あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

大名屋敷が並ぶ青山を歩く

2012-12-25 15:11:17 | 東京散策
青山から渋谷の散
江戸の頃、青山は江戸市街の外縁部にあたり、大名屋敷や武家屋敷が点在していた。その屋敷跡の変遷を今回めぐってみた。

そこで東京メトロ銀座線の外苑前駅からのスタートである。

外苑前駅前の国道246号青山通りを渡り、すぐ右手の路地に入り道なりに進んでいくと都道418号外苑西通りに出る。この道を右折するとすぐ右手に最初の目的地に着く。(所用4分)
海蔵寺=港区北青山2-12-29
掃雲院殿(近江彦根藩藩主直孝の長女亀姫)が海蔵庵として1671(寛文11)年に創建。黄檗(おうばく)宗。
神奈川奉行、長崎奉行を歴任した、幕臣京極越前守(能登守)高朗の墓がある。
         
            朱色の山門


  戦火で割れた山門を示す石碑   
         
          山門の中に納められている庚申塔(中央)
本堂は都会の寺院らしくビルの中にあるようだ。祀られている庚申塔が見当たらずうろうろしていると住職らしき方が私服でビルから出てきた。訪ねると山門のほうに案内され、開いていた門のロックを解きわずかに閉じると庚申塔が見えた。庚申塔は朱塗りの山門の中に大事に納められていた。
これでは見つかりにくい。住職に出会ってラッキーであった。
話によるとどこかの工事現場から出てきた庚申塔を先代が引き取ったということだ。丁寧にお礼を言って寺院を後にする。

外苑西通りを進み、原宿団地北信号の右手路地を入って行くと右手に神社が見える。(4分)

青山熊野神社=渋谷区神宮前2-2-22
1619(元和5)年徳川頼宣卿(家康の十男で紀州徳川家の祖)の邸内(現在の赤坂御所)に奉斎されていた御宮を町民の請により1645(正保元)年現在地に移遷。青山総鎮守と仰ぎ奉り社号は当初熊野大権現で、明治以降、青山熊野神社と改称する。
         

         
           茅の輪くぐり

         
茅の輪くぐり
暮れの大祓いの行事である茅の輪くぐりは作法に従ってこの輪を3回くぐると無病息災になるという習わしがある。大祓いは年に2度ほど行われ、6月に夏越(なごし)の祓がある。

鳥居前の道を東に進んでいく。(2分)
高徳寺=港区北青山2-10-16
徳川十一代家斉(いえなり)時代の茶坊主・河内山宗俊の墓がある。宗俊は、博徒や素行の悪い御家人たちと徒党を組んで、金品を強請(ゆす)り取るようになった。牢内で獄死する。
         


                   
河内山宗俊の墓は山門前の道端のごみ収集場所付近にあった。裏を見ると宗俊100回忌の大正11年に建立されている。本当の墓は境内にあるのだろう。

道をさらに東に進み、青山通りを突っ切ると正面に、梅窓院の参道は都会とは思えない風景があった。(5分)

梅窓院=港区南青山2-26-38
徳川氏譜代家臣で、郡上八幡城主青山大蔵小輔幸成(あおやまおおくらのしょうふよしなり・1586~1643)が開基となり、1643(寛永20)年幸成の側室を大壇越(檀家)として青山家下屋敷に創建した浄土宗の寺院。
幸成は徳川氏譜代家臣・青山忠成の四男、摂津尼崎藩初代藩主。安土桃山時代から江戸時代前期の大名。
青山の地名の由来となった大名。
  

         
竹林の参道を進むと重々しい山門へと続く、だが、その先は都会の寺院であった。 
         
青山家宗家累代の墓所は広い面積がとられ、最近造立された様で墓石は真新しい。

車出から路地を南下すると左手に区営のテニスコートが、その先に青山霊園の入口がある。霊園の中を通って青山墓地中央交差点に。(12分)

青山大膳亮下屋敷跡(現青山霊園) =港区南青山2-34
この地、青山両家の土地は、一説では、徳川家康の関東移封の後、青山家宗家・青山忠成が家康に「馬に乗って一回りしただけの土地をやる。」と言われ、馬で走り回って広い土地を得たと云い、その後、その土地は兄の篠山藩青山家と弟の郡上藩青山家に分れる。
大膳亮(だいぜんのすけ)とは饗膳を供する機関の職位のこと。
青山霊園には、志賀直哉、大久保利通、乃木希典等が眠っている。また、忠犬ハチ公も主人の傍らに眠っている。附属の立山墓地には、幕末の尊王攘夷派、赤報隊隊長・相楽総三が眠っている。         
          
霊園には案内板も碑も見かけられないので、江戸切絵図を引用する。
                  
墓地中央の道を西に、相楽総三の墓を探しに青山陸橋越えてすぐの立山墓地に行く。相楽総三は、むかし佐々木愛さんが主催する劇団文化座の相楽総三を主人公とした劇を観たことで親近感が湧いてのお参りである。総三は「年貢半減」が新政府に認められ、それを旗印に官軍の先鋒を勤めたものの政府の方針転換により偽官軍として処刑されてしまう。
以前にも書いたが新政府は年貢半減するのではという噂やそれに伴った庶民の願望があったが、新政府は富国強兵政策で半減どころではなくなり、明治初期には江戸時代を上回る一揆が発生していたといわれる。

時間をかけて探したが見当たらず諦めて墓地脇の道を南下する。
毎回思うのだが、予習が不足しているとつくづく感じる。(7分)

青山の庚申塔=港区南青山2-18-3
建立は1865(慶応元)年の建立。まさに幕末、3年後には明治にはいる。この石碑は道しるべも兼ねていて 「右 あをやま 内とうしん宿 ほりのうち 左 二十きおくみ 百人おくみ ぜんこうじ」と記されている。
         

次の長谷寺は、道場もあって大きな曹洞宗の寺院で、山門が分かりにくかった。住所頼りに"感"で進んでいくと町名が違ってしまった。慌てて戻る。寺院の周囲を囲んだ民家の周りの道をぐるっと一周近く歩いたようで所用時間は倍ほどかけてようやく到着。(14分)
長谷寺(ちょうこくじ)=港区西麻布2-21-34
かつて「渋谷が原」と呼ばれたこの地に古くから観音堂が建ち、奈良長谷寺の観音さまと同じ木片で造られたという。小さな観音さまが祀られ、人々に親しまれていたことがはじまりとされる大本山永平寺別院の曹洞宗の寺院。
         

       
         本堂前の風神・雷神像

         
坂本九、榎本健一、井上馨の墓があるという。

山門前の路地を進んで、骨董通りを青山通り目指して進む。青山通りは表参道方向に。善光寺は表参道交差点の先にある。(13分)

善光寺=港区北青山3-5-17
もとは谷中に信州善光寺の別院として建立されたが火事で消失。その後青山に移された経緯をもつ無宗派の寺院。
         
            善光寺の仁王門の裏にも風神・雷神像が祀られていた

         

         
            色鮮やかな鐘楼

境内に蘭学者・高野長英の名誉回復を記念して勝海舟の撰文による顕彰碑㊦がある。近くには、顔を焼いて人相を変え沢三伯という偽名を使って隠れていた長英の隠れ家跡(現在スパイラルホールが建っている辺り)がある。長英は、この地でとりかたに発見され、47歳で自害した。
         

参道を出た辺り一帯が百人町
青山百人町
青山百人町は現在の善光寺の辺りの旧町名。これは青山の地名の由来になったと言われる青山忠成が、この一帯に鉄砲百人組の与力・同心を住まわせていたことに由来する。
         

表参道を明治神宮方向に歩いて行く。
「原宿 表参道 ゆれて青山あたり」なんて思いながら歩いていくと石造りの建物に行きあたった。高級衣料の店のようだ。この建物、何かのTV番組で知ったことがあるな。と記憶を手繰り寄せた。(6分)

参道の石垣=渋谷区神宮前5-7-20
         
表参道は高級ブランドが立ち並ぶ通りであるが、ここは一際シックな石造りの建物と思いきや。この石造りは参道の石垣であった。この辺りは小高い山があってそこを平に削って道をつくったため石垣となった。当初は道の両側にあったものだが再開発の波を受けて消えていったが、ここだけはこの建物のオーナーの旦那さんがどうしても残しておきたいとのことで、今も大切に残されているという。ということで、昔の表参道のなごりである。今ここを歩く通行人はこんなこと知らないであろう。
このはなし、NHK「ブラタモリ」の受け売り。

表参道を進んで行き、神宮前交差点で左折して少々進んでいく。この道は、305号明治通り、右手キリンビール本社ビル見るとすぐに長泉寺がある。(8分)

長泉寺=渋谷区神宮前6-25-12
文治年間(1185年-1190年)の創建と伝わる曹洞宗の寺院。
         

         


 本堂裏手の奥に、一面観音、千手観音、馬頭観音、地蔵菩薩など約200体の石仏群

明治通りを少々進み、すぐの陸橋を渡り南東方向に子供の城まで進む。(16分)
淀藩稲葉家下屋敷跡(こどもの城・国際連合大学) =渋谷区神宮前5-13-1、神宮前5-53-70
向かい合う国連大学とこどもの城は、山城淀藩稲葉家下屋敷跡で、明治に入って北海道開発のための開拓使官園となり、明治末期には市電青山車庫になり昭和40年代まで続いた。
         
                 左手こどもの城 右手国際連合大学      

青山通りを挟んで、向かいが青山学院、正門が見える。(2分)
西条藩松平家上屋敷跡(青山学院大学) =渋谷区渋谷4-4-25
この地は、かつて伊予国西条藩松平家上屋敷があった。西条藩松平家は、紀州徳川家からでた親藩連枝で、吉宗が将軍になったあとの紀州藩に藩主を送り込むなど、宗藩との関係が非常に深い家柄だった。西条藩上屋敷の前の通りは、霊山・大山に詣でる巡礼で栄えた大山街道沿いにあった。1871(明治4)年に北海道開拓使官園(現在の農園試験場)となる。北海道に移転したあとは、横浜山手に開校していた「美會神学校」と、東京築地にあった「東京英学校」がはいり、これがのちに青山学院大学の原形となる。 
         

ここも案内板も碑も見かけられないので、江戸切絵図を引用する。
         
         
青山学院の南側を走る六本木通りを渋谷四丁目信号で渡る。右手が青山学院初等部、正面に交番があって、その奥が常陸宮邸である。(9分)

薩摩藩島津家下屋敷跡(常陸宮邸) =渋谷区東4-3-25
常盤松御用邸と呼ばれる常陸宮邸は、元は薩摩藩島津家の屋敷であった。薩摩から江戸に上った篤姫(1835~83)は、1856(安政3)年に篤姫はこの屋敷から将軍家に嫁いでいる。篤姫輿入れの支度係を務めたのは西郷隆盛(1827~77)であった。

         
常陸宮邸の門の前の道を西方向に進むと、左側に郷土博物館があって向かいに常盤松の碑がある。(1分)
常盤松の碑=渋谷区東4-4-9
もとこのあたりにあった皇室の御料乳牛場の構内に常盤松と呼ばれた樹齢約400年、枝ぶりのみごとな松があった。その松は源義朝の妾、常盤御前が植えたという伝説があり、また、世田谷城主吉良頼康の妾、常盤のことであるという説があり、はっきりしたことはわらないようだ。
ここは御料地になる以前は島津家の土地であり、常盤松の碑は、当時の島津藩士によって建てられた。そして、この辺りの地名であった常盤松町の起源となっている。
         

そのまま西に。
國學院大學正門には角松が飾ってあった。
         

國學院大學交差点を左に曲るとすぐに神社がある。(3分)
         
氷川宮(氷川神社)=渋谷区東2-5-6
創建年代は不詳だが、区内最古とされ、下渋谷村、下豊沢村の総鎮守である。また、江戸郊外三大相撲のひとつ金王相撲が行われていた場所である。


國學院大學交差点まで戻り左折、右手常盤松小学校先の渋谷図書館入口信号を右の路地に入る。突き当たると金王八幡宮前の信号が目にとまる。(7分)
金王八幡宮=渋谷区渋谷3-5-12
金王(こんのう)八幡宮は、社伝によれば1092(寛治6)年、現在の渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとされる。江戸時代には江戸八所八幡のひとつで、徳川家の信仰を得、特に三代将軍家光の乳母春日局が神門、社殿を造営したとされる。総漆塗りの社殿は1612(慶長17)年の建立で、渋谷区最古の木造建築物である。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する東福寺(天台宗)が別当寺であった。当初は渋谷八幡と称していた。社名にある「金王」は、重家の嫡男常光がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したことによるとされる。

         

         

         

渋谷城・砦の石
          
このあたりの高台一帯に、平安時代末期から渋谷一族の渋谷城という居館があった。
その館が戦国時代の真っただ中の1524(大永4)年、小田原北条軍により襲われ焼き払われてしまった。
砦の石は、当時の石垣に使われていたものである。

金王八幡宮の左手が豊栄稲荷神社で右に周ると東福寺である。                  
豊栄稲荷神社=渋谷区渋谷3-4-7
1961(昭和36)年、渋谷駅近くにあった田中稲荷神社(渋谷氏によって創建されたという。)と区内道玄坂にあった豊澤稲荷神社が合祀されて建立された神社である。社殿内の扁額には両社の社号が刻まれている。


境内には13基の庚申塔が集められている。中に旧領主と同姓の渋谷氏の名が刻まれている庚申塔もみられる。
         

     

東福寺=渋谷区渋谷3-5-8
天台宗の寺院で、1704(宝永元)年の銘がある梵鐘には、金王八幡宮の縁起など渋谷の歴史が刻まれている。これによると、渋谷の旧地名を谷盛庄(やもりのしょう)と呼んでいた。


東福寺の北を走る六本木通りに出て渋谷駅方向(西)に警察署まで進み、右手の金王坂を上がる。道を渡り、三益坂を郵便局まで下るとその先右手が神社である。
階段を上がって高いビルに囲まれた2階部分の境内へ。(7分)

御嶽神社=渋谷区渋谷1-12-16
創建は明らかではないが、16世紀半ばに甲斐国武田家の石田勧解由茂昌所有の尊像を祭ったのに始まるといわれる。宮益坂という地名はこの神社にあやかってつけられた。
         

         

               
              日本狼の狛犬

不動尊石像は、1681(延宝9)年の建立で、古くから炙(あぶ)り不動と称せられ、苦しみや疫病を香煙で炙り出すと伝えられ、信仰深い不動尊として、近郊近在に知られている。また、札炙り不動としても信仰されている。
       

六本木通りに戻り、渋谷駅を越え道玄坂下信号まで進む。左手が道玄坂。平日の夕方、人混みが出来ている。
右手の文化村通りを上がって行く。
ヤマダ電機LABI渋谷店の手前に標柱はたっている。(10分)

恋文横丁碑=渋谷区道玄坂2-29-20
恋文横丁という呼び名は、丹羽又雄の「恋文」という小説に由来する。映画化されてから渋谷で最も有名になった横丁で、朝鮮戦争当時、英語ができない女性のために、アメリカ兵相手のラブレタ-を書く代書屋がここにあった。映画の主人公はここで代筆を商売にしていた。横丁は1965(昭和40)年に焼け、今は渋谷109が建っている。
              
以前は大きな看板があったようで、今は標柱のみとなっている。

次は、千代田稲荷。ヤマダ電機先の渋谷百軒店(ひゃっけんだな)と書かれたアーチを潜って路地を進んで行く。ここはホテル街である。
路地をくねくね西に進むとホテルの先に神社の赤ちょうちんが見えてくる。(4分)

千代田稲荷神社=渋谷区道玄坂2-20-9
1457(長禄元)年、太田道灌江戸城築城の時に守護神として伏見稲荷を勧請、徳川家康入城後に城内紅葉山に遷座、1602(慶長7)年渋谷宮益坂に遷座、江戸城より遷座したことから千代田稲荷と称したという。
関東大震災により渋谷百軒店へ移し再建、戦後中川稲荷神社を末社とした。
         

         
神社は松飾りが飾られて正月気分である。

         

神社の前の路地を南下してホテル街を進んで行く。料理三長の塀沿いに地蔵はある。(3分) 
道玄坂地蔵=渋谷区円山町6-1
地蔵は300年前に建てられた玉川街道と大山を結ぶ三十三番霊所の一番札所の地蔵である。
豊沢地蔵、火ぶせ地蔵、そして道玄坂地蔵と呼ばれるこの地蔵は、泰子(東電OL殺人事件)地蔵とも呼ばれており、被害者の女性は毎日この地蔵を拝んでいたという。15年前に発生した事件で忘れられそうになったが、最近有罪判決によって服役した方が、再審で無罪判決が出て話題となった。
彼女を供養してか、唇に紅が塗られている。

この付近一帯は未だ花町の名残りを残している感じだ。
ここ円山町(まるやまちょう)は、江戸時代には甲州街道の脇街道であった大山街道の宿場町として栄えていた。円山町が花街となったのは、1887(明治20)年頃、宝屋という芸者屋を開業したのが始まり。その後、年とともに芸者屋、料理屋が増していき、それに伴い代々木練兵場の将校達が円山町に遊びに来るようになった。この界隈が円山と呼ばれるようになったのは昭和に入ってからで、以前は鍋島藩の荒木氏の所有地だったため、「荒木山」と呼ばれていた。

地蔵の前の道を東に向かい、突き当たって右に行くとすぐに道玄坂上交番前に着く。正面三角のところに碑がある。(2分)
道玄坂供養碑=渋谷区道玄坂2-10 
1525(大永5)年、渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき、その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂といわれている。江戸時代ここを通る青山街道は相模国から人と物を江戸に運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷附近は開けだした。
近くに住んでいた芥川龍之介、柳田國男がここを通って通学していた。林芙美子が露店を出した道玄坂でもある。道玄坂とは渋谷駅ハチ公口前から目黒方面へ向かう坂の名称。
供養碑のほかに与謝野晶子の歌碑もある。
         



ここから先、予定では続くのだがタイムアップのため残念ながらここで終了した。

若者が、カップルが今歩いている通りやその周りには様々な歴史があったはずなのに、青山、原宿、渋谷と街の規模に呑まれて、それが消え去られてしまっているような気が今回歩いていて感じた。
大名・武家屋敷がたくさんあるのに解説板がなかったようで歴史ファンにとっては淋しい。寺社についても区や都の解説がなかったようなで、これも残念である。



江戸庶民小旅行の地目黒を歩く

2012-12-12 17:40:17 | 東京散策
徳川三代将軍家光の時代、目黒不動産は江戸五色不動の第一番目とされ、江戸近郊随一の日帰り行楽地として大いに賑わった。
                   

と、いうことで目黒不動をはじめ、目黒の古きを尋ねる散策をJR目黒駅西口よりスタートする。

目黒駅西口を出て左手の横断歩道を渡ると西に下る急な坂道が行人坂で目黒川に架かる太鼓橋に通じる道である。通行人が凄く多い。列の後をついていくと殆どの人が雅叙園に入ってゆく。こんなに多くの人が入ってゆくなら抜け道があるのではと思うほどである。
丁度通勤時間のピークにぶつかったようだ。9時半をまわっている。
最初の大円寺は行人坂の途中にある。

大円寺=目黒区下目黒1-8-5
寛永年間(1624~45)、この辺りに巣食う、住民を苦しめている不良のやからを追放するために徳川家は奥州・湯殿山から高僧行人・大海法師を勧請して開山した。その後不良のやからを一掃した手柄で、家康から「大円寺」の寺号を与えられた。

大火犠牲者供養の羅漢像  
江戸三代大火のひとつ、1772(明和9)年に江戸の三分の二を焼けつくした「行人坂の火事」で亡くなられた人々を供養するために釈迦三尊像や五百羅漢などの石仏群が建てらた。
火元となった大円寺は80年近く再建が許されなかった。

西運(吉三)の碑
振袖火事で火刑に処せられた八百屋お七の情人といわれる吉三は出家して西運と名乗り、大円寺の下(今の雅叙園の一部)にあった明王院に身を寄せた。
西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提を弔うために、目黒不動と浅草観音に1万日日参の行をした。念仏を唱えながら日参したことで、念願の念仏堂が27年後に明王院境内に建立された。明王院は明治初めごろ廃寺になり、仏像などは大円寺に移された。
この碑は、日参する西運の姿が刻まれている。
         
また、先月『駒込散策』で参った文京区本駒込の吉祥寺には「お七と吉三の比翼塚」が祀られていた。その時は吉祥寺とお七・吉三の関連が分らなかったので載せていない。(駒込界隈を歩くはこちら)
吉祥寺にある比翼塚
                   比翼塚とは、愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚をいう。

行人坂(ぎょうにんざか)
坂の途中にある大円寺に行人(仏道を修行する人、行者)が大勢住んでいたことから行人坂と呼ばれるようになった。

山門をはじめ境内は工事中であった。お参りもそこそこに太鼓橋へと下る。
太鼓橋=目黒区下目黒1-8 
太鼓橋は西運が行の途中に多くの人々から浄財を寄進され、これを基金に行人坂に敷石の道を作ったり、目黒川に石の太鼓橋を架けるなど社会事業を行った。
太鼓橋は安藤広重の浮世絵『目黒太鼓橋夕日の岡』にも描かれているが、1931年に竣工している現在の橋は、太鼓には見えない。
 

        
目黒川沿の道を北上し、都道312号白金台町等々力線・目黒通りに突き当たって左折し、その道を進むと、大鳥神社交差点左手先に着く。
大鳥大明神=目黒区下目黒3-1-2
景行天皇の時代(71~130)に社があったことがはじめとされる。
この神社の酉の市の歴史は都内でも古く、江戸時代にはじまる。社名の「おおとり」は大取につながり、宝物を多く取り込むということから商売繁盛開運招福の神様として信仰されている。

庚申塔群
         
庚申塔とは、
旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡ってくるが、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる3匹の虫、三尸(さんし)が天に昇り、天帝にその人の日頃の行いを報告するという道教(中国、古代の民間信仰を基盤とし、不老長生・現世利益を主たる目的として自然発生的に生まれた宗教)の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われていた。
寿命が縮まっては大変と、この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしたことがはじまりで、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていった。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場にもなった。
この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔である。長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊穣、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻んだ。。
日本では既に10世紀ごろには盛んだったようで、「枕草子」「大鏡」などに記述が出てくる。この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行した。
切支丹灯篭
三田千代ヶ崎の大村邸(現本郷一丁目都教職員教育センター)のあった灯篭を大正期にこの地と隣の大聖院(だいしょういん)に移設した。
大村邸は、もと肥前島原藩主松平主殿守(とのものかみ)の下屋敷で、密かに邸内で祀られ信仰されていたものと伝えられている。
灯篭の竿石(さおいし)の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠である。キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった、寛永・正保・慶安の頃(1624~1651の家光の時代)から江戸中期(1716~1829)にかけて作られたものと考えられる。
また、庚申塔も境内には祀られている。
       

都道317号環状六号線・山手通りを南下、下目黒郵便局のふたつ先をはいる。
蟠隆寺(岩屋弁天)=目黒区下目黒3-4-4
創建は1709(宝永6)年。本堂横の祠内に山手七福神の石造弁財天が祀られている。




もう少々山手通りを南下、羅漢寺交差点を右にはいる。
海福寺=目黒区下目黒3-20-9 
明から来朝した僧侶が1658(万治元)年に深川に開いた禅宗のひとつ、黄檗宗(おうばくしゅう)の寺であったが、1910(明治43)年に当地に移転した。
四脚の山門
明治の後期に新宿区上落合の泰雲寺(廃寺)から移設。
         
永代橋崩落横死者供養塔及び石碑
隅田川にかかる永代橋は、1698(元禄11)年開通し、江戸随一の長さを誇って富士山をはじめとする眺望がよく、錦絵にも描かれる優美な橋であった。
1807(文化4)年8月の深川富岡八幡宮の大祭は、11年ぶりに催されたため、大勢の人出となった。将軍の世子(せいし・世継ぎ)たちの乗った御座船(ござぶね)が永代橋下を通過する間の通行止めが解除され、一斉に群衆が橋を渡ったとき、橋の中央付近が崩れ落ち、多くの人が転落して、一説には溺死者は480人という江戸始まって以来の大惨事となった。
この犠牲者の霊を慰めるため、多くの浄財で永代橋に近い当時の海福寺に供養塔と石碑が建てられ、寺の移転とともにこの地に祀られた。
この事故が素材となっている「永代橋」という落語がある。粗忽者の武兵衛が水死者に間違えられて遺体を引き取りに行く話である。
この落語、小満んの会の出し物で前々回あたりに聴いたなあと案内の立札を見て思い出した。
         
中国形式に似た江戸時代の梵鐘
1683(天和3)年の作で中国の鐘の形式に似ながら日本の古鐘の形式に範をとるという特異な考案によるもの。
右は武田信玄の屋形(館)に置かれていたと伝えられる九重の塔
       
 
海福寺となり
五百羅漢寺=目黒区下目黒3-20-11 
「目黒のらかんさん」で親しまれている羅漢像は、元禄時代(1688~1704)に托鉢で集めた浄財をもとに十数年の歳月をかけてつくりあげたもの。当時は500体以上であったが現在は305体。

『らかんさんがそろったらまわそじゃないか ヨイヤサノヨイヤサ』の歌を聞いたことがあると思うが、現代ではわらべうたとして歌われているが、江戸時代には大人たちの酒席でのお遊びの歌であったようだ。それほどらかんさんは民衆に親しまれていたようである。その面影がどこかの懐かしい誰かに似ているからであろうか。
ひとりひとりのらかんさんに「らかんさんのことば」がある。それは日常我々が接している言葉がたくさんあった。
例えば、『信頼はこのうえない宝』『一期一会』『人事を尽くして天命をまつ』『まわりに左右されず信念をつらぬく』『何もできなくても人の幸福を祈ることはできる』『有頂天になってはいけない』『威儀をただす』『おかげさまでという謙虚な心』etc.

          
さくら隊原爆殉難碑
1945(昭和20)年、広島に投下された原爆で犠牲にあわれた移動演劇桜隊の死を哀悼し、非人道的な武器を発明し使用した人類の愚かさに、永遠に抗議するため、徳川夢声や当時の住職たちが中心となって建てられた。
         
 

目黒不動尊は五百羅漢寺の西
目黒不動尊(瀧泉寺)=目黒区下目黒3-18 
瀧泉寺(りゅうせんじ)は、不動明王を本尊とし、一般には目黒不動(目黒不動尊)の通称で呼ばれる江戸五色不動のひとつ。808(大同3)年に開山。
「目黒」の地名はこの目黒不動に由来する、とする説もある。
                

         
江戸日本橋からおよそ2里半(10km)の距離にある目黒不動尊は古くから不動信仰の霊地として有名であったが、徳川三代将軍家光が消失したお堂を再建したことから、さらに不動尊のご利益を求める参詣客が増した。
また、湯島天神や谷中感応寺とともに「富くじ」の興業が幕府から許されて「江戸三富」と呼ばれた。
門前には茶屋が並び、名物の餅花、粟餅、目黒飴などが売られてにぎわいをみせた。
  
       腰立不動              水かけ不動              護衛不動

独鈷の滝(龍の口)
今から1200年ほど前、開祖の僧侶が持っていた独鈷(とっこ・金属製の両端がとがった短い棒状の法具)を投げたところ、たちまち滝泉が湧きだし、独鈷の滝と命名した。 
         

目黒不動尊三門前を南下、商店街を突っ切りると安養院の脇に出る。
安養院=品川区西五反田4-12-1
創建年代は不詳だが、目黒不動龍泉寺の子院として開山、寝釈迦寺と呼ばれていた。
   
                                      山門前の中国獅子

次の蛸薬師は安養院の参道を出て右に進むと直ぐある。 
蛸薬師(成就院)=目黒区下目黒3-11-11 
成就院、別名蛸(多幸)薬師。本尊の蓮華座を3匹の蛸が支えていることに由来している。


         

         
            青面金剛庚申塔

目黒不動尊まで戻り、敷地に沿った道を西へと進んでいくと民家の敷地を食い込みように右手に道標はある。案内板も見当たらないが石柱に道標の文字が刻まれている。
瀧前町講中道標=目黒区下目黒4-20-12
「右目黒道 左祐天寺道」のみちしるべで1768(明和5)年建立。瀧前町は、当時のこのあたりの地名である。
                   

そこから目黒通りまで北上し 目黒通りを西に油面信号まで進み、右折しこの道、油面地蔵通りを北上する。
油面子育地蔵尊(高地蔵)=目黒区目黒4-26−15
江戸時代、享保の頃(1716~35)、飢饉や耐火で多くの人が亡くなり冥福を祈り救済を願って1733(享保18)年に祐天寺で供養が営まれ、六十六部供養塔ともに祀られた。育児の厄除けに霊験あらたかな子育て地蔵尊として信仰されている。もとは土手の上に2m以上の高さの地蔵が祀られていたことで高地蔵とも呼ばれている。 
         

         

目黒通りに戻り、なおも元競馬場信号まで戻る。ここを左折、この中町通をを500mほど北上すると六叉路に着く。右手に電話ボックスがあり、その傍らに小さな石柱が置かれている。
とちの木庚申=目黒区目黒4-2
         

次は、この六叉路に貼られている案内板を参考に永隆寺方向に進む。永隆寺を過ぎた交差点の右手に庚申群がある。
馬喰坂上の庚申群=目黒区目黒3-21
馬喰とは、馬の鑑定や売買を行う馬喰(博労・伯楽)と関連させる説と、風雨にさらされて地面に穴が開いた状態を目黒の古い方言で「ばくろ」という説がある。
         

庚申群の十字路を右折し、しばらく行くと十七坂の標柱がある。柵に囲まれた墓所内に、それはある。
十七が坂上の庚申塔=目黒区目黒3-3
高さ2m余もある宝筺印塔型の庚申塔は1626(寛永3)年の建立で都内でも古いものである。塔の手前にある板碑型庚申塔には1657(明暦3)年の年号と17名の人物の名前が刻まれている。この17名は庚申塔前の坂の名に由来する。
         

馬喰坂上の庚申群まで戻り、なおも直進し、現代彫刻美術館、長泉寺を通り越すと前方左手に庚申塔が。
藤の庚申=目黒区中目黒5-6
         

前の道は、古くから庚申道と呼ばれ目黒不動方面と宿山(しゅくやま)方面を結ぶ幹線道路であった。
再び馬喰坂上の庚申群まで戻り、今度は左折する。ここが馬喰坂である。
この坂を下ると山手通りの田道交差点に着く。なおも直進すると目黒川に架かる田道橋(でんどうばし)が見えてくる。右手に路地があるのでそこを入いる。正面に中小企業センターホールが見え、右へわずかに進むと田道町内会館があり、その隣に庚申塔群。

田道庚申群=目黒区目黒2-13-7
1677(延宝5)年から1713(正徳3)年にかけてのもの。
   

次は、戻る形で田道橋へと進む。橋の手前の左手に次の庚申塔が。
ひいらぎ庚申(田道橋庚申塔)=目黒区目黒2-3


田道橋を渡ると右側に田道小学校があり、それを過ぎた丁字路を左折する。右手ふたつ目の路地に茶屋坂への案内板が貼ってあるので、案内に沿って進む。
落語「目黒のサンマ」に因んだ公園に着く。

この公園の左脇を進むと茶屋坂の標柱がある。

茶屋坂と爺々ヶ茶屋
坂の由来は、江戸時代、将軍が鷹狩りの折に立ち寄った「爺々ヶ茶屋」がこの近くにあったことからという。
この爺々ヶ茶屋に、徳川将軍、三代家光(1604~51)、八代吉宗(1684~1751)が立ち寄り背後にそびえる富士の絶景を楽しみ、湧きでる清水でたてた茶で喉を潤したといわれる。

目黒では、鷹をつかって獲物を捕える「鷹狩り」が行われていた。江戸幕府によって整えられた目黒の鷹場は、「目黒筋」と呼ばれていた。また獲物を前もって捕え、飼育する「網指」という鷹場役人もいた。
 

ここからは、目黒川に架かる茶屋橋の上流の中里橋に進み、その先山手通りを北上し、目黒歴史博物館(目黒区中目黒3-6-10)に立ち寄り、今回散策の知識を吸収する。

さらに山手通を中目黒立体交差まで北上、交差点を左折、今度は都道416号古川橋二子玉川線・駒沢通りを進む。すぐにけこぼ坂となり、坂を上がった信号機のところで右折する。しばらく進むと商店街と交差するので左に曲がる。
ちょっと進むと馬頭観世音に通じる路地が右手にある。

目黒銀座観音(馬頭観世音)=目黒区上目黒2-14
大正末期、この辺りは小規模な乳牛牧場や馬力運送を業とする者が多く、目黒恵比須畜舎運送組合を結成、その代表者たちが発起人として、牛馬の息災を祈念し死後の菩提を弔うとともに、馬頭観音を安置した。現在の社殿は1935(昭和10)年の建設で、1956(昭和31)年に目黒銀座観音に改称された。
    
若い男性がお参りして駅方向に歩いて行った。
賽銭箱がないのか木製のお椀に10円玉ひとつが置かれていた。

ここから再び駒沢通りに戻りけこぼ坂を上がるきると右手に区総合庁舎があり、入口に庚申塔が。

けこぼ坂庚申塔=目黒区上目黒2-10 
けこぼ坂は、古くから下渋谷から祐天寺を経て碑文谷に至る道の要衝であった。そのため、何度となく工事が重ねられ、坂の斜面が崩れやすく、また道幅が狭められたことさえあった。この状態を古い目黒の方言で「けこぼ」と称し、坂の由来になった。
                  
駒沢通りをさらに碑文谷方向進むと左手に天祖神社の鳥居が見えてくる。鳥居の奥の参道が有料駐車場になっている。神社が営業しているようだ。
目黒天祖神社庚申塔=目黒区上目黒2-28
         
右側の庚申塔は1716(享保元)年の建立で、彫像碑には珍しく道標を兼ねていて、区内の道標碑としては最古のもの。右側面の道標銘には、「是より末町さき四辻、大道九品仏道、右せたかい道、左へふとう道」と刻まれている。
左側の庚申塔は1708(宝永5)年の建立で、「奉待庚申青面金剛」の銘と、講中9人の名が彫られている。    
         

駒沢通りを駒沢方面に進む。大きな寺院が見えてくる。
祐天寺=目黒区中目黒5-24-53
1718(享保3)年の開山。徳川八代将軍吉宗の浄財喜捨や特別な保護を受けるなど、徳川家と因縁ある寺として栄えてきた。
      
五代将軍綱吉の息女竹姫寄進の「仁王門」
         
将軍家宣夫人天英院寄進の「鐘楼」と「梵鐘」
         

まだまだ駒沢通りを駒沢方面に進む。左手道沿いに
さわら庚申と道標=目黒区中町2-38
近くにさわらの木があったことからこの名が付いた。冠瓦の両脇に可愛らしい猿の像が乗っており、お堂には三猿の彫物が。堂内には3つの庚申塔が納められていて、お堂の右手に道標がある。
         

まだまだ駒沢通りを駒沢方面に進み最後の庚申塔に。
守屋図書館前信号機を右折し、守屋図書館を過ぎると東横線のガードがあり、その手前の右手路地を進んでいく。

本木庚申塔=目黒区五本木2-20-15
庚申塔群前の道は、古道の鎌倉道と伝えられていて、五本木集落の庚申塔を建てるにはふさわしい場所だったと思われる。
         
この庚申塔の隣は聖パウロ教会である。これが目印になるだろう。


ここで本日の目黒散策が終わった。駒沢通りをUターンして東急祐天寺駅に向かう。所用6時間半余であった。
目黒の散策では多くの庚申塔をみた。村毎に庚申塔があったと聞くが、江戸時代庚申講が本当に盛んであったことをつくづく感づる。



                                                   資料参考:目黒区



鎌倉七口・名越切通から材木座、大町の散策

2012-12-01 16:21:05 | 鎌倉巡り
名越から材木座、大町の散策

「国指定史跡名越切通」の道標が立っている。ここから名越(なごえ)切通が始まる。
名越切通
      
岩盤を削った切通の道を少々進んでいくと、直ぐにまんだら堂跡への上り口がある。
切通入口からとっても近かった。石段を登って行くとまんだら堂跡の平地が開けて明るくなってゆく。

まんだら堂跡
         
まんだら堂跡・大切岸はこちらをクリック

まんだら堂跡を後にして鎌倉方向に進んでいく。
道から少し離れたところに名越切通の説明板を見つける。右手に法性寺・大切岸に通じる分かれ道の案内もある。
ここにも「国指定史跡名越切通し」の標識がある。この辺りが名越切通の一番高い位置になるようで、ここから先は下りとなる。
下る前に、右折して大切岸に向かう。法性寺(ほっしょうじ・ほうしょうじ)との分岐の左手に石造建造物石廟が2基ある。

石造建造物石廟
石廟(せきびょう・石造墳墓堂)の内部には火葬骨を納めた蔵骨壺が納められていたという。発見された五輪塔の一部や、かわらけ片などから鎌倉末期から南北朝期に造られた古いものと想像される。
         

 
この石廟は、あまり見かけたことのない珍しい形をしている。埋葬されていたのは誰で、周囲にやぐらが多いの対してここだけ何故このような石廟なのかは全くの謎であるが、何れにしても埋葬者は特別な人物と思われる。

大切岸の上は視界が開け、法性寺の山王様を祀った岡がそこだけニョキっと高くなって見える。
大切岸についての解説板があるのではと進んでは行ったが見当たらないので、戻って法性寺に下ることにした。ここから大切岸を眺める。それと前回は足を運ばなかった山王権現社にも行った。

         

法性寺  久木9-1-33
中世鎌倉の日蓮宗の古刹・猿畠山法性寺(えんはくさんほっしょうじ)。白猿伝説の寺。
日蓮聖人が鎌倉の松葉ヶ谷で様々な法難いあい焼き討ちに遭った際、3匹の白猿が日蓮聖人を助けこの寺にある岩窟に案内したという。
         扁額の白猿

  
   日蓮聖人を祀る祖師堂                 日蓮聖人が隠れた岩穴

再び名越切通に戻り、下り始める。木々で遮られる日陰の下、石段が続く。近くでイベントが開かれているようで音楽が大きく聞こえてくる。
                   
日陰から直ぐに明るくなり、横須賀線のトンネルの上に出る。名越切通ってこんなに短かったかと半年前の記憶をたどってみる。
狭い道を下って行くと広場で町内会のもちつき大会が開かれていた。イベントはふたつの自治会の合同で開かれているようだ。そのひとつが松葉町内会というのだが、むかしこの辺りは松葉ヶ谷(まつばがやつ)と呼ばれ、日蓮が草庵を置いたところでもあり、その地名に因んだ名前が自治会名として残っていることは散策する者としては嬉しい。

  
      
名越坂踏切を渡る。踏切を渡って直ぐに右手の細道に入る。目前に日蓮乞水がみえる。
日蓮乞水
1254(建長6)年、日蓮は名越切通を越えて鎌倉に入ったという。
その折、水を求めた日蓮が、持っていた杖で地面を突き刺したところ水が湧き出したとされる。
『新編鎌倉志』には、「日蓮乞水は名越切通に達する路傍の小さな井戸を云う 昔日蓮が房総より鎌倉に来る時 此処にて清水を求めしに俄かに湧出せしとなり 大旱にも涸れる事なしとぞ、鎌倉五名水の一なりと云う」と記されている。
現在は、井戸の形をしているが、元は湧き水であって、穴があいているだけであったという。鎌倉五名水のひとつ。
「南無妙法蓮華経日蓮水」(1253(建長5年)と刻まれた石碑がある。この通りを進んで、名越踏切前行くと、ここにも「日蓮水」と刻まれた石碑がたっている。


バス通りに出て、鎌倉十井「銚子ノ井」前から5月の時にはこの先を北上したので今回は南下のコースを選び、バス道路を渡って「大町五丁目3」の住所表示のある路地を入る。
長勝寺松ヶ谷草庵
名越の松葉ヶ谷は、現在の材木座から大町付近といわれている。名越の谷(やつ)を出て西に向かった中心地が材木座であった。材木座は商業地として繁栄していて、海岸には舟が行きかい市が開かれていた。ここで働く下層民や流れ者という浮浪人などが集まって居住したのが名越という(石井進著『御家人制の研究』)。日蓮聖人はこのように、商工業者や流民など雑多な人々が日常生活をしていたところに、鎌倉仏教の祖師となった日蓮聖人はあえて庵室を構えた。
         

再びバス通りに戻って、鎌倉駅方向に歩き、長勝寺バス停前を左折すると右手に長勝寺がある。
大きな本堂の前には日蓮上人と四天王の大きな像が置かれている。その大きさに驚く。

長勝寺  材木座2-12-17
日蓮宗の寺院、山号は石井山(せきせいざん)。本尊は大曼荼羅。大本山本圀(国)寺(六条門流)の旧末寺。
鎌倉時代の武将、松葉ヶ谷の地頭である石井長勝が迫害された日蓮上人を保護し、屋敷を庵として寄進したのがはじまり。法華堂という祖師堂は室町時代の建物で関東最古のものとされており、三門は江戸時代のものという。
         

         

          法華堂

         
ゴーカートの事故で亡くなった日活映画俳優赤木圭一郎(1939~61)の記念碑がある。日活は今年100周年を迎えた、そんな時に参拝したのも何かの縁であろう。

長勝寺の裏門を出て前の道を西へ、ひとつ目の路地を南下する。
来迎寺  材木座2-9-19
源頼朝が1194(建久5)年、旗揚げの時に頼朝に加勢して平家方の軍勢と闘い、89歳で戦死した衣笠城主・三浦大介義明(1092~1180)の冥福を祈って建てた真言宗・能蔵寺(のうぞうじ)という寺がかつてあったといわれている。開山の音阿が時宗に帰依したため、改宗して、寺の名前も来迎寺(らいこうじ)と改められた。
   
境内には、三浦義明の墓と、石橋山の戦いに敗れ三浦に引き返す途中で、平家方の畠山重忠の軍に17歳の若さで殺された多々良三郎重春の墓といわれている高さ2mほどの大きな五輪塔がある。
境内を外れた奥には家臣の墓の石塔群がある。


路地を尚も南下、左手奥に。
五所神社  材木座2-9-1
もとの乱橋村には三島社、八雲社、金毘羅社が、材木座村に諏訪社、視女八坂社があったが、乱橋村と材木座村が東鎌倉村に編入され、1873(明治6)年に三島社が材木座の鎮守として村社となり、1908(明治41)年に他の4社と合祀され、五所神社となった。

境内には猪に乗った摩利支天(下左)やお春(下右)などの石仏像がある。お春さんは「かくれキリシタン」だそうで、手を後ろにしばられて、苦しい表情をして、天の光(救い)をもとめている姿だという。
      

さらに路地を南下、左手に。
實相寺  材木座4-3-13
日蓮宗の寺院。山号は弘延山。
実相寺の境内は鎌倉時代の武将・工藤祐経(くどう すけつね・?~1193)の屋敷跡で、1271(文永8)年、日蓮聖人が佐渡に流されている時に、日昭()1236?~1323)が、一門の教化・統率の拠点として開いた濱土法華堂がはじまりとされる。
日蓮聖人入滅後、1284(弘安7)年に濱土法華堂を寺とし、法華寺とした。本堂は、1868(明治初)年の火災の後に再建された。

もっと南下、突き当たったら左手に、ひとつ目右手の路地曲がり道なりに行って左手。
補陀洛寺  材木座 6-7-31
頼朝が1181(養和元)年、文覚(もんがく・1139~1203)を開山として建てたといわれている。ここは、頼朝御祈願所であり、頼朝の供養をここですることになっていたといわれている。竜巻や火災の被害を受け、別名竜巻寺(たつまきでら)ともいわれる。
         

補陀洛寺向かいの路地を西に、突き当たった道路を右に曲がる予定だったが、ふと左手を見ると海があった。
材木座といえば海岸だろうと海に出た。
ウィンドサーフィンを楽しんでいるたくさんのボードが海に浮かんでいた。

材木座海岸
         

この辺り(材木座)を歩いていると、住宅や店舗に昭和のかおりがする建物が目についた。
         

バス道路を北上、左手に。
九品寺  材木座5-13-14
浄土宗の寺院。山号は内裏山。本尊は阿弥陀如来。
この寺は、新田義貞(1301~38)が鎌倉幕府滅亡後に北条方で亡くなった者の菩提を弔うために、1336(建武3)年に創建したものと伝えられる。


道路を北上、十字路奥左手。
向福寺  材木座3-15-13
本堂と庫裡だけのひそやかな寺。本尊の阿弥陀三尊像は南北朝時代の作といわれる。鎌倉三十三所観音霊場第十五番札所。 
向福寺は、『丹下左膳』の作者林不忘(はやしふぼう・長谷川海太郎・1900~35)が新婚生活を送ったといわれる寺。
開山の一向は、時宗の開祖一遍上人(1239~89)と同じく、鎌倉時代に各地を遊行し、踊り念仏によって教えを広めた。本尊は観音、勢至の両菩薩を脇侍とする木造阿弥陀三尊像で、南北朝時代の作といわれている。
1923(大正12)年の関東大震災によって、文政年間(1818~1829)に建てられた本堂と表門が倒潰してしまった。現在の本堂は1930(昭和5)年に再建されたもの。
         

更に少々北上、妙長寺の手前に。
鎌倉十橋・乱橋
新田義貞が鎌倉に攻め入ったときに、北条軍が乱れ始めた場所であることから「乱橋」と呼ばれるようになったといわれる。
      

更に少々北上、右手に。
妙長寺  材木座2-7-41
開山の日実は、伊豆で日蓮聖人の命を救った漁師、舟守弥三郎の子(一説には本人)であり、後に鎌倉を訪れた彼は沼浦(材木座)に一堂を建立した。これが妙長寺のはじまりという。
1878(明治11)年建立の鱗供養塔は、鎌倉、逗子、三崎の漁師や魚商たちの手によるもので、古くから庶民に親しまれてきた寺である。
『高野聖』などで知られる作家・泉鏡花が、1891(明治24)年のひと夏をこの寺で過ごした。その時のことを小説『みだれ橋』(後に『星あかり』と改題)に書いていると教育委員会の解説が貼られている。

三門前には檀信徒以外の入山お断りの立札が、これで親しまれてきた寺なの?。

北上し、横須賀線手前を左手して進むと、すぐ右手路地の入口に「元鶴岡八幡宮」の石碑がある。
由比若神社(元八幡・国史跡)  材木座1-7
1063(康平6)年、頼朝が奥州征伐に祈願して、勝利を収めた後石清水八幡宮を最初に勧請した由比郷若宮の跡といわれ、頼朝によって現在の鶴岡八幡宮に移された。
鳥居の左手に「源義家公 旗立の松」の残骸がたっている。義家(1039~1106)が後三年戦役に向う時に社殿を修復し、ここに白旗を立てて武運長久を祈ったという。


          
神社の文学案内板に「元八幡横の芥川龍之介旧居跡」という興味ある文章が書かれているので紹介する。
龍之介(1892~1927)は1916(大正5)年、東京帝国大学英文科卒業後、横須賀海軍機関学校の嘱託英語教官となり、この地に住まいを設けた。当時、元八幡の北側一画に小山別荘があり、別棟の広い家を借りていた。間取りは8畳2間とその他3間に湯殿と台所がある広い独立家屋であり、庭には池もあった。一度横須賀に転居したが結婚後再びこの地に戻った。
1919(大正8)年執筆に専念することで田端の実家に帰るまでのつごう2年前後の生活のようであったが、当時のことを『彼等の家は東京から汽車でもたっぷり1時間かかる或海岸の町にあったから。』と絶筆となる「或阿呆の一生」に書いているという。
1か月前に芥川家の墓に行ったが今度は住居跡かって感じ。
これをまとめている時に、たまたま結婚前の彼女へのラブレターの話がテレビ番組で放送された。鎌倉散策から離れるが記しておく。 
龍之介の嫁さんとなるべき人は塚本文(つかもとあや・1900~68)さん。結婚する2年前の夏のこと。
大正5年、九十九里の一の宮海岸一宮館に滞在していた龍之介は、16歳の女学生であった文さんに熱烈なるラブレターを送った。

『文ちゃん。
僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして 暮らしてゐます。
何時頃 うちへかへるか それはまだ はっきりわかりません。
が、うちへ帰ってからは 文ちゃんに かう云う手紙を書く機会がなくなると思ひますから 奮発して 一つ長いのを書きます。・・・』 
という文章で始まり、そして、
『貰ひたい理由は たった一つあるきりです。さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云ふ事です。
勿論昔から 好きでした。今でも 好きです。その外に何も理由はありません。』
ストレートで飾り気のない長~い文章で、熱き思いを綴っている。
この恋文は有名だそうで、2年後彼女が女学校在学中に結ばれている。文18歳、龍之介27歳であった。写真でみると気難しい龍之介の印象であるが、女性に対する熱き想いは人並み以上であったようだ。
だが、8年後龍之介は睡眠薬で服毒自殺ををしている。龍之介曰、2年ばかりの間死ばかりを考え続けていたという。それでなのか、文が「お父さん、良かったですね」と語りかけという。
熱烈なるラブレターを送ったはずなのに、短かった結婚生活。
滞在した九十九里の一宮館は今や、龍之介ゆかりの宿として名を売っている。


北上する道路に戻り、横須賀線の踏切を越えすぐ左手に。
辻薬師堂
1190(建久元)年、頼朝が二階堂(現在の鎌倉宮あたり)に建立した医王山東光寺の境内にあったものといわれる。その後1704(宝永元)年、大町名越御嶽(名越切通の近く)にあった古義真言宗長善寺に移された。その後、大町辻に移り、1674(延宝2)年には、水戸光圀(1628~1701)も訪れている。江戸末期に焼失したが、薬師堂だけは残ったという。明治期の横須賀線敷設工事に伴い、現在地に移設された。
                   
次は向かい側に。
本興寺  大町2-5-32
日蓮宗の寺院。山号は法華山。旧本山は比企谷妙本寺。
日蓮上人の鎌倉辻説法の由緒地(現:鎌倉市大町)に、1336(延元元)年、日蓮の門弟「九老僧」のひとり天目が休息山本興寺を建立した。1382(永徳2)年、日什(1314~92)が二世となり、山号を法華山と改める。 「辻の本興寺」とよばれる。
1608(慶長13)年、本興寺二十七世から妙満寺二十七世となった日経が不受不施を説いたため、江戸幕府によって京都六条河原で耳・鼻削ぎの刑に処せられ、関連寺院は取り潰された。これを慶長の法難という。
なお、日経が与同した師日奥らの不受不施派は、キリシタンとならんで幕府の厳しい詮議の対象となった。このため、三十世日顕(1922~)により1660(万治3)年、 鎌倉郡飯田村(現在の横浜市泉区飯田)に寺基を移したのが本興寺である。
その10年後の1670(寛文10)年、比企谷妙本寺歴代照幡院日逞が辻説法旧地の衰退を嘆き、寺門の復興を願い、徳川家より寺領の寄付を受け、辻の旧地に本興寺を再興した。妙本寺末寺となって現在に至っている。


北上し、「大町四ッ角」を右折、右手。
大町から名越に通じるバス通りにひときわ目に付くお寺、上行寺(じょうぎょうじ)。

上行寺  大町 2-8-17
日蓮上人の孫弟子にあたる日範上人が1313(正和2)年に開山。本堂は、「妙法寺(こけ寺)」の法華堂を移築したといわれている。


             
          
    
         
                左甚五郎の作とされる三門にある龍の彫物(寺宝)

癌封じが有名。癌はもとよりすべての病にご利益があるとされる「瘡守稲荷(かさもりいなり)」 と、「千手観音像」そして「身がわり鬼子母神」が祀られている。
         

上行寺の向かい側
別願寺  大町1-11-4
別願寺は、鎌倉公方代々(足利基氏・氏満・満兼)の菩提寺であり、鎌倉での時宗の中心として栄えた。
もとは真言宗の寺で能成寺といったが、1282(弘安5)年、住職だった公忍が一遍に帰依し、名を覚阿と改め時宗に改宗した。同時に寺の名を別願寺とした。
境内には、室町幕府に対して「永享の乱」を起こした四代鎌倉・公方足利持氏(1398~1439)のものとされる供養塔(宝塔)がある。この供養塔には、持氏の怒りを鎮めるため、四方に鳥居の浮彫りが施されている。
         

「大町四ッ角」までもどり、右折しひとつ目の左路地を入る。突き当たり右手。
教恩寺  鎌倉市大町1-4-29
山門の十六羅漢の彫刻が見事な教恩寺は、一ノ谷の合戦で敗れ捕らえられた平清盛の子で重衡(1157~85)に縁のある寺。
         
重衡は、南都焼討ちによって、奈良の東大寺や興福寺を焼いた武将。
「一ノ谷の合戦」で捕らえられ鎌倉に来た際に、源頼朝より一族の冥福を祈るように阿弥陀像を与えられたという。その像が教恩寺の本尊で、運慶作と伝えられている。
もともとこの地には、光明寺末の善昌寺があったが廃寺となったため、1678(延宝7)年、貴誉上人によって光明寺境内にあった北条氏康(1515~71)建立と伝わる教恩寺が移築されたといわれている。
その後、浄土宗より時宗に改宗したと考えられる。
もともと教恩寺は、平重衡と直接関係のある寺ではないが、重衡は、源頼朝が与えられたという教恩寺の本尊「阿弥陀如来像」に深く帰依したといわれている。
重衡が往生できるよう祈願すると阿弥陀像が三度うなずいたという伝説もある。
かつては、教恩寺の寺宝の中には、重衡と千手前(せんじゅのまえ・1165~88・源頼朝の侍女)が酒を酌み交わしたという杯があったといわれている。黒の漆塗りで、梅の蒔絵が施してあった杯だったと伝えられている。

         
北上の道まで戻りそのまま北上。本覚寺前を右折。
妙本寺  大町1-15-1
妙本寺は、日蓮宗の寺院。もとは比企能員(よしかず・?~1203)の屋敷で、1203(建仁3)年、比企の乱で比企一族が、北条氏を中心とする大軍に攻められ、滅ぼされた地でもある。その後、比企能員の末子の比企大学三郎能本(よしもと・1202~?)が日蓮上人のためと比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まり、日朗を開山として1260(文応元)年に創建された。
総門を入ると、左奥に将軍頼家の側室・讃岐の局(比企能員の娘)を祀る蛇苦止堂(じゃくしどう)があり、真っ直ぐ進めば左手の本堂や鐘楼を経て、朱塗りの二天門の中に、頼家の子・一幡(いちまん・1198~1203)の袖塚や比企一族の墓と、大きな祖師堂に日蓮上人像が祀っている。祖師堂奥には頼家の娘で将軍藤原頼経の御台所としての竹の御所と呼ばれた源よし子(女片に美と書くが漢字がでない・鞠子とも・1001~8)遺言で建てられた新釈迦堂跡がある。祖師堂手前の霊宝殿には、1337(建武4)年銘の霊盤(重要文化財)をはじめ、日蓮・日朗上人ゆかりの多数の寺宝がある。本尊は十界大曼荼羅御本尊。
            

         方丈門

         本堂

         二天門

     
        時国天                      多聞天(毘沙門天)
         祖師殿


    比企一族の墓                      新釈迦堂跡(源よし子の墓)

         蛇苦止殿

本覚寺までもどり、北側の路地を西へ若宮通りに出る。やや北上して鎌倉駅には15時50分に到着する。およそ7時間の散策であった。
長い綴りとなってしまい何所かを削ろうとしたが、足が痛くなるほど歩いた記録だと思い削除はしなかった。
お疲れ様です。