」は現在の東京都、千葉県、埼玉県にまたがった地域だが、「郷」となると狭い地域であり、それが葛飾区内ではなく、千葉県側にあるとは驚きだ。






対岸の柴又に向け帰路につく。





帰りの船はエンジンで少々上流に上がり、川の流れに任せて柴又の船着場に着岸した。

訪れた日は11月29日で、今年の営業終了前日であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする