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歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

上野のお山あたりを巡る

2012-07-31 00:00:02 | 東京散策
上野のお山あたりを歩く
上野のお山は桜の名所として有名であり、博物館、美術館それに家族連れの動物園もある。
が、それ以外にも史蹟、名所など楽しめる場所がたくさんある。今回は、地下鉄千代田線の湯島駅に降りて不忍池や上野のお山周辺を周ってみた。


湯島天満宮  湯島3-30-1
湯島天満宮の参道は男坂と女坂がある。男坂の坂下には復興地蔵が祀られている。
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で被災された人々の冥福とこの地の復興を祈る地蔵である(右)。また、左の地蔵尊は戦後の復興時にある朝突然に出現し、その顔立ちから幸せを呼ぶ地蔵尊として親しまれているという。
 
湯島天満宮は、通称湯島天神。旧称湯島神社。古来より江戸・東京における代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れる。

境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った「湯島の白梅」(1942年)は戦中時の歌として大ヒットした。
              


旧岩崎邸  池之端1-3-45
    
旧岩崎邸は1896(明治29)年に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられた。
英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたもので、現存するのは洋館・撞球室(どうきゅうしつ・ビリヤード場)・和館の3棟である。
木造2階建・地下室付きの洋館は、本格的なヨーロッパ式邸宅で近代日本住宅を代表する西洋木造建築。
別棟として建つコンドル設計の撞球室(どうきゅうしつ・ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りの木造建築で、洋館から地下道でつながっている。
洋館と結合された和館は書院造りを基調にされていて、広間には、橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる日本画などが残っている。

1961(昭和36)年に洋館と撞球室が重要文化財に指定。1969(昭和34)年に和館大広間は洋館東脇にある袖塀とともに、1999(平成11)年に煉瓦塀を含めた屋敷全体と実測図がそれぞれ重要文化財に指定された。室内の撮影が禁じられているので画像がないのが残念である。

岩崎家の家紋である「重ね三階菱」の意匠は三菱の社章となった。
  

境稲荷神社・弁慶ヶ井戸  池之端1-6-13
境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(1469〜1486)に室町幕府第九代足利義尚が再建したという。「境稲荷」の社名は、この付近が忍ヶ丘(上野台地)と向ヶ丘(本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現、池之端1、2丁目の一部)の鎮守として信仰を集めている。

社殿北側の井戸は、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行の喉をうるおしたと伝え、『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋めたが、1940(昭和15)年に再び掘り出し、特に1945(昭和20)年の東京大空襲では多くの被災者を飢えとかわきから救った。
        


不忍池
               
不忍池(しのばずのいけ)は上野恩賜公園(東京都台東区)の中に位置する天然の池である。
弁天島に建つ石碑によれば、「不忍池」の名は、かつて上野台地と本郷台地の間の地名が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていたことに由来するとのことである。
現在の不忍池は、その中央に弁才天を祀る弁天島(中之島)を配している。15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていた。また、池は遊歩のための堤で3つの部分に分かれており、それぞれ、一面が蓮で覆われる蓮池、ボートを漕いで楽しむことのできるボート池、上野動物園の中に位置しカワウが繁殖している鵜の池の3つである。
ところで、不忍池周回の競馬(上野不忍池競馬場)が行われたことがあったと、以前NHK-TVの「ブラタモリ」の番組で知った。
その競馬は、1884(明治17)年から1892(明治25)年まで春、秋の年2回開催されていた。1周1600mの長さがあり、観覧席もあった立派なもののようである。馬券の発売がなかったことで経営難となり中止となった。



不忍池弁天堂  上野公園4-17
不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島の弁財天を模したのが不忍池弁天堂である。



西郷隆盛像  上野公園1-59
上野恩賜公園正面入口、石段を上った山王台広場に立つ西郷隆盛像は、武士・軍人・政治家である西郷隆盛(1828~1877)の1868(慶応4)年に江戸城を無血開城させ、江戸を戦火から救った功績によって1898(明治31)年に建立された。
愛犬をつれ、腰にわらの兎のわなをはさんで兎狩りに出かける姿である。そこには、西郷の高い人気があるために、反政府的機運を生み出さぬように、軍服姿ではなく、犬を連れて歩く庶民に親しまれる的姿にと政治的意図が働いていたと見られる。作者は、彫刻家高村光雲(詩人・高村光太郎の父)。
                      


彰義隊墓碑  上野公園1-59
寛永寺境内(現在の上野公園)で争われた上野戦争(戊辰(ぼしん)戦争の一部)で新政府軍と戦った彰義隊士の慰霊碑。
彰義隊は、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の一部)で江戸へ逃亡した徳川慶喜の警護を担当していた藩士や新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙し、1868年7月4日(慶応4年5月15日)上野戦争となった。新政府軍はアームストロング砲などで攻撃。当時の寛永寺建設物は消失。半日で彰義隊は新政府軍に激破され、残党は逃亡し、会津戦争へと移る。
 


上野大仏  上野公園4-8
1631(寛永8)年に造られ、度重なる震災によって数回首が落ち、今は顔だけが置かれている。これ以上落ちないということで、受験生の間では密かなお参りスポットとなっている。
          


摺鉢山
上野の山にこじんまりとした山がある。標高24.5m。この山はおよそ1500年ほど前の前方後円墳の古墳だったという。また、かっては清水観音堂が鎮座していた。
               


上野東照宮  上野公園9-88
正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれる。徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。1627(寛永4)年)、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建した。社伝によれば、1616(元和2)年、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。現在の社殿は1651(慶安4)年に家康の孫である徳川家光が改築したものである。社殿は2009年1月から2013年まで修復工事が行われている。旧社格は府社。


寛永寺清水観音堂  上野公園1-29
                  
1631(寛永8)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正によって創建された。寛永寺の堂舎のひとつ。京都東山の清水寺を模した舞台造りのお堂で、1631(寛永8)年、天海大僧正により建立された。また、御本尊も清水寺より恵心僧都(えしんそうず)作の千手観音(せんじゅかんのん)像を迎え秘仏として祀られている。



花園稲荷神社
古くは、上野の山の石窟の上にあったといわれ、「穴稲荷」とも呼ばれれ、江戸時代より庶民の信仰が篤き神社である。特に縁結び、子授けのご利益、効果で知られてきた。
                                  
創祀は大変古く細かくははっきりしないが、上野の山の守護神として晃海僧正が1654(承応3)年、社を再建されたと伝わる。
1873(明治6)年に花園稲荷と改名さるが、「忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)」が正式名称である。
 

              


五條天神社
五條天神社は薬祖神としての信仰をあつめた神社で、室町時代中期には上野山に鎮座していることが明らかな区内でも有数の古社である。
主神に大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)二柱の薬祖神を、相殿には菅原道真を祀っている。
縁起によると、今から1900年ほど前の第十二代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐のため、上野忍が岡を通られた際、薬祖神2柱の大神に御加護を頂いたことを感謝されて、この地に両神をお祀りしたのが創祀だという。



森鴎外居宅跡  池之端3-3-21
1889(明治22)年3月、森鴎外(1862~1922)は海軍中佐の長女と結婚し、根岸からこの地(下谷区上野花園町11)に移り住んだ。その家は現在もホテルの中庭に残っている。家庭には恵まれず、長男が生まれると1890(明治23)年9月に離婚、翌年に転居している。
   


暗闇坂  池之端四丁目
文京区本郷から台東区上野に向かう清水坂の別名。
坂の途中にはNHK-TV「ブラタモリ」で放送された、旧都電の変電所で現在上野動物園のグッズを保管するレンガ造りの倉庫がある(画像左手の建物)。
       


東叡山寛永寺護国院(大黒天)  上野公園10-18
1625(寛永2)年、寛永寺の最初の子院として創建された。開基は生順。当初は寛永寺本坊の裏手、現在の東京国立博物館北側の寛永寺墓地の位置にあった。
1630(寛永7)年、天海によって釈迦堂が建立されると、その別当寺(管理寺院)となった。護国院は徳川家霊廟の建立に伴い2度にわたり移転し、現在地に移ったのは1709(宝永6)年のことである。釈迦堂は1717(享保2)年に焼失し、1722(享保7)年再建された。
             




東叡山寛永寺  上野桜木1-14-11
寛永寺は、京の都における比叡山延暦寺になぞらえて、江戸の鬼門・上野の忍岡に建立された。
徳川家の祈祷所・菩提寺として強大な権勢を誇り、徳川歴代将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)がここに眠っている。
寛永寺は天台宗の関東総本山で、山号を東叡山(とうえいざん)、すなわち「東の比叡山」と号し、京の宮都の鬼門(北東)を守る比叡山にあやかって、江戸城の鬼門を守る寺として建立された。創建は1625(寛永2)年、そのため当時の元号をそのまま寺号としている。
寛永寺を開いたのは、徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海である。 17世紀半ばからは、皇族が寛永寺の歴代住職を務め、また日光山や比叡山をも管轄する天台宗の本山として機能したため、近世には寛永寺は強大な権勢を誇った。
その寛永寺も幕末の1868(慶応4)年、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったことから、根本中堂をはじめ主要な堂宇を失い壊滅的打撃を受けた。 現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、1879(明治12)年、川越喜多院の本地堂を移築したもので、寛永寺本来の建物ではない。この根本中堂の内陣には、秘仏本尊薬師三尊像が厨子内に安置されている。五重塔は1631(寛永8)年に建立された。しかし、8年後の1639(寛永16)年に焼失したので同年ただちに古河城主・土井利勝によって再建された。それが現在上野動物園の敷地内にある旧寛永寺五重塔(重要文化財)である。
 

               


東叡山浄名院  台東区上野桜木2-6-4
「言問通り」を挟んで寛永寺の反対側に道路面から一段低く寺の山門がある。「東叡山浄名院」の札がかかった享保年間(1716~35)建立の木造の門である。浄名院は天台宗の寺で、1666(寛文6)年、圭海大僧都によって創建された。当初は浄円院という山号で、東叡山寛永寺三十六坊のひとつとされ、四代将軍家綱の母・寶樹院の菩提寺である。東叡山と山号を冠しているが、1723(享保8)年に浄名院と改名し、寛永寺とは独立した寺として存続してきた。 この寺は、八万四千体地蔵の寺として知られている。その名の通り、一歩境内に入ると、左手に青銅製の巨大な地蔵菩薩座像がそびえ、その奥におびただしい数の地蔵菩薩の石造が、整然と並べられている。



ひとむかし前の建物・元居酒屋おせん  上野桜木1-14-25
BS-TBSの番組でも取り上げられた、おでんが売りの居酒屋のようで、女将が高齢で3年前に店は閉めたようだ(当時88歳)。
           



この先は谷根千の家並みが続く道につながっている。

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「ちい散歩」最後の谷根千を行く

2012-07-29 00:00:01 | 東京散策
谷根千を行く
               

谷根千(やねせん)とは、谷中・根津・千駄木の頭文字をつなげたもので、この名の地域の情報誌が発行され、いつしかこの界隈を指す総称となったと聞く。
この地域は、戦災を受けず、大規模な開発から免れ、一昔前の街並みの情緒を今日に残こし、東京の下町のひとつとしてスポットを浴びている。


日暮里駅
「谷根千」の紹介はJR日暮里駅南の改札口からスタート。
メインと思われる改札口はビルの中に入っていて絵にならないのでこの場にした。ここは京成本線の連絡架橋の中央にある。
          

御殿坂
以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅や JRの路線ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。   (台東区教育委員会)
    

本行寺  西日暮里3-1-3
景勝の地であったことから通称「月見寺」とも呼ばれていた。太田道灌の道灌丘碑。種田山頭火の句碑「ほっと月がある東京に来てゐる」がある。
    

紅葉坂
坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂(もみじざか)」と命名されたのであろう。別名「幸庵坂」ともいう。
江戸後期の国学者がこの坂の名を記しており「幸庵坂」の名は江戸時代すでにあったことが知られる。
  
     
           
        年代物のコンクリート製防火用水 "防火用水""天王寺町會"と右から書かれている    

天王寺五重塔  谷中7-5
この五重塔は、1908(明治41)年に天王寺より当時の東京市に寄贈されたもので、震災にも戦災にも遭遇せず谷中のランドマークになっていたが、1957(昭和32)年7月6日早朝、残念なことに心中による放火で紅蓮の炎に包まれ焼失してしまった。その五重塔は1791(寛政3)年に再建されたもので、高さ34m余で、関東一の高さを誇っていた。その再建の際のエピソードが幸田露伴の小説『五重塔』となった。塔跡には、花崗岩製の中心礎石と四本の柱礎石などが残っている。 
    

幸田露伴居宅跡 谷中7-18-25
露伴は、1891(明治24)年1月からほぼ2年間、この地(当時の下谷区谷中天王寺町21番地)に住んでいた。ここから直ぐ近くに天王寺五重塔があった。露伴は居宅より日々五重塔を眺め、1891(明治24)年11月に清兵衛をモデルに『五重塔』を発表した。傍らに植わっているサンゴジュは、露伴が居住していた頃からあったという。
           

谷中霊園
谷中霊園の面積は、約10万平米で東京ドーム2個余の面積を持ち、およそ7,000基の墓がある。ひとつひとつの墓地は大変余裕を持っている。その中に、徳川家十五代将軍慶喜や鳩山家(和夫、一郎、威一郎・乙8-4)、横山大観(乙8-4)、渋沢栄一(乙11-1)、宮城道雄(乙4-7)、森繁久彌(乙4-1)、河内桃子(乙2-1)、高橋お伝(墓碑のみ・甲2-1)、川上音二郎(甲2-3)など多くの著名人も眠っている。
 
     徳川十五代将軍慶喜の墓

初音小路  谷中7-18-13
マーケット風の飲み屋街、17店舗が営業している。
昭和の香りが焼き鳥の煙と一緒にただよってくる気がする。
 
谷中初音町
初音町(はつねちょう)という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかかったところに「鶯谷」と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんでつけられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。
この付近では生姜がつくられていた。その後、ここの生姜は全国的に広がり、いつしか「谷中生姜」と呼ばれるようになった。                                      (下町まちしるべ)

夕やけだんだんと谷中銀座  谷中3-13-1
「夕やけだんだん」という変わった名前の坂である。
御殿坂の緩やかな傾斜道を上りきると、車道が突然階段に変わる。それほど急でも長くもない階段だが、その先の谷中銀座商店街に続いている。都内有数の夕焼けの名所で、夕日の当たる時間にここから見下ろす風景は、東京の原風景を思わせるという。 しかし、谷中銀座のはるか向こうに、今では高層マンションが数棟そびえていて、西の空の眺望を遮っている。調べると、この石段の辺りには、いわゆる谷中猫(野良猫)が多数生息していて、昼間には観光客にエサを求めたり、ひなたぼっこをする姿が多数見受けられる。とある、そういえば谷中霊園にも猫の写真をネットに載せると霊園が野良猫の天国のように思われるので自粛して欲しいような立札があった。
石段には野良猫はいなかったが、TVの録画どりが行われてテレビ局のスタッフとタレントがいた。



  
 
延命地蔵尊
よみせ通りの中ほどに安置されている地蔵菩薩は長野県南佐久より、1928(昭和3)年にこの地に移った。毎月24日の延命地蔵縁日には法要が行われ、露店が出るという。たまたま訪れた日が縁日当日であったのだが暑いので露店が出る時刻を遅らすという貼り紙があった。
    
「よみせ通り」の名のいわれは、
大正期に藍染川が暗渠となり、幅8mのとおりとなった。その通りに朝市がたち、生活必需品が揃う便利な通りとなった。人通りが盛んになったことで露店の夜店が軒を並べ、大道芸が口上おかしく黒山の集まりとなり、下町風情たっぷりで、買い物値引きのかけあいなど元気な呼び声が景況を盛り上げて夕涼みの夏の風物詩豊かな心憩う通りとなった。人の波で歩くこともままならないほどで、その盛況は夜更けまで続き、大変評判とな
り、誰いうとなく夜店通りと呼ばれるようになった。(延命地蔵内の掲示物より)

ひみつ堂  谷中3-11-18
「夕やけだんだん」を下りきって左側の道を少々進むと「ひみつ堂」の店がある。漢字を当てはめると「氷蜜堂」と書くようだ。天然氷を昔ながらに手動の氷かきを使って、旬の果実の純粋蜜をかけてお客に出し行列ができるこだわりの店である。
ということを1ヶ月後の新聞でしり追加掲載をした。
あの日、よみせ通り商店街から再び谷中銀座に戻ってきて「ひみつ堂」の前の道を歩いてゆくと、「夕やけだんだん」で見かけた録画撮りのテレビ局のグループがこの店から出てきた。『まだ谷中銀座を散策していたのだ。ところでこの行列をつくっているこの店は何なのか?』と店内を覗くと単に甘味処と思い行列の訳が分からず載せなかった。
        

岡倉天心記念公園  谷中5-7-10
日本美術の発展に多大な貢献をした岡倉天心の邸宅兼日本美術院跡に作られた公園。公園奥には写真のような六角堂が作られ、岡倉天心像が安置されている。公園なので幼児の乗物もある。
                   

蛍坂
近くの宗林寺周辺は江戸時代には蛍の名所「蛍沢」として知られており、その蛍沢に下る坂であることから「蛍坂」という名前になったと伝えられている、カギの手状の坂のようで、よみせ通りを歩いている時に自転車に乗った親子連れの母親が「きついけれど蛍坂を上がるからね」といった会話を聞き歩いてみた。この坂を上がると、観音寺の築地塀の通りとなる。


観音寺  谷中5-8-28
慶長年間(1596~1615)の創建で、もと本所弥勒寺末である。
赤穂浪士の近松勘六と奥田貞右衛門が、当時の和尚と兄弟であったことから、討ち入りの会合に寺が頻繁に使用され、討ち入り後に赤穂浪士供養塔が建立された。
谷中のシンボルのひとつ、築地塀(ついじべい)は観音寺の正面ではなく、左手を入った二間にも満たない狭い路地に沿ってのびている。築地塀は、補強のため層状に板や瓦を何層にも埋め込まれている。関東大震災で一部崩壊したものの、戦災を免れることができた。長さ37.6m、高さ2.06mの築地塀は、1992(平成4)年に「台東区まちかど賞」を受賞している。以来、谷中のシンボルのひとつとして、人々に親しまれる。
    

           

長安寺  谷中5-2-22
鎌倉時代の板碑3基、室町時代の板碑1基がある。開基より400年も前であることから、長安寺開基以前に真言宗の寺があったと伝えられておりで、そのころの板碑と思われる。谷中七福神の寿老人が祀られている。


喫茶店「乱歩」  谷中2-9-14  
地下鉄千代田線・千駄木駅から地上に出た団子坂三崎坂商店街にある。千駄木のあたりは江戸川乱歩が職業作家として世に出た「D坂の殺人事件」の舞台となったゆかりの場所だそうで、D坂で起きた密室殺人事件を"私"と"明智小五郎"が追及していくストーリだそうだ。D坂とは団子坂をもじったもののよう。D坂の途中の「白梅軒」という喫茶店が登場するといい、江戸川乱歩の作品に惚れ込んだマスターが、喫茶店の名前を「乱歩」としてしまったようだ。ドアにはやたらと猫の写真や絵が飾ってあるのが目につく。
                

指人形笑吉工房  谷中3-2-6 
千駄木駅に通じる三崎坂通りにあるせんべい屋裏の路地を入ってゆくと似顔指人形の店がある。。テレビや雑誌などで紹介されたことがきっかけで購入希望者が増え、評判も上々で出来上がりは、注文後2~3ヶ月ということのようだ。店内には、寅さん、プレスリー、八代亜紀などの有名人の指人形も飾られている。
           

千代田線・千駄木駅
           

根津神社 根津1-28-9
根津神社の由緒書きによれば、この神社を創建したのは日本武尊だと伝えている。祭神は須佐之男命・大山咋命・誉田別命の三体で、元は千駄木の別の社地に祀られていた。それを現在の地に遷座させたのは、徳川幕府の五代将軍・綱吉とのこと。 綱吉は、世継が定まった際に、自分の屋敷地を献納して、諸大名に命じて天下普請で権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・透塀・楼門を造営させた。神社の造営は1706(宝永3)年に完成した。そのときの建物は全てが現存し、国の重要文化財に指定されている。


根津神社はツツジの名所としても知られている。ツツジ苑の中を乙女稲荷の小さな鳥居の列が続いていて、それをたどっていくと六代将軍家宣公の胎盤が納められている 胞衣塚(えなづか)がある。
           

根津教会 根津1-19-6
1919(大正8)年に建てられ文化庁の登録有形文化財に指定。
            

千代田線・根津駅
「谷根千を行く」もこの駅でゴール。暑い中、右足首の痛みも発生して大変だった。
            

散策の道筋に見つけた一昔前の家
谷中岡埜栄泉(やなかおかのえいせん)  谷中6-1-26
          
            1900(明治33)年創業の和菓子屋

蒲生(がもう)家 谷中7-17-6

        以前は酒屋で、建物は明治のもの           "蒲生"の文字を焼いた瓦が屋根に

丁字屋 根津2-32-8 
     
 屋号は丁子巴の家紋から。神田鍛冶町で昔は紺屋(染物屋)だった。分家して1895(明治28)年創業

串揚げ処はん亭 根津2-12-15
                 
                     総ケヤキ造り木造3階建てで明治の建設         


「谷根千」は6月29日に行く予定を最初はしていた。
このBlogの内容は「谷根千」だけに絞ったが、計画では湯島に始まり、上野の山を巡って谷根千にはいり、東大を回って地下鉄・本郷三丁目駅を終点とした。初めて回るおのぼりさんの状態なので、資料を集めて、そこもここもと調べていくうちに散策場所が増えていった。そのためにコースが決まらず残念ながら29日には行くことが出来ずに後日となった。

そんな中、6月29日に「ちい散歩」の地井武雄さんが亡くなられた。翌日、遺作となった「大崎郁三の事件散歩」がテレ朝で特番として放送された。
10日ほどしてこの番組を観て鳥肌が立った。そのドラマの舞台が「谷根千」だからである。
それでなくても「ちい散歩」の番組が終わる1年ほど前から、放送数日前にちいさんの散策地を私が訪れていることが数々あったからである。〈 【追悼】「ちい散歩」の先取り散歩参照
地井さんが亡くなった日に遺作の舞台となった「谷根千」を予定していたなんて偶然すぎる偶然だと感じる。


そして、29日に回らなかったことについては、地井さんがこんなことを私にささやいたのではと思ってしまう。

「ヨー、ちい散歩の先取り散歩だか何だか知らないけれど、最後の谷根千だけは俺が先に案内するから、それを観ってからゆっくり回わってもいいだろ。
ヨー、そうしな」って。


その「大崎郁三の事件散歩」を紹介する。


故地井武雄さん遺作「大崎郁三の事件散歩」
ドラマの内容は、人情味あふれる元刑事・大崎郁三(地井さん)が街の人々とふれあいながら事件を解決する。

スタートは日暮里駅南の改札口の前。
「ちい散歩」よろしく
「みなさ~ん 最近歩いていますか。さあ、今日は東京の下町・谷根千という場所をのんびりと歩いてみたいと思います。」
と、「下町路地 ミステリーツアー」の旗を持って数人の参加者を連れて谷根千のガイドが始まる。
                    

ドラマの中に登場した場所を今回いくつか辿る。

へび道 谷中二丁目
不忍池に注いでいた藍染川を1922(大正12)年に暗渠にした道のこと。くねくねした川がそのまま道となったためへび道と呼ばれている。
      

大名時計博物館 谷中2-1-27 
館内は、陶芸家の上口愚朗が生涯をかけて収集した大名時計が、四方の壁に沿って展示されているという。月曜日休館ということで火曜日に伺ったのだが夏の3ヶ月間は全日休館。ガックリである。
ドラマでは、稲森明という近所の青年が事件に関係していないのかと正すシーンに使われた。
   

昔せんべい大黒屋 谷中1-3-4
手焼きせんべい店。
ドラマでは、キヌばあちゃんがせんべいを売っている。それが犯人のアリバイくずしのヒントとなり、事件解決へと進んでいく。
                    

フリップフラッペ
娘・可奈子が経営している「カフェド ヌーベル」の店兼郁三親子の住居。この店はGoogle地図で探した。
          


乙女稲荷神社 根津1-28-9
根津神社の一角に祀られている神社。
ドラマでは、犯人である柳瀬志保が犯行の全容を話す場面に使われた。


「ちい散歩」に登場した谷根千
番組の中で、地井さんは谷中銀座も回っているが、そのほかで印象に残った場所は

>ヒマラヤスギ 谷中1-6 
巨大なヒマラヤスギの下、駄菓子屋に近いレトロなパン屋。関東大震災にも戦災にも免れた長屋の建物。谷中のシンボル的なヒマラヤスギは戦前、鉢植えからの成長で80年以上の歴史がある。、米のとぎ汁が栄養とか。
「ちい散歩」では、この風景は街角の景観を形成している"まちかど賞"を受賞と解説し、地井さんの「今日の1枚の絵」で、ヒマラヤスギとみかどパン店を描いている。
          
          
ヒマラヤスギの前の小路はドラマにも登場している。

>玉林寺脇の路地にある井戸
みかどパン店の裏の道をしばらく進んで最初の右手の路地を入り、くねくねと道なりに進んでゆくとこの井戸がある。路地を挟んで向かい側の方が持ち主のようで所有者の札が貼ってある。
井戸ポンプは更新されているようで新型のようだ。
地井さんは井戸ポンプの場所を上から下りてきて、このようなことを語っている。
「昔の日本の景色みたいだ。本当にこんな景色があったな。」と。
       

この井戸を通って言問通りに面した玉林寺の門前で写真を撮っていると、現役のサラリーマン風の人が声をかけてきた。ヒマラヤスギから私の後をつけてきて本通りに出てきてホッとしたというである。それを聞いて私はゾッとした。地図は持ってはいるものの"感"で路地を歩いてきたので正解で良かった。間違って行き止まりに入っていたら・・・?
その人は絵地図的なものをあてに歩いているようで谷中ぎんざにはどのように行くのかと聞いてきた。
私はこのあと、昔せんべい大黒屋にむかう。

地井さんは昔の下町の風景が残っている「谷根千」が好きだったようである。


                                       《故地井武雄さんの月命日によせる》

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七夕灯篭祭り 2012

2012-07-10 11:31:50 | 長屋門公園
  
          

相鉄線三ツ境駅南口から長屋門公園まで続く全長1.5kmの道路「長屋門プロムナード」に、 手づくりの灯篭700基を並べる「七夕灯篭祭り」が開催された。



中央通商店街は車の通行を止めて道路の中央に
           

   オスメスセットのカブトムシが100円だって
   

          


住宅街に入ると歩道に
          


          


歩道がなくなると道の両端に
          


長屋門公園入口は
          

長屋門
          


灯篭は向原第二公園へとまだ続く
          

昨年から向原第二公園にも 
          

   大きな灯篭もお目見え
 

            公園西の入口
          



昨年に引き続き「東日本復興祈願」がサブテーマに
     

  

      



「瀬谷かるた」にちなんだ作品も
              


                


              
                絵は「瀬谷歴史かるた」(瀬谷歴史かるた発刊委員会)を引用
                かるたはここ「長屋門公園」で販売



今年は長屋門20周年
  前々日に記念のイベントがあったようだ


                  

          

            古民家でジャズが
          



          

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