あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

繭玉の倉庫だった富岳風穴

2014-08-09 17:40:08 | 養蚕・シルク
          
この風穴は、南北に走る110mの主洞と東西に走る110mの間道からなり、幅4~7m、高さ2~10mの規模を持つ堅い層状を呈した洞穴である。
洞底には水がたまり、冬季に結氷した氷は夏を過ぎても解けることが少ないため、洞内の温度は平均3度を保っている。
 

          

          

          

          
江戸時代は、風穴の氷は将軍に献上されていた。
          

養蚕が盛んな大正の初期から昭和30年頃までは、長野・埼玉・群馬などから成育良好な繭玉が集められ箱に入れて天然冷蔵庫として風穴が利用、保存されていた。成虫にならないよう、生きたまま繭玉を冷暗貯蔵して、夏繭、秋繭に使用されていた。
          

          

          

          

                   


今年も山梨の友人が手伝っているブドウ農場にお邪魔した。
2月の大雪で大きな被害をうけた農家も多かったが、この農場は降雪に対応し被害はなかったという。
全部持っていってもいいよと言われたが、トラックで来たわけではないので、そこそこを頂いた。
          

                    
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世界遺産・富岡製糸場

2014-06-21 17:26:00 | 養蚕・シルク
明治維新直後、日本の近代国家へのいしずえとして、緑茶、生糸が日本の外貨獲得のための最大の商品であって、重要な産業であった。
それまでの日本の製糸業は、伝統的な手動の繰糸法である座繰製糸であったため、良質な生糸を大量生産できずに、粗悪品やにせものまでも輸出し、不当な利益を得ようとする商人たちが増えて問題となっていた。
          
さらに外国資本導入の動きもあった。
そこで、日本政府資本による器械製糸場の設立計画が打ち出され、尾高惇忠(あつただ)を創立責任者として、フランス人技師ポール・ブリュ―ナを迎え、上州(今の群馬県)富岡の地に、富岡製糸場の建築計画が始まり、1872(明治5)年、現在の金額で600億かけ工場が完成、操業を開始した。
          
しかし、開業当初は西洋人に近寄ると生き血を吸われると、工女が集まらず順調な出だしとは云えなかった。ワインの色が血だと思われたようだ。このことは「明治政府告論書」にも記されている。
尾高は知人を頼りに工女を探したが、集まらず、娘・勇(ゆう・14歳)が率先して工女1号になり、ようやく188人でスタートする。
          
開業の翌年には、「富岡日記」という工女生活を著わした横田英(えい)が信州からやって来る。
彼女は入所して8ヶ月で1級工女となる努力家で、1年4ヵ月の富岡生活を終えた後は、郷里に新設された民営の製糸場で指導工女を務めるなど地域産業にも貢献する。    
       
                尾高勇                              横田英
                    関連 : 横田家住居
                             (信濃国・真田家松代藩武家屋敷を訪ねる)  

労働時間は朝7時から夕方4時半で、休憩が3回あり、実働7時間45分であった。また休日は、週一で、夏休み・冬休みがそれぞれ10日間あり、富岡製糸場の官営時代は女工哀史とは一線を画す恵まれた労働条件であった。
女工は4ランクに分けられ見習いの等外から、糸取りが3、2、1等に分けられ、1日4束取れると1等工女となり赤いタスキと高草履が支給される。給料も等外9円に比べ1等工女は25円と高く、町中でもあこがれの的となり、錦絵にも登場している。但しその1級工女は全体の3%にすぎなかった。それも当然で、糸つぎの技術が難しく高度の技術を必要とした。これこそが、日本の品質の良い物づくりの原点である。
               

          

          

世界遺産の対象となったのは1872(明治5)年から75(明治8)年にかけて建てられた以下の施設である。
繰糸所
繰糸(そうし)工場とも呼ばれ、富岡製糸場の中心的な建物である。
敷地中央南寄りに位置する、東西棟の細長い建物で、木骨レンガ造、平屋建、桟瓦葺き。平面規模は桁行140m、梁間12m余である。小屋組は木造のキングポストトラスである。繰糸は手許を明るくする必要性があったことから、フランスから輸入した大きなガラス窓によって電気のない時代の採光になっている。この作業場に300釜のフランス式繰糸器が設置された。
操業されていた器械(機械)は時代ごとに移り変わったが、巨大な建物自体は増築などの必要性が無く、創建当初の姿が残された。なお、操業当初の器械を含む過去の器械類については、岡谷市の市立岡谷蚕糸博物館に寄贈されている。
          

          

          
          
          

          

          

東置繭所・西置繭所
東繭(まゆ)倉庫と西繭倉庫とも呼ばれる。
繰糸所の北側に建つ、南北棟の細長い建物であり、東置繭所(ひがしおきまゆじょ)、繰糸所、西置繭所の3棟が「コ」の字をなすように配置されている。
桁行104m余、梁間12m余、木骨レンガ造2階建てで、風通しなどへの配慮から2階部分が繭置き場に使われた。両建物とも規模形式はほぼ等しいが、東置繭所は南面と西面に、西置繭所は南面と東面に、それぞれベランダを設けてある。また、東置繭所は正門と向き合う位置に建物内を貫通する通路を設けている。この通路上のアーチの要石には「明治五年」の刻銘がある。開業当初の繭は養蚕が主に春蚕のみを対象としていたため、春蚕の繭を蓄えておく必要から建設され、2棟合わせて約32トンの繭を収容できたとされている。東置繭所の1階部分は当初事務所などに、西置繭所の1階部分は燃料となる石炭置き場に、それぞれ活用されていた。
          

          

          

          

首長館(しゅちょうかん。1873(明治6)年竣工)あるいはブリューナ館(ブリュナ館)
繰糸所の東南に位置する、木骨レンガ造、平屋建、寄棟造、桟瓦葺きの建物である。平面はL字形を呈し、東西33m、南北32m余である。内部は後の用途変更のため改変されている。別名が示すようにブリューナ一家が滞在するために建設された建物である。最も、この建物は面積916m2余と広く、一家(夫婦と子ども2人)とメイドだけでなく、フランス人教婦たちも女工館ではなく、こちらで暮らしたのではないかという推測もある。その広さゆえに、1879年にブリューナが帰国すると、工女向けの教育施設などに転用され、戦後には片倉富岡学園の校舎としても使われた。従来、工女教育のために竣工当初の姿が改変されたことは肯定的に捉えられてこなかったが、むしろ富岡製糸場の女子教育の歴史を伝える産業遺産として、その意義を積極的に捉えようとする見解もある。
          

女工館(じょこうかん)あるいは2号館
首長館と同じく1873年の竣工で、東置繭所の東側、南寄りに位置する。木骨レンガ造、2階建、東西棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西20m、南北17m余である。この建物は、ブリューナがフランスから連れてきた教婦(女性技術指導者)たちのために建てられたものであった。しかし、来日した4人の教婦は病気などで、4年の任期を全うできずに早期に帰国してしまったため、女工館は竣工まもなく空き家となった(前述のように、そもそも短期間さえフランス人が暮らしていなかった可能性もある)。その後、三井時代には役員の宿舎、原時代には工女たちの食堂など、時代ごとに様々な用途に転用された。
          

検査人館(けんさにんかん)あるいは3号館
1873年竣工で、東置繭所の東側、女工館の北に建つ。木骨レンガ造、2階建、南北棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西11m、南北19mである。元々はブリューナがフランスから連れてきた男性技術指導者たちの宿舎として建てられたものであったが、男性技術指導者は早期に解雇され、その後外国人医師の宿舎になっていたようである。正門近くにあり、現在は事務所になっている。首長館、女工館、検査人館はいずれもコロニアル様式の洋風住宅と規定されている。なお、1881(明治14)年の記録には第4号官舎、第5号官舎もあったようだが、現在は失われている。
          

蒸気釜所(じょうきかましょ)
繰糸所のすぐ北に建つ。南北棟、木骨レンガ造、桟瓦葺きの部分と東西棟、木造、鉄板葺きの部分に分かれ、前者は蒸気釜所の一部が、後者は汽罐室の一部が残ったものである。製糸場の動力を司り、一部は煮繭に使われた。ブリューナが導入した単気筒式の蒸気エンジンはブリューナ・エンジンと呼ばれ、今は博物館明治村(愛知県犬山市)で展示されている。
蒸気釜所の西には、操業当初に立っていたフランス製鉄製煙突の基部が残されており、蒸気釜所の「附(つけたり)」として重要文化財に指定されている(指定名称は「烟筒(えんとう)基部 1基」)。
当初の煙突は周囲への衛生上の配慮から高さ36mを備えていたが、1884(明治17)年に暴風で倒れてしまったため、現存しない。なお、現在の37.5 m高さの煙突はコンクリート製で、1939(昭和14)年に建造されたもの。
          

          

          
鉄水溜(てっすいりゅう)
鉄水槽とも呼ばれ、蒸気釜所の西側にある鉄製の桶状の工作物。鉄板をリベット接合して形成したもので、径15m、深さ2.4mであり、石積の基礎を有する。創建当初のレンガにモルタルを塗った貯水槽が水漏れによって使えなくなったことを受け、横浜製造所に作らせた鉄製の貯水槽で、その貯水量は約400トンに達する。鉄製の国産構造物としては現存最古とも言われる。
          

下水竇及び外竇(げすいとうおよびがいとう)あるいは煉瓦積排水溝
いずれも1872年にレンガを主体として築かれた暗渠(あんきょ)である。西洋の建築様式を取り入れた下水道は、当時はまだ開港地以外で見られることは稀であり、これらの遺構もまた建築上の価値を有している。下水竇は繰糸所の北側にあり、建物に並行して東西に通じ、延長は186 m。外竇は下水竇の東端から90度折れ、敷地外の道路に沿って南方向に伸びるもので、延長135 m。排水は鏑川に注がれた。
          


候門所(こうもんじょ)
正門脇で出入りする人々をチェックしていた建物で、重要文化財「旧富岡製糸場」の「附(つけたり)」として指定されている。この建物は、開業当初の建物の中では珍しい木造平屋建てで、1943年の行啓記念碑(後述)建設にあたって移転した。のちに社宅に転用された。
                              

製糸場を入ってすぐ右手に記念碑が建てられている。そこには代々、工女たちに歌われた歌が碑に刻まれている。
『いと車 とくもめぐりて 大御代の 富をたすくる 道ひらけつつ』
これは、明治天皇の皇后・昭憲皇太后が富岡製糸場に訪れた際に詠まれて歌である。
                  
皇室と養蚕は「日本書紀」にも記載があるほどで古くからの関係がある。、皇室が本格的に養蚕取り組んだのは昭憲皇太后からといわれ、養蚕を国家的事業にという力の入れようがわかる。
皇太后の行啓は1873(明治6)年6月19日に赤坂仮皇居を立たれ、4日間かけて富岡に到着した。丁度梅雨時のことであったが、今年の天候と同様豪雨に見舞われ、途中の2河川の橋が流されるほどのもので、一行100余人は大変困難を極めたという。
皇太后は富岡でもう1首読まれている。
『とる糸のけふのさかえをはじめにてひきいたすらし国の富岡』と、糸によって近代化を図る原動力が富岡にあるときっぱりいいきっている。
また、世間では、こんな歌が当時流行っていた。
『(前略) 音に聞こえし 富岡よ 糸とり車は 金車 17、8なる 女郎衆が 髪ははやりの 束髪よ 縮緬たすきを あやにとり もみじのように 手をだして 糸とる姿の 美しや (後略)』
伊勢音頭風の「富岡製糸場」という歌であるが、工女を美化している。
のちの時代には、信州諏訪地方の工女で流行り全国に広がっていった「糸ひき唄(工女節)」の中に、
男軍人女は工女 糸をひくのも国のため』『主は軍人わたしゃ工女 共にお国のためにする』 
単調な作業の中で歌われた糸ひき唄には、明治政府の政策「富国強兵」をずばり物語っている歌詞がはいっている歌もある。
明暗様々な歴史のある製糸業を代表する、富岡製糸場が世界遺産に選ばれた価値は十分あると感じ、喜ばしいことである。


                                         資料:富岡製糸場
                                             NHK-TV「ヒストリア」
                                             朝日新聞社「あゝ野麦峠」


 
わが家の蚕さま
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祝 富岡製糸場「世界遺産」に登録勧告

2014-04-26 13:18:16 | 養蚕・シルク





   























本年6月 正式に世界遺産に登録の予定
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絹の道・浜街道を歩く 4日目(西谷~横浜港) 最終

2013-05-31 10:47:52 | 養蚕・シルク
「浜街道」は芝生の追分で終わり、生糸はこの先、東海道と横浜道を通って横浜港へと運ばれていった。
芝生の追分~浅間神社
芝生(しぼう)の追分からは、旧東海道を江戸の方向に進み浅間神社へ向かう。うしろは賑やかな松原商店街。
横浜の浅間町は元は芝生(しぼう)村という地名だった。
芝生村は、武蔵国橘樹郡に属した。村内を東海道が貫通し、神奈川宿と保土ヶ谷宿の中間の立場(たてば)として栄えていた。
村名の「芝」とは低木のことを指し、この辺りには低木が沢山生えていたことから「芝生」になったようだ。明治時代に入り、兵役義務によって村民が徴兵され、出身地が「しぼうむら」と言うのはあまりに縁起が悪いということになった。そこで、1901(明治34)年の横浜市編入の際に、芝生村を代表する浅間神社にあやかって、浅間町と改称した。

浅間神社は街道から数メートル高台にある。上り口左手の崖に横穴古墳群があるというのでうろついたが解らず、地元の方に訪ねたが初めて聞いたと解らなかった。むかしは、冨士の裾野に通じている「横穴・冨士の人穴」といわれたようだ。境内にも十いくつもの横穴があると、神社の由緒と併記して「浅間神社横穴古墳群」に書かれてあるのに、『おぬし、読んでないな。』
責めても仕方がないが、神主さんが来るといわれ、話をつないでくれた。神主さんの案内通りにうろついたがやはり解らぬ。浅間神社下交差点まで降りて左の商店街を回ってみたが、結局解らずあきらめて平沼橋に向かう。
追分から先は以前、区の歴史散策で関内まで歩いているので、この「絹の道散策」では何度となく間違ったが、この先の道筋に迷いはない。その時にガイドをされた方は外国航路の船に乗っていて、退職後は史跡廻りをチャリンコで周って我々素人を案内して下さった。数回お付き合いさせて頂いているがとても案内の上手な方であった。

浅間神社~野毛坂
浅間下交差点から平沼橋へと向う。ここから「横浜道」に入る。道路には「旧東海道」や「横浜道」の表示が埋められている。

「横浜道」は幕末の横浜開港に際して、東海道と横浜港を結ぶために造られた街道である。
1858(安政4)年に日米修好通商条約が結ばれ、翌年、神奈川で開港することが決められていたが、徳川幕府は東海道で栄えている神奈川宿に港ができて異人が往来することに反対し、対岸の横浜村に開港することにして、横浜村も神奈川の一部だと強弁した。
そのため、神奈川~横浜間を結ぶ道として、神奈川宿と程ヶ谷宿の中間である芝生村から、当時の海岸線に沿って新田間(あらたま)橋、平沼橋(現・元平沼橋)、石崎橋(現・敷島橋)を架けて道を築き、戸部村から野毛山を越える野毛の切通しを造り、野毛橋(現・都橋)、太田橋(現・吉田橋)を架けて現・馬車道付近を通って横浜港に至る道を施工した。施工は開港前のわずか3ヶ月間であったという。
平沼橋は帷子川と相鉄線・JRの鉄道に架かる橋である。
  
橋を渡るときに思い出し、区の歴史散策では橋を渡る前に相鉄線の線路脇に浮世絵が描かれた案内板が置かれている場所に行ったことを思い出し平沼橋の右を下って行った。元平沼橋を渡ると案内板があり、近くには電車を見せに来たのか、乳児と若い母親がいた。
案内板は横浜道に就いて解説されたもので、浮世絵は平沼橋手前の新田間(あらたま)橋からの景色で、当時は遠く川崎・大師河原まで眺められたようだ。

平沼橋の下まで戻り、文明の力を使って橋上にでる。橋を渡り、階段を下って平沼商店街へと進む。
京急のガードを潜る。11:50
帷子川(かたびらがわ)水系二級河川・石崎川に架かる敷島橋を渡る。敷島橋は震災復興橋で1930(昭和5)年に建造、鋼板桁橋である。この橋は1909(明治42)年に建造された旧弁天橋の部材を転用使用している。
下流となりの石崎橋も1928(昭和3)年に建造。

川を渡ると桜橋商店街に入る。
東海道・国道1号を戸部七丁目の交差点で過ぎ、戸部四丁目の交差点に着く。
左側に岩亀横丁がある。
幕末1859(安政6)年、外国人対策やオランダ公使からの要請で、港崎遊郭(みよさきゆうかく・現在の横浜スタジアムがある横浜公園付近)を開業した。その規模は遊女屋15軒、遊女300人ほどで、その中に町の名主も勤めた岩槻家佐吉が経営する遊女屋あり、その名が、岩槻の音読みから「岩亀桜(がんきろう)」呼び、そこの遊女が、病に倒れた際に静養する寮がこの地、戸部町四丁目界隈にあったことで、岩亀横丁と呼ばれるようになった。
岩亀桜の一番の売れっ子喜遊大夫(きゆうたゆう・亀遊の説も)は、ペリー艦隊の軍人に言い寄られたが、これを拒み有名な辞世『露をだにいとう倭(やまと)の女郎花(オミナエシ)ふるあめりかに袖はぬらさじ』を残して喉を懐剣で突いて自害した。これは「日本の遊女はアメリカ人に はなびきません」というような意味だそうだ。このことで、攘夷女郎がいた店として、岩亀桜に客が押し寄せたといわれる。だが、この辞世の句、攘夷論者による創作という説もある。享年17或いは18歳。
現代では、沖縄米軍と沖縄風俗業、韓国と従軍慰安婦について問題発言をした□□党の代表が世間を騒がしているが、遠い昔には一本筋が通った女性がいたこと知った。
横丁の中ほどに、遊女が信仰した「岩亀稲荷」がある。

また、これから行く、横浜公園内日本庭園には岩亀楼の灯籠が、現存している。
しかし、岩亀楼を含め港崎遊郭は、開業から7年後の1866(慶応2)年に起きた大火災により消失してしまい、遊郭は関外に移転した。
戸部四丁目信号に戻り野毛坂に向かう。 
上り坂を進んで行くと表示のない交差点に差しかかる。左から来る道は、紅葉坂から神奈川奉行所跡を通る道である。近くには、井伊直弼の銅像がある掃部山(かもんやま)公園や伊勢山皇大神宮などがあるが時間が押しているので横浜道を進む。
通りの家に綺麗な花が咲いていたので写す。名は解らない。

野毛坂に到着。

野毛坂~吉田橋
野毛坂交差点に建つ横浜中央図書館の向かい側に、「野毛山住宅亀甲積擁壁」と呼ばれる横浜市認定歴史的建造物が積まれている。

この一角は、明治期に生糸・米穀物商で成功した平沼専蔵の邸宅地があった。
擁壁の石積方法は、亀甲積といわれ、原石の表面を六角形に加工し、亀の甲羅のような形に積み上げる。この高い施工精度と構造的な特徴は、横浜屈指の芸術的な擁壁とのこと。
平沼専蔵は、政治家としても市会議員、県会議員、貴族院議員、衆議院議員(政友会)などを経歴。平沼銀行や池袋~飯能を結ぶ武蔵野鉄道(現西武鉄道)も設立。「埼玉ゆかりの偉人」とされるが、株の大暴落で破綻、九州の耶馬渓に身を投じる。
野毛坂を左折し、野毛町を通り、大岡川の都橋を渡る。右手には2階建ての長屋風の飲み屋街(都橋商店街)が大岡川のカーブに沿って建てられている。
東京オリンピック開催に伴い、野毛本通りの街並みを美しくするために、露店や屋台を収納して出来たのが都橋商店街で、「ハーモニカ横丁」の愛称で呼ばれている。
この道は図書館から馬車道通りの関内ホールに通じる道で、「小満んの会」の日に図書館に寄ってからと何度となく利用した道なのに、この2階建の飲み屋街は気がつかなかった。川に沿って丸くカーブした建物は美しささえ感じる。
先日、テレ朝の昼間の再放送時間帯に「事件14」が放送された。
話はこの商店街のスナックが舞台になっていた。
北大路欣也さんが弁護士役で登場するドラマだが、固いドラマなので最近は観なかったが、たまたま再放送を観た「事件14」がここが舞台なんて不思議だ。都橋のひとつ上流の橋にたたずむ弁護士のバックに丸くカーブをした建物が数回映し出されていた。

吉田町にはいる。
かつて吉田町通りに「菊」という喫茶店があった。店の正面にはピンホールカメラで撮った写真が数枚展示されていて、アマチアカメラマンのたむろ場所になっていた。山の知人である1級建築士もここにたむろしていたひとりである。この喫茶店に遊びにおいでよと誘われ、一度どんな店かと前まで来たことがあったが、同じ一眼レフでも持つグレードが違うし、使うフィルムも違っているしで、中には入らなかった。
その人は、丹沢に上って来る時も変わった外国製のカメラを取換え持ってきて操作を教えてくれた。巷で会う彼の服装は色が統一されダンディで、「ヨッ。1級建築士」と声をかけたくなる雰囲気を醸し出していた。
「菊」がなくなってからはたむろ場所が、ランドマークタワーの喫茶店に変わったと聞く。
吉田橋の到着。また、吉田橋は横浜の開港場(条約や法令によって外国との貿易に使用される港)入口でもある。目の前が関内駅である。13:35

橋の中ほどに、吉田橋関門跡碑がたっている。橋の下は、今は高速道路になっている。 
吉田橋とは、吉田新田に架かる橋のためで、橋が架かると当地が交通の中心地となり、その治安を守るために関門を設けた。この関門には橋番所が設置され、居留地の外国人を攘夷論者から保護するため、出入りを厳重に取締まっていた。
関内、関外の呼び名は、この時以来で、関内は馬車道側である。その関門も1871(明治4)年に廃止された。

吉田橋~横浜港・象の鼻
この先、馬車道通りに入る。
この道は、横浜港を結ぶうちのひとつで、およそ18m(60フィート)の幅で、外国人がこの道を馬車で往来していたので、当時の人はその姿が珍しく思い、「異人馬車」などと呼んでいたことから、「馬車道」と呼ばれるようになったといわれる。ホテルルートイン横浜馬車道(中区弁天通4-53-1)には復元された「異人馬車」が展示されている。
馬車道を進んで行くと左手の県立歴史博物館(中区南仲通5-60)が、かつての横浜正金銀行本店である。
横浜正金銀行は、横浜港開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため1880(明治13)年に設立。その後政府の保護うけて外国貿易関係業務を専門に担当する銀行として成長、世界三大為替銀行のひとつと数えられるようになった。この建物は19048(明治37)年に建てられた。
通りをはさんで向かい側に、「牛馬飲水」という設備が置かれている。八王子から生糸を運んできた馬も利用したのだろうか。

そこには説明板もないの下解らなかったが、先ほど放送していテレ朝の番組「ゆうゆう散歩」で若大将が馬車道から赤レンガ倉庫まで歩いて、その筋道に、「牛馬飲水」の設備が出てきた。そこは解説板があり、脇にはむかしの公衆電話がたっている映像だった。
調べると、番組に登場した「牛馬飲水」は、馬車道十番館(中区常盤町5-67)の前に置かれているもののようだ。そこの解説板によると、大正6年、当時横浜の陸上交通の主力であった牛馬のために神奈川県動物愛護協会の前身である日本人道会と横浜荷馬車教会が設けたもので、4ヵ所に設置した。当時、荷馬車教会には3千頭の牛馬がいた。『若大将、よくぞ教えて下さいました。』
次回歩いた時には、しっかり「牛馬飲水」を探してみたい。
        

散策に戻る。
真っ直ぐに133号を横切ると横浜第二合同庁舎がある。7省23官署が入居する全国でも最も大きな地方合同庁舎である。ここに旧横浜生糸検査所があった。
現在の建物は、耐震耐久性の問題から旧横浜生糸検査所を1990(平成2)年に取り壊し、新しいビルの低層部分(前部分)として極力横浜生糸検査所当時の状態に新築復元させた。奥には新たな高層棟(地上23階、地下5階)がある。建物正面上部に飾られた紋章は、蚕が孵化した成虫の蛾を表わしている。
生糸検査所は、開港後、生糸の貿易は、安くて質の良い品が入手できると外国の商社が横浜に進出した。日本商人も生糸が有力な貿易品と知り産地からの集荷に力を入れたが、粗悪品も出回るようなり、外国からの苦情が起った。そこで品質管理や価格安定のため農商務省が1896(明治29)年、横浜と神戸に生糸検査所が開設される。
フランスから製糸技術や生糸検査方法を学び検査機械を買いいれ業務を開始したが、当初は利用者が少なかった。
横浜生糸検査所は関東大震災にて倒壊するが再建され「キーケン」の愛称で市民から親しまれた。
現在の庁舎内には「横浜農林水産消費技術センター」と名を変えながらも生糸の品質検査・格付けを行っている。

裏手に帝蚕倉庫があっって、生糸の価格安定の為に使用された。
現在はこのC号倉庫1棟しか残っていないが、かつては3階建てのA~D号倉庫があった(中区北仲通り5-57)。建物は1926(大正15)年竣工である。

横浜生糸検査所前から真っ直ぐ進むと海に行き着く。
横浜開港150周年として整備された、横浜港象の鼻パークで、横浜港を望む眺めの良い公園である。
1859(安政6)年の横浜開港に当たり、2本の直線状の突堤が突き出した波止場(現在の大桟橋付根附近)が造られた。西側は税関が、東側の突堤は外国貨物用として使われた。
東波止場は数年後には内側に湾曲した形状に改修され、その形が象の鼻に似ているところから、開港時の物揚げ場を「象の鼻」と呼ばれるようになった。
生糸などがここから海外へ輸出され、1909(明治42)年には、日本は中国を抜いて世界一の生糸輸出国になっている。
象の鼻の愛称は歴史あるものなのだ。その奥には現在の玄関口大桟橋が見える。

これで、散策完歩ということでコーラ500をあけて祝杯をした。日差しが強く、コーラは喉に心地よい刺激を与え通過していった。
横浜地方今年最高の気温となった日である。

1859(安政6)年の開港により生糸の輸出が始り、馬や人力で、遣水峠を越し、活況を呈した浜街道も、1908(明治41)年の横浜鉄道(現在のJR横浜線)の開通によって、その使命を終え、衰退していった。現在ではその痕跡もわずか1kmほどの「史跡・絹の道」を残すのみである。
八王子から45kmほどの距離。「絹の道」のもここで終わるが、今度は近代日本の文明を届ける出発点になってここから各地へと戻っていった。



横浜港付近には生糸に係るさまざまな史跡があるので立ち寄った。
横浜公園 
JR関内駅南口を下りると斜向かいに横浜公園がある。
南口改札口は横浜スタジアム側の下車口ともあってベイスターズ一色の飾りとなっている。
スタジアムは今日からセ・パ交流戦がはじまり、「勝」旗が道路側に林立している。

日本庭園もあって、訪問者を和ませる。池をはじめ猪おどしや水琴窟までも備えられている。
一角には港崎(みよさき)町と呼ばれた頃、国際社交場(遊郭)として栄えた岩亀楼に置かれていた灯篭がある。

日本庭園から道を一歩隔てて幾何学模様の花弁をしたカルミアがきれいに咲いていた。つぼみは金平糖、花開くと花かんざしなんて表現されたBlogを見かけたが、云い当てている。花の色は白の他にピンクや紫がある、北アメリカ産のつつじ属の仲間だ。

蚕種は明治初年まで生糸に次ぐ輸出品のひとつであったが、1870(明治3)年から暴落しはじめた。投機的な蚕種取引をしていた商人たちは大打撃を受けた。1874(明治7)年には輸出量に対して大幅な過剰生産となり、蚕卵紙44万枚を越える量が、横浜公園で焼却処分され、1875(明治8)年、10年、11年にも処分された。
ベイスターズが横浜に来る以前、横浜公園には平和球場と野外音楽堂があった。
平和球場は高校野球神奈川大会で使用されていたので承知していたし、何故平和球場と呼ばれていたこともうすうす承知していた。
この球場で戦前、ルー・ゲーリッグやベーブ・ルースらのアメリカ大リーグ選抜軍と沢村栄治や苅田久徳らを擁する日本代表チームとの間で親善試合が開かれた。そして、戦後の連合軍の接収解除で横浜市に返還され、横浜公園平和野球場となったが、市民の間では平和野球場と呼ばれていた。
でも、平和野球場は知っていても野外音楽堂は知らなかったので調べると、「横浜屋音」とも呼ばれていて名の知られているアーティストもステージにたっている。屋音があった場所は球場の拡張に伴い取り壊されることとなり、最後のコンサートは1977(昭和52)年9月17日の行われた。その日のステージにはカルメン・マキさんの名もある。屋音があった場所は現在の遊具広場の辺りだ。
日本大通り側入口に、当時寺の写真が置かれている。左に平和球場、右上に屋音がよく解る。

中井屋重兵衛店跡碑 
本町通り二丁目交差点の日本生命ビルとENEOSスタンドとの間のさくら通りにある。
中井屋重兵衛(1820~1861)は、出身地と屋号を配慮した名前で本名黒岩撰之助。出身地は上州、現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原。1859(安政6)年の開港と同時に横浜へ進出し、幕末の混乱期、外国貿易を目的に誰よりも早く時代を予見した人物である。
独自の商才と商魂で危険や冒険をものともせず、開国の先駆者として横浜随一の豪商の名を築いた人物であったが、時代に追いつかず、法度を犯した理由で身の破綻を迎え、横浜から突然姿を消したといわれている。彗星のごとく現われ、生糸や織物・雑貨などを外国商人相手に商売し、外国人も驚く銅(あかがね)御殿の豪壮さは他を圧する本建築であった。
本町通に面したさく通りの跡碑には、広重の錦絵と共に豪商中井屋の隆盛を伝える記述が記されている。

シルク通り 
シルク博物館から横浜公園まで歩く途中の日本大通り駅に近いファインケルビル角の路地が「シルク通り」である。ここは生糸や蚕種などの貿易を行った外国の商社が数多くあったことから呼ばれるようになったという。
また、ここ旧居留地90番地には開港ごろといわれる大砲がある。米国使節ペリーが来航の折、幕府が会見場所の警護を松代・小倉の2藩に命じた。松代藩は、佐久間象山が5門の大砲を持ってきたとされ、このうち3門が横浜市のシルク通りの地中から出てきたといわれている。ここには、そのうちの1門が展示されている。

シルクセンター前の桑の樹
シルク博物館の入口に古い桑の樹がある。この樹は、旧津久井郡(相模原市緑区)の養蚕家から寄贈された。樹齢100年以上である。樹には丁度熟した実がなっている。近くには「絹と女」の像がたっている。

シルクセンター(横浜市中区山下町1番地)
横浜港第桟橋入口近くにあって横浜港における生糸・絹産業及び貿易の振興並びに観光事業の発展を目的とした施設である。
センター内にあるシルク博物館は、シルクに関する歴史をたどりながら、絹の科学・技術の理解を深めるとともに、主要なシルク製品の産地の紹介、 貴重な絹服飾の工芸美の鑑賞の場を提供している。
展示以外に、真綿づくりやくみひもの実演など講習会も開催、シルクの普及を図っている。また、シルクに関する様々な資料を保管し、閲覧も行っている。

横浜商品取引所(中区山下町1・シルクセンター4F)
1894(明治27)年に「横浜蚕糸外四品取引所」として発足した横浜商品取引所はシルクセンタービルで生糸や野菜などの取引を行ってきたが、2006(平成18)年をもって閉鎖された。

生糸も運んだ氷川丸 
横浜港山下公園前に係留されている氷川丸は、1930(昭和5)年、横浜で竣工し、北アメリカシアトルへ向かって初航海をして以来、シアトル航路の花形客船となった。この船の下層部にはシルク・ルーム(生糸倉庫)があり、生糸輸出にも一翼を担っていた。生糸は高価な輸出品であったので、輸送中の湿気を防ぐため特殊な構造の倉庫に納められていた。

●>旧三井物産横浜支店倉庫(旧日東倉庫、横浜市中区日本大通)
この倉庫は1910(明治43)年、三井物産横浜支店の倉庫として建てられた生糸貿易の拠点で、横浜赤レンガ倉庫よりも古い横浜最古の倉庫。関東大震災の火災から生糸を守り震災復興に貢献した。
所有者が三井物産の関連会社から都内の不動産業ケン・コーポレーションへと移り、最近、解体の話が出てきて話題となったので、追記した。
 
(2014.10末)

 
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絹の道・浜街道を歩く 4日目(西谷~芝生の追分)

2013-05-29 09:25:58 | 養蚕・シルク
西谷駅下車8:35
相鉄の踏切手前の二股まで行き、4日目がスタートする。

西谷商店街~上星川
西谷商店街へ出てきた。
すぐに左の路地を入って行くと民家の入口と並んでがある。生憎となりの民家の荷下ろしの車で不動堂前がふさがれている。本日の散策安全祈願をする。

案内板に、これは石像であること、1791(寛政3)年奉られたこと、当時の八王子街道はシルクロードとして知られ、旅人も多くそれに伴い村での泥棒が多発して泥棒除けに奉られたものだと言われていること、明治の中期までは現在の西谷町905番地辺りにあり、帷子川の度重なる洪水のため川に崩れ落ちたのを拾い上げて現在地に移設したことなどが書かれている。
江戸時代にシルクロードという表現はないだろう。それに横浜開港は60年もあとのこと。少々話があと付けされているようにも思える。それとお不動様で鳥居も不思議な感じがする。神社に鐘楼は神仏習合時代の名残と納得するが、これも「あり」なのか。
商店街を行く。
左手奥に西谷地区センターの建物が見える。道なりに右に左に曲がると、下り坂になる。まだまだ商店街が続く。左手の西谷郵便局の手前角を左折する。「高さ制限1.8m」の相模鉄道のガードをくぐると国道16号の妙福寺前信号に出る。

正面の妙福寺に参拝する。参道右手に子育地蔵祠が見え、その右手に弁財天や堅牢地神塔が祀られている。地神塔は1959(昭和34)年と比較的新しい。その他古い石仏像も一緒に並んでいる。徳川十一代家斉(いえなり)時代の文化の年号が刻まれたものもある。

妙福寺を出て、すぐ脇の旧道沿い左側に高さ40cmほどの1697(元禄10)年の庚申供養塔がある。
道なりに右に曲がりながら上って行く。丁度NTTの裏にあたる。

その先、下り始めた所、左手の正観寺の駐車場の隅に奉請堅牢地神塔がある。右側面に「寛政三辛亥 左神奈川」「右八王子道」と刻まれている。道標を兼ねたもののようだ。手前に舟形観音石像も。西谷の不動明王と同じ時代だ。
その先、左手の石段を上がった所に正観寺がある。境内に上ると、また石段があり、その下の左手に開運弁才天、豊川稲荷が祀られている。弁財天の祠にはご詠歌が掲げられている。右手に鐘楼があり、石段の上の観音堂の屋根の奥に釈迦牟尼仏が坐っている。

寺史によると、後北条家家臣小机衆として勢力のあった矢上城(現在の日吉)城主中田加賀守の菩提の為その子中田藤左衛門が父の守本尊を奉納し、創建したという。
正観寺東角には環状2号線にぶつかる行き止まりの道があって、新しい旧八王子道標がたっている。
道標の右を通って環状2号線をくぐる。9:20
              

ガードをくぐって、上星川二丁目信号手前の国道16号に合流する。
杉山神社信号の先左手に杉山神社がある。横浜市を中心に川崎市、東京都稲城市などに多く分布する神社である。『続日本後紀(869年)』に枌山(そぎやま)神社と記載される古社で、武蔵国都筑郡唯一の式内社であると。
入口には1792(寛政4)年の堅牢地神宮碑がある。また、現役を引退した1842(天保13)年の銘がある手水鉢がある。

その先は、神社の脇からトヨタ販売所裏手の旧道と思われる道を行くが、すぐに右手国道16号に合流する。
              

左手の歯科駐車場奥に南無大堅窂地神塔、庚申塔と2体の立像が刻まれた石像(1765(明和2)年)の3つがある。
堅窂地神は、大地の守護神で、作物の豊作を願って石碑を建てられたものようだ。地神を祀る講の集まりがある土地もある。
貨物線の高架を潜る。その先の相鉄線上星川駅前交差点付近から大池道路へ向かう途中の階段を釜台つづら坂といい、その長さ(163m)、高低差(38m)は保土ヶ谷区で一番の階段だという。階段の入口は、上星川駅と反対側にある歩道橋のたもとに入口がある。釜台という町名の由来となった釜壇山には、源頼朝が狩りの際に茶をたてた釜壇の石があったといわれている。9:40

上星川~追分
上星川駅前を過ぎる。
保土ヶ谷中学前バス停先の釜台歩道橋下フェンス内に「横浜市地域史跡 和田村道橋(みちはし)改修碑」がある。案内板に『この碑は、江戸中期、八王子往還和田村地先の難路改修の由来を記したものです。江戸の住人櫻井茂左衛門が資金を提供し、和田村及び隣村の川島村民の協力を得て、道を改修し、橋を架け、往来の難儀を救ったとあります。元文二年十一月(1737)の建立です。八王子往還は、芝生(しぼう)(現在の西区浅間町)で東海道から分岐し、町田、八王子へと通じている街道です。 平成五年三月 横浜市教育委員会』と書かれている。碑の右側面には「南無阿弥陀佛 元文二丁巳歳十一月」と刻まれている。櫻井茂左衛門が行った道橋改修は、3日目に歩いた旭区の白根村にもあった。櫻井茂左衛門とはどんな人物であったのだろう。江戸の篤志家しかわからぬ。

その先、和田町信号では直進する横断歩道がなく、100m余り奥まった大池道の横断歩道を渡らなければならない。この不便さは何故だろう。渡ってすぐにガソリンスタンドの裏側の旧道を行き、和田町商店街前の信号に出る。16号を渡る信号待ちの歩行者がきちんと整列するかのように商店街の奥まで並んでいる。
この商店街は近くの横浜国大の学生とシャッター街にしないように論議して対策を講じている商店街の近くに事務所を持つ山の友人に聞いたことがある。

商店街の信号を渡る。
横浜新道の高架の手前右手に和田杉山神社という案内があるので、右に折れる。
「村社杉山神社」と書かれた1935(昭和10)年に奉納された石柱がある。鳥居の扁額には「杉山神社」と書かれている。先ほどは「杉山宮」であった。「神社」と「宮」の違いは何のか。
調べると、平安時代の延喜式のころは「宮」は限られた社きり名乗れなかったが、それ以降の時代は「神社」と「宮」の違いはないようで、明治に入り、国で神道を進めるようになり過去の天皇家の親王を祀る「宮」が増えた歴史もあった。戦後は規制緩和ではないが、社名を自由に決められるという。
境内右手の石塔石仏群には、一番右に道標を兼ねた庚申塔がある。左側面に『これより右八おうじみち』と書かれている。右側面には、「山」の前の二文字があいまいだが、地理的な位置を考えると『これより左大山みち』と書かれているように思われる。

国道16号(街道)に戻り、横浜新道の高架下をくぐる。10:10
ここからは続けて3回、蛇がうねるように数回、国道16号を横断する。
はじめに、横浜新道の高架下すぐの保土ヶ谷陸橋下信号を横断する。信号待ちをしていると心地よい風が流れてくる。日差しが強いので救われる。
斜め右手前方に旧道が続く。すぐ先、保土ヶ谷公園入口信号で2度目の国道16号を横切る。その先に旧道が続く。国道を渡るので信号待ちの時間が長い。
右手保土ヶ谷郵便局の右手に保土ヶ谷区役所があるが、この辺りは、もと富士瓦斯紡績保土ヶ谷工場があったところだ。1910(明治43)年、この地で工場が操業を開始、大正から昭和初期に全国の絹糸紡績業の最大を誇ったのが富士瓦斯紡績保土ヶ谷工場だったそうだ。ちなみに横浜市域でも製糸業は盛んで1889(明治22)年から1912(大正元)年までに設立された横浜市域の製糸業は44社もあったそうだ。
この工場では、関東大地震の際に昼食を終えた女工たちが職場に就くため工場間の中廊下を移動していたところ、両側のレンガ壁が倒壊して職工453名と社員1名が圧死する工場被害最大の死者数が発生している。
被害を受けた女工の多くは、東北の貧しい農家の出身で遺骨を引き取りに来る交通費の工面ができず、遺骨は2.5km離れた東光寺の先代の住職が引取り葬ったといわれる。その墓石には「関東大震災受難者之墓」と刻まれているという。
この情報は、残念ながら散策を終えた後だったため、東光寺に参っていない。機会があったら参拝したい。
保土ヶ谷公園入口で入った旧道はホームセンターの脇を通って3度目の16号を横断する。が、渡る信号がここにはないので、先の保土ヶ谷警察署前信号を渡る。
旧道はコンビニの脇を渡りすぐに二又となっている。左手は峰岡公園、峯岡小学校に続く。右手を行く。その先で再び合流し16号に通じる。

16号に合流すると、すぐに宮田三丁目信号があり、そこを左に曲がるとすぐに延命地蔵尊がある。
ここまで来ると浜街道も最終段階となる。

延命地蔵尊では、若い女性が熱心に祈っているので遠慮して先に進む。
延命地蔵尊の少し先、左手に祠に入った庚申塔がある。そして、この先はすぐに突き当たって三差路になり、ここで浜街道は終わる。

左右を走っている道は東海道である。ここは芝生(しぼう)の追分(おいわけ)である。11:00
辻にたっている標柱には『追分は一般に道の分岐点を意味しますが、ここ芝生の追分は東海道と八王子道が分かれる場所です。』とある。


八王子から運ばれた生糸はこの先、東海道、横浜道を歩き関内に行き、直進して製糸検査所を通って横浜港・象の鼻に向かう。


                 関連 : 「絹の道」浜街道を歩く 1日目
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 2日目
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 3日目
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 4日目(芝生の追分~象の鼻)

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絹の道・浜街道を歩く 3日目

2013-05-27 12:00:01 | 養蚕・シルク
東急南町田駅を下車、浜街道の3日目。
ここから相鉄線西谷駅まで歩く。町田街道と国道16号(八王子街道)を進むことが基本であるが、国道の左右の蛇行した旧道を歩くことも楽しみだ。


 
小鶴橋~横浜町田IC
駅前の16号を渡り、東に向かって小鶴(おづる)橋から町田街道を歩き出す。9:15
長津田辻(ながつたつじ)バス停があり、その先の信号、町田市辻が長津田辻だ。ここで交差する大きな道は、現在は国道246号だが、江戸時代の大山道で、当時は大山詣等で行き交う人達で賑わったと言われている。長津田は、江戸時代生糸の輸送の中継地点として発展、明治20年以降、副業として養蚕が盛んになった。
この辻の南北に道祖神と地蔵さまが祀られているという。
ひとつの道祖神は、246号を北上し、町田南つくし野郵便局前にある。もうひとつ南側の辻地蔵尊は246号の道を隔てて、ちょうど反対のところに祀られていた。

長津田辻を交差する道まで戻る。左折して、東名入口交差点で国道16号に出る。 9:30

横浜町田IC~若葉台団地入口
その先、東名高速道路の横浜町田インターチェンジ付近を横切るのが、本日最大の難関だ。まずはラブホテに並ぶ道をインターチェンジの取り付け道路に突き当たる所で横浜4トンネルでくぐる。左折して階段を上がる。右手に国道16号(大和バイパス)を見ながら少し行って、坂道を左に曲がりながら下りてトンネルをくぐって、右折して階段を上がる。その先、東名高速道路を第一跨道橋で跨ぎ、直進して、右の国道16号と平行して進む。とてもややっこしい。その先は環状4号を跨道橋で跨ぎ、その先の卸センター入口信号の少し手前で国道16号を左に分け、右斜め前方に坂を上っていくのが旧道だ。この辺りはラブホテルのメッカ。右手に横浜市川井浄水場がある。すぐ先、川井浄水場入口信号で、国道16号を歩道橋で横切る。ここからは、八王子街道である。 10:45

ここで道を誤る。卸センター入口信号にきて安心してしまったのだ誤りの原因だ。。滝沢隧道を漕ぐったことが誤りだった。そして若葉台団地の端を進んでしまった。本来は団地に接触しないコースを歩く筈であったのだ。
気がついて若葉台南まで戻り旧道、若葉台入口に進み予定コースに戻った。30分の遅れとなった。途中、大貫谷戸水路橋を眺める。「かながわの橋100選」の中に入っている。
1952年に建設されたトレッスル橋脚を有する鋼水路橋で、橋長は306m。流量1日48万立方メートルの水路橋で、相模湖系原水の導水路として、川井から西谷を経由して野毛につがり、横浜の繁華街である横浜駅や関内方面に送水している。


若葉台団地入口~中原街道
大貫橋という小さな橋を渡るとすぐに、左手奥の斜面の中腹に五角柱の石塔が小さなフェンスに納まっている。四面には「天照太神」「大巳貴神」「埴安姫神」「倉稲魂神」「少彦名神」と刻まれている。

その先に「長源寺前バス停」があって、その先左手奥の高台に長源寺がある。
参道に入ると左手に舟に乗った地蔵(入船地蔵)が、反対側には台座に下の石柱に三界萬霊と彫られた地蔵座像が置かれている。
石段を上がって山門に達する。
石段下には台座下に名が掘られた6地蔵など8地蔵が祀られ、羽黒・湯殿・月山の出羽三山の供養塔も。
ひとり一人に名が刻まれている6地蔵に出会ったのとは初めてである。
禅林地蔵尊(地獄担当)、無二地蔵尊(餓鬼担当)、護讃地蔵尊(畜生担当)、諸龍地蔵尊(修羅担当)、伏息地蔵尊(天上担当)と名乗られる。
小高いところに境内があるので、眺めがよろしい。
1096(永長元)年に源義家が奥州征伐時の祈願達成のお礼に鎧を奉納されたと伝えられている。その時祈願した十一面観音は子年に期間限定でご開帳がある。次は7年後。

長源寺を出てくるとバス停そばの肉屋から揚げもののいいにおいがしてきた。
交差点の宮ノ下に到着。左手高台に神明神社がある。この辺り一帯を支配していた榛谷重朝をはじめとする畠山一族が所領安堵のため、積極的に伊勢神宮へ所領を寄進して、伊勢神宮を勧請したといわれている。
境内右手奥に庚申塔が1基立っているが摩滅が激しい。

神社の裏から出て、川井本町への住宅街に進む。丘の中腹の静かな道を歩いていく。右手に作業場を兼ねたような長い庇がある石蔵がたっている。新しい感じがする。川井本町住宅の中、職員募集の貼紙がある家の前の二股を右に行く。その先をしばらく直進する。やがて左手の路地の角にお堂があり、地蔵像が祀られている。傍らの説明によれば岩船地蔵といい、1725(享保10)年の建立で、全国的な大飢饉の時、老人や子どもを守るために建立された。脇に小さな庚申塔も。

八王子街道(国道16号)の 川井本町交差点に出て、すぐ先の川井宿町の交差点を左に入り、旧道を進む。
川井宿は、昔の八王子街道沿いに宿あった集落のようだ。
そのまま道なりに少し回り込んで右にカーブ、これまでの道の延長線を右下に見ながら並行して進む。
この辺り、本線から引っ込んでいて静かな住宅街が続く。
左手路地の角に地蔵堂があり、舟光背のある地蔵尊(舟形地蔵)と1813(文化10)年の堅牢地神塔がある。地蔵尊の造立は、江戸時代前期の延宝年間(1673~81)だから先ほどの岩船地蔵よりも半世紀ほど古いので、かなり古いことは確かだ。
          


中原街道~鶴ヶ峰浄水場
その先、中原街道との交差点にさしかかる。バス停に都岡辻とある。
中原街道を横切って、旧道を直進する。この辺りの中原街道沿いにも石像物がいくつかあるが、そのあたりは過去に載せた『大御所様の道・中原街道を行く 4日目』をご覧いただき、今回は省略して先に進む。
今宿神明社前の信号を左折すると、右手に長屋門が建っている。長屋門だけがそこにある。なにか不似合いな光景だ。長屋門だけが現代に残っている感じである。江戸後期の建造。
          

しばらく進む。同じ形をした新築の建売住宅が見え、その先に神明社があった。創建、由緒などは不明なようだ。
旧道に戻る。静かな道が続く。その後、一旦八王子街道(国道16号)と合流する。先ほどの道からうって変って、自動車の激しい往来が暫く続く。
今宿西信号から旧道は、左に上がって行く。
すぐ先、左手に旧家であろう、石蔵が見え、瓦葺きの立派な門構えをした家がある。
          

左手に地蔵堂がある。右が1669(寛文9)年、左が1758(宝暦8)年の年号が刻まれている。寛文は先ほどの地蔵尊の延宝よりひとつ古い年号である。どんどん昔にさかのぼる。
その先左手路地の角に古めかしい双体道祖神がある。関東では珍しい。だが最近は、信州の夫婦の仲睦まじい双体道祖神がうけて、新しい双体道祖神を見かけるようになった。
          

その先、綺麗な花が咲くお宅があったのでカメラに移す。帰宅して家人に聞くとカルミアだという、北アメリカ原産のつつじ科の植物で、少々お値段が高いという。赤色系もあり、個人的にはつつじよりも綺麗だと思う。
右にカーブしながら下りて行き、今度は左にカーブ、今宿東町信号で再び右手からの八王子街道と合流する。
すぐ先、鶴ヶ峰本町信号に着く。ようやくここまで来た感あり。
ここからは先ほどの石像の江戸時代を大きくさかのぼり、鎌倉時代初期の史跡にと進む。武将畠山重忠にちなむ史跡散策である。その散策道は一度「ガイドの会」の案内で歩いたことがある。
鶴ヶ峰本町信号の二股を左前方、山側に行く。すぐに「史跡六ツ塚 重忠公霊堂」の矢印が書かれた案内板がある。そしてその角に三体の石仏が安置された祠がある。左から地神塔、地蔵尊、右は観音様。

ここを左に上がって行くと、薬王寺と六ツ塚がある。鎌倉幕府創建の功臣として、源頼朝の信頼厚い重臣だった畠山重忠は、頼朝の没後の1205(元久2)年、実権を握った初代執権・北条時政の謀略により、北条義時の大軍に敗れ、ここに一族郎党134騎とともに葬られている。享年42
薬王寺は、重忠公の霊堂であり、飛び飛びの六つの塚となって主従が祀られている。

再び先ほどの旧八王子街道に戻る。その先二股を左に上がって行くと、左手にアルミ製の塀と門構えの屋敷がある。難しい漢字三文字の表札が掛かっている。このお宅は、伝説では重忠公の郎党で、合戦後六ツ塚の墓守としてこの地に残ったとされる。その先を進む。右手は鶴ヶ峰浄水場で、工事のため白い塀が囲んでいる。その塀際に、史跡・駕籠塚ある。重忠の急を聞き、妻は駕籠で駆けつけたが、重忠の戦死を聞きおよび、駕籠中で自害。そのまま駕籠ごと埋葬された。  12:30(予定より30分早い)

近くに鶴ヶ峰神社があるので、足を伸ばして参拝する。
史跡・駕籠塚の坂を下って国道16号の鶴ヶ峰バスターミナルの信号に出る。
この先もしばらく重忠史跡巡りである。
信号を渡ると右手に鶴ヶ峰公園があり、公園内に鶴ヶ峰稲荷神社が祀られている。由緒は解らないが、星川杉山神社が管理しているようで初午祭も行われれているようだ。

公園沿いには帷子川が流れている。川を渡り、駅前商店街の道を信号機なしの横断歩道で横切る。車が頻繁に通過するので、先の信号によって渋滞になったころを見計らい渡らねばならない。むかし帷子川はこの辺りを流れていて、近くには「鎧の渡し」があったと書かれた碑が立っている。碑の脇を渡ると「鎧(よろい)の渡し緑道」。
この先、重忠の「首塚」「首洗い井戸」「さかさ矢竹」「畠山重忠公碑」が続く。
「首塚」「首洗い井戸」は、旭区の区役所の裏側に碑がたっている。

帷子川がこの近くを流れていた時代に、河原に直径1mほどの穴があって水が湧いていたそうだ。そこの水で重忠の首を洗い清めた。首塚は碑がたっているわずか先に祠があり、そこに祀られた。
「さかさ矢竹」「畠山重忠公碑」はその先、鶴ヶ峰駅入口の信号を渡ったところにある。
「さかさ矢竹」は、重忠が戦って敗れて死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢箆(やの・矢の矢じりろ羽根を除いた幹の部分)二筋を地に突き刺した。やがてこの矢が自然に根付き、年々2本づつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝えられる。
このさかさ矢竹は1965(昭和40)年ころまでは、旭区役所北東側の土手一面に茂っていたが、その後すべて消滅してしまった。没後800年にあたり、こにさかさ矢竹を植え、再び繁茂を期待すると由来に書かれている。

ここから鶴ヶ峰の交差点に行き、相鉄線西谷駅目指して歩を進める。
国道16号の白根信号である。
ここには白根通りも合流している。この先左手に、鶴ヶ峰浄水場の東側から下って来る道にぶつかる道がある。鶴ヶ峰坂とばれ、標柱がたっている。
「長さ2町(218m)の急坂で、旧八王子街道の難所であった。馬の蹄鉄を造った鍛冶屋が坂の両側にあった」とある。旧八王子街道がここにつながっていたのが浄水場で旧道が一旦途切れているようだ。

鶴ヶ峰浄水場~下白根
白根交差点で国道に出て、国道の下を潜って横断する。すぐに国道と並行する裏道へ入る。二股に分かれるところの右手の藪の中に馬頭観世音(1842(天保13)年)と地神塔(1882(明治15)年)と思われる2体の石仏が置かれている。なかなか見つけにくい場所にある。

白根不動の先で国道16号に合流する。  12:45
この先絹の道先人が歩いた通り、白根不動の信号を渡り、その先の鉄製の階段を降りて、白根町内会館の前を通って行く。鉄製の階段を降りて行くというのも不思議な感じがするのだが、昔はこんなにうねって道があったのかなと疑問も残る。
町内会館の前を流れる中堀川を愛宕白根橋で渡る。16号方向に緩やかに上がってゆくと交差する愛宕信号前に道しるべ不動が祀られている。
ガイドの標柱に、『八王子街道より白根不動への参入口』と書かれている。道しるべ不動は1797(寛政9)年建立。台座の下に「従是右不動道」と刻まれているようだ。

白根不動へは今回割愛するが、ここからは10分ほどである。現在は白根神社と呼ばれているが地元では「白根のお不動さん」と呼ばれている。本尊は弘法大師の作と伝えられるおよそ5cm(1寸7分)の不動明王の座像。源義家(八幡太郎義家)がこの不動を常に信仰していて、前九年の役(1051~59)でこの座像を甲内に納め、奥州に向かい大勝を得たので、そのお礼として1063(康平6)年に鎌倉権五郎景政に命じて堂宇を建立させたのが起源とされる。
境内を流れる中堀川に大滝、小滝の2滝があり、大滝は「白糸の滝」と呼ばれ、幅9m、落差5.5mで、横浜市内では唯一といわれた自然滝であったが侵蝕がひどく修復工事され、現在は新たな親水空間として生まれ変わたっという。ということで滝はなくなり、細いパイプが施され二条流れをつくっているようだ。
その先の信号脇には白根村道橋改修碑がある。『この碑は、江戸中期、八王子往還白根村地先の難路改修の由来を期したものです。』とある。
江戸の住人、櫻井茂左衛門が、土地を買収し、破損した橋を改修し、往来の難儀を救ったと続いて書かれている。
この辺りは帷子川が蛇行し、また、大変険しい山が入り組んでいる難所の様であった。これで、先ほど町内会館前など、うねった道を上下して歩いたことに納得する。道橋改修碑は、この先の保土ヶ谷の和田村にもある。
横に並んでいるのは、1746(延享3)年の庚申塔である。 
16号から離れ、改修碑の横の石段を上がって細道を進む。右側が開け見晴らしがよく、遠くランドマークタワーが望まれる。


下白根~相鉄線西谷駅
細い坂道を暫く歩く。やがて下り坂になり、広い道に突き当たる。右手に白根信号があるようだ。車の往来が少ないその広い道を横切り、帷子川分水路トンネルの上を進む。左手に猪子山(いのこやま)緑道がある。ウグイス、コジュクエの生息地になっていると書かれた看板がたっている。

そのまま直進して暫く行くと、右手後方からの国道16号と合流する。ここからは保土ヶ谷区。
西谷町第二歩道橋を渡って、右斜め前方相模鉄道の踏切に続く旧道を行く。 
 
線路を渡り西谷駅に到着。15:40

本日は、ここで終了。3日目にしてようやく予定通りに終わる。
次回4日目は、ここから芝生を通って、関内に、そして横浜港が待っている。



                 関連 : 「絹の道」浜街道を歩く 1日目 
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 2日目 
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 4日目(西谷~芝生の追分) 
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 4日目(芝生の追分~象の鼻)                

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絹の道・浜街道を歩く 1日目

2013-05-15 15:26:55 | 養蚕・シルク
浜街道 町田から横浜

「絹の道」と呼ばれる道がある。  
戸数100軒にも満たなかった半農半漁の小さな村であった横浜村が、1859(安政6)年、横浜港として開港されると、日本の生糸が横浜から大量に欧米へ送られるようになった。当時の主力な輸出品はお茶と生糸であった。
この時代に八王子の鑓水商人が台頭し、多摩地域の近郊や遠く長野、山梨、群馬など各地で生産された生糸が一旦八王子に集積し、ここから横浜へ生糸が輸送されていった。
その道が「絹の道」である。
生糸は馬、人力により八王子から南下し、「遣水峠」を越え、田端、小山を抜け、境川沿いに原町田に出て横浜港へと向った。
「浜街道」または「神奈川往還」とも呼ばれる「絹の道」、行程45km弱を先人は2日間で歩いたので、私もその予定で歩を進めたが、今回もまたまた珍道中となった。


「絹の道」(浜街道)・・・・・八王子から横浜まで第1日目

JR八王子駅を下車8時50分。
橋上駅舎の改札口を出て、連絡通路から北口駅ビル「CELEO八王子 北館」を抜けるとマルベリーブリッジ(桑の橋)と呼ばれる駅ビルからステージ上に広がった場所に出る。下はバスロータリーとなっている。
桑都八王子の玄関口、八王子駅はこれまで中継駅としては何度か利用しているが、下車するのは初めてのことだ。
マルベリーブリッジから前方に開けた道路は「桑並木通り」と名付けられて国道20号甲州街道に続いている。
今回参考にした「絹の道」を歩いた先人の説明では、現在でも数本の桑の木が植えられているとのことでそれを期待して並木通りを進んで行った。「マロニエ」、「マロニエ」、「マロニエ」、1本1本毎の樹木に掲げられている名札は「マロニエ」で、甲州街道に着くまで札には「桑」の名はなかった。
交差点の右手先に神社を見かけたので、いつものように安全祈願に向かう。
市の取引の平穏無事と人々の幸せを与える守護神と商売繁盛の神様を合祀した「市守神社」である。

                            市守神社                      「絹の舞」の塔

ここで最初から忘れものをしていたことを思い出す。駅前にあるという「絹の舞」の塔の確認である。
先ほどと反対の歩道を桑の木を探しながら駅へと戻る。残念ながらこちら側にも桑は見当たらない。
「絹の舞」の塔は、マルベリーブリッジにあった。それは、先ほど排気塔と思って気に留めなかったものであった。
以前は「織物の八王子」と書かれたタワーがあったようで、「絹の舞」の塔は『八王子城を模した塔に明日を開く「絹の舞」を飾った』と説明してある。
ここまで戻ったなら、道を変え「西放射線ユーロード」という八日市交差点まで斜めに伸びている通りを歩くことにした。
ここでも、ロータリーの外れに置かれている電話ボックス脇の樹木こそは桑ではないかと近寄る。が、残念ながらドイツから贈られた「菩提樹」であった。
結局桑都八王子の玄関口の駅前では桑の木を見ることができなかった。
ユーロードを少し行くと「八王子花街・黒塀通り」がある。
『八王子花柳界は地場産業の織物の発展と共に明治初期から旦那衆の接待や、宴会用として料理屋・芸者置き家の二業が成立し、生まれました。その後、明治30年に大火に見舞われたのを機に遊郭は田町に移転し、花街は「中町」周辺に集中されました。地場産業の織物の生産は、明治・大正と発展し、仲買人等の交流が盛んになるのと共に花街は益々繁昌し、大正期には150名ほどの芸妓数を持ち、料亭・待合・芸者置場の三業で成り立つ三業「見番」も出来ました。(略)』と説明板に書かれている。二業とか三業なんて初めて知り、隠語かなと思ったら辞書にも出ている言葉だった。

その名の通り黒塀が施され、織物が盛んな昔の時代には、この先歩く予定の鑓水の旦那衆も遊んだのだろうと想像する。

八日町交差点~JR片倉駅
八日町交差点が横浜港大桟橋に通ずる「絹の道」の基点である。
あらためて気持ちを引き締めて再スタートを切る。9:30
東京環状16号線を一路南下する。

       八日町交差点                    中央線踏切                   寺町の歩道橋
中央本線の踏切を渡る。未だに立体交差ではない。交通量からして必要ないかも。
山田川の架かる黄金橋を渡ると左手に旧道がある。今では住宅街の小道といった感じだ。弓形に折れた古道もわずか300mほどで本線と合流する。左手には八王子医療刑務所の塀が高くそびえている。

                           刑務所脇の旧道                  片倉城址公園  
その先、京王線片倉駅付近の高架下を通り、片倉町に入る。遠くに目標の無線中継所の鉄塔が見えてきた。
「片倉城址」というバス停を通過する。バス停名に旧跡や昔の地名が残っているのはいつも思うのだが嬉しい。
湯殿川の住吉橋を渡って保育園の先を右折し、片倉城址公園に祀られている住吉神社に参る。
公園に入ると裸婦のブロンズ像が数点飾られている。鳥居のそばに裸婦像とは不似合いだと思ったが芸術なのだからと良いのだろう。
鳥居を潜って、参道の坂を上っていくと三脚を立てた数人のカメラマンがいた。何を撮っているのか尋ねると「ウソ」だという。聞いた途端に「エ、エー、○○ッ」、それって本当?と思ったが、木の枝に後ろを向いた鳩大の鳥がそれだという。
帰って調べてみようと思っていたら、2日後にテレビの通販番組で電子手帳の売り込みに「鷽(うそ)」が出てきた。カラー写真入りで解説されていた。本物は木々の暗がりではっきり分からなかったがくちばしが赤くてきれいな鳥である。
太宰府天満宮では「鷽替え神事」なるものがあり、俳句の季語にもなっているそうだ。ここは天満宮ではないけれど、『鷽は神社に良く似合う』かな。
その番組では、一緒に私の好きな鎌倉・光則寺の境内が写されたことは嬉しい限りだ。私に向けて放送しているように錯覚さえする。テレビを見ていて、このようなことがこれまでもあった。いつだったか、即座にテレビが疑問を回答してくれたこともあった。
光則寺を案内する際に番組の頭に『世界資産選ばれるかも知れぬ鎌倉』なんて説明をしていたが、その前夜に鎌倉はその物証が乏しいと世界遺産には推薦しないと既に報道があったので、これは頂けない。昨日の今日で差し替え出来なかったのだろうが、鎌倉に力を入れていた方には追い打ちをかけたことになる。私も鎌倉の世界遺産の応援を兼ねて『武家の古都・鎌倉 世界遺産への21の証』というシリーズものを用意して荒原稿もでき上り、今月中旬より連載開始予定でもあったので、世界遺産にならなかったのは本当に残念だ。
話を本筋に戻して、
神社側に回るとこちらにも10人弱のカメラマンが1羽の鳥に被写体を構えていた。撮影の邪魔にならぬよう城跡へ向かう。

二の丸広場には藤棚があって今が盛りに見事に咲いている。丁度、小学校高学年の生徒が訪れて整列している。これから広場を走りまわるのだろう。
片倉城は室町時代に築城され、その後小田原北条氏が砦として戦国時代末まで使用されていたようだ。
本丸広場から谷合に下っていくと、谷合に黄色の花が群生していた。公園の方に伺うとやまぶき草だという。ここでは、3月にはカタクリの花も咲くようだ。
国道16号に戻る。住吉神社入口の立看板が置かれている路地に構えが古風な家を見つけた。造りは新しいのだが瓦屋根の門も見える。茶道のお師匠さんの家だ。
JR横浜線を過ぎる。すぐ右手に片倉駅がある。

       本丸跡                     ヤマブキ草の群生    

JR片倉駅~絹の道資料館
兵衛川を渡り、川沿いを慈眼寺(じげんじ)へと進む。
慈眼寺の看板のところには、みちしるべの石柱が建っている。正面には「板橋より壹丁参道」と刻み、側面は「至ヤリ水村」「至子安村」と刻まれているようだ。
参道を進んで行くと門を閉じた仁王門が迎えてくれる。左手には1831(天保2)年の六地蔵と1799(寛政11)年の百万遍供養塔が祀られており、小高くなった左手奥には石仏像群も。創建は1445(文安2)年頃と歴史を持つ寺である。

                               
参道を出て左に行く。
すぐその先、自治会館の脇に小さな祠の白山神社がある。敷地内には石仏群も。創立年代は明かではないが、平安時代に比叡山、西塔の僧武蔵坊弁慶の結縁であった弁智が法華経を奉納した関東七社の中の一社であると伝えられている。
更に進んで行くと日本文化大学に突き当たる。塀に沿って左手を行くと、校門前は八重桜の花びらが舞っている。
日本文化大学は、法学を学びつつ礼儀を重んじ、少数教育によって警察官合格を目指す大学とのこと。
片倉台団地に入り、片倉台小学校を左に見て、上り坂を進んで行く。
防音壁に張り巡らされた八王子バイパスをまたぐ。左手に八王子警察署高嶺交番がある。駐在所や派出所じゃなく格が上なんだと思いきや、旧称派出所のことを指すようだ。
上り坂もここで終わっていて、バス停の名も「坂上」となっている。
右手の車止めがある舗装道路を進む。左手の長い石段を上る。とても長いので何段あるか数えながら上ってゆく。151段。途中で振り向くと八王子の街が開けていた。むかし、荷車が通った道はどんななのだろ、この辺の地形はバイパス道路が出来て大きく変わったのだろう。
石段を上りきると、右方向の矢印が書かれた「絹の道」の案内があった。八日町交差点から丁度2時間の距離だ。11:30
ここは当時八王子―横浜間をつなぐ浜街道の道程で最も高い峠(205m)であった鑓水峠である。
ここからが本日のメインエベント「絹の道」である。
絹の道というのは昭和20年代末に地域の研究者によって名づけられたという。
案内に沿って御殿山無線中継所の鉄塔を右に、雑木林の中を歩いて行く。右へカギ(鉤)の手に曲がる道の左側に高さ約2m程の「絹の道」」と刻まれた石柱を見つける。
この辺りを大塚山公園と呼んでいて、頂上には建物の敷石だけが残る道了堂跡がある。

1873(明治6)年に鑓水の豪商達によって、浅草花川戸のお堂を鑓水永泉寺別院としてここに遷した。当時は、本堂から廊下が延びて小守堂、庫裏や書院につながっている大きな寺のようである。生糸商人や近隣の人々の信仰を集め、参拝客相手のお店もあって、大いに賑わっていたという。寺の規模や賑わいが今では想像できないが、生糸商人の力すごさはわかる。
景色が良く、富士山、浅間山はもちろん、南には江ノ島や大島までが見えたそうである。
しかし、それも列車(私鉄横浜鉄道)が開通し、昭和期になって鑓水商人の没落と共に「絹の道」もすたれ、1963(昭和38)年堂守婆の殺人事件があってからは、道了堂は衰退し、1983(昭和58)年には解体撤去された。
ここは大塚山(213m)山頂でもあり、二等三角点があるというが、その所在は分からなかった。
石段を下り「絹の道」に戻る。ここからは緩やかな下り坂となる、左側に竹藪が。

土道で、いい雰囲気と思っていたら、左側に鑓水給水所が現れ、少々先右手には民家が建っている。暖房用ストーブの煙突が光っている。そして番線に囲われた西武鉄道の管理地が見えてくると期待した『絹の道って、こんななの。』といった気になってくる。おまけに白いバンまでが入って来ては興ざめだ。こんなところに車がはいれるの?
期待が大きすぎたのだろう。それでもくじけずに先に進もう。
10分余りで雑木林の土道も終わりとなり、鑓水三差路に着く。民家の先に庚申塔・供養塔や記念碑合わせて5基が置かれている。

「絹の道」はここから3分先の御殿橋まで続く1kmの区間である。
手書きの駐車禁止の大きな看板が眼につく。ここに止めて絹の道ハイクに行く輩が多いのだろう。
舗装道路になって、少々下ると左に「絹の道資料館」がある。12:10

絹の道資料館~御殿橋

       絹の道資料館                                             むかしの鑓水                
石垣に風格のある黒塀で囲まれたな建物が絹の道資料館(八王子市鑓水989-2)である。敷地は鑓水の豪商「八木下要右衛門」の屋敷跡で、1990(平成2)年の開館になる。「石垣大尽」と呼ばれた石垣が残り、建物はこの石垣を生かし、同家の母屋を模して、当時の雰囲気を伝えるような建物になっている。庭には、土蔵や排水溝の跡が整備され、館内は鑓水の歴史、絹の道や製糸・養蚕に関する資料が展示されている。

桑の木が植えられていた当時の「桑並木通り」

見学を終え、少し本道をそれて、資料館の目の前から西方に延びる道に入り、突き当たりを右に進んで諏訪神社を訪れる。
諏訪神社(八王子市鑓水1170)は、鑓水地域の氏神であり、1876(明治9)年に諏訪・子の神・八幡の3社が合祀されてできた神社だ。拝殿の後ろには合祀された3つが小さな神殿が覆屋(おおいや)の中に納められている。歴史があるようで、それぞれが美しい彫刻が施されており、1995(平成7)年に八王子市の文化財に指定された。美術的にも優れた建築作品として必見である。13:00

更に坂道を下って行くと、大栗川に架かる御殿橋が見えてくる。橋の欄干に絹の道の文字と道了堂のかつての賑わいを描いた石版画「武蔵国南多摩郡由木村鑓水 大塚山道了堂境内之図」がはめ込まれている。
御殿橋の手前左手に八王子道標が目立つように立っている。もとは大栗川右岸にあったが、移転して来た。その碑面の正面には「此方八王子道」と刻まれ、東面に「此方はら町田、神奈川、ふじさわ」、西面に「此方はし本、津久井、大山」とあり、行き先を明示している。1865(慶応元)年建立。

御殿橋~田端坂
小泉家屋敷(八王子市鑓水2178)へ向かった。着いて気がついた、小泉家の前に永泉寺に寄る予定であったことを。それで、20号甲州街道にもどり、東に向かった左手の永泉寺を訪れる。
永泉寺(八王子市鑓水80)は、1573(天正元)年に創建されたと伝わる曹洞宗の古い寺。この寺の本堂は、1884(明治17)年に火災で焼けたため、現在「絹の道資料館」が建つ敷地に建っていた八木下家の母屋を移築したという。生憎、葬儀の準備をしていたのでそこそこに引き上げた。

再び小泉家屋敷に向かう。この辺りには、「シルクロード鑓水」とか「絹の道」を冠につけた老人ホームが建っていて、鑓水の町らしいなと思う。このさき、こんな冠を名前につけた建物が現れるだろうか。
その先くねった坂道を上ると「鑓水板木の森緑地」が右手にある。
『この地域一帯は、岩盤の層があり山の中腹に槍状の尖った道具でついていくと、地下水が湧き出てくる。この水を節を抜いた竹で導き瓶などに貯えて利用してきた。これを筧(かけひ)といい、さらにこの瓶を流れるようにしたものを「遣り水」というが、これが鑓水の地名の由来と考える。
また、板木という名は「伊丹木」に由来し、アイヌ語で「きれいな清水が湧き出るところ」という意味で伝わり、この地に古くはアイヌ民族が住んでいたと思われる。
なお、この緑地内の尾根道は、旧鎌倉街道と呼ばれ、相模を通り、甲州・秩父方面へと通じ浜街道と共に
重要な街道であった。』とある。
この先の「絹の道」が解らなくなり、緑地の案内に鎌倉街道が通っていると聞き、行かざるをえないと、緑地に入っていった。道は整備されていて一旦上ってすぐに下り坂となり、開けた空き地にでる。ここは、大塚五郎吉屋敷跡といい、やはり鑓水商人の屋敷跡だった。「絹の道資料館」やこの屋敷跡といい、生糸で財を残した商人はほんの一握りにすぎないように思える。その代表格が原三渓氏であろうか。
結局「絹の道」の方向が分からず、カンで歩いて行ったら三度目の小泉家屋敷に辿り着いた。
茅葺入母屋造りの民家が、沿道右手に見える小泉家屋敷である。蚕も飼育していたようで現在も生活している。1878(明治11)年建てた現役の茅葺き家屋である。入口の表札には「鑓水字浜道」と、「浜道」という住所が書かれている。先代の時代の掲げた表札だ、とこの家のご婦人が話されていた。字名が入ったままの表札を残してくれていて嬉しい限りである。

この先は、鑓水中学の脇を通る予定だが、その中学校が分からない。「絹の道資料館」で頂いた地図をここで開いた。すると先ほどの「鑓水板木の森緑地」の脇を直進すればいいことが解った。もっと早くこの地図を開けば余計な時間をとらずに済んだのにと悔やむ。
直進の道は、ゴッツイ車止が埋め込まれていて、しかも工事中の白いボードで覆われている部分もあり、遠目では進入禁止と受けとったのである。
また、参考となった資料館で頂いた地図だが、受け付けの窓口横に置かれたハイキングマップというタイトルの自由に持っていけるような地図であった。地図の存在は解っていたが『ハイキング』のタイトルなので山を登るのではないから不要だなと判断し、その場ではもらわなかった。
それが不思議なことに、資料館の見学を終えて建物を出てくると、施設を巡回していたスタッフに出会った。挨拶して「石垣大尽」と呼ばれた石垣の門を写していると、そのスタッフの方が「使って下さい。」と、そのハイキングマップを持って、何故か追いかけてきたのである。その地図がこんな形で必要になるとは思いもよらなかった。スタッフの方が何故にそんな機転をしたのかが不思議である。誰でもが持っていけるのだから既に手に入れたかも知れぬのに、スタッフに感謝、感謝と思いながらとても道幅の広い「絹の道」を歩いてゆく。
左側は目標としていた鑓水中学校。遊歩道入口では石垣が組まれた森とばかり思ったのが中学校だったとは。
穂成田(ぼなりだ)歩道橋を渡ってニュータウン内の鑓水二丁目の新しい道を進む。この歩道橋の床面には「絹の道」を表示したタイルが埋め込まれている。両側は建築中の家並が続く。

鑓水小山給水所の手前に「浜街道陸橋」という嬉しいネーミングの橋が上を通っている。その橋の手すりを支える側板の絵柄が素晴しい。八王子側は、糸巻きや絹織物が、横浜側には船や建物パラソルを射した洋装の御婦人があしらわれている。
実にすばらしい。この道そのものを現わしている。

やっと町田市に入る。時間は午後3時近くになっている。
田端坂を下って町田西郵便局近くの交差点に着く。ここからは町田街道・都道47号(八王子町田線)を町田駅向かって進むのであるが、ここで是非とも寄りたいところがあるので逆方向に向かった。
歩くこと30分余、養蚕信仰で祀られている石、蚕種石に着いた。
この石は八十八夜が近づくと緑色に変化すると伝えられ信仰されてきた。石の形は長楕円形で繭を大きくした形である。この石のある谷戸の集落は現在でも蚕種石(こたねいし)谷戸地区と呼ばれていて、長い間養蚕農家たちの信仰の対象として、蚕の守護神となっていた。

再び町田西郵便局近くの田端へと向かう。戻りの道筋には、蚕種石谷戸の野仏や町田街道沿いの不動明王堂がある。そして、三つ目交差点を右折、境川を小山橋で渡り、境川沿いを下って二十三夜堂に向かう。
蓬莱橋の近くのお堂には勢至菩薩が祀られている。16:00
由緒によると、
『むかし、この地方は相模国高座(たかくら)郡小山村と呼ばれていたが、1594(文禄3)年の検地で武蔵国に編入された。
当時、境川は高座川と呼ばれていて、相武の二国の境界と定める。
蓬莱橋は古くは精進橋と呼ばれていて、橋の近くで数々の悲しい事故がおこり、神の祟りなどと村人は不安に怯えた。そこで村の有力者は、武相講中の願主となり、1781(安永10)年、橋の供養を行い二十三夜講の本尊、勢至菩薩を祀った。
勢至菩薩は、知恵の象徴であるが、ここでは「橋の神様」として崇められていたが、いつしか「足の神様」として二十三夜の月待講を中心に広く、深く住民に信仰され、現在に至る。』

境川を蓬莱橋で渡り、町田西郵便局近くの田端の交差点に戻る。16:05

田端坂~小山駐在所
交差点から旧道(浜街道)が伸びているのでその細い道を進む。
すぐに本道に結びつくが、その手前に田端遺跡がある。環状積石遺構である。これは、縄文後期から晩期にかけての代集落、墓地、祭祀遺跡であり、環状積石(ストーンサークル)や大規模な集落も発見されている。16:10
浜街道といわれていた町田街道を京王相模原線の高架でくぐり、すぐに左折すると奥に札次(ふだつぎ)神社がある。境内には注連縄が巻かれた蚕種石と呼ばれるものがあると記されていたが、注連縄が施された石は見当たらないが、蚕種石と思われるテカテカな石が境内社に置かれていた。16:15

町田街道に小山保育園前で合流する。
すぐ左手奥に福生寺がある。時間が遅いので門が開いているかなと心配になりながら訪ねる。
1233(天福元)年の創建というから古い。左手の観音堂に祀られている本尊の観世音菩薩立像は、平安時代の作で、東京都指定文化財になっている。16:35
福生寺の道路側には小山(おやま)コミュニティーセンターが建っている。

時間も押してきたので、本日はこれまで。

この「絹の道・浜街道を歩く」を参考にした先人の歩行スピードはすさまじいものだ。余分のコースをとったり、迷いで時間を割いてしまったが、行程的には予定の4割程度を歩いたに過ぎない。この先が思いやられる。
予定外の場所で終了したので、ここから最寄駅まで1時間歩く。
このため本日の歩行は4万3千歩余と、これまでの最高となった。相模原駅
17:30

 
                 関連 : 「絹の道」浜街道を歩く 2日目
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 3日目
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 4日目(西谷~芝生の追分) 
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 4日目(芝生の追分~象の鼻)

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