青山から渋谷の散策
江戸の頃、青山は江戸市街の外縁部にあたり、大名屋敷や武家屋敷が点在していた。その屋敷跡の変遷を今回めぐってみた。
そこで東京メトロ銀座線の外苑前駅からのスタートである。
外苑前駅前の国道246号青山通りを渡り、すぐ右手の路地に入り道なりに進んでいくと都道418号外苑西通りに出る。この道を右折するとすぐ右手に最初の目的地に着く。(所用4分)
●海蔵寺=港区北青山2-12-29
掃雲院殿(近江彦根藩藩主直孝の長女亀姫)が海蔵庵として1671(寛文11)年に創建。黄檗(おうばく)宗。
神奈川奉行、長崎奉行を歴任した、幕臣京極越前守(能登守)高朗の墓がある。
朱色の山門
戦火で割れた山門を示す石碑
山門の中に納められている庚申塔(中央)
本堂は都会の寺院らしくビルの中にあるようだ。祀られている庚申塔が見当たらずうろうろしていると住職らしき方が私服でビルから出てきた。訪ねると山門のほうに案内され、開いていた門のロックを解きわずかに閉じると庚申塔が見えた。庚申塔は朱塗りの山門の中に大事に納められていた。
これでは見つかりにくい。住職に出会ってラッキーであった。
話によるとどこかの工事現場から出てきた庚申塔を先代が引き取ったということだ。丁寧にお礼を言って寺院を後にする。
外苑西通りを進み、原宿団地北信号の右手路地を入って行くと右手に神社が見える。(4分)
●青山熊野神社=渋谷区神宮前2-2-22
1619(元和5)年徳川頼宣卿(家康の十男で紀州徳川家の祖)の邸内(現在の赤坂御所)に奉斎されていた御宮を町民の請により1645(正保元)年現在地に移遷。青山総鎮守と仰ぎ奉り社号は当初熊野大権現で、明治以降、青山熊野神社と改称する。
茅の輪くぐり
茅の輪くぐり
暮れの大祓いの行事である茅の輪くぐりは作法に従ってこの輪を3回くぐると無病息災になるという習わしがある。大祓いは年に2度ほど行われ、6月に夏越(なごし)の祓がある。
鳥居前の道を東に進んでいく。(2分)
●高徳寺=港区北青山2-10-16
徳川十一代家斉(いえなり)時代の茶坊主・河内山宗俊の墓がある。宗俊は、博徒や素行の悪い御家人たちと徒党を組んで、金品を強請(ゆす)り取るようになった。牢内で獄死する。
河内山宗俊の墓は山門前の道端のごみ収集場所付近にあった。裏を見ると宗俊100回忌の大正11年に建立されている。本当の墓は境内にあるのだろう。
道をさらに東に進み、青山通りを突っ切ると正面に、梅窓院の参道は都会とは思えない風景があった。(5分)
●梅窓院=港区南青山2-26-38
徳川氏譜代家臣で、郡上八幡城主青山大蔵小輔幸成(あおやまおおくらのしょうふよしなり・1586~1643)が開基となり、1643(寛永20)年幸成の側室を大壇越(檀家)として青山家下屋敷に創建した浄土宗の寺院。
幸成は徳川氏譜代家臣・青山忠成の四男、摂津尼崎藩初代藩主。安土桃山時代から江戸時代前期の大名。
青山の地名の由来となった大名。
竹林の参道を進むと重々しい山門へと続く、だが、その先は都会の寺院であった。
青山家宗家累代の墓所は広い面積がとられ、最近造立された様で墓石は真新しい。
車出から路地を南下すると左手に区営のテニスコートが、その先に青山霊園の入口がある。霊園の中を通って青山墓地中央交差点に。(12分)
●青山大膳亮下屋敷跡(現青山霊園) =港区南青山2-34
この地、青山両家の土地は、一説では、徳川家康の関東移封の後、青山家宗家・青山忠成が家康に「馬に乗って一回りしただけの土地をやる。」と言われ、馬で走り回って広い土地を得たと云い、その後、その土地は兄の篠山藩青山家と弟の郡上藩青山家に分れる。
大膳亮(だいぜんのすけ)とは饗膳を供する機関の職位のこと。
青山霊園には、志賀直哉、大久保利通、乃木希典等が眠っている。また、忠犬ハチ公も主人の傍らに眠っている。附属の立山墓地には、幕末の尊王攘夷派、赤報隊隊長・相楽総三が眠っている。
霊園には案内板も碑も見かけられないので、江戸切絵図を引用する。
墓地中央の道を西に、相楽総三の墓を探しに青山陸橋越えてすぐの立山墓地に行く。相楽総三は、むかし佐々木愛さんが主催する劇団文化座の相楽総三を主人公とした劇を観たことで親近感が湧いてのお参りである。総三は「年貢半減」が新政府に認められ、それを旗印に官軍の先鋒を勤めたものの政府の方針転換により偽官軍として処刑されてしまう。
以前にも書いたが新政府は年貢半減するのではという噂やそれに伴った庶民の願望があったが、新政府は富国強兵政策で半減どころではなくなり、明治初期には江戸時代を上回る一揆が発生していたといわれる。
時間をかけて探したが見当たらず諦めて墓地脇の道を南下する。
毎回思うのだが、予習が不足しているとつくづく感じる。(7分)
●青山の庚申塔=港区南青山2-18-3
建立は1865(慶応元)年の建立。まさに幕末、3年後には明治にはいる。この石碑は道しるべも兼ねていて 「右 あをやま 内とうしん宿 ほりのうち 左 二十きおくみ 百人おくみ ぜんこうじ」と記されている。
次の長谷寺は、道場もあって大きな曹洞宗の寺院で、山門が分かりにくかった。住所頼りに"感"で進んでいくと町名が違ってしまった。慌てて戻る。寺院の周囲を囲んだ民家の周りの道をぐるっと一周近く歩いたようで所用時間は倍ほどかけてようやく到着。(14分)
●長谷寺(ちょうこくじ)=港区西麻布2-21-34
かつて「渋谷が原」と呼ばれたこの地に古くから観音堂が建ち、奈良長谷寺の観音さまと同じ木片で造られたという。小さな観音さまが祀られ、人々に親しまれていたことがはじまりとされる大本山永平寺別院の曹洞宗の寺院。
本堂前の風神・雷神像
坂本九、榎本健一、井上馨の墓があるという。
山門前の路地を進んで、骨董通りを青山通り目指して進む。青山通りは表参道方向に。善光寺は表参道交差点の先にある。(13分)
●善光寺=港区北青山3-5-17
もとは谷中に信州善光寺の別院として建立されたが火事で消失。その後青山に移された経緯をもつ無宗派の寺院。
善光寺の仁王門の裏にも風神・雷神像が祀られていた
色鮮やかな鐘楼
境内に蘭学者・高野長英の名誉回復を記念して勝海舟の撰文による顕彰碑㊦がある。近くには、顔を焼いて人相を変え沢三伯という偽名を使って隠れていた長英の隠れ家跡(現在スパイラルホールが建っている辺り)がある。長英は、この地でとりかたに発見され、47歳で自害した。
参道を出た辺り一帯が百人町
●青山百人町
青山百人町は現在の善光寺の辺りの旧町名。これは青山の地名の由来になったと言われる青山忠成が、この一帯に鉄砲百人組の与力・同心を住まわせていたことに由来する。
表参道を明治神宮方向に歩いて行く。
「原宿 表参道 ゆれて青山あたり」なんて思いながら歩いていくと石造りの建物に行きあたった。高級衣料の店のようだ。この建物、何かのTV番組で知ったことがあるな。と記憶を手繰り寄せた。(6分)
●参道の石垣=渋谷区神宮前5-7-20
表参道は高級ブランドが立ち並ぶ通りであるが、ここは一際シックな石造りの建物と思いきや。この石造りは参道の石垣であった。この辺りは小高い山があってそこを平に削って道をつくったため石垣となった。当初は道の両側にあったものだが再開発の波を受けて消えていったが、ここだけはこの建物のオーナーの旦那さんがどうしても残しておきたいとのことで、今も大切に残されているという。ということで、昔の表参道のなごりである。今ここを歩く通行人はこんなこと知らないであろう。
このはなし、NHK「ブラタモリ」の受け売り。
表参道を進んで行き、神宮前交差点で左折して少々進んでいく。この道は、305号明治通り、右手キリンビール本社ビル見るとすぐに長泉寺がある。(8分)
●長泉寺=渋谷区神宮前6-25-12
文治年間(1185年-1190年)の創建と伝わる曹洞宗の寺院。
本堂裏手の奥に、一面観音、千手観音、馬頭観音、地蔵菩薩など約200体の石仏群
明治通りを少々進み、すぐの陸橋を渡り南東方向に子供の城まで進む。(16分)
●淀藩稲葉家下屋敷跡(こどもの城・国際連合大学) =渋谷区神宮前5-13-1、神宮前5-53-70
向かい合う国連大学とこどもの城は、山城淀藩稲葉家下屋敷跡で、明治に入って北海道開発のための開拓使官園となり、明治末期には市電青山車庫になり昭和40年代まで続いた。
左手こどもの城 右手国際連合大学
青山通りを挟んで、向かいが青山学院、正門が見える。(2分)
●西条藩松平家上屋敷跡(青山学院大学) =渋谷区渋谷4-4-25
この地は、かつて伊予国西条藩松平家上屋敷があった。西条藩松平家は、紀州徳川家からでた親藩連枝で、吉宗が将軍になったあとの紀州藩に藩主を送り込むなど、宗藩との関係が非常に深い家柄だった。西条藩上屋敷の前の通りは、霊山・大山に詣でる巡礼で栄えた大山街道沿いにあった。1871(明治4)年に北海道開拓使官園(現在の農園試験場)となる。北海道に移転したあとは、横浜山手に開校していた「美會神学校」と、東京築地にあった「東京英学校」がはいり、これがのちに青山学院大学の原形となる。
ここも案内板も碑も見かけられないので、江戸切絵図を引用する。
青山学院の南側を走る六本木通りを渋谷四丁目信号で渡る。右手が青山学院初等部、正面に交番があって、その奥が常陸宮邸である。(9分)
●薩摩藩島津家下屋敷跡(常陸宮邸) =渋谷区東4-3-25
常盤松御用邸と呼ばれる常陸宮邸は、元は薩摩藩島津家の屋敷であった。薩摩から江戸に上った篤姫(1835~83)は、1856(安政3)年に篤姫はこの屋敷から将軍家に嫁いでいる。篤姫輿入れの支度係を務めたのは西郷隆盛(1827~77)であった。
常陸宮邸の門の前の道を西方向に進むと、左側に郷土博物館があって向かいに常盤松の碑がある。(1分)
●常盤松の碑=渋谷区東4-4-9
もとこのあたりにあった皇室の御料乳牛場の構内に常盤松と呼ばれた樹齢約400年、枝ぶりのみごとな松があった。その松は源義朝の妾、常盤御前が植えたという伝説があり、また、世田谷城主吉良頼康の妾、常盤のことであるという説があり、はっきりしたことはわらないようだ。
ここは御料地になる以前は島津家の土地であり、常盤松の碑は、当時の島津藩士によって建てられた。そして、この辺りの地名であった常盤松町の起源となっている。
そのまま西に。
國學院大學正門には角松が飾ってあった。
國學院大學交差点を左に曲るとすぐに神社がある。(3分)
●氷川宮(氷川神社)=渋谷区東2-5-6
創建年代は不詳だが、区内最古とされ、下渋谷村、下豊沢村の総鎮守である。また、江戸郊外三大相撲のひとつ金王相撲が行われていた場所である。
國學院大學交差点まで戻り左折、右手常盤松小学校先の渋谷図書館入口信号を右の路地に入る。突き当たると金王八幡宮前の信号が目にとまる。(7分)
●金王八幡宮=渋谷区渋谷3-5-12
金王(こんのう)八幡宮は、社伝によれば1092(寛治6)年、現在の渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとされる。江戸時代には江戸八所八幡のひとつで、徳川家の信仰を得、特に三代将軍家光の乳母春日局が神門、社殿を造営したとされる。総漆塗りの社殿は1612(慶長17)年の建立で、渋谷区最古の木造建築物である。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する東福寺(天台宗)が別当寺であった。当初は渋谷八幡と称していた。社名にある「金王」は、重家の嫡男常光がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したことによるとされる。
渋谷城・砦の石
このあたりの高台一帯に、平安時代末期から渋谷一族の渋谷城という居館があった。
その館が戦国時代の真っただ中の1524(大永4)年、小田原北条軍により襲われ焼き払われてしまった。
砦の石は、当時の石垣に使われていたものである。
金王八幡宮の左手が豊栄稲荷神社で右に周ると東福寺である。
●豊栄稲荷神社=渋谷区渋谷3-4-7
1961(昭和36)年、渋谷駅近くにあった田中稲荷神社(渋谷氏によって創建されたという。)と区内道玄坂にあった豊澤稲荷神社が合祀されて建立された神社である。社殿内の扁額には両社の社号が刻まれている。
境内には13基の庚申塔が集められている。中に旧領主と同姓の渋谷氏の名が刻まれている庚申塔もみられる。
●東福寺=渋谷区渋谷3-5-8
天台宗の寺院で、1704(宝永元)年の銘がある梵鐘には、金王八幡宮の縁起など渋谷の歴史が刻まれている。これによると、渋谷の旧地名を谷盛庄(やもりのしょう)と呼んでいた。
東福寺の北を走る六本木通りに出て渋谷駅方向(西)に警察署まで進み、右手の金王坂を上がる。道を渡り、三益坂を郵便局まで下るとその先右手が神社である。
階段を上がって高いビルに囲まれた2階部分の境内へ。(7分)
●御嶽神社=渋谷区渋谷1-12-16
創建は明らかではないが、16世紀半ばに甲斐国武田家の石田勧解由茂昌所有の尊像を祭ったのに始まるといわれる。宮益坂という地名はこの神社にあやかってつけられた。
日本狼の狛犬
不動尊石像は、1681(延宝9)年の建立で、古くから炙(あぶ)り不動と称せられ、苦しみや疫病を香煙で炙り出すと伝えられ、信仰深い不動尊として、近郊近在に知られている。また、札炙り不動としても信仰されている。
六本木通りに戻り、渋谷駅を越え道玄坂下信号まで進む。左手が道玄坂。平日の夕方、人混みが出来ている。
右手の文化村通りを上がって行く。
ヤマダ電機LABI渋谷店の手前に標柱はたっている。(10分)
●恋文横丁碑=渋谷区道玄坂2-29-20
恋文横丁という呼び名は、丹羽又雄の「恋文」という小説に由来する。映画化されてから渋谷で最も有名になった横丁で、朝鮮戦争当時、英語ができない女性のために、アメリカ兵相手のラブレタ-を書く代書屋がここにあった。映画の主人公はここで代筆を商売にしていた。横丁は1965(昭和40)年に焼け、今は渋谷109が建っている。
以前は大きな看板があったようで、今は標柱のみとなっている。
次は、千代田稲荷。ヤマダ電機先の渋谷百軒店(ひゃっけんだな)と書かれたアーチを潜って路地を進んで行く。ここはホテル街である。
路地をくねくね西に進むとホテルの先に神社の赤ちょうちんが見えてくる。(4分)
●千代田稲荷神社=渋谷区道玄坂2-20-9
1457(長禄元)年、太田道灌江戸城築城の時に守護神として伏見稲荷を勧請、徳川家康入城後に城内紅葉山に遷座、1602(慶長7)年渋谷宮益坂に遷座、江戸城より遷座したことから千代田稲荷と称したという。
関東大震災により渋谷百軒店へ移し再建、戦後中川稲荷神社を末社とした。
神社は松飾りが飾られて正月気分である。
神社の前の路地を南下してホテル街を進んで行く。料理三長の塀沿いに地蔵はある。(3分)
●道玄坂地蔵=渋谷区円山町6-1
地蔵は300年前に建てられた玉川街道と大山を結ぶ三十三番霊所の一番札所の地蔵である。
豊沢地蔵、火ぶせ地蔵、そして道玄坂地蔵と呼ばれるこの地蔵は、泰子(東電OL殺人事件)地蔵とも呼ばれており、被害者の女性は毎日この地蔵を拝んでいたという。15年前に発生した事件で忘れられそうになったが、最近有罪判決によって服役した方が、再審で無罪判決が出て話題となった。
彼女を供養してか、唇に紅が塗られている。
この付近一帯は未だ花町の名残りを残している感じだ。
ここ円山町(まるやまちょう)は、江戸時代には甲州街道の脇街道であった大山街道の宿場町として栄えていた。円山町が花街となったのは、1887(明治20)年頃、宝屋という芸者屋を開業したのが始まり。その後、年とともに芸者屋、料理屋が増していき、それに伴い代々木練兵場の将校達が円山町に遊びに来るようになった。この界隈が円山と呼ばれるようになったのは昭和に入ってからで、以前は鍋島藩の荒木氏の所有地だったため、「荒木山」と呼ばれていた。
地蔵の前の道を東に向かい、突き当たって右に行くとすぐに道玄坂上交番前に着く。正面三角のところに碑がある。(2分)
●道玄坂供養碑=渋谷区道玄坂2-10
1525(大永5)年、渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき、その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂といわれている。江戸時代ここを通る青山街道は相模国から人と物を江戸に運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷附近は開けだした。
近くに住んでいた芥川龍之介、柳田國男がここを通って通学していた。林芙美子が露店を出した道玄坂でもある。道玄坂とは渋谷駅ハチ公口前から目黒方面へ向かう坂の名称。
供養碑のほかに与謝野晶子の歌碑もある。
ここから先、予定では続くのだがタイムアップのため残念ながらここで終了した。
若者が、カップルが今歩いている通りやその周りには様々な歴史があったはずなのに、青山、原宿、渋谷と街の規模に呑まれて、それが消え去られてしまっているような気が今回歩いていて感じた。
大名・武家屋敷がたくさんあるのに解説板がなかったようで歴史ファンにとっては淋しい。寺社についても区や都の解説がなかったようなで、これも残念である。
江戸の頃、青山は江戸市街の外縁部にあたり、大名屋敷や武家屋敷が点在していた。その屋敷跡の変遷を今回めぐってみた。
そこで東京メトロ銀座線の外苑前駅からのスタートである。
外苑前駅前の国道246号青山通りを渡り、すぐ右手の路地に入り道なりに進んでいくと都道418号外苑西通りに出る。この道を右折するとすぐ右手に最初の目的地に着く。(所用4分)
●海蔵寺=港区北青山2-12-29
掃雲院殿(近江彦根藩藩主直孝の長女亀姫)が海蔵庵として1671(寛文11)年に創建。黄檗(おうばく)宗。
神奈川奉行、長崎奉行を歴任した、幕臣京極越前守(能登守)高朗の墓がある。
朱色の山門
戦火で割れた山門を示す石碑
山門の中に納められている庚申塔(中央)
本堂は都会の寺院らしくビルの中にあるようだ。祀られている庚申塔が見当たらずうろうろしていると住職らしき方が私服でビルから出てきた。訪ねると山門のほうに案内され、開いていた門のロックを解きわずかに閉じると庚申塔が見えた。庚申塔は朱塗りの山門の中に大事に納められていた。
これでは見つかりにくい。住職に出会ってラッキーであった。
話によるとどこかの工事現場から出てきた庚申塔を先代が引き取ったということだ。丁寧にお礼を言って寺院を後にする。
外苑西通りを進み、原宿団地北信号の右手路地を入って行くと右手に神社が見える。(4分)
●青山熊野神社=渋谷区神宮前2-2-22
1619(元和5)年徳川頼宣卿(家康の十男で紀州徳川家の祖)の邸内(現在の赤坂御所)に奉斎されていた御宮を町民の請により1645(正保元)年現在地に移遷。青山総鎮守と仰ぎ奉り社号は当初熊野大権現で、明治以降、青山熊野神社と改称する。
茅の輪くぐり
茅の輪くぐり
暮れの大祓いの行事である茅の輪くぐりは作法に従ってこの輪を3回くぐると無病息災になるという習わしがある。大祓いは年に2度ほど行われ、6月に夏越(なごし)の祓がある。
鳥居前の道を東に進んでいく。(2分)
●高徳寺=港区北青山2-10-16
徳川十一代家斉(いえなり)時代の茶坊主・河内山宗俊の墓がある。宗俊は、博徒や素行の悪い御家人たちと徒党を組んで、金品を強請(ゆす)り取るようになった。牢内で獄死する。
河内山宗俊の墓は山門前の道端のごみ収集場所付近にあった。裏を見ると宗俊100回忌の大正11年に建立されている。本当の墓は境内にあるのだろう。
道をさらに東に進み、青山通りを突っ切ると正面に、梅窓院の参道は都会とは思えない風景があった。(5分)
●梅窓院=港区南青山2-26-38
徳川氏譜代家臣で、郡上八幡城主青山大蔵小輔幸成(あおやまおおくらのしょうふよしなり・1586~1643)が開基となり、1643(寛永20)年幸成の側室を大壇越(檀家)として青山家下屋敷に創建した浄土宗の寺院。
幸成は徳川氏譜代家臣・青山忠成の四男、摂津尼崎藩初代藩主。安土桃山時代から江戸時代前期の大名。
青山の地名の由来となった大名。
竹林の参道を進むと重々しい山門へと続く、だが、その先は都会の寺院であった。
青山家宗家累代の墓所は広い面積がとられ、最近造立された様で墓石は真新しい。
車出から路地を南下すると左手に区営のテニスコートが、その先に青山霊園の入口がある。霊園の中を通って青山墓地中央交差点に。(12分)
●青山大膳亮下屋敷跡(現青山霊園) =港区南青山2-34
この地、青山両家の土地は、一説では、徳川家康の関東移封の後、青山家宗家・青山忠成が家康に「馬に乗って一回りしただけの土地をやる。」と言われ、馬で走り回って広い土地を得たと云い、その後、その土地は兄の篠山藩青山家と弟の郡上藩青山家に分れる。
大膳亮(だいぜんのすけ)とは饗膳を供する機関の職位のこと。
青山霊園には、志賀直哉、大久保利通、乃木希典等が眠っている。また、忠犬ハチ公も主人の傍らに眠っている。附属の立山墓地には、幕末の尊王攘夷派、赤報隊隊長・相楽総三が眠っている。
霊園には案内板も碑も見かけられないので、江戸切絵図を引用する。
墓地中央の道を西に、相楽総三の墓を探しに青山陸橋越えてすぐの立山墓地に行く。相楽総三は、むかし佐々木愛さんが主催する劇団文化座の相楽総三を主人公とした劇を観たことで親近感が湧いてのお参りである。総三は「年貢半減」が新政府に認められ、それを旗印に官軍の先鋒を勤めたものの政府の方針転換により偽官軍として処刑されてしまう。
以前にも書いたが新政府は年貢半減するのではという噂やそれに伴った庶民の願望があったが、新政府は富国強兵政策で半減どころではなくなり、明治初期には江戸時代を上回る一揆が発生していたといわれる。
時間をかけて探したが見当たらず諦めて墓地脇の道を南下する。
毎回思うのだが、予習が不足しているとつくづく感じる。(7分)
●青山の庚申塔=港区南青山2-18-3
建立は1865(慶応元)年の建立。まさに幕末、3年後には明治にはいる。この石碑は道しるべも兼ねていて 「右 あをやま 内とうしん宿 ほりのうち 左 二十きおくみ 百人おくみ ぜんこうじ」と記されている。
次の長谷寺は、道場もあって大きな曹洞宗の寺院で、山門が分かりにくかった。住所頼りに"感"で進んでいくと町名が違ってしまった。慌てて戻る。寺院の周囲を囲んだ民家の周りの道をぐるっと一周近く歩いたようで所用時間は倍ほどかけてようやく到着。(14分)
●長谷寺(ちょうこくじ)=港区西麻布2-21-34
かつて「渋谷が原」と呼ばれたこの地に古くから観音堂が建ち、奈良長谷寺の観音さまと同じ木片で造られたという。小さな観音さまが祀られ、人々に親しまれていたことがはじまりとされる大本山永平寺別院の曹洞宗の寺院。
本堂前の風神・雷神像
坂本九、榎本健一、井上馨の墓があるという。
山門前の路地を進んで、骨董通りを青山通り目指して進む。青山通りは表参道方向に。善光寺は表参道交差点の先にある。(13分)
●善光寺=港区北青山3-5-17
もとは谷中に信州善光寺の別院として建立されたが火事で消失。その後青山に移された経緯をもつ無宗派の寺院。
善光寺の仁王門の裏にも風神・雷神像が祀られていた
色鮮やかな鐘楼
境内に蘭学者・高野長英の名誉回復を記念して勝海舟の撰文による顕彰碑㊦がある。近くには、顔を焼いて人相を変え沢三伯という偽名を使って隠れていた長英の隠れ家跡(現在スパイラルホールが建っている辺り)がある。長英は、この地でとりかたに発見され、47歳で自害した。
参道を出た辺り一帯が百人町
●青山百人町
青山百人町は現在の善光寺の辺りの旧町名。これは青山の地名の由来になったと言われる青山忠成が、この一帯に鉄砲百人組の与力・同心を住まわせていたことに由来する。
表参道を明治神宮方向に歩いて行く。
「原宿 表参道 ゆれて青山あたり」なんて思いながら歩いていくと石造りの建物に行きあたった。高級衣料の店のようだ。この建物、何かのTV番組で知ったことがあるな。と記憶を手繰り寄せた。(6分)
●参道の石垣=渋谷区神宮前5-7-20
表参道は高級ブランドが立ち並ぶ通りであるが、ここは一際シックな石造りの建物と思いきや。この石造りは参道の石垣であった。この辺りは小高い山があってそこを平に削って道をつくったため石垣となった。当初は道の両側にあったものだが再開発の波を受けて消えていったが、ここだけはこの建物のオーナーの旦那さんがどうしても残しておきたいとのことで、今も大切に残されているという。ということで、昔の表参道のなごりである。今ここを歩く通行人はこんなこと知らないであろう。
このはなし、NHK「ブラタモリ」の受け売り。
表参道を進んで行き、神宮前交差点で左折して少々進んでいく。この道は、305号明治通り、右手キリンビール本社ビル見るとすぐに長泉寺がある。(8分)
●長泉寺=渋谷区神宮前6-25-12
文治年間(1185年-1190年)の創建と伝わる曹洞宗の寺院。
本堂裏手の奥に、一面観音、千手観音、馬頭観音、地蔵菩薩など約200体の石仏群
明治通りを少々進み、すぐの陸橋を渡り南東方向に子供の城まで進む。(16分)
●淀藩稲葉家下屋敷跡(こどもの城・国際連合大学) =渋谷区神宮前5-13-1、神宮前5-53-70
向かい合う国連大学とこどもの城は、山城淀藩稲葉家下屋敷跡で、明治に入って北海道開発のための開拓使官園となり、明治末期には市電青山車庫になり昭和40年代まで続いた。
左手こどもの城 右手国際連合大学
青山通りを挟んで、向かいが青山学院、正門が見える。(2分)
●西条藩松平家上屋敷跡(青山学院大学) =渋谷区渋谷4-4-25
この地は、かつて伊予国西条藩松平家上屋敷があった。西条藩松平家は、紀州徳川家からでた親藩連枝で、吉宗が将軍になったあとの紀州藩に藩主を送り込むなど、宗藩との関係が非常に深い家柄だった。西条藩上屋敷の前の通りは、霊山・大山に詣でる巡礼で栄えた大山街道沿いにあった。1871(明治4)年に北海道開拓使官園(現在の農園試験場)となる。北海道に移転したあとは、横浜山手に開校していた「美會神学校」と、東京築地にあった「東京英学校」がはいり、これがのちに青山学院大学の原形となる。
ここも案内板も碑も見かけられないので、江戸切絵図を引用する。
青山学院の南側を走る六本木通りを渋谷四丁目信号で渡る。右手が青山学院初等部、正面に交番があって、その奥が常陸宮邸である。(9分)
●薩摩藩島津家下屋敷跡(常陸宮邸) =渋谷区東4-3-25
常盤松御用邸と呼ばれる常陸宮邸は、元は薩摩藩島津家の屋敷であった。薩摩から江戸に上った篤姫(1835~83)は、1856(安政3)年に篤姫はこの屋敷から将軍家に嫁いでいる。篤姫輿入れの支度係を務めたのは西郷隆盛(1827~77)であった。
常陸宮邸の門の前の道を西方向に進むと、左側に郷土博物館があって向かいに常盤松の碑がある。(1分)
●常盤松の碑=渋谷区東4-4-9
もとこのあたりにあった皇室の御料乳牛場の構内に常盤松と呼ばれた樹齢約400年、枝ぶりのみごとな松があった。その松は源義朝の妾、常盤御前が植えたという伝説があり、また、世田谷城主吉良頼康の妾、常盤のことであるという説があり、はっきりしたことはわらないようだ。
ここは御料地になる以前は島津家の土地であり、常盤松の碑は、当時の島津藩士によって建てられた。そして、この辺りの地名であった常盤松町の起源となっている。
そのまま西に。
國學院大學正門には角松が飾ってあった。
國學院大學交差点を左に曲るとすぐに神社がある。(3分)
●氷川宮(氷川神社)=渋谷区東2-5-6
創建年代は不詳だが、区内最古とされ、下渋谷村、下豊沢村の総鎮守である。また、江戸郊外三大相撲のひとつ金王相撲が行われていた場所である。
國學院大學交差点まで戻り左折、右手常盤松小学校先の渋谷図書館入口信号を右の路地に入る。突き当たると金王八幡宮前の信号が目にとまる。(7分)
●金王八幡宮=渋谷区渋谷3-5-12
金王(こんのう)八幡宮は、社伝によれば1092(寛治6)年、現在の渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとされる。江戸時代には江戸八所八幡のひとつで、徳川家の信仰を得、特に三代将軍家光の乳母春日局が神門、社殿を造営したとされる。総漆塗りの社殿は1612(慶長17)年の建立で、渋谷区最古の木造建築物である。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する東福寺(天台宗)が別当寺であった。当初は渋谷八幡と称していた。社名にある「金王」は、重家の嫡男常光がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したことによるとされる。
渋谷城・砦の石
このあたりの高台一帯に、平安時代末期から渋谷一族の渋谷城という居館があった。
その館が戦国時代の真っただ中の1524(大永4)年、小田原北条軍により襲われ焼き払われてしまった。
砦の石は、当時の石垣に使われていたものである。
金王八幡宮の左手が豊栄稲荷神社で右に周ると東福寺である。
●豊栄稲荷神社=渋谷区渋谷3-4-7
1961(昭和36)年、渋谷駅近くにあった田中稲荷神社(渋谷氏によって創建されたという。)と区内道玄坂にあった豊澤稲荷神社が合祀されて建立された神社である。社殿内の扁額には両社の社号が刻まれている。
境内には13基の庚申塔が集められている。中に旧領主と同姓の渋谷氏の名が刻まれている庚申塔もみられる。
●東福寺=渋谷区渋谷3-5-8
天台宗の寺院で、1704(宝永元)年の銘がある梵鐘には、金王八幡宮の縁起など渋谷の歴史が刻まれている。これによると、渋谷の旧地名を谷盛庄(やもりのしょう)と呼んでいた。
東福寺の北を走る六本木通りに出て渋谷駅方向(西)に警察署まで進み、右手の金王坂を上がる。道を渡り、三益坂を郵便局まで下るとその先右手が神社である。
階段を上がって高いビルに囲まれた2階部分の境内へ。(7分)
●御嶽神社=渋谷区渋谷1-12-16
創建は明らかではないが、16世紀半ばに甲斐国武田家の石田勧解由茂昌所有の尊像を祭ったのに始まるといわれる。宮益坂という地名はこの神社にあやかってつけられた。
日本狼の狛犬
不動尊石像は、1681(延宝9)年の建立で、古くから炙(あぶ)り不動と称せられ、苦しみや疫病を香煙で炙り出すと伝えられ、信仰深い不動尊として、近郊近在に知られている。また、札炙り不動としても信仰されている。
六本木通りに戻り、渋谷駅を越え道玄坂下信号まで進む。左手が道玄坂。平日の夕方、人混みが出来ている。
右手の文化村通りを上がって行く。
ヤマダ電機LABI渋谷店の手前に標柱はたっている。(10分)
●恋文横丁碑=渋谷区道玄坂2-29-20
恋文横丁という呼び名は、丹羽又雄の「恋文」という小説に由来する。映画化されてから渋谷で最も有名になった横丁で、朝鮮戦争当時、英語ができない女性のために、アメリカ兵相手のラブレタ-を書く代書屋がここにあった。映画の主人公はここで代筆を商売にしていた。横丁は1965(昭和40)年に焼け、今は渋谷109が建っている。
以前は大きな看板があったようで、今は標柱のみとなっている。
次は、千代田稲荷。ヤマダ電機先の渋谷百軒店(ひゃっけんだな)と書かれたアーチを潜って路地を進んで行く。ここはホテル街である。
路地をくねくね西に進むとホテルの先に神社の赤ちょうちんが見えてくる。(4分)
●千代田稲荷神社=渋谷区道玄坂2-20-9
1457(長禄元)年、太田道灌江戸城築城の時に守護神として伏見稲荷を勧請、徳川家康入城後に城内紅葉山に遷座、1602(慶長7)年渋谷宮益坂に遷座、江戸城より遷座したことから千代田稲荷と称したという。
関東大震災により渋谷百軒店へ移し再建、戦後中川稲荷神社を末社とした。
神社は松飾りが飾られて正月気分である。
神社の前の路地を南下してホテル街を進んで行く。料理三長の塀沿いに地蔵はある。(3分)
●道玄坂地蔵=渋谷区円山町6-1
地蔵は300年前に建てられた玉川街道と大山を結ぶ三十三番霊所の一番札所の地蔵である。
豊沢地蔵、火ぶせ地蔵、そして道玄坂地蔵と呼ばれるこの地蔵は、泰子(東電OL殺人事件)地蔵とも呼ばれており、被害者の女性は毎日この地蔵を拝んでいたという。15年前に発生した事件で忘れられそうになったが、最近有罪判決によって服役した方が、再審で無罪判決が出て話題となった。
彼女を供養してか、唇に紅が塗られている。
この付近一帯は未だ花町の名残りを残している感じだ。
ここ円山町(まるやまちょう)は、江戸時代には甲州街道の脇街道であった大山街道の宿場町として栄えていた。円山町が花街となったのは、1887(明治20)年頃、宝屋という芸者屋を開業したのが始まり。その後、年とともに芸者屋、料理屋が増していき、それに伴い代々木練兵場の将校達が円山町に遊びに来るようになった。この界隈が円山と呼ばれるようになったのは昭和に入ってからで、以前は鍋島藩の荒木氏の所有地だったため、「荒木山」と呼ばれていた。
地蔵の前の道を東に向かい、突き当たって右に行くとすぐに道玄坂上交番前に着く。正面三角のところに碑がある。(2分)
●道玄坂供養碑=渋谷区道玄坂2-10
1525(大永5)年、渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき、その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂といわれている。江戸時代ここを通る青山街道は相模国から人と物を江戸に運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷附近は開けだした。
近くに住んでいた芥川龍之介、柳田國男がここを通って通学していた。林芙美子が露店を出した道玄坂でもある。道玄坂とは渋谷駅ハチ公口前から目黒方面へ向かう坂の名称。
供養碑のほかに与謝野晶子の歌碑もある。
ここから先、予定では続くのだがタイムアップのため残念ながらここで終了した。
若者が、カップルが今歩いている通りやその周りには様々な歴史があったはずなのに、青山、原宿、渋谷と街の規模に呑まれて、それが消え去られてしまっているような気が今回歩いていて感じた。
大名・武家屋敷がたくさんあるのに解説板がなかったようで歴史ファンにとっては淋しい。寺社についても区や都の解説がなかったようなで、これも残念である。