あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

鎌倉七口・名越切通へ再び

2012-11-29 17:33:44 | 鎌倉巡り
逗子駅駅北側をぶらり歩いて名越切通へ

日曜日の朝、逗子駅に降り立つ。
名越切通には5月に一度訪れたがまんだら堂が閉鎖されていたので今回は、公開なったまんだら堂の見学が主目的である。その前に逗子駅駅北側をぶらりと歩く。
そこでスタートは逗子駅西口改札口からである。


横須賀線に沿って久里浜方向へ歩道があるような、ないような道路をしばらく歩く。踏切を過ぎてすぐの左手路地が熊野神社の参道になっている。
熊野神社  山の根2-4-1
由緒によると『1869(明治2)年、社殿炎上のため古記録はないが、源頼朝(1147~99)が勧請したと伝えられる。』というので古い神社である。
1998(平成10)年までは藁葺屋根であった。
         

         
藁葺屋根の社殿を見たかったナ。
神社に散策の安全祈願をして、山の根横穴古墳群へ境内右手の山道を登る。薄い金属の踏み板が階段状となって敷かれているいる。

熊野神社横穴群
山の根地区は、「八十八穴」といわれるほど多くの横穴が存在していていたが、昭和初期の住宅造成で埋められ現在は30数ヵ所となっている。
熊野神社の裏山には7つの横穴が確認されているが、発掘調査されているのは2穴だけである。
調査で、横穴は7世紀はじめから8世紀末にかけて掘られたもので、出土の灯明皿から鎌倉時代のやぐらとして利用されていたと分かる。
         

 
    左手の横穴内                               右手の横穴   

「やぐら」については、『鎌倉七口・名越切通のまんだら堂と大切岸』で詳しく述べる。

次は久木(ひさぎ)神社に向かう。
道を踏切の先まで戻り右折する。しばらく行くと遠くに久木隧道が見えてくる。
トンネル内は照明があって綺麗な造りとなっているが、久木隧道と右書きになっているので、時代があるのだろう。

久木隧道
久木隧道は、久木地区に建設した横須賀海軍工廠造兵部の工員寄宿舎の工員が逗子駅に向かう近道として1941(昭和16)年に完成した軍用久木隧道。
         
やはり、このトンネルには歴史があった。

久木隧道を抜けるとすぐ右手に、「LS」の飾り文字のついた建物がある。
幼稚園から高校までのキリスト教の女学校である。LSの飾り文字は、校章で「Lobe Seiwa」のようだ。

         
戦前、ここに横須賀海軍工廠造兵部の久木工員寄宿舎があって、横須賀まで通っていた。
工員寄宿舎の敷地は女学校だけではなくかなり広いエリアを占めていて、木造2階建の宿舎25棟と食堂、浴場や倉庫等の付属施設が建っており、最大4,000人の徴用工が寝泊りをしていた。
徴用工とは、戦時中1939年、国家総動員法に基づく国民徴用令によって始まった制度で、国家の強権によって国民を軍需産業に労働力として動員する方策であった。国民勤労報国協力隊、女子勤労挺身隊、学徒勤労動員などの形態があり、終戦時には、616万人に上っていた。
国家によって徴用された場合は、速やかに出頭し2年間の労働に従事せなばならなかった。これに背いた場合は1年以下の懲役若しくは1,000円以下の罰金が課せられた。

久木神社はその女学校の裏手にある。
日曜とあってか、氏子さんたちの手によって清掃作業が行われていた。「おはようございます。ごくろうさまです。」といって鳥居をくぐる。

久木神社  久木6-2-39
社殿は、1925(大正14)年に建てられたもので、狛犬や御影石で造られた鳥居も当時のものである。
もともとは、久木(当時は久野谷村と柏原村)にあった各地の神社を明治政府の方針に従い、1882(明治15)年に今の場所に合祀され久木稲荷(稲荷社)となり、1970(昭和45)年に久木神社と改められた。
合祀された神社は、久野谷(くのや)村から法性寺(ほっしょうじ)三門下の西之諏訪明神社、久木四丁目東小路の白山権現社、久木五丁目岩殿寺に入り右手の富士浅間社、久木中学校奥の若宮八幡社、名越旧道(亀ヶ丘団地小坪一丁目)の新箸(にいはし)の宮とこの場所にある稲荷明神社(草分稲荷)で、柏原村からは柏原明神社(子ノ神社)、東諏訪谷の諏訪社などである。
         

         
ここは、もともと草分稲荷があったところで、現在も久木神社本殿の後ろに祀られている。
草分稲荷
相模風土記稿には「稲荷社 妙光寺持」と書かれているようで、歴史的には古い稲荷のようだ。
         
でも、配置からすると主屋まで乗っ取られた社という感じを受ける。

久木神社から戻って、そのままを直進して行くとすぐに妙光寺がある。久木小学校の向かい側にあたる。

妙光寺  久木6-1-6
四脚門様式の三門がある。
この寺は、室町時代、足利家の元武士を先祖にもつある農民一族の供養のため戦国時代に開山した日蓮宗の寺院。日蓮上人の真骨が寺宝だという。
         

         

         
             ここにもやぐらと思われる穴がある

妙光寺を終えて、更に進み、ふたつ目の十字路を右折して、北上する。
道筋に立派な門構えがあったの写させてもらった、歴史ある門を改修したように感じる。住まいも同様に改修して真っ白な壁が映えていた。
         

しばらく進むと十字路がある。ここを右折する。
十字路の角には線路沿いの県道205号道路から入って来た人が分かるような「坂東三十三観音霊場 第ニ番 岩殿寺」の看板が置かれている。
やがて寺院の手前に「岩殿観音」と記された大きな石柱が立っている。
三門までの道筋には各地の僧侶が歌った歌碑が数多く並んでいる。

岩殿寺
三門には拝観料を納める丈の高い木箱が置かれている。コインを入れると静かな空気の中に大きく響いた。
山門をくぐると左手が納経所、そのまま石段を上る。瓜堀地蔵や報恩供養碑を過ぎ、尚も上がって観音堂に着く。裏手には奥の院岩殿観音が安置されている。
その他、境内には熊野権現社や稲荷明神社などや「鏡花の池」という池もある。

岩殿寺(がんでんじ)は曹洞宗の寺院。山号は海雲山。本尊は十一面観音。通称、岩殿観音。鎌倉時代には源頼朝によって寺領が寄進されたという。『吾妻鏡』には源実朝らがしばしば当寺に参詣したことが記される。その後衰退するが、1591(天正19)年徳川家康によって再興される。一時期逗子に滞在した泉鏡花が当寺をしばしば訪れたことが知られる。
         

                  

    納経所

         
            鏡花の池

         
            観音堂

                   
                      奥の院

          
            瓜堀地蔵


先ほどの岩殿殿の看板がある十字路まで戻り、その先を進むと線路沿いの県道205号に出る。名越切通には、正面の横須賀線の踏切を渡って県道311号を右折していくのだが、もうひとつ、久木五丁目庚申塔を見たいので県道205号を進んでいく。
線路沿いにしばらく進んでいくと、道路脇に祀られている庚申塔がすぐに見つかり、ご対面である。ここはマンション「逗子ローズプラザ」の敷地のようだ。

久木五丁目庚申供養塔
この庚申供養塔群は、久木一丁目の向原と柏原に置かれていたものが、一度久木五丁目の山裾に移転されたが、関東大震災で山崩れにあった。それを1941(昭和16)年にこの地に移された。
         

 
   青面金剛庚申供養塔        青面金剛庚申供養塔       髭題目庚申供養塔 
   1780(安永9)年造立          1778(安永7)年造立        1782(天明2)年造立   

この庚申供養塔が見つからないのでは心配だったのだが、見つかりひと安心。
このまま北上して法性寺経由でも名越切通に行けるが、それは前回通ったルートなので、今回は先ほどの横須賀線の踏切まで戻り、踏切を渡って県道311号を少々北上し亀が岡団地内を歩くことにした。

ここから先は、コピーした地図を頼りに名越切通入口に向かう予定であった。しかし、「カン」で進むよりも尋ねたほうが確実と、丁度家から出て来た方に道を尋ねた。
そこからは二通りのルートがあるのだが、理解しやすい尾根道を上がるルートを進んだ。
亀が丘団地の住宅地に入り高いほうへ、高いほうへと進んで行く。傾斜のきつい道である。
                 
この亀ヶ丘団地には明治の初期まで新箸(にいはし)の宮という神社があり、鎌倉時代の恋物語の伝承がある。

1177(治承元)年、源頼朝(1147~99)が伊豆配流時代に鎌倉の八幡宮に詣でたあと、家臣ふたりと三浦へ向かう途中名越の山中で道に迷い、ある家に宿を求めた。そこの娘(広尾)が粟飯を炊き、茅の新箸を作って頼朝たちをもてなした。頼朝はたいそう喜んだといい、三浦地方ではその日にあたる7月26日を新箸の節句として祝うようになったそうだ。その後里人がこの一家の地に一堂を建て新箸の宮と云うようになったと伝えている。
世話になった家の主というのは頼朝の異母兄の義平(よしひら・1141~1160)の沼浜館でかつて厩番をしていた。沼浜館とは源義朝(1123~60)の屋敷で、鎌倉時代沼浜の地に建てられていた。その「沼浜」がいつしか「は」抜きとなって現在の逗子市沼間の地名に転訛した。
のちに、幕府を開いてから頼朝の媒酌で広尾は、この時の家臣のひとり、柳川弥二郎と夫婦になった。そして弥二郎はこの辺り一帯・久野谷(今の久木)の代官として治めたといわれる。そしてその後、『吾妻鏡』に出てくる和田義盛(1147~1213)であるという。
その伝承に基づき里人の手によって新箸の宮という一堂が建てられた。後、どういうわけか天然痘に効験あらたかという説が生まれて「疱瘡神社」とも呼ばれた。
1882(明治15)年に先ほど参った久木神社に合祀され祀られている。
しかし、疱瘡神社と名付けられていることで池子の鎮守・神明社境内に祀ってある疱瘡神社、別名疱瘡ばあ様も新箸の宮の伝承があると説く郷土史家もおられる。800年余前の出来事なので、どちらなのかは正すことは無理だろう。 
恋物語となったかは否かではあるがひとつのカップルが生まれたことは事実である。

稜線らしき道にたどりつくと直ぐ右手に「名越切通入口」の案内が見つかる。迷わずにたどり着く。
「国指定史跡名越切通」の道標が立っている。ここから名越切通が始まる。

名越切通
         
岩盤を削った切通の道を少々進んでいくと、直ぐにまんだら堂跡への上り口がある。入口からとっても近かった。石段を登って行くとまんだら堂跡の平地が開けて明るくなってゆく。
目的のまんだら堂跡である。


このあとは、まんだら堂跡、大岸切を見て、名越切通を下り松葉ヶ谷に出て、材木座から大町の散策に向かう。
では、 
    『鎌倉七口・名越切通のまんだら堂と大切岸』 と
    『鎌倉七口・名越切通から材木座、大町の散策』
                                   へワープ。

    双方ともタイトルをクリックすればワープする。


鎌倉七口・名越切通のまんだら堂と大切岸

2012-11-27 18:01:19 | 鎌倉巡り
名越切通のまんだら堂と大切岸

    

鎌倉には、鎌倉七口といって7か所の切通或いは坂がある。極楽寺坂切通、大仏切通、化粧坂(けわいざか)、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、朝比奈切通そして名越(なごえ)切通である。
名越切通は三浦へ抜ける街道が通るところであると同時に、そこに設けられた防衛の施設跡と更に葬送遺構が残っている。



名越切通 
1180(治承4)年に源頼朝が居を構えた鎌倉は、南方を海に、それ以外の三方を丘陵に囲まれた要害の地であった。そのため、陸路を鎌倉に入ろうとすると、多くは細く急な尾根越えの山道か、危険な波打ち際の崖下の道であったと思われる(古代の「東海道」がこの地域を通っていたと考えられるが、具体的なルートは明らかではない)。
13世紀前半、執権北条氏の権勢が確立する頃になると、鎌倉も政治経済の拠点として発展するが、頻繁となる物資や人々の往来にとって、それまでの交通路は大きな妨げとなった。その難渋さを除くため、都市の基盤整備の一環として、のちに「鎌倉七口」などと呼ばれる切通路が開削されたと考えられる。
1966(昭和41)年に国史跡に指定された。



まんだら堂跡
         

名越切通の葬送遺構にあたるのがまんだら堂やおびただし数のやぐら群であり、鎌倉時代には一大霊園であったと思われている。最近の発掘調査ではやぐら付近や周辺の平場などに遺体を火葬したと思われる跡も確認されており、まんだら堂一帯は死者の埋葬場プラス火葬場とういう一大葬送遺構であったようだ。
やぐらが造られた時代は鎌倉時代後期から室町時代のはじめ頃と考えられている。
やぐらは岩壁などをくり抜いてできた横穴洞穴に死者を埋葬し五輪塔などを置く墳墓である。やぐらは鎌倉を中心とした周辺特有のものと見られるが、近年では全国の北条氏などと関連の強い地域などにも確認されているという。
この地にまんだら堂(仏教の悟りを開く道場を指す)という地名が残ることから、かつてここにも寺院が存在し曼荼羅堂などのお堂があったのかも知れないが、そのような寺院があったという実証が現在まで見つかってはいないようだ。
太平洋戦争中の1941(昭和16)年から1943(昭和18)年にかけてまんだら堂跡は掘り起こされている。
ここのやぐら全てが一般的なやぐらと違い、全部が隠匿(いんとく)やぐらだといわれる。それは、やぐら内に五輪塔を積み上げ石で扉を閉ざして隠されていたという。一般的なやぐらというと、全面を開放して内部には装飾を施し五輪塔などの供養塔を安置するものとされる。
今見るまんだら堂跡の五輪塔は苔に覆われているが、掘り出された当初は、五輪塔に刻まれた梵字には金箔が貼られていたそうだ。
まんだら堂のやぐらが造られた時期は、鎌倉時代後期から室町時代はじめ頃のものと考えられていて、どのよな人々を埋葬したのか一切謎のままだ。やぐらに埋葬された人々は、根拠がない話であるが、一説には新田義貞が鎌倉攻めをした時の戦死者を葬ったとか、名越一族の菩提寺跡だともいわれる。
名越一族とは、鎌倉時代の北条氏の一族で、鎌倉幕府二代執権・北条義時の次男・北条朝時を祖とし、名越の地にあった祖父・北条時政の邸を継承したことで名越を称した。
また、まんだら堂は、平安時代以降の上層武士達の墓地らしいという以外は、裏付けとなる資料は何も残されていないようだとの資料もあり、一方では、経済力を蓄えた商工業関係者などもいたのではないかともいわれる。憶測情報も様々だが梵字に金箔が貼られていた事実からも高貴な方の遺構だとは思える。
結局は何故にこれほどの数のやぐらがここに集まり、隠されていのか、本当に不思議であることに尽きる。
              
逗子市教育委員会の説明書によると、
『まんだら堂が確認できるのは1594(文禄3)年の検地帳であるが、そこには畠の地名しか記載されていないので、どんな建物だったのかは不明である。
やぐらの数は150穴以上が確認されており、これだけまとまったやぐら群を鎌倉市内でも見ることはできず、貴重な存在である。
やぐらとは鎌倉市内に見られる独特の中世のお墓である。平地が少なく山間部に鎌倉石(比較的柔らかい)を削り、洞窟状態(普通2m四方程度の大きさ)に五重塔が置かれている。鎌倉アルプスの途中にも「百八やぐら」といわれるやぐら群が見られる。この遺跡は圧巻である。』


やぐらの数は150穴以上というのはまんだら堂だけではなく、まんだら堂とその周辺エリアを含めた数ということだ。
まんだら堂周辺の文化財調査は現在も行われているようでシートを被せた平地があった。今後の調査を期待する。
         
           法性寺のやぐら

         

         
           まんだら堂展望台からの眺め


防衛遺構の大切岸?
    

名越切通は鎌倉七口でも朝比奈切通と並んで古い道の姿が残るところである。名越切通は「道」そのものより防衛遺構そのものととらえた方が的を得ているといわれる。狭く屈曲した道と、切通周辺には平場・堀切・置石などの遺構が見られ、これらこそが鎌倉城と呼ばれる由縁である。
そしてその代表的な遺構が「お猿畑の大切岸(おおきりぎし)」である(お猿畠とは大切岸の下にあるほんの狭い畑を指す)。山の斜面を2段、3段と垂直の崖に削り、各段の上には平場が設けられている。その長さはおよそ800mに渡り高さは3~10mにも及ぶ。今は、その上が鎌倉逗子ハイランドに抜けるハイキングコースになっている。
それでは何故、名越切通にはこのような防衛遺構が多く残るのでろうか。それはこの切通を通る道が三浦半島の三浦氏の本拠地へと繋がっているからである。鎌倉の実権を握った北条氏にとって最後で最大のライバルが三浦氏であり、防衛としての目的で築かれたことが定説となっていた。
北条氏が名越に山荘を構え、ここ名越坂には砦を築き三浦氏の進入を防ごうと大切岸を眺めると思いたくなるのも当然であり得るような壁である。
但し、注釈的に大切岸の遺構は近年の研究では中世の石切場跡とする説もあると書かれてもいた。
ウィキペディアのフリー百科事典でも、『切岸(きりぎし)とは、斜面を削って人工的に断崖とした構造で、斜面を通しての敵の侵入を防ぐために作られた。鎌倉時代から戦国時代にかけて造られた城、特に山城の周囲に多く、また鎌倉の周囲の丘陵斜面にも作られた。』とあるので、今回、防衛遺構説に沿って書こうと予定していたのだが、まんだら堂で配布された資料によると、その定説を覆されてしまった。
近年の発掘調査の結果で「大切岸」は、板状の石を切り出す作業(=石切り)の結果、最終的に城壁のような形で堀残されたもの、つまり石切り場跡だということが確認された。
石切り作業が行われた時期ははっきりとはわからぬが、堆積している土砂の上層に、江戸時代、1717(宝永4)年の富士山噴火による火山灰が含まれているので、それより古い時代であることは確実である。
14~15世紀の鎌倉では、建物基礎や溝の護岸、井戸枠などに切石が盛んに用いられているので、その頃が中心ではなかったかと考えられる。
そして、資料の結びとして
ただ、この結果のみをもって、大切岸に防御的な目的は一切なかったと即断することはできない。
『吾妻鏡』に見られるように、鎌倉は敵の攻撃を防ぐのに適した地形=要害と認識されていた。あくまでも推測だが、このように大々的は石切りを行っていても、鎌倉の街を取り囲む尾根を安易に堀り割ることはせずに、あえて城壁のような崖を残したのかも知れない。
とあり、納得する。
            
             狭いながらも大切岸手前に広がるお猿畑

           
             工事中の法性寺の大切岸と左手にやぐら    

今年のまんだら堂の臨時公開は12月9日までの土、日曜日の10~16時の限定である。
                                     荒天の場合は閉鎖もある。

       アクセス JR鎌倉駅 3番緑ヶ丘入口行き   緑ヶ岡入口下車 8分
              JR逗子駅 6番亀が岡団地循環  緑ヶ岡入口下車 8分
                                     亀が岡団地北下車 5分

                       


                                     参考資料:逗子市教育委員会
                                            平成24年度 臨時公開資料他

旧東海道「川崎宿」を歩く

2012-11-24 13:39:59 | 東海道宿場町
         
           
今回は武蔵国荏原郡八幡塚村から六郷川(多摩川)を渡って橘樹郡「川崎宿」へ入宿した。



川崎宿

         

徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)に勝つと、全国の街道の整備を始めるが、その皮切りとして1601(慶長6)年、東海道の街道沿いに宿場を設け、公用の旅人や物資の輸送は無料で次の宿場まで送り継ぐという宿駅伝馬制度を制定し、戦国時代の宿駅を母体として諸駅を設定した。

東海道とは、江戸時代に幕府によって整備された五街道のひとつのことである。
「東海道五十三次」と云われるが、これは東海道に設置された53ヵ所の宿駅を指すのだが、制定当初はのれほど多くはなく、今日文献で確認できるのは23駅のようだ。
川崎宿は制定から遅れること22年後の1623(元和9)年に品川宿、神奈川宿の伝馬百姓の負担を軽減するために設置された。
四村(新宿(しんしゅく)・ 砂子(いさご)・ 久根崎・ 小土呂(ことろ))の集落で、本陣がなく、農村とあまり変らない宿場町としてスタートした。

日本橋から4里半(およそ17.7km)、品川宿からは2里半(およそ9.8km)の位置、神奈川宿へは2里半の位置にあり、江戸口土居(えどくちどい・現在の六郷橋)から 京口土居(現在の小川町あたり)までの約1.5kmで現在の砂子交差点辺りが宿の中心であった。


         

川崎宿の旅籠
宿場の中心は問屋場、本陣、脇本陣である。
問屋場は、人馬の継立(乗り換え)などの業務を行った。その前後に旅籠と店屋、宿の外れの木戸付近に茶屋が一般的な配置であった。
江戸時代初期は旅籠の他に食事なしの木賃宿が多くあった。旅籠にも平(ひら)旅籠と飯盛旅籠のふたつがあり、後者は泊まりの客相手をする女性がいた。

川崎宿は東海道を上る旅人には昼食や休憩をとる宿場として、下る旅人には六郷の渡しを控えた宿泊地であった。また、川崎大師への分かれ道にもあたっていて多くの参詣者が宿場を利用した。
天保期(1830~43年)のピーク時には72軒の旅籠があり、神奈川県下9宿の内3番目の数である。

万年屋の奈良茶
奈良茶飯は、元々は奈良の東大寺や興福寺などの僧侶が食べていたと言われ、米・大豆・小豆・かちぐりなどを煎じた茶の中にいれ、塩味で炊いたようだ。
その他に、ひえ・粟なども加えられて炊くこともあり、「奈良茶粥」「奈良茶飯」と呼ばれていた。

         

川崎宿の「万年屋」は、明和年間(1764年~72年) 13文均一の一膳飯屋であったが、六郷川で採れた「シジミの味噌汁」と「奈良漬」をつけた「奈良茶飯」を東海道を旅する人や、川崎大師平間寺(へいげんじ)へお参りをする人々に提供して大変繁盛したと云われている。また、『 東海道中膝栗毛』の中で弥次さん喜多さんが奈良茶飯を食べたことで全国的にも有名になった。その後、宿場一の茶店となり、旅籠も兼業するようになった。
1863(文久3)年当時川崎宿の旅籠の中では最大規模で本陣をもしのぐようになった。
ハリスが下田から江戸に向かう際に田中本陣に泊る予定であったが、あまりの荒廃ぶりを見て急遽万年屋に宿を変更したという逸話もある。

川崎稲荷社
享保元年(1716)紀州藩主吉宗が八代将軍になるために江戸へ向う途中、この境内で休息したと云われる。

                 

田中本陣
本陣は主に大名、公家、旗本などが宿泊する施設で、門構え、玄関付、延231坪の堂々たる建物であった。
江戸側にあったことから「下本陣」と呼ばれていた。

      

本陣の主人である田中休愚(1662~1730)は、本陣、名主、問屋の三役を兼務し、六郷川の渡し船の権利を江戸側より川崎宿側に譲り受けて、宿場の財政の立て直をした。そして自分が見聞きしたことや意見等を「民間省要」にまとめ、二ヶ領用水や酒匂川の治水にも活躍し、幕府の勘定支配格(大名並み)に登用された。

宗三寺
宗三寺(そうさんじ)は鎌倉時代創建の勝福寺が前身と云われている中世にまで遡る宿内一の古刹。墓地には貸座敷組合が建てた盛女(遊女)らの供養塔がある。

         

         
           盛女(遊女)らの供養塔


川崎駅前の市役所通を突っ切り、「旧東海道」を進む。

中の本陣
問屋場に向かい合う形で建っていた惣兵衛本陣は、佐藤・田中本陣の間に位置することから通称「中の本陣」と呼ばれていたが、江戸後期には廃業している。

       

問屋場跡
問屋場(といやば)は宿場でもっとも重要な施設で、仕事として、幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際に必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶと云う継立業務で、人馬が不足の場合には、近郷から徴用する助郷という制度もあった。もうひとつは幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける継飛脚(つぎびきゃく)と云う業務である。

        

佐藤本陣跡
別名、惣左衛門本陣といわれ、門構え、玄関付、181坪の建物。幕末には十四代将軍家茂が京に上る際に宿泊した。1890(明治23)年、旧佐藤本陣の後裔(こうえい)で詩人佐藤惣之助がこの家で生まれ、大正から戦前にかけて活躍した。「六甲おろし」「人生劇場」など、今でも多くの人に親しまれている歌の作詞をしている。

         

新川通を突っ切り、「旧東海道」を川崎宿京入口方面へさらに進む。

小土呂橋
東海道が幅5mほどの新川掘という排水路を横断するところにかかっていた石橋で、堀は1931~33(昭和6~8)年に埋められ暗渠となったため、橋の欄干の親柱(擬宝珠(ぎほうじゅ))2基が交差点脇の歩道に保存されている。
         

         

教安寺
境内には江戸時代の1829(文政12)年に鋳造された梵鐘がある。戦時中に多くの梵鐘が供出され消えていったが、教安寺の鐘は市役所に保管、サイレンの代用にされていたため今も残っている。また江戸中期に庶民から生き仏様と敬われた徳本上人の「南妙法蓮華経」六字名号碑もある。山門前左側に建っている石灯龍は富士講の信者が建てたものである。

         

         

                    

         
             戦時中サイレンの代用にされていた梵鐘

京口土居(見附・俸鼻)跡
川崎宿の京都側の出入り口にあたる。そこには切石を積んだ土居があり、幕末に起きた生麦事件後は、外国人を警護するため第一関門が設けられていた。
関門番所には、役人2名、道案内3名などが詰めて警戒にあったっていた。
俸鼻とは職場の境界には俸杭が立っていたことから宿駅のはずれを意味する。
ここには土居を示すものは残ってはいないが教安寺山門前左に移された石燈籠が置かれている。その燈籠の左側面には「宿内安全」の文字が深く刻まれている。

 

                   
                「宿内安全」が刻まれている教安寺三門前の石燈籠

ここから次の神奈川宿までは2里半(9.8km)である。

東海道の宿場となって200年余のち、最盛期の川崎宿は明治維新を迎えた。
伝馬・飛脚から電信・郵便へ、明治5年には鉄道が開通し宿場時代は幕を閉じ川崎は近代都市へと歩き始めた。
そして太平洋戦争を経て空襲に被災し宿場の香りは消えてしまった。





                                 【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.02.16散策】

旧東海道「品川宿」を歩く

2012-11-23 15:31:39 | 東海道宿場町
品川宿
         
 
江戸時代の東海道の第1宿。
品川宿は当初、目黒川を挟んで北品川宿・南品川宿の2宿で機能を分担していたが、1722(享保7)年、歩行新宿(かちしんしゅく)が宿場として認められ、それ以降3宿で構成された。
現品川区域には古代の官道の駅、大井駅が置かれていたと推定され、中世にも鎌倉街道の品川宿があったと思われる。

         

品川宿内の東海道の距離は一般的には八ッ山から大井村境(現在の北品川一丁目から南品川三丁目)までの約2km(19町)余をいう。
宿機能の中心である本陣は北品川宿にあり、脇本陣は南品川宿と歩行新宿に各1、旅籠屋は計93軒、他に人馬継問屋場1(南品川宿)、荷物貫目改所1(南品川宿)、宿高札場1(北品川宿)などがあった。

今回は、北品川宿と南品川宿散策を中心として散策したので、歩行新宿周辺は"ミニミニ「品川宿」散策"を覗いて頂きたい。
 
            
そこで、スタートは新馬場駅とする。
              

         
北品川宿

北品川の鎮守・品川神社
1187(文治3年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神を勧請(かんじょう)して、品川大明神と称し、その後品川神社と改めた。東京十社のひとつ。
同じ地区内にある荏原神社が「南の天王社」と呼ばれるのに対し、品川神社は「北の天王社」と呼ばれる。また、東海七福神の1社として大黒天を祀る。徳川家康が、関ヶ原の合戦の折りに戦勝祈願したことで、それ以降歴代の将軍の庇護をうけた。三代将軍家光が寄進した神輿もある。

         

            
         
           富士塚登山口

         
         

    富士塚の頂上                   富士塚からの眺め

板垣退助の墓
板垣退助墓所が品川神社社殿奥にある。
墓は、元東海寺の塔頭のひとつ、高源院があった場所である。      
板垣退助は生前に、自分の死後はここに墓を建てるように希望したということで、死後意向通りにこの場所に墓が建てられた。
関東大震災後、高源院は移転し、その跡地は中学校となったが、板垣家の墓だけはそのまま残った。

         

墓所内には、佐藤栄作の筆による「板垣死すとも自由は死せず」の石碑がおかれている。
         
この有名な言葉は、1882(明治15)年4月、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷した際、板垣が述べた言葉が広く後世にまで伝わることになった。
板垣は襲われた後、起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言った。 それが、「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。なお、この時板垣を診察した医者は後藤新平であり、後に彼は、東京市の市長、拓殖大学の学長を勤める。

知恵を授けてくれる虚空蔵尊・養願寺
1299(正安元)年の創建と伝えられる。地元では「虚空蔵さま」の愛称で親しまれている。虚空蔵菩薩は、丑寅年生まれの守り本尊で、13歳の子供が盛装して虚空蔵菩薩にお参りをする十三詣りが行われる。お参りをすると、福徳智恵を授かるという。
「東海七福神」の1社で布袋尊が祀られている。



成田山の分身・一心
1855(安政2)年、日本海国の機運高まる中、大老・井伊直弼が縁起により江戸台場の沿革、東海道第一の宿場にて鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄安泰の願へとの霊験を悟り開山し、時の町民一同によって建立したと伝えられる。
昭和にはいり、成田山分身の不動明王を本尊にし、一心寺の寺格を拝受した。
「東海七福神」の1社で寿老人が祀られている。



品川本陣跡(聖跡公園)
本陣とはもともと武将が戦場にいるときの本拠地をさす言葉だが、転じて武家の主人が宿泊する場所を示す。1635(寛永12年)に参勤交代の制度が整えられた頃から、「本陣」の名で呼ばれるようになった。品川宿の本陣は、初め、北品川宿と南品川宿に1軒ずつあったが、南品川宿では早くにすたれ、江戸時代中期ごろには北品川宿のみとなった。本陣の建物は、武家屋敷に見られるような、門・玄関・書院などがあり、大名行列の乗物や長持ちなどの荷物を置く場所が設けられていた。大名の宿泊時には、その大名の名前を記した関札(せきふだ)を立て、紋の入った幕を掲げたという。
明治維新後、京から江戸に向かった明治天皇の宿舎(行在所)にも使われた。



たくあん誕生の地・東海寺
1639(寛永16)年、三代将軍家光が沢庵和尚を開山に迎えて建てた臨済宗大徳寺派の寺。明治維新で土地が国有化され、一時廃寺となった時期もある。
たくあん漬けが考案された地でもある。

         

           
     
細川家墓域
細川家の菩提寺、妙解院がかつてここにあったが、1871(明治4)年に廃寺となり墓所の部分は細川家の所有となって今に至っている。ここには7代の細川家藩主と、一族の墓がある。
寺の名称は、肥後熊本藩初代藩主細川忠利(1586~1641)の戒名、妙解院殿に基づいている。

         

北品川宿と南品川宿を分ける境橋・品川
品川宿は目黒川で北と南に別れている。そのため旧東海道の目黒川に架かる橋は江戸時代「境橋」と呼ばれた。現在は「品川橋」と呼んでいる。
この橋には小さな休憩所が設置され、江戸時代を思い浮かべるための説明板が立てられている。



東、南品川の鎮守・荏原神社
奈良時代、709(和同2)年創建。
平安時代には源頼義・義家が阿倍一族を討つ際に、府中の大国魂神社とこの荏原神社を参詣し、戦勝を祈願した。神輿を海にくりだすカッパ祭は有名。
「東海七福神」のうちの恵比寿が祀られている。

         

                   

         

南品川宿
南品川宿は煮売屋、すし屋、蕎麦屋、荒物屋、たばこ屋などの店が並ぶ商店街であった。

本光寺
顕本法華宗(けんぽんもっけしゅう・法華宗妙満寺派)の寺。
真言宗の寺として創建したが、1382(永徳2)年法華宗に改宗した。
かつては広い寺域に山門、中門、鬼子母神堂、鐘楼堂などが建つ寺であったが、第一京浜の改修や目黒川の改修により寺域は縮小した。

         

         

宿場の心を結ぶ街道松
品川寺宿にには、東海道五十三次の宿場のうち、品川宿、土山宿(つちやましゅく・49番目の宿場、浜松宿、三島宿、袋井宿、保土ヶ谷宿、大磯宿の7つの宿場から街道松が移植されている。

         



天妙国寺
顕本法華宗・別格山の寺、1285(弘安8)年に創建。
街道に面し、江戸時代は、表門、ニノ門、三門(楼門)と続き、その直線上に本堂(東面・重層・桁行5間)が配される。
本堂左手には祖師堂、右手には多宝塔、さらに五重塔(瓦葺)が建っていた。
また、鬼子母神堂があった。五重塔は当時の江戸6塔のうちのひとつと数えられる。

         

ジュネーヴ平和通り
品川寺の梵鐘(ぼんしょう)を通じて品川区と友好都市提携を結んだジュネーヴ市(スイス)から、"Avenue de la Paix(フランス語で「平和通り」)の標識が贈られた。同市と交流のある地元の要望により名付けられた。



品川寺
創建は大同年間(806~810)。1652(承応元)年、権大僧都引尊法印の中興で、真言宗海照山普門院品川寺(ほんせんじ)と号す。本尊の水月観世音菩薩は大田道灌公が身辺に置いて拝んだ仏像、念持仏と伝えられている。寺宝の大梵鐘は、1867(慶応3)年パリ博覧会に出品以後久しく外国にあり1930(昭和5)年再び寺に迎えたことから「鐘の寺」と呼ばれている。
入口付近には江戸六地蔵のひとつ、鋳物の地蔵菩薩座像が安置されている。
「東海七福神」のうちの毘沙門天が祀られている。

         

         

         

         
            再び寺に戻った鐘

立場(建場)茶屋・釜屋跡
交通手段が徒歩に限られていた時代には、宿場および峠やその前後には茶屋が見られ、これらを「水茶屋(みずぢゃや)」「掛茶屋(かけぢゃや)」と言い、街道筋の所定の休憩所であった。宿外れの立場にあれば「立場茶屋(たてばぢゃや)」と呼ばれていた。
立場茶屋では、湯茶をはじめ一膳飯、水菓子、団子、酒肴つきの食膳などを提供するため、街道往来の旅人や、交通業者などにとっては重要な施設であった。また、一般的に旅籠より安価であったため、繁盛したといわれる。殊に釜屋は本陣同様の門構えをしており、参勤交代の大名や公用武士などの利用が多かった。
このため旅籠屋からの苦情によって、道中奉行は大名や公用武士が立場茶屋での休憩を禁止している。1868(明治元)年1月には、鳥羽伏見の戦いから関東に引き上げてきた土方歳三をはじめとする新撰組隊士も一時投宿した。

 

岩倉公の墓・海晏寺
岩倉具視(1825~1883)は公卿出身の政治家で、幕末に皇武合体を唱え、大久保利通らとともに王政復古に努力した人物で、維新の10傑のひとり。維新後は廃藩置県、条約改正の交渉などに活躍、 富国強兵政策に努めた。
岩倉具視の子孫には加山雄三、みどりの風・女性参議院議員の亀井亜紀子、女優喜多嶋舞等の名がある。
一般の参拝は認められていないので墓所の位置も不明だが、本堂の裏手の小高い丘の塀に囲まれたところがそうではないだろうかと想像する。石造りの鳥居が見えた。
海晏寺は、江戸随一の紅葉の名所と知られた、1251(県鳥)年に開山した曹洞宗の古刹。
本尊の観音像は、品川沖でかかった鮫の腹から出たと伝えられ、「鮫洲」の地名の由来になっている。

      

         

鮫洲八幡神社
鮫洲八幡神社は古くは御林八幡宮と称せられていた。創祀の年暦は定かではないが、寛文年間(1661~1672)以前に建立され、御林町(おはやしまち)の総鎮守であったものと推測される。
御林町は、猟師(漁師)町であり、新鮮な魚介類を将軍家に献上する義務を持たされた漁場である御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)のひとつに数えられていた。

            

山内豊信(容堂)の墓
山内豊信(とよしげ・1827~72)は、分家の長子として生まれ、宗家を継ぎ十五代の土佐国高知藩主となった。人材を登用して藩政の刷新に努めた一方、国策についてもいろいろと論議し、策を建てて多難な幕末期の幕政に大きな影響を与えた。進歩的で強力な言動は幕閣に恐れを抱かれ、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられたが復帰し、大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の斡旋に力を尽くした。維新後の新政府の内国事務総長となったが、翌年引退し、45歳の若さで亡くなった。遺言によって大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていた現地に葬られた。



訪れた時は、余震が続いて墓所の灯籠が倒れる危険性があるためと公開が中止となっていた。このため墓所の裏からやっと撮ったので墓の位置が不明である。

土佐藩と龍馬
浜川橋の袂から立会川が海に注ぐところまで、869坪の広さの土佐高知藩・鮫洲抱屋敷があった。(抱(かかえ)とは拝領とは異なり買い入れ、借用していたもの)
ここは、土佐から送られてきた物資の荷揚げ地であった。
『ペリー来航の1853(嘉永6)年、土佐高知藩は砲台築造の願を幕府に提出、許可を得て翌年、8門の砲台を擁する浜川砲台を造り、約200m離れた品川下屋敷の家来が警備にあたった。若き日の坂本竜馬も警備陣に加わっており、現在の立会川商店街を毎日歩いていた。』と、案内板に書かれている。
ペリー来航時の龍馬は19歳で、藩から許可を得て江戸で剣術修行中であった。

         

   
   図中で浜川北公園や浜川中学校周囲をブルーの線で囲ったエリア内が土佐高知藩の屋敷     

泪橋(浜川橋)
1651(慶安4)年、品川に鈴ヶ森刑場が設けられた。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきた。罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、「泪(涙)橋」と呼ばれるようになった。

          

天祖・諏訪神社
立会川を挟んで両岸にあった天祖神社と諏訪神社が1965(昭和40)年に合祀した。
天祖神社の創建は不詳だが、1100~90年頃に遡る大井村が出来た頃に創建されたと伝えられる。江戸時代は神明社として大井村浜川町の鎮守であった。
また、諏訪神社は江戸時代初期の1631(寛永8)年以前、松平土佐守の下屋敷に邸内社として祀られていた。「東海七福神」のうちの福禄寿が祀られている。



         

鈴ヶ森刑場跡
1651(慶安4)年に開設される。間口74m(40間)、奥行およそ16m(9間)という広さがあり、閉鎖される1871(明治4)年までの220年間に10~20万人もの罪人が処刑されたといわれているが、はっきりした記録は残されていない。
当時の東海道沿いの、江戸の入口とも言える場所にあり、浪人が増加し、犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、とくに浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられている。



最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安の変の首謀者のひとり丸橋忠弥であるとされている。忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑にされた。その後も、平井権八や天一坊、八百屋お七や白木屋お駒といった人物がここで処刑された。

 

磐井の井戸
磐井神社名の由来にもなったこの井戸は「磐井」と呼ばれる古井戸で、東海道往来の旅人に利用され、霊水又は、薬水と称されて古来より有名である。心正しければこの井戸水を飲むと清水、心邪であれば塩水と、土地の人は昔から伝えている。
この井戸の位置は元神社の境内であったが、国道の拡幅により、境内が狭められたため、神社前の歩道上に残された。

     

街道にはこの先、神奈川宿の「神奈川の大井戸」まで飲み水はなかったといわれる。

磐井神社
この神社の創建年代等については不詳であるが、延喜式にも記載された神社で、武蔵国における総社八幡宮であったとされる。江戸時代には、将軍家の帰依を得、「鈴ヶ森八幡(宮)」とも称された。
なお、鈴ヶ森という地名はこの神社に伝わる「鈴石」(鈴のような音色のする石)によるものとされる。「東海七福神」のうちの弁財天が祀られている。

         

         

                  

東海道随一規模であった宿駅品川は、江戸の南の遊び場でもあった。
遊郭もあれば行楽地もあり、季節によっては汐干狩りも出来る。
江戸の遊所として見れば幕府によって許可された、公許の吉原に次ぐ施設と品格を持っていた。
飯盛り女と言う名目で旅籠に遊女を置くことを許されたのは品川宿が最初で、明和(1764年)以降は定員500名の飯盛女が認められ賑わった。

東海道から江戸へ入る前にここで一泊して旅の「垢」を落とす人も多かったし、桜の御殿山、紅葉の海晏寺、品川神社など、江戸では屈指の名所であったという。




                                 【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.12.13散策】

信州・真田氏ゆかりの地を訪ねる その2

2012-11-17 16:48:44 | 信州路&甲斐路

紅葉の秋、真田氏ゆかりの地をふたたび訪れ、戦国時代から幕末までの信州における真田氏一族の歴史の一片にふれてみた。

      

真田幸村像
真田昌幸(1547~1611)の次男であった幸村(信繁・1567~1615)は、1600(慶長5)年の上田城籠城戦(関ヶ原合戦の一環)後、天下を取った家康によって父・昌幸とともに高野山に流され、その山麓の九度山で長く暮した後、豊臣秀頼(1593~1615)に招かれ、大坂冬・夏の両陣において、徳川勢相手に大活躍した。幸村はこの地で討ち死にしたが、「真田、日本一の兵」といわせた程の武勇は、その後永く後世に語り継がれることとなった。
この籠城戦は、中山道を進んで関ヶ原に向かう徳川秀忠(1579~1632)軍3万8千を前にしてのことで、秀忠軍は戦果がなく日数ばかりが経過し、お陰で合戦に遅れてしまう大失態を秀忠はしてしまった戦いでもある。

         

松代城跡
松代城は、戦国時代の1560(永禄3)年、武田信玄(1521~73)によって築かれ、当初「海津城」と呼ばれていた。武田氏北信の要の城で、川中島の合戦は、この城を舞台に繰り広げられた。
その後、明治の廃城まで300年余りにわたって北信濃の拠点的であった。 廃城後は打ち壊され、わずかに石垣が残るのみであったが、1981(昭和56)年に、現存する城郭建築である新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定された。
長野市が、1995(平成7)年より発掘・文献調査をもとに、櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などの修理・復元をし、現在江戸時代の姿に限りなく近い状態で再現され、一般公開されている。

         

         
                                二の丸南門より太鼓門前橋と太鼓門

         
                                       太鼓門前橋と太鼓門

          

          太鼓門

          北不明門

長國寺
真田家の菩提寺。創建は1547(天文16)年、真田幸隆が真田郷の松尾城内に真田山長谷寺として建立、1622(元和8)年、上田藩主であった真田信之が松代移封に伴い現在の地に移転し寺号も長國寺と改める。江戸時代は信州一国曹洞宗寺院一千ヶ所を管理統括。歴代藩主の墓所は霊廟の裏手にある。幸村・大助親子の供養塔もある。初代信之(1566~1658)の霊廟は、1660(万治3)年の建立。入母屋造りで金箔に黒漆、極彩色の彫刻のある荘厳な構え。
本堂の棟に六文銭・屋根に海津城から移した二つの鯱が逆立っている.身の丈は1mというが屋根が大きいので目立たない。

                

         

         

         

松代藩鐘楼
1624(寛永元)年、真田信之が設置。昼夜の別なく1刻(2時間)ごとに鐘をつかせ城下の人々に時を知らせた。また出火の際も鐘を鳴らして非常を知らせた。
江戸時代の度重なる大火で初代、二代目の鐘は焼損し、三代目の鐘は太平洋戦争で供出。現在の鐘は、1991(平成3)年に付けられたもの。
また、現在の鐘楼は、1801(享和元)年に再建されたものである。

                  

大輪寺
真田昌幸が高野山の流された後に正室・山手殿(通称京の御前・1549?~1613)が髪をおろし寒松院と改め開基し、この寺で生活した。1611(慶長16)年、昌幸が死ぬと、昌幸の三回忌に当たる日に自害した。
寒松院の墓は墓所の左手とばくちにある。

         

         

         

         

                        

芳泉寺
真田信之(信幸)の正室である小松姫の菩提寺である。
小松姫は、本多忠勝の娘で徳川家康の養女として1587(天正14)年、信之に嫁つぐ。才色兼備といわれ、家康が若い大名を列座させて婿を選ばせたところ、家康を前にして恐れる大名が多かった中に、最も落ちついて堂々とした動作の信之を見て、小松姫自身が心を動かされ進んで信之を選んだという。また、関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、昌幸、幸村(信繁)父子が九度山に追放になった後も、食料や日用品を送るなどの配慮を怠らなかったという。
徳川と真田の関係を山門、本堂についている六文銭と三つ葉葵の紋が物語っている。

         

         

         



          小松姫の墓

         小松姫の駕籠 

海禅寺
海禅寺の創建は900年代、真田氏の祖とされる貞元親王(清和天皇の第三皇子)が開いたのが始まりと伝えられている。
当初は開善寺と称し現在の東御市にありましたが、1583(天正11)年に真田昌幸が上田城を築いた際、上田城の鬼門鎮護として城の北東側に移され海禅寺と改称している。以来、真田氏の祈願所として庇護され、1622(元和8)年に真田信之が上田藩から松代藩に移封になると松代城下に開善寺として移る。上田に残された海禅寺は僧徒の学問修行の道場としての談林所が開設され隆盛した。

          冠木門
          三門
         

科野大宮社  上田市常田2-21-31
崇神天皇(紀元前)の時代、建五百建命(たけいおたけ)を科野国(信濃国)の国造(くにのみやつこ・地方官)に任命した。上田に国府を置き、国魂(くにたま)の神である科野大宮社(しなのおおみやしゃ)を創祀して住民の安全を祈願した。信濃国総社でもあったといわれる。
地元の人からは「おおみやさんと」親しまれ、上田地方の名社として信仰を集めた。
上田城を築城した真田氏は、上田城の鎮守として崇敬した。

         

         

         

上田城
上田城は、真田昌幸によって1585(天正13)年に築城された平城であった。
地方の小城であり、石垣も少なく一見したところ要害堅固な城とは見えないが、徳川方の二度にわたる攻撃を受けても落城しなかった堅固な城であった。
それは、周囲の河川や城下町を含めた全体が極めてすぐれた構造であったということが評価されている。
徳川の時代になり、上田城は原形を留めぬほど壊されたが、代わって入場した仙石氏によって復興された。

         

         

ケヤキ並木は、二の丸堀跡である。二の丸をカギの手に囲んで、その延長は、およそ1,136m(646間)あり、上田城の固い守りに役立っていた。
その後、上田温電東北線(1928~72)がこの堀跡を走っていた。

         

         

         
                              左手手前が温電東北線プラットホーム跡

         
                       二の丸橋の下、電車の電線に使用していた碍子が残っている

この春に続き、秋の信州・真田氏ゆかりの地をめぐった。当日、時間が余ったので予定外の寺社を周ったが、そこも真田家ゆかりの寺社であった。
300年余り、上田、松代とその周辺を真田氏が統治していたのだから「ゆかりの地」はまだまだあるだろう。





信州の鎌倉「塩田平」をめぐる

2012-11-15 18:09:06 | 信州路&甲斐路
信州の鎌倉

塩田平は、別所温泉地区と独鈷(とっこ)地区とを合わせた総称で、長野県上田市の南西に位置する東西5km、南北2km四方の盆地を指し、「信州の鎌倉」と呼ばれている。
江戸時代には、その肥沃な土地柄から上田藩の穀倉地として「塩田三万石」といわれほどの重きをなしていた。
古くから重要な地であった塩田は、平安時代には後白河法皇の后である建春門院(平清盛の妻の妹)の庄園があり、鎌倉幕府でも頼朝の信頼厚い腹心の家臣が地頭の任に就いていた。
その後、北条執権の時代になって、要衝の地という認識が尚高まり、信濃国の守護職に二代執権である義時自らが就任したこともある。
その後、義時の三男・重時の三男(龍光寺沿革には第三子と書かれている)である義政が1278(弘安元)年、突然、職を辞しこの地に隠遁(隠居)し、塩田城を構え、その子の国時、孫の俊時と三代、56年間にわたり塩田の地を繁栄させた。
このことで、塩田に中世(鎌倉・室町時代)文化が育ち、「信州の鎌倉」といわれるようになった。

 

前山寺  上田市前山300
前山寺(ぜんさんじ)は、真言宗智山派の寺院。山号は獨股山(とっこざん)又は独鈷山。本尊は大日如来。独鈷山(1,266m)の山麓にあり、塩田城の鬼門に位置する。
812(弘仁3)年弘法大師空海が護摩修行の霊場として開創したといわれる。当初は法相宗と三論宗を兼ねていたが、1331(元徳3)年、現在の地に移し規模を拡大させたとされる。のちに真言宗智山派に改宗された。また「未完成の完成の塔」と呼ばれる和様・禅宗様の折衷様式の三重塔(国の重要文化財)がある。建立年代は不明だが、様式から室町時代と推定されている。三間三重で高さ19.5m、屋根は杮葺きである。また窓や扉、廻縁、勾欄はないが、長い胴貫が四方に突き出し調和させていることから、「未完成の完成の塔」と呼ばれる。

         
                                              山門(冠木門・かぶきもん)

          参道から

                三重塔

          本堂

塩田北条氏の城・塩田城跡  上田市前山309
塩田城は、北条義政がこの地に移り館を構えた。
国時、俊時三代にわたり塩田北条氏を称し、信濃の一大勢力としてこの地方を統括し、また幕府内でも活躍した。
1333(元弘3)年、鎌倉幕府の運命が危うくなったとき、塩田北条氏は「いざ鎌倉」と一族あげて支援にかけつけたが、奮戦空しく幕府とともに滅亡した。
その後、信濃の雄・村上氏、甲斐武田氏がこの地に城を築き、真田氏が上田城を築くまでは軍政両面の拠点であった。

                  



龍光寺  上田市前山553
1282(弘安5)年、塩田北条二代・国時によって父の義政の菩提を弔うために建立した。
塩田北条氏滅亡後衰退するが、1601(慶長6)年、萬照寺六世瑞応が中興開山し当初の寺号だった仙乗寺を龍光院と改め曹洞宗の禅寺とした。
塩田城を挟んでその祈願寺と伝えられる前山寺と相対する。

                  

          黒門

          参道

         
                                       三門を中央に左観世音堂、右羅漢堂

          本堂

塩野神社  上田市前山1681
塩野川の水源である独鈷山(とっこざん)の鷲ヶ峰に祭ったことが始まりとされ、奥社が祭られている。
『延喜式』という書物に「式内社」として載せられている信濃の名社。上田・小県(ちいさがた)地方における式内社五社のひとつ。
社殿は江戸時代の建築物で、拝殿は1743(寛保3)年、本殿は1750(寛延3)年。拝殿は間口、奥行共に同じ長さで、楼門造りといって二階建てになっている。二階建ての拝殿は長野県内では珍らしく諏訪大社下社と2社だけで、建築の形式上貴重な建物である。
本殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、特に彫刻の美しさが目を引く。小脇の壁にある、上り竜、下り竜の透(すか)し彫り、向拝住や虹梁に刻まれた象、また建物の正面、側面の梁や虹梁にある雲形などすべて彩色がほどこされた彫刻で、18世紀中頃の様式をよく備えた建物として、当地方に残る代表的建築物である。
戦国時代には、武田信玄や真田昌幸・信之らが信仰を寄せた。

                  

          杉並木参道


                                                        神橋

         

          本殿

         
                              拝殿の彫刻、高い位置と逆光で3枚撮ったがこの様

               流鏑馬
800年ほど前の平安から鎌倉時代にかけてこの神社の一の鳥居から2町(およそ218m)離れた二の鳥居までの間で流鏑馬の神事が行われていた。
馬を走らせ菱型の3つの的を射落とすのだが、成功するのは余ほどの名人であった。この名人の中に地元というべき上田市手塚地区の出身の金刺盛澄(かなさしもりずみ・生没年未詳)が居り、この地で力をつけ鎌倉八幡宮で妙技を見せたのであろうと神社の解説に記されている。なお、金刺盛澄は諏訪大社の流鏑馬でも披露している。

中禅寺・薬師堂  上田市前山1721
中禅寺薬師堂は、中部・関東地方で最古の木造建築である。その様式は「方三間(ほうさんげん)の阿弥陀堂」という形式で建てられ、平安末から鎌倉初期のものと推測されおり、国重文に指定さる貴重な建物である。
方三間とは東西南北のどの方向から見ても柱が4本立っていて、間が三つあることをいう(柱と柱の間を間と呼ぶ)。茅葺屋根のてっぺんに、少し先のとがった丸い玉(宝珠)や、その下に四角な台(路盤)をのせて、真上から見ると、真四角な屋根に見える。これを「宝形造(ほうぎょうづくり)」という。扉は正面に三か所、残りの三方に一か所ずつあり、あとはみな板を横に張った板壁になっています。このような建て方は、平安時代の終わりごろに行われた形式で国宝の奥州平泉中尊寺金色堂(1224年)などが、その代表的な例である。また、薬師堂の中ほどに、4本の丸い柱(四天柱)を立て、その中に本尊の薬師如来が安置されていて、この様式も中尊寺金色堂と同じである。 

         

          仁王門



          薬師堂

          本堂

野倉の夫婦道祖神  上田市野倉538
女神岳南麓標高約700mの高地にある野倉の夫婦道祖神は自然石の前面を円形に彫り、その中に男神女神の姿を刻み、男神に衣冠束帯、女神には十二単衣の服装で、互いに肩に手をかけあい、笑みをたたえているところがほほえましい。
家庭円満・子宝の神として信仰され、また縁結びの神として信仰厚く遠方から訪れる人も多いという。
夫婦道祖神に行く道筋に一口で命が3年延びるといわれる延命水がわいている。

         

                  

安楽寺・八角三重塔  上田市別所温泉2361
曹洞宗に属する寺。崇福山護国院と号する。本尊は釈迦如来。平安時代に安楽、常楽、長楽の三楽寺の一つとして創建されたと伝え、現在は安楽寺と常楽寺が残る。鎌倉時代の安楽寺は北条氏の庇護を得て臨済宗の寺院として栄えたが、室町時代、再興され、以後曹洞宗寺院となった。

            

          黒門

          参道

          三門

                     鐘楼

          本堂

         

八角三重塔は純粋な禅宗様式で、国宝に指定。
本堂の左手の道を上っていくと、山腹に八角塔のすばらしい姿を見ることが出来る。
この木造八角三重塔は、国宝に指定されており、木造の八角塔としては全国でひとつしかないという貴重な建物で、鎌倉時代に中国から渡って来た禅宗様という様式を、忠実に守って建てられている。
一見、四重塔ではないかと思えるのだが、一番下の屋根は裳階(もこし・ひさしのこと)というこで、建築学上は「裳階付き木造八角三重塔」と呼ばれるようであるが、略して「八角三重塔」といっている。

                     八角三重塔

北向観音  上田市別所温泉1656
825(天長2)年、常楽寺背後の山から轟音と共に大地が揺れ周辺に甚大な被害をもたらした。それを見た慈覚大師が大護摩を焚き祈祷したところ、紫雲が立ち金色の光と共に観世音菩薩(北向観音)が現れ大地を清浄化した。大師はこの観世音菩薩をかたどった木像を自ら彫り込み、小堂に祀ったのが北向観音の創建と伝えられている。南向きの善光寺に向き合っているところから「北向観音」と呼ばれ、善光寺が「未来往生来世の利益」を祈願するのに対し北向観音はり「現世の利益」に御利益があることから「片方だけでは片詣り」と言われている。鎌倉時代は北条義政をはじめ塩田北条氏、歴代上田藩主から寺領の寄進など庇護された。現在の北向観音堂は1713(正徳3)年に火災で焼失後の1721(享保6)年に再建されたもので入母屋、妻入、銅板葺、母屋のまわりに庇が付き正面には唐破風の向拝があるなど外観が善光寺本堂のように見える。

         

          観音堂

          絵馬
  
観音堂の西方崖の上に建てられた薬師堂は「医王尊瑠璃殿」と呼ばれ、1809(文化6)年に再建された建物。入母屋、妻入、本瓦葺、京都の清水寺に見られる懸け造りの形式で内部には温泉薬師信仰から薬師如来を祀っている。

           

又、北向観音境内にある愛染桂(上田市指定天然記念物)は樹高22m、幹周5.5mの大木である。
825(天長2)年の大惨事では観世音菩薩がこの木に登り住民達を救ったとの伝説が残っている(川口松太郎の著書「愛染桂」はこの木をモデルにしたとの説がある)。 
 
                     

前記の「片詣り」だが、善光寺には今年春に参拝し、秋にこの北向観音にお参りしたのでご利益があるだろう。
その善光寺であるが、三門の扁額に書かれている「善光寺」の文字には5羽の鳩が描かれており「鳩の額」と呼ばれているそうで、また「善」の文字は牛にひかれて善光寺詣りの、正面からの牛の顔になっているといわれる。


常楽寺・多宝塔  上田市別所温泉2347
常楽寺の創建は天平年間(729~49)、長楽の三楽寺のひとつと伝えられている古寺で北向観音の本坊である。現在の常楽寺本堂は1739(享保17)年に建てられた寄棟、茅葺、唐破風向拝付きの建物で、桁行10間は江戸時代中期後半の天台真言系本堂として屈指の規模を持ち当時の寺院本堂建築の特色を色濃く残す貴重なものとして上田市指定有形文化財に指定されている。

          本堂


                                                       御舟の松         
          七色もみじ

本堂背後にある常楽寺石造多宝塔は1262(弘長2)年に建立されたもので総高さ274cm、安山岩、銘文にはこの地が北向観音の出現した地で建立した経緯が刻まれていることで、歴史的価値や鎌倉時代の石造多宝塔の典型として、数少ない石造多宝塔として貴重なもので国指定重要文化財に指定されている。
         

         




当初、信州の鎌倉の称号は、小京都とか小江戸と同じ類と思っていた。でも、何故鎌倉なのかと「?」をつけて勉強不足のままここを訪れたのであった。
急ぎ足の塩田平めぐりではあったが、ここ信州塩田には、鎌倉時代の匂いが色濃く残っていた。


信濃国・真田家松代藩武家屋敷を訪ねる

2012-11-12 14:45:55 | 信州路&甲斐路
旧横田家武家住宅

旧横田家は、禄高150石の中級武士で、郡奉行や表御用人(幕末期)を勤めた家柄である。
この建物は、他の藩士宅と同様、一種の公舎で敷地3,340.82平方メートル(およそ1,012坪)に、長屋門・一部2階建て主屋・隠居屋・土蔵(2棟)の5棟が建っている。18世紀末から19世紀中頃にかけて建設されたもので、松代城下の典型的な武家住宅の特徴があらわれている。
また、遠くの山を借景とした庭園、池に流れ込む泉水路や広い菜園も続いている。
1984(昭和59)年、敷地の北半分と建物が長野市に譲渡され、1986(昭和61)年に国の重要文化財に指定された。このため旧横田家武家住宅と名前の前に「旧」がつくという。
1991(平成3)年には大規模な改修工事が行われている。

表門(長屋門)
 構造:切妻造、桟瓦葺(さんがわらぶき)屋根
 建造:1842(天保13)年

         

         

主屋
 構造:寄棟造、茅(かや)葺屋根
 建造:1794(寛政6)年

         

         

         

          式台付玄関

         

         

          勝手

隠居屋
 構造:寄棟造、茅葺屋根
 建造:1820(文政3)年

         

         

         

         

土蔵2棟
 構造:切妻造、桟瓦葺屋根
 建造:不明(江戸後期)



庭園

         

      

          泉水路

横田家は、幕末から明治・大正・昭和期にかけて、多くの人材を輩出している。
姉の英(和田英・1857~1929)は、群馬県・官営富岡製糸場で器械製糸の技術を学び、日本初の民間器械製糸場である西条村製糸場(後の六工(ろっく)社・長野市松代町)の創立・経営に携わった。富岡製糸場での体験を「富岡日記」に記している。
また、富岡製糸場の工女姿のキャラクター「おエイちゃん」(現富岡市イメージキャラクター「お富ちゃん」)のモデルにもなっている。

                   横田英

          富岡製糸場

          作業風景

          全景模型

          
英の弟にあたる横田秀雄(1862~1938)は慶応大学法学部教授を経て大審院長、その子・正俊も最高裁判所長官を務め、二代続けて裁判所の最高地位に就いている。 退官後は明治大学の総長に就く。
また、秀雄の弟・謙次郎(1864~1932)は小松家に養子にはいり、逓信省勤務時代には国内の電信・電話事業の基礎を築き、日露戦争時には韓国に派遣され電信電話の普及に努める。退官後は貴族院議員に選出され、鉄道大臣となっている。


旧前島家住宅

前島家は、上田、松代を通して真田家に仕えた家臣で、一族の中には、真田昌幸・信繁(幸村)父子にお供して和歌山県の九度山に移った者もいたと伝えられる。禄高は江戸中期300石、幕末には200石であった。
この屋敷は、真田家の松代入封(にゅうほう・大名などが封ぜられた領地にはじめてはいること)の際に拝領したと伝えられる。
現在の敷地は、幕末の屋敷地(763坪・2,500平方メートル余)の約半分であるが、敷地内に主屋、土蔵、三社、庭園が現存している。
江戸時代の中級武家屋敷の様子を良好に伝えている。

         

         

         

                   

                 
         

旧前島家住宅では、ボランティアのご婦人2人に漬物とお茶で歓待され、しばしば茶のみ談義となった。こんな経験は初めてのことである。

このほか、松代城下の武家住宅は、旧樋口家(禄高230石)住宅、20mの長屋門を移築した白井家(100石)表門、22mもの松代藩最大級といわれる長屋門がある山寺常山(160石)邸、そして筆頭家老格無役席の矢沢家(1,400石)表門などが現存している。
今回は、ぶらり旅ではなかったので残念ではあるが見学はカットとなった。「いずれまた。」となるだろうか?



信濃国・修那羅山安宮神社の石仏像群を訪ねて

2012-11-11 11:39:05 | 信州路&甲斐路
石仏群を訪ねて

長野県東筑摩郡麻績村(ひがしちくまぐんおみむら)をはしる長野自動車道の麻績インターチェンジから別所温泉に通じる「県道12号・丸子信州新線」道すじの舟窪山に標高1,037mの修那羅(しょなら)峠がある。
そこは、長野県のほぼ中央に位置的する。
修那羅峠って、名前からイメージすると、平家の落人の亡霊が出るとか、光彦さん(内田康夫作品の浅見光彦)や金田一耕助(横溝正史作品)に出てくる峠の名前のようにも思えるが、
この峠、古くから小県郡(ちいさがたぐん)と麻績地方を結ぶ「安坂(あさか)峠」と呼ばれていて、近くに大国主命を祀る祠があった。

         



幕末期の1855(安政2)年、修験者としてこの地に修那羅大天武(望月留次郎)が住み着いた。
修那羅大天武は、1795(寛政7)年に新潟県頚城(くびき)郡妙高村大鹿に生まれた。1803(享和11)年、9歳で天狗に従って家を出て、妙義山、秩父三峯山、相州大山、鳳来寺山、豊前彦山神社、加賀白山、越中立山、佐渡金鳳山など、各地の名山、神社仏閣を巡って修行を重ね、この間に学問は豊前坊という岳天狗に習い、越後の三尺坊からは不動三味の法力を授けられて、霊験を身に付けたという。
そして修那羅大天武はこの地で、弟子や信者たちと修行を行い定住した。
1855(安政2)年、この地方が旱魃(かんばつ)に襲われた際に、雨乞いの修法を乞うため、近隣の村人たちが峠に登ってきた。修那羅大天武はこれを受けて修法を行うと雨が降ったという。
やがて霊験あらかたな加持祈祷ということで、信濃国の各地から人々が集まることとなった。
いつしか峠に行く道を「ショナラさん」へ行く道と、安坂峠は修那羅峠と呼ばれるようになった。
村人たちは、願いをかなえてもらったお礼に手づくりの石仏・石神を奉納した。
その熱い信仰と感謝の気持ちが積もり積もって800余体となり、神社の摂末社として祀られている。中には平成の年号が刻まれた石仏も見当たる。
         
1872(明治5)年に、修那羅大天武は旅先で死去するが、その遺言により、門弟信徒の手で、「舟窪社」に大国主命と共に「修那羅大天武命」として合祀された。
「舟窪社」とは、社の縁起によれば、戦国時代の頃から大国主命を祀る小祠としてはじまったが、修那羅大天武がここに定住して社殿を造ってから、舟窪山にあることから舟窪社と名付けられ、さらに1902(明治35)年から修那羅山安宮社(しょならさんやすみやしゃ)に改められたという。
    
         

         

         

社の裏山と呼ぶべき境内に祀られている病気平癒、安産、農事豊作などを祈る石仏・石神群は、徳川時代末期から明治前期にかけての神仏混合時代の典型的形態を呈しており、祭神賀美観音、木妻大明神、金神、天神、道祖神、唐猫大明神、八幡宮、千手観音、鬼神催促金神、水天宮、弁天宮、子育宮等をはじめとする石仏や神像が鎮座している大小の石詞もある。後で知ったが、松代藩士佐久間象山(1811~1864)が奉献した千手観音像も祀られているという。

         

         

      

         

         

      

         

         

      

         

         

      

地元筑北村の広報では、『この末社のほとんどが作者不明ではありますが、素朴な感を呈し、且つ力強い表現は全国に比類なく、更に自然に相溶けあった美しさは、参拝客の心を和ませてくれます。』と書かれている。

         

         

長野自動車道麻績ICから修那羅山安宮神社へのアクセスは、
県道12号「丸子信州新線」を南へ6km。 県道沿いの修那羅峠に駐車場がある。そこから800m、徒歩15~20分。
或いは手前の坂井村氷室、バス停「桂石」を右折して道なりにくねくねと登り「修那羅森林公園キャンプ場」を越えて行くと神社へ歩いて数分という駐車場もある。
この駐車場からは下図のように鳥居をくぐって思索の森の「修那羅遊歩道」を歩むか、右手の舗装された道を安宮神社まで進んでいく。
「修那羅遊歩道」を選ぶと、早くから石仏像群と対面もできる。
                                         

その駐車場は丁度ドウダンツツジが紅葉の盛りであった。
余談であるが、ドウダンツツジは、灯台ツツジとも呼ばれ、枝分かれしている様子が、昔夜間の明りに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その”トウダイ”から転じたものといわれる。
結び灯台とは、三本の棒を途中で結わえて開いたものの上に油盞(あぶらつき・油皿と同じ)を載せただけのもので、宮中行事で使用された。


駒込界隈を歩く

2012-11-03 13:09:13 | 東京散策
『駒込界隈を歩く』のスタートは駒込駅の隣駅、巣鴨駅からである。
雨の予報はなかったのにここに来る電車の窓から傘をさしている通勤人を見かけたが、この先空模様が心配ではあるが予定通り散策を始めた。8時半である。


徳川慶喜梅屋敷跡  豊島区巣鴨1-18
徳川十五代将軍慶喜が、1897(明治30)年から4年間住んでいた屋敷跡である。
中山道(現白山通り)に門があり、庭の奥には故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人から「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれた。屋敷のすぐ脇を鉄道(目白-田端間の豊島線、現JR山手線)が通ることで騒音を嫌って転居したという。
         

染井吉野の碑  豊島区巣鴨3-27
巣鴨駅前山手線沿いの桜並木入口に、染井吉野の碑がある。
   

真性寺
真言宗豊山派の寺院。本尊は薬師如来。創建年代等は不詳であるが、聖武天皇(701~756)の勅願により開いたことが伝えられている。江戸時代には江戸六地蔵の第四番が安置され、また徳川八代将軍吉宗も度々この寺に立ち寄ったとされる。
         

巣鴨地蔵通商店街
およそ800mの商店街に192の店舗が並んでいるとげぬき地蔵への通り道。


         

高岩寺(とげぬき地蔵)  豊島区巣鴨3-35-2
高岩寺は曹洞宗の寺院。本尊は地蔵菩薩(延命地蔵)。一般にはとげぬき地蔵の通称で知られる。
江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げに従い、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされる。その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだところ、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり、「とげぬき地蔵」はこれに由来する。そこから他の病気の治癒改善にもご利益があるとされ、高齢者を中心に参拝者が絶えない。


染井霊園  豊島区駒込5-5-1
水戸徳川家墓所。水戸徳川公爵家や府中松平家の江戸期の墓。徳川斉昭の生母らの墓がある。およそ5,500基の墓があり、8ヶ所ある都営霊園の中では規模が最も小さい。
園内には約100本のソメイヨシノが植えられ、桜の名所として親しまれている。
1872(明治5)年に明治政府によって播州林田藩建部匠頭(たけべたくみのかみ)島屋敷跡地に神葬墓地として開設され、その後東京府の管理下に置かれ公共墓地となる。1889(明治22)年には東京市に移管された後、染井霊園に改称されたが、旧称の染井墓地で呼ばれることも多い。
若槻禮次郎、岩崎弥太郎、二葉亭四迷(長谷川辰之助)、高村光雲、高村光太郎・智恵子夫妻、岡倉天心、津藩藤堂家第十二代最後の藩主・藤堂高潔の墓など著名人の墓がある。
         

光太郎・智恵子の墓所にたっている「花をさすと人はいへどもわがつくる壷はもろ手にかき抱くべき  豊」の碑文は光太郎の弟、鋳金家で人間国宝になった豊周(とよちか)の歌である。また、ふくろうの置きものも。


本妙寺  豊島区巣鴨5-35-6
1590(天正18)年に徳川家康の江戸入城の際に三河より従って来たという。当初は江戸城清水御門内の礫川町へ移建されたが、城域拡張に伴い点々と移り、1910(明治43)年に現在地へと移転した。
         
本郷丸山(文京区本郷五丁目)にあったころ、振袖火事といわれる明暦の大火の火元とされるが、寺側では事実ではないと否定している。
その振袖火事とは、
ある商家の娘が本妙寺の墓参り(花見とも)の帰り、寺小姓に恋をし、その寺小姓の振袖の紋や柄と同じ振袖をつくるが、間もなく恋の病に臥せたまま17歳で亡くなってしまう。振袖は棺桶にかけられ、本妙寺で葬儀が行われた。
その後振袖は古着屋を通して別の若い娘に渡る。ところがこの娘も翌年の同じ日に17歳で早死にし、振袖と共に再び同じ寺で葬儀が行われた。葬儀が終わると振袖はまた古着屋を経て、別の娘に渡るが、その娘も翌年同じ様に17歳で早死にしてしまう。同じ振袖が3年続けて同じ月日に、同じ年齢の娘の葬儀の棺に掛けられて、同じ寺に来たことになってしまった。
恐れた親たちは、この着物を本妙寺で焼いて供養することにした。ところが読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如つむじ風が吹き振袖が舞い上がり、本堂を焼き、それが燃え広がって江戸中が大火となったといわれている。
         

遠山の金さん、千葉周作の墓、明暦の大火供養塔が、また、三門前に有名人墓所の紹介板もある。


慈眼寺  豊島区巣鴨5-35-33
谷崎潤一郎、芥川龍之介、長男比呂志(演出家)ら芥川家の墓所。


専修院  豊島区駒込7-2-4
植木屋・伊藤伊兵衛の屋敷跡として知られている。なかでも三代目三之丞は、ツツジの栽培に力を注ぎ、染井のツツジは江戸の名所として一躍有名になり、この地を中心に染井村は園芸の里として賑わった。
         

東京スイミングセンター  豊島区駒込5-4-21
北島康介や中村礼子などのオリンピック代表選手を始め、数多くの優秀な水泳選手を輩出している。
         

天理教東京教務支庁  豊島区駒込7-1-4
天理教の敷地内にある和風の建物(左手)は、1960(昭和35年)、戦前に首相を務めた近衛文麿の荻窪の私邸のうち応接室を含む建物の約半分が、ここに移築された。近衛と当時の天理教の代表者が親しかったことから移されたとのこと。
荻外荘(てきがいそう)と呼ばれたこの邸宅内で国の行方が決まる重要な会議が、開戦直前に度々行われていた。
                       

十二地蔵  豊島区駒込7-3-1
染井霊園の入口の手前、道が二股に分かれたところにある。 
1730(享保15)年の大火による犠牲者の冥福を祈るために建てられる。十二体の地蔵の由来は定かではないが、高さ1.7mの舟形石に6体の地蔵が2段に刻まれていて珍しいもので、江戸中期の作と推定される。
地蔵上部に描かれている絵は、火や煙のようである。
                  

私の庭・みんなの庭  豊島区駒込3-8
『花咲くか 七軒町 植木の里』碑がたっている。自然がいっぱいの広さ50~60坪くらいの小さな公園。


旧丹羽家の門と蔵  豊島区駒込3-12-8
染井を代表する植木職人として活躍した丹羽家の屋敷に残る紋と蔵を保存した「門と蔵のある広場」。
門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造だが格式のある門である。
この門の建築年代を明らかにする記録はないが、古い伝えによると、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれている。
解体工事に墨書が発見され、1847(弘化4)年の修理記録があり、建築がそれ以前となる。
蔵は鉄筋コンクリート造りで築70年以上が経過している。どちらも有形文化財に指定されている。


染井稲荷神社  豊島区駒込6-11-5 
旧神駒込村字染井の鎮守。江戸時代は隣の西福寺が別当。

西福寺で葬儀がなされていたので割愛した。

無量寺  北区西ヶ原1-34-8
仏宝山西光院無量寺。
旧古河庭園の東隣りに位置する無量寺は、古くから江戸六阿弥陀の三番目として知られている。
静かで落ち着いた庭園は、四季を通じてのお勧めで、隠れた観光スポットとなっている。
平安時代から続く歴史ある寺でもある。古くは長福寺と言ったが、将軍吉宗の治世に吉宗の世で子長福(後の将軍家重)の名をはばかり、福寿無量に諸願を成就させるという、無量寺に改称。
江戸時代将軍が岩淵筋で鷹狩をした折に休息したともいわれている。
1701(元禄14)年には五代将軍・綱吉の生母・桂昌院が参拝したと記録されている。

本堂の左右にはタヌキが鎮座している。


平塚亭つるおかと平塚神社  北区上中里1-47-2
平塚城の城主 豊島近義は後三年の役で城に立ち寄った源義家から饗応への返礼として鎧1領を譲られたが、これを清浄な地に埋め、塚を築き、平塚城の鎮守とした。塚は「甲冑塚」とよばれ、高さが低いため「平塚」ともよばれた。豊島近義は社殿を建て、源義家、源義綱、源義光を「平塚三所大明神」として祀り、一族の繁栄を祈願したという。
         

        
平塚亭は平塚神社の参道脇で大正初期から営業している。
西ヶ原は内田康夫の小説、浅見光彦シリーズの主人公が住む町であり(北区では彼の住民票も発行)、平塚亭の団子は光彦の母が大好物という設定。
また、テレ朝「土曜ワイド劇場」のシリーズ作品となっている『おかしな刑事』で所轄警部補の父と、警察庁の警視の娘が団子を食べながら捜査談義をこの平塚亭でするシーンにも使われている。
つい先日、第9作目が放映され、伊東四朗と羽田美智子の巧妙なやりとりが面白い。
         

古川庭園  北区西ヶ原1-27-39 
旧古河庭園は、こちらをアクセスする。 

駒込妙義坂子育地蔵尊  豊島区駒込2-6-15  
1668(寛文8)年、駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立。
         
堂内には、右から如意輪観音、地蔵菩薩、供養碑が立ち並んでいる。
           

妙義神社  豊島区駒込3-16-16
区内最古の由緒ある社で、祭神は日本武尊。江戸城を築いた太田道灌が、足利成氏との合戦の際に、ここに詣で勝利をおさめたことから、「勝戦(かちいくさ)の宮」とも呼ばれている。


           

染井吉野櫻記念公園(旧染井村)  豊島区駒込2-2-1
「染井吉野桜発祥之里」の記念碑や、染井吉野桜の原種と言われる2種類の桜が植えられている。
かつてここ駒込の一部は染井村と呼ばれ、多くの植木屋が軒を並べて一大園芸農園を形成していた。
この植木屋の始まりは、染井通りに沿って柳沢家下屋敷(六義園)や藤堂家下屋敷などの大名屋敷があり、これらの広い庭の手入れにかり出された近隣の農民たちであったといわれている。
そして諸説はあるものの、ソメイヨシノはこの地の植木職人によって江戸時代に作出され、売り出されたと考えられている。
染井植木屋の繁栄は江戸時代中ごろ以降で、藤堂家に出入りしていた伊藤一族の活躍などでツツジやサツキなどの花木類の名所のもなった。
しかしながら、発展繁盛した植木の里も昭和初期には衰退し、その面影さえなくなりつつあるようだ。


大黒神社  豊島区駒込3-2-11
1783(天明3)年に創建され、祭神は大国主命。木彫りの七つの大国神があり、大黒天像の福運があるとされている。徳川家斉(いえなり)が、鷹狩の帰りにこの神社に立ち寄り、その後に十一代将軍となったことから、出世大国や日の出大国とも呼ばれている。


駒込駅と駒込橋
「駒込」の由来は、ヤマトタケルがここを通過したときに、馬が大量に放牧されている様子をみて「駒込み(混み)たり」といった・・・とあるようだ。
現在の駒込橋は 1991(平成3年)に架け替えられた。下はそれまでの駒込橋。


染井橋と染井通り
山手線を跨ぐ「染井橋」で、正面は「六義園」方向。
1925(大正14)年に架けられた以前の橋が、老朽化したために2002(平成14)年から3年間をかけて新しい「染井橋」が架けられた。「染井」にふさわしく欄干には、桜の花がデザインされている。右は染井通り。


六義園  文京区本駒込6-16-13  
六義園(りくぎえん)は、こちらをアクセスする。

大和郷と大和郷幼稚園  文京区本駒込6-9-7
この地は江戸時代には加賀藩前田家の中屋敷があった。明治維新後、隣接する六義園ともども三菱財閥の岩崎弥太郎の所有地となった。
大正時代になると下町に木造家屋が密集した東京の劣悪な住環境が社会問題となり、華族が所有していた広大な土地を市民に解放しようという運動が自発的起こり、岩崎家もこれに影響して久弥(弥太郎の長男)が六義園西側の土地を市民に解放することを決めた。
1922(大正11)年から分譲を開始したこの新しい住宅地は、ゆとりのある土地区画と整然とした道路の町並みで「大和郷(やまとむら)」と名付けらた。名前の由来は、隣接する六義園がもと大和郡山藩(奈良県)の藩邸だったことによるが、日本(大和)の住宅地の範となる理想郷を造るという気概もこめられていたとも考えられる。
そして実際に「大和郷会」という住民の自治組織が作られ(初代名誉郷長は首相を務めた若槻礼次郎)、現在も社団法人として存続している。
この大和郷会が設立したのが「大和郷幼稚園」で、美智子皇后がご幼少のころ1年間だけ通園したことで有名になり、このことでハクが付き、現在では難関のお受験幼稚園になっているという。タレントの山口もえさんが卒園している。


駒込富士神社  文京区本駒込5-7-2
祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)。建立年は不明。拝殿は富士山に見立てた富士塚の上にある。江戸期の富士信仰の拠点のひとつとなった。今日に至るまで「お富士さん」の通称で親しまれている。
初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があったこと、駒込茄子が名産物であったことに由来する現在では周辺の宅地化により茄子の生産は全くなく、鷹匠屋敷跡は、駒込病院が建っている。「駒込は一富士、二鷹、三茄子」と川柳にも詠まれている。


      

駒込天祖神社  文京区本駒込3-40-1
江戸時代には駒込神明宮と呼ばれ、駒込村の総鎮守として信仰を集めた社である。祭神が天照大神であることから伊勢神宮の流れをくむ神明造りの神殿である。
社伝によれば、1189(文治5)年源頼朝が、奥州藤原泰衡追討の途中この当りに寄った折、夢で松の枝に幣(ぬさ・神事の供え物。古くは木綿、麻などを用いた)がかかっているという神託があり、家臣藤九郎盛長に探させたところ、松の枝に大麻が見つかった。それで頼朝は神明を祀ったという。
駒込富士神社の氏子総代になっている。
境内に榊神社(面足尊、弟六天神)、熱田神社(日本武尊)、須賀神社(素戔嗚尊)を合祀する社がある。


     

吉祥寺  文京区本駒込3-19-17
室町時代1458(長禄2)年に太田道灌の開基で江戸城内に青巌周陽を開山に招いて創建した。道灌は、江戸城築城に際し和田倉付近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得、これを瑞祥として青巌を請じて西の丸に建立した。山号はこの地が諏訪神社の社地であったことによる。戦国時代には古河公方足利義氏の実母で北条氏綱の娘でもある芳春院の位牌が安置されていたという。
寺堂は近代まで七堂伽藍を誇っていたが、東京大空襲で焼失し、わずかに山門と経蔵を残すのみとなった。現在は復興され、本堂、客殿、庫裏等が建ち、往時の面影を忍ばせている。また境内には「二宮金次郎」で知られる江戸時代の農政家・二宮尊徳の墓碑、幕末の幕臣・榎本武揚、南町奉行の鳥居要蔵の墓などがある。
なお、武蔵野市吉祥寺の地名は、明暦の大火で当寺の門前町の住民が住居を失い、五日市街道沿いの当地に移住し開墾したことに由来する。


     
         経堂と彫られた彫刻

南谷寺(目赤不動)  文京区本駒込1-20-20
天台宗 大聖山東朝院南谷寺(なんこくじ)。本尊は不動明王で、江戸五色不動のひとつ。
江戸五色不動は、徳川家光が天海僧正の建言により江戸府内から5箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来する等の伝説が存在する。
江戸五色不動は、目黒区瀧泉寺(りゅうせんじ)の目黒不動、豊島区金乗院の目白不動、世田谷区教学院最勝寺の目青不動、台東区永久寺と江戸川区最勝寺の目黄不動、そして当寺院の目赤不動の5種六個所の不動尊の総称。五眼不動、あるいは単に五不動とも呼ばれる。
      


この先、本郷(「本郷を歩く」へ移る)に向かう。


本郷を歩く

2012-11-03 13:01:51 | 東京散策
               文化・文学と歴史を感ずる「文教」の町・本郷


駒込界隈に別れ、本郷通りを南下して本郷に向かう。
散策の計画表に『しばらく歩く』と記したが、そのしばらくが本当に長い。沿道は寺院がいやに多いのだが何故だろうかと思いながら歩く。
東京メトロの「東大前駅」に到着してホッとする。
40分ほど歩いてようやく目的地に着いた。

         

東大農正門
農正門は、1935(昭和10)年に農学部が駒場から第一高等学校跡に移転した後、1937(昭和12)年に創建された。
現在の門は2003(平成15)年に木曾ヒノキ材を用いて復元された。
          

弥生式土器発掘ゆかりの地  文京区弥生2-11
弥生式土器の発見は、1884(明治17)年。東大の学生が、根津の谷から、赤焼きの壺を発掘した。後に、縄文土器と違うことが認められ、弥生式土器と命名され、このことからこの時代を弥生時代と呼ばれるようになった。彼らは発掘地を正確には書き残していなかっので、候補地は数カ所ある。
         

                   
記念碑の裏面には建立の主旨が書かれている。それによると、
『(前略)むかし、人々はこのあたりに住みつき、日本文化の曙を告げた。弥生時代という重要な文化期の存在が知られた。
私たちは、こうした歴史の壮大で匂(にお)やかなロマンを憶(おも)いふるさとわが町の誇りを語りつぎ、出土と命名の史実を末永く顕彰するため、この碑を建てた。(後略)        向ヶ丘弥生町有志』
向ヶ丘弥生町とは、1965(昭和40)年までの町名で、
江戸時代は、御三家水戸藩中屋敷があった。1872(明治5)年、町名ができて向ヶ丘弥生町と名づけられた。町名は水戸家九代斉昭(なりあき)が屋敷内に建てた歌碑からとった。
とある。現在の町名は弥生二丁目。

 
東大正門
築地本願寺の設計等で著名な伊藤忠太氏のデザインによるもので、赤門ほどの派手さはないものの、花崗岩を貼った重厚な門柱がアカデミックな雰囲気を漂わせている。
正門を入ると安田講堂に向かって銀杏並木がまっすぐ続いているようだ。
         

東大赤門(旧加賀藩前田家上屋敷御守殿門)  文京区本郷7-3
1615(元和元)年の大坂夏の陣の後、加賀藩前田家(前田利長)が幕府から現在の東京大学の敷地を賜り加賀藩の下屋敷が置かれた。1683(天和3)年には上屋敷となり、江戸時代を通じて加賀藩の上屋敷が置かれ、江戸時代を代表する大大名の広壮な大名屋敷がこの地に築かれた。
1827(文政10)年加賀藩十三代藩主前田斉泰(なりやす)は、徳川十一代将軍家斉の娘溶姫(やすひめ・ようひめ)を正室に迎えるに当たり、三位以上の大名が将軍家から妻を迎える際の慣例に従い、朱塗りの門を創建した。
江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女が居住する奥御殿を御守殿あるいは御住居(おすまい)と称し、その御殿の門を朱塗りにしたところから、表門の黒門に対して赤門と呼ばれた。赤門は焼失に際して再建を許されない慣習があり、前田家はこの赤門を消防隊「加賀鳶」を置いて守ったという。この御守殿門は往時の原型を残す唯一の門である。
建築様式は切妻作りの薬医門で、左右に唐破風の番所を置く。屋根上部の棟瓦には葵の紋、軒の丸瓦には前田家の家紋梅鉢を配する。
1877(明治10)年東京大学に移管され、1961(昭和36)年に解体修理、現在は国の重要文化財に指定されている。
安政の大地震や1868(明治元)年の火事によりそのほとんどが焼失し、当時を偲ばせる建物として現在本郷キャンパスに残っているのは、赤門だけとなった。
         

         

東大の塀が永遠と続く。


本郷かねやす  文京区本郷2-40-11(本郷通り本郷三丁目交差点角)
「かねやす」を興したのは初代・兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)で、京都で口中医(歯医者)をしていた。徳川家康が江戸入府に従って、江戸に移住し、口中医をしていた。
元禄年間(1688~1703)に、歯磨き粉である「乳香散」を製造販売したところ、大いに人気を呼び、それをきっかけにして小間物店「兼康」を開業する。「乳香散」が爆発的に売れたため、当時の当主は弟にのれん分けをし、芝にもう一つの「兼康」を開店した。同種の製品が他でも作られ、売上が伸び悩むようになると、本郷と芝の両店で元祖争いが起こり、裁判となる。これを裁いたのは大岡忠相であった。大岡は芝の店を「兼康」、本郷の店を「かねやす」とせよ、という処分を下した。本郷の店がひらがななのはそのためである。その後、芝の店は廃業した。
1730(享保15)年、大火事が起こり、復興する際、大岡忠相は本郷の「かねやす」があった辺りから南側の建物には塗屋(ぬりや・外壁を土・モルタル・漆喰(しっくい)などで厚く塗った建物のこと)・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許した。このため、「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれた。
         

                     

                 
東京メトロ丸の内線本郷三丁目
駒込から本郷への散策も終わりとなった。季節がら日暮れが早いのでここまで来れるか分らなかった。実に歩いたものである。歩数計で33千歩余であった。
          
    
『本郷を歩く』といっても東大周辺を歩いたにすぎなかったが、このあたりは樋口一葉の旧居跡などもあって、文化・文学と歴史を感ずる「文教」の町だという。
本来は谷根千を回った際に立ち寄る予定の町であったが、その時は、本郷の手前で限界となり、今回の「駒込から本郷に」に結びつけたが、少々きついコースだった。何しろ40分もただ歩くだけの時間が生じてしまったからである。
その「谷根千の散策(ちい散歩最後の谷根千を歩く)」だが、偶然の出来事を生んだ散策となった。その後も「谷根千の散策」にまつわる『偶然』が起きていた。
谷中銀座の「夕やけだんだん」で見かけた学者先生が、2~3日後に写真付きの記事で新聞に載った。
その後、湯島から上野、谷根千、本郷の地図が「上野寄り道のススメ」として見開き2頁で新聞に載った。それはまさに私が計画した散策コースそのものであった。
偶然の出来事とは面白い。『人生とは、偶然の積み重ね』と、どこかで読んだことがある。人生とは、偶然があるから面白いともいわれる。これまでも、町を歩いていて多くの偶然と思えることに出会った。

それでは、今回の「駒込から本郷へ」の散策では『偶然』はあったのだろうか。
それが、あったような・・・・。
                 

このオリンピックの招致のポスター、六義園で撮ったものである。
入る際には気にならなかったポスターなのに、何故か出るときに写した。これまで東京の名所や町を色々と歩いているので何所かで眼についたポスターのはずなのに、今回は何故に気になったのかは不思議である。
この写真を撮った1時間後にオリンピック招致の旗振り役である石原都知事が辞任の記者会見を行った。偶然。
「任期を余し、五輪を残し突然に」と、任期2年余りを残して辞任した都知事の記事が新聞には載っていた。
偶然の出来事とは面白いものだ。