逗子駅駅北側をぶらり歩いて名越切通へ
日曜日の朝、逗子駅に降り立つ。
名越切通には5月に一度訪れたがまんだら堂が閉鎖されていたので今回は、公開なったまんだら堂の見学が主目的である。その前に逗子駅駅北側をぶらりと歩く。
そこでスタートは逗子駅西口改札口からである。
横須賀線に沿って久里浜方向へ歩道があるような、ないような道路をしばらく歩く。踏切を過ぎてすぐの左手路地が熊野神社の参道になっている。
熊野神社 山の根2-4-1
由緒によると『1869(明治2)年、社殿炎上のため古記録はないが、源頼朝(1147~99)が勧請したと伝えられる。』というので古い神社である。
1998(平成10)年までは藁葺屋根であった。
藁葺屋根の社殿を見たかったナ。
神社に散策の安全祈願をして、山の根横穴古墳群へ境内右手の山道を登る。薄い金属の踏み板が階段状となって敷かれているいる。
熊野神社横穴群
山の根地区は、「八十八穴」といわれるほど多くの横穴が存在していていたが、昭和初期の住宅造成で埋められ現在は30数ヵ所となっている。
熊野神社の裏山には7つの横穴が確認されているが、発掘調査されているのは2穴だけである。
調査で、横穴は7世紀はじめから8世紀末にかけて掘られたもので、出土の灯明皿から鎌倉時代のやぐらとして利用されていたと分かる。
左手の横穴内 右手の横穴
「やぐら」については、『鎌倉七口・名越切通のまんだら堂と大切岸』で詳しく述べる。
次は久木(ひさぎ)神社に向かう。
道を踏切の先まで戻り右折する。しばらく行くと遠くに久木隧道が見えてくる。
トンネル内は照明があって綺麗な造りとなっているが、久木隧道と右書きになっているので、時代があるのだろう。
久木隧道
久木隧道は、久木地区に建設した横須賀海軍工廠造兵部の工員寄宿舎の工員が逗子駅に向かう近道として1941(昭和16)年に完成した軍用久木隧道。
やはり、このトンネルには歴史があった。
久木隧道を抜けるとすぐ右手に、「LS」の飾り文字のついた建物がある。
幼稚園から高校までのキリスト教の女学校である。LSの飾り文字は、校章で「Lobe Seiwa」のようだ。
戦前、ここに横須賀海軍工廠造兵部の久木工員寄宿舎があって、横須賀まで通っていた。
工員寄宿舎の敷地は女学校だけではなくかなり広いエリアを占めていて、木造2階建の宿舎25棟と食堂、浴場や倉庫等の付属施設が建っており、最大4,000人の徴用工が寝泊りをしていた。
徴用工とは、戦時中1939年、国家総動員法に基づく国民徴用令によって始まった制度で、国家の強権によって国民を軍需産業に労働力として動員する方策であった。国民勤労報国協力隊、女子勤労挺身隊、学徒勤労動員などの形態があり、終戦時には、616万人に上っていた。
国家によって徴用された場合は、速やかに出頭し2年間の労働に従事せなばならなかった。これに背いた場合は1年以下の懲役若しくは1,000円以下の罰金が課せられた。
久木神社はその女学校の裏手にある。
日曜とあってか、氏子さんたちの手によって清掃作業が行われていた。「おはようございます。ごくろうさまです。」といって鳥居をくぐる。
久木神社 久木6-2-39
社殿は、1925(大正14)年に建てられたもので、狛犬や御影石で造られた鳥居も当時のものである。
もともとは、久木(当時は久野谷村と柏原村)にあった各地の神社を明治政府の方針に従い、1882(明治15)年に今の場所に合祀され久木稲荷(稲荷社)となり、1970(昭和45)年に久木神社と改められた。
合祀された神社は、久野谷(くのや)村から法性寺(ほっしょうじ)三門下の西之諏訪明神社、久木四丁目東小路の白山権現社、久木五丁目岩殿寺に入り右手の富士浅間社、久木中学校奥の若宮八幡社、名越旧道(亀ヶ丘団地小坪一丁目)の新箸(にいはし)の宮とこの場所にある稲荷明神社(草分稲荷)で、柏原村からは柏原明神社(子ノ神社)、東諏訪谷の諏訪社などである。
ここは、もともと草分稲荷があったところで、現在も久木神社本殿の後ろに祀られている。
草分稲荷
相模風土記稿には「稲荷社 妙光寺持」と書かれているようで、歴史的には古い稲荷のようだ。
でも、配置からすると主屋まで乗っ取られた社という感じを受ける。
久木神社から戻って、そのままを直進して行くとすぐに妙光寺がある。久木小学校の向かい側にあたる。
妙光寺 久木6-1-6
四脚門様式の三門がある。
この寺は、室町時代、足利家の元武士を先祖にもつある農民一族の供養のため戦国時代に開山した日蓮宗の寺院。日蓮上人の真骨が寺宝だという。
ここにもやぐらと思われる穴がある
妙光寺を終えて、更に進み、ふたつ目の十字路を右折して、北上する。
道筋に立派な門構えがあったの写させてもらった、歴史ある門を改修したように感じる。住まいも同様に改修して真っ白な壁が映えていた。
しばらく進むと十字路がある。ここを右折する。
十字路の角には線路沿いの県道205号道路から入って来た人が分かるような「坂東三十三観音霊場 第ニ番 岩殿寺」の看板が置かれている。
やがて寺院の手前に「岩殿観音」と記された大きな石柱が立っている。
三門までの道筋には各地の僧侶が歌った歌碑が数多く並んでいる。
岩殿寺
三門には拝観料を納める丈の高い木箱が置かれている。コインを入れると静かな空気の中に大きく響いた。
山門をくぐると左手が納経所、そのまま石段を上る。瓜堀地蔵や報恩供養碑を過ぎ、尚も上がって観音堂に着く。裏手には奥の院岩殿観音が安置されている。
その他、境内には熊野権現社や稲荷明神社などや「鏡花の池」という池もある。
岩殿寺(がんでんじ)は曹洞宗の寺院。山号は海雲山。本尊は十一面観音。通称、岩殿観音。鎌倉時代には源頼朝によって寺領が寄進されたという。『吾妻鏡』には源実朝らがしばしば当寺に参詣したことが記される。その後衰退するが、1591(天正19)年徳川家康によって再興される。一時期逗子に滞在した泉鏡花が当寺をしばしば訪れたことが知られる。
納経所
鏡花の池
観音堂
奥の院
瓜堀地蔵
先ほどの岩殿殿の看板がある十字路まで戻り、その先を進むと線路沿いの県道205号に出る。名越切通には、正面の横須賀線の踏切を渡って県道311号を右折していくのだが、もうひとつ、久木五丁目庚申塔を見たいので県道205号を進んでいく。
線路沿いにしばらく進んでいくと、道路脇に祀られている庚申塔がすぐに見つかり、ご対面である。ここはマンション「逗子ローズプラザ」の敷地のようだ。
久木五丁目庚申供養塔
この庚申供養塔群は、久木一丁目の向原と柏原に置かれていたものが、一度久木五丁目の山裾に移転されたが、関東大震災で山崩れにあった。それを1941(昭和16)年にこの地に移された。
青面金剛庚申供養塔 青面金剛庚申供養塔 髭題目庚申供養塔
1780(安永9)年造立 1778(安永7)年造立 1782(天明2)年造立
この庚申供養塔が見つからないのでは心配だったのだが、見つかりひと安心。
このまま北上して法性寺経由でも名越切通に行けるが、それは前回通ったルートなので、今回は先ほどの横須賀線の踏切まで戻り、踏切を渡って県道311号を少々北上し亀が岡団地内を歩くことにした。
ここから先は、コピーした地図を頼りに名越切通入口に向かう予定であった。しかし、「カン」で進むよりも尋ねたほうが確実と、丁度家から出て来た方に道を尋ねた。
そこからは二通りのルートがあるのだが、理解しやすい尾根道を上がるルートを進んだ。
亀が丘団地の住宅地に入り高いほうへ、高いほうへと進んで行く。傾斜のきつい道である。
この亀ヶ丘団地には明治の初期まで新箸(にいはし)の宮という神社があり、鎌倉時代の恋物語の伝承がある。
1177(治承元)年、源頼朝(1147~99)が伊豆配流時代に鎌倉の八幡宮に詣でたあと、家臣ふたりと三浦へ向かう途中名越の山中で道に迷い、ある家に宿を求めた。そこの娘(広尾)が粟飯を炊き、茅の新箸を作って頼朝たちをもてなした。頼朝はたいそう喜んだといい、三浦地方ではその日にあたる7月26日を新箸の節句として祝うようになったそうだ。その後里人がこの一家の地に一堂を建て新箸の宮と云うようになったと伝えている。
世話になった家の主というのは頼朝の異母兄の義平(よしひら・1141~1160)の沼浜館でかつて厩番をしていた。沼浜館とは源義朝(1123~60)の屋敷で、鎌倉時代沼浜の地に建てられていた。その「沼浜」がいつしか「は」抜きとなって現在の逗子市沼間の地名に転訛した。
のちに、幕府を開いてから頼朝の媒酌で広尾は、この時の家臣のひとり、柳川弥二郎と夫婦になった。そして弥二郎はこの辺り一帯・久野谷(今の久木)の代官として治めたといわれる。そしてその後、『吾妻鏡』に出てくる和田義盛(1147~1213)であるという。
その伝承に基づき里人の手によって新箸の宮という一堂が建てられた。後、どういうわけか天然痘に効験あらたかという説が生まれて「疱瘡神社」とも呼ばれた。
1882(明治15)年に先ほど参った久木神社に合祀され祀られている。
しかし、疱瘡神社と名付けられていることで池子の鎮守・神明社境内に祀ってある疱瘡神社、別名疱瘡ばあ様も新箸の宮の伝承があると説く郷土史家もおられる。800年余前の出来事なので、どちらなのかは正すことは無理だろう。
恋物語となったかは否かではあるがひとつのカップルが生まれたことは事実である。
稜線らしき道にたどりつくと直ぐ右手に「名越切通入口」の案内が見つかる。迷わずにたどり着く。
「国指定史跡名越切通」の道標が立っている。ここから名越切通が始まる。
名越切通
岩盤を削った切通の道を少々進んでいくと、直ぐにまんだら堂跡への上り口がある。入口からとっても近かった。石段を登って行くとまんだら堂跡の平地が開けて明るくなってゆく。
目的のまんだら堂跡である。
このあとは、まんだら堂跡、大岸切を見て、名越切通を下り松葉ヶ谷に出て、材木座から大町の散策に向かう。
では、
『鎌倉七口・名越切通のまんだら堂と大切岸』 と
『鎌倉七口・名越切通から材木座、大町の散策』
へワープ。
双方ともタイトルをクリックすればワープする。
日曜日の朝、逗子駅に降り立つ。
名越切通には5月に一度訪れたがまんだら堂が閉鎖されていたので今回は、公開なったまんだら堂の見学が主目的である。その前に逗子駅駅北側をぶらりと歩く。
そこでスタートは逗子駅西口改札口からである。
横須賀線に沿って久里浜方向へ歩道があるような、ないような道路をしばらく歩く。踏切を過ぎてすぐの左手路地が熊野神社の参道になっている。
熊野神社 山の根2-4-1
由緒によると『1869(明治2)年、社殿炎上のため古記録はないが、源頼朝(1147~99)が勧請したと伝えられる。』というので古い神社である。
1998(平成10)年までは藁葺屋根であった。
藁葺屋根の社殿を見たかったナ。
神社に散策の安全祈願をして、山の根横穴古墳群へ境内右手の山道を登る。薄い金属の踏み板が階段状となって敷かれているいる。
熊野神社横穴群
山の根地区は、「八十八穴」といわれるほど多くの横穴が存在していていたが、昭和初期の住宅造成で埋められ現在は30数ヵ所となっている。
熊野神社の裏山には7つの横穴が確認されているが、発掘調査されているのは2穴だけである。
調査で、横穴は7世紀はじめから8世紀末にかけて掘られたもので、出土の灯明皿から鎌倉時代のやぐらとして利用されていたと分かる。
左手の横穴内 右手の横穴
「やぐら」については、『鎌倉七口・名越切通のまんだら堂と大切岸』で詳しく述べる。
次は久木(ひさぎ)神社に向かう。
道を踏切の先まで戻り右折する。しばらく行くと遠くに久木隧道が見えてくる。
トンネル内は照明があって綺麗な造りとなっているが、久木隧道と右書きになっているので、時代があるのだろう。
久木隧道
久木隧道は、久木地区に建設した横須賀海軍工廠造兵部の工員寄宿舎の工員が逗子駅に向かう近道として1941(昭和16)年に完成した軍用久木隧道。
やはり、このトンネルには歴史があった。
久木隧道を抜けるとすぐ右手に、「LS」の飾り文字のついた建物がある。
幼稚園から高校までのキリスト教の女学校である。LSの飾り文字は、校章で「Lobe Seiwa」のようだ。
戦前、ここに横須賀海軍工廠造兵部の久木工員寄宿舎があって、横須賀まで通っていた。
工員寄宿舎の敷地は女学校だけではなくかなり広いエリアを占めていて、木造2階建の宿舎25棟と食堂、浴場や倉庫等の付属施設が建っており、最大4,000人の徴用工が寝泊りをしていた。
徴用工とは、戦時中1939年、国家総動員法に基づく国民徴用令によって始まった制度で、国家の強権によって国民を軍需産業に労働力として動員する方策であった。国民勤労報国協力隊、女子勤労挺身隊、学徒勤労動員などの形態があり、終戦時には、616万人に上っていた。
国家によって徴用された場合は、速やかに出頭し2年間の労働に従事せなばならなかった。これに背いた場合は1年以下の懲役若しくは1,000円以下の罰金が課せられた。
久木神社はその女学校の裏手にある。
日曜とあってか、氏子さんたちの手によって清掃作業が行われていた。「おはようございます。ごくろうさまです。」といって鳥居をくぐる。
久木神社 久木6-2-39
社殿は、1925(大正14)年に建てられたもので、狛犬や御影石で造られた鳥居も当時のものである。
もともとは、久木(当時は久野谷村と柏原村)にあった各地の神社を明治政府の方針に従い、1882(明治15)年に今の場所に合祀され久木稲荷(稲荷社)となり、1970(昭和45)年に久木神社と改められた。
合祀された神社は、久野谷(くのや)村から法性寺(ほっしょうじ)三門下の西之諏訪明神社、久木四丁目東小路の白山権現社、久木五丁目岩殿寺に入り右手の富士浅間社、久木中学校奥の若宮八幡社、名越旧道(亀ヶ丘団地小坪一丁目)の新箸(にいはし)の宮とこの場所にある稲荷明神社(草分稲荷)で、柏原村からは柏原明神社(子ノ神社)、東諏訪谷の諏訪社などである。
ここは、もともと草分稲荷があったところで、現在も久木神社本殿の後ろに祀られている。
草分稲荷
相模風土記稿には「稲荷社 妙光寺持」と書かれているようで、歴史的には古い稲荷のようだ。
でも、配置からすると主屋まで乗っ取られた社という感じを受ける。
久木神社から戻って、そのままを直進して行くとすぐに妙光寺がある。久木小学校の向かい側にあたる。
妙光寺 久木6-1-6
四脚門様式の三門がある。
この寺は、室町時代、足利家の元武士を先祖にもつある農民一族の供養のため戦国時代に開山した日蓮宗の寺院。日蓮上人の真骨が寺宝だという。
ここにもやぐらと思われる穴がある
妙光寺を終えて、更に進み、ふたつ目の十字路を右折して、北上する。
道筋に立派な門構えがあったの写させてもらった、歴史ある門を改修したように感じる。住まいも同様に改修して真っ白な壁が映えていた。
しばらく進むと十字路がある。ここを右折する。
十字路の角には線路沿いの県道205号道路から入って来た人が分かるような「坂東三十三観音霊場 第ニ番 岩殿寺」の看板が置かれている。
やがて寺院の手前に「岩殿観音」と記された大きな石柱が立っている。
三門までの道筋には各地の僧侶が歌った歌碑が数多く並んでいる。
岩殿寺
三門には拝観料を納める丈の高い木箱が置かれている。コインを入れると静かな空気の中に大きく響いた。
山門をくぐると左手が納経所、そのまま石段を上る。瓜堀地蔵や報恩供養碑を過ぎ、尚も上がって観音堂に着く。裏手には奥の院岩殿観音が安置されている。
その他、境内には熊野権現社や稲荷明神社などや「鏡花の池」という池もある。
岩殿寺(がんでんじ)は曹洞宗の寺院。山号は海雲山。本尊は十一面観音。通称、岩殿観音。鎌倉時代には源頼朝によって寺領が寄進されたという。『吾妻鏡』には源実朝らがしばしば当寺に参詣したことが記される。その後衰退するが、1591(天正19)年徳川家康によって再興される。一時期逗子に滞在した泉鏡花が当寺をしばしば訪れたことが知られる。
納経所
鏡花の池
観音堂
奥の院
瓜堀地蔵
先ほどの岩殿殿の看板がある十字路まで戻り、その先を進むと線路沿いの県道205号に出る。名越切通には、正面の横須賀線の踏切を渡って県道311号を右折していくのだが、もうひとつ、久木五丁目庚申塔を見たいので県道205号を進んでいく。
線路沿いにしばらく進んでいくと、道路脇に祀られている庚申塔がすぐに見つかり、ご対面である。ここはマンション「逗子ローズプラザ」の敷地のようだ。
久木五丁目庚申供養塔
この庚申供養塔群は、久木一丁目の向原と柏原に置かれていたものが、一度久木五丁目の山裾に移転されたが、関東大震災で山崩れにあった。それを1941(昭和16)年にこの地に移された。
青面金剛庚申供養塔 青面金剛庚申供養塔 髭題目庚申供養塔
1780(安永9)年造立 1778(安永7)年造立 1782(天明2)年造立
この庚申供養塔が見つからないのでは心配だったのだが、見つかりひと安心。
このまま北上して法性寺経由でも名越切通に行けるが、それは前回通ったルートなので、今回は先ほどの横須賀線の踏切まで戻り、踏切を渡って県道311号を少々北上し亀が岡団地内を歩くことにした。
ここから先は、コピーした地図を頼りに名越切通入口に向かう予定であった。しかし、「カン」で進むよりも尋ねたほうが確実と、丁度家から出て来た方に道を尋ねた。
そこからは二通りのルートがあるのだが、理解しやすい尾根道を上がるルートを進んだ。
亀が丘団地の住宅地に入り高いほうへ、高いほうへと進んで行く。傾斜のきつい道である。
この亀ヶ丘団地には明治の初期まで新箸(にいはし)の宮という神社があり、鎌倉時代の恋物語の伝承がある。
1177(治承元)年、源頼朝(1147~99)が伊豆配流時代に鎌倉の八幡宮に詣でたあと、家臣ふたりと三浦へ向かう途中名越の山中で道に迷い、ある家に宿を求めた。そこの娘(広尾)が粟飯を炊き、茅の新箸を作って頼朝たちをもてなした。頼朝はたいそう喜んだといい、三浦地方ではその日にあたる7月26日を新箸の節句として祝うようになったそうだ。その後里人がこの一家の地に一堂を建て新箸の宮と云うようになったと伝えている。
世話になった家の主というのは頼朝の異母兄の義平(よしひら・1141~1160)の沼浜館でかつて厩番をしていた。沼浜館とは源義朝(1123~60)の屋敷で、鎌倉時代沼浜の地に建てられていた。その「沼浜」がいつしか「は」抜きとなって現在の逗子市沼間の地名に転訛した。
のちに、幕府を開いてから頼朝の媒酌で広尾は、この時の家臣のひとり、柳川弥二郎と夫婦になった。そして弥二郎はこの辺り一帯・久野谷(今の久木)の代官として治めたといわれる。そしてその後、『吾妻鏡』に出てくる和田義盛(1147~1213)であるという。
その伝承に基づき里人の手によって新箸の宮という一堂が建てられた。後、どういうわけか天然痘に効験あらたかという説が生まれて「疱瘡神社」とも呼ばれた。
1882(明治15)年に先ほど参った久木神社に合祀され祀られている。
しかし、疱瘡神社と名付けられていることで池子の鎮守・神明社境内に祀ってある疱瘡神社、別名疱瘡ばあ様も新箸の宮の伝承があると説く郷土史家もおられる。800年余前の出来事なので、どちらなのかは正すことは無理だろう。
恋物語となったかは否かではあるがひとつのカップルが生まれたことは事実である。
稜線らしき道にたどりつくと直ぐ右手に「名越切通入口」の案内が見つかる。迷わずにたどり着く。
「国指定史跡名越切通」の道標が立っている。ここから名越切通が始まる。
名越切通
岩盤を削った切通の道を少々進んでいくと、直ぐにまんだら堂跡への上り口がある。入口からとっても近かった。石段を登って行くとまんだら堂跡の平地が開けて明るくなってゆく。
目的のまんだら堂跡である。
このあとは、まんだら堂跡、大岸切を見て、名越切通を下り松葉ヶ谷に出て、材木座から大町の散策に向かう。
では、
『鎌倉七口・名越切通のまんだら堂と大切岸』 と
『鎌倉七口・名越切通から材木座、大町の散策』
へワープ。
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