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大御所様の道・中原街道を歩く 2日目

2011-12-19 00:00:00 | 街道を歩く
中原街道2日目

2日目は、前回の続き、議院宿舎前の高輪三丁目交差点からスタート。
交差点を直ぐ右折、桜田通に進み雉子神社に向かう。

雉子神社の前に地域の鎮守社である袖ヶ崎神社があった。

社は1137(保延元)年、基忍田(しのだ)稲荷大明神と称し京都稲荷山より奉斎された。明治維新の際に現在の袖ヶ崎神社に改称。実に870年の歴史がある古い神社である。

その先通りに御神灯の提灯が遠くから見える。翌日は例大祭の前夜祭が行われる雉子神社である。

文明年中(1469~1487)の創立といわれ元荏原宮と称した。慶長年間に三代家光が当地に鷹狩に来た時に、1羽の白雉がこの社地に飛び入ったのを追って社前に参詣し、「以後雉子宮と称すべし」との言葉があり、雉子ノ宮と改称、1994(平成6)年、境内にビルが建ち、社殿はその1階部分に改築された。
ということで、都市内の近代的な神社そのものの感じがした。
手水舎がアクリル板で蓋をするなんて都会的

五反田駅が見える。

駅を過ぎ、中原口で東海道と中原街道に分かれる。その上、中原街道の旧道に入る。


旧道に入って、ふたつ目の交差点右角に子別れ地蔵がある。1727(享保12)年に建てられている。

ここは、かつて桐ケ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親が、その亡骸を見送った場所であったといわれている。今も桐ケ谷斎場は存在している。

次は、ハイツの入口に旧中原街道供養塔(一)がある。地蔵菩薩2基、馬頭観世音、聖観音(しょうかんのん)像が安置されている。都会の中で移転せずに、その場で良く守られている。


子別れ地蔵とそれほど離れていないので距離を見誤り、見過ごして先に旧中原街道供養塔(二)に行ってしまい戻る形となった。


旧中原街道供養塔(二)

庇(ひさし)の下に地蔵堂が納められ、高さ2m位の石の地蔵尊が安置されている。
その隣に五輪塔のような供養塔が入っている。その左隣には剥落した青面金剛で下方に三猿がいる。
その隣の小さなお堂には、剣形の庚申塔と笠付きの庚申塔が安置されている。それがすべてお堂に安置されているので、とてもめずらしい。
案内によると、旧中原街道の昔の姿や戸越村、桐ケ谷村の民族信仰を示すところとして貴重。この付近で僧行永が旅人に藪清水を与えていたというとある。
庇の奥に子育て銀杏と呼ばれる銀杏の大木が植えられている。

ここから、20分少々かけて戸越銀座の先にある戸越八幡神社に向かう。
旧中原街道供養塔(二)の先を左折して中原街道の荏原二丁目を直進すると店が建ち並ぶ繁華街になる。戸越銀座である。

ここは全国で○○銀座と呼ばれる発祥地である。
また、テレ朝「土曜ワイド劇場」に登場する中村梅雀演ずる森江春策弁護士事務所があると設定されているところでもある。
池上線の戸越銀座駅を左に見て、さらに進むと国道1号線にぶつかる。暫く進んで信用組合前を右折する。緩やかな上り坂になっており、やがて戸越八幡神社の参道脇に出る。


戸越八幡神社には、「江戸越え」が変化して「戸越」となったと云われる地名の起りの碑がある。

1526(大永6)年、山城国(京都府)石清水男山八幡の分霊を勘請して一緒に祀ったことが八幡神社の創立の起源とされる。


中原街道の平塚橋まで戻り、先を進む。
右手のファミレス「バーミヤン」の先を曲がり左手に平塚の碑がある。

1083(永保3)年の後三年の役で、兄の八幡太郎 源義家を助け平定した新羅三郎 源義光が出羽からの帰途、この辺りで野営をしたところ、盗賊の夜襲にあい多数の配下を失った。その霊を祀ったのが、この塚の由来とされているが、一時取り壊され、現在の碑は第二次大戦後地域の有志によって建立されたという。

その先、旗の台一丁目に石造り庚申供養塔が小祠に納められている。

1665(寛文5)年、旧中延村の庚申講中が造立したもので、区内現存で3番目に古い。中央に「南妙法蓮華経」の髭題目(ひげだいもく)が彫られている。本塔は板碑型で日蓮宗の影響か、青面金剛(しょうめんこんごう)・三猿・日月が彫られていない。これは全村の殆どの住民が日蓮宗の檀徒であったためとされる。

庚申供養塔のすぐ先に札場跡の石碑がある。

案内によると、高札場は札場(ふだば)ともいい江戸時代に高札が掲示された場所を云う。高札とは法度(はっと・法令、禁令)などを板札に墨書したもので町辻、橋詰など多くの人々の目にふれる場所に設置されここ中原街道は江戸から相模国中原へ向かう主要な道路であったとされる。

その先、昭和大病院前の交差点手前左側に木霊稲荷がある。詳細は不明。


東急大井町線を過ぎ、南千束で環状七号線の陸橋を潜り先に進む。


延命地蔵


洗足池に着く。


図書館との間の庭園を入って行くと、御袈裟懸松と刻まれた石標と松がある。
それもふたつもある。何故なのか?
ひとつは碑に六代目と刻まれていた。
もうひとつは三代目で、調べてみると五代目もあるようだ。
 三代目御袈裟懸松
御袈裟懸松とは、1282(弘安5)年、日蓮上人が身延山から常陸国に当時に向かう途中に日蓮に帰依していた池上本門寺を訪れる前、千束池の畔で休息し、傍らの松に袈裟を架け、池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから袈裟懸けの松と称するようになり、洗足池とも称されるようになったという。

御袈裟懸松から奥に進んでいくと妙福寺の境内に出た。
妙福寺祖師堂(旧七面大明神堂)が登録有形文化財(建造物)に2002年国から指定されている。

1833(天保4)年の建造物である。文化庁の国指定の文化財等のデーターベースによると、国土の歴史的景観に寄与していることから指定されているという。
解説によると、もと天保4年再建の七面大明神堂で、後に曳屋(建物をそのまま移動させる)されて祖師堂となった。奥の深い三間堂で、桟瓦葺の屋根は正面入母屋造、背面寄棟造になる。規模は小さいが、洗足池畔の景観を象徴する建物となっている。


妙福寺を三門から出ると、正面は勝海舟の別邸跡で、左に折れて奥へと進んでゆくと勝海舟の妻の墓所西郷隆盛の留魂祠がある。
海舟の別邸は茅葺きの農家風の建物で戦後間もなく焼失したという。
無血開城のため官軍の参謀西郷隆盛と会談の際、通りがかった洗足池の趣ある自然に感嘆し、この地に洗足軒という別邸を建てた。


1899(明治32)年、77歳で没したが生前より洗足軒の背後の丘に墓を設けていた。石塔に書かれた海舟の文字は十五代将軍徳川慶喜の筆とされる。

妻である民子の墓は後に青山墓地より移されたという。ただ、民子は海舟のそばには埋めないでほしいと話していたそうだ。
海舟23歳、民子25歳で結婚したが、海舟は女遊びが激しく妾を3人もつくり、家にまで連れて来て民子と同居させていたということからのようだ。

海舟の墓の隣には西南役の戦いで死んだ西郷隆盛のその死を海舟が惜しみ、隆盛の漢詩を建碑し、さらにその後、その魂魄(こんぱく)を招祠し、留魂祠を建立した。

両国に海舟生誕の碑が建てられているが、その碑の文字は隆盛が書いている。
 両国の公園に建てられている「生誕の地碑」。
                                碑には、法務大臣 西郷吉之助書と刻まれる。

幕末の江戸城無血開城の会議以降ふたりはよほどウマが合ったと見える。


洗足池を左廻りに進んでゆく。
屋根がブルーシートで覆われた洗足池辦財天(厳島神社)がある。

創建の年代は不詳であるが、古来より洗足池の守護神として祀られていたが、一時池に水没してしまったが、昭和初期に再建されたという。

その先は、「旗揚げ神社」の千束八幡神社があり、その近くにはブルー色をした名馬池月之像がある。

源頼朝が石橋山の戦いに敗れ、鎌倉に向かう際にこの地で陣を構えて平家討伐の幟旗をあげた。また、何処からともなく青い毛並みで白い斑点の馬がやってきた。その馬は、池に映る月影のようだったので池月(生食)と名付けたとのこと。

洗足池から別れ中原街道を西へ。

中原街道を進むと右側に庚申塚がある。
ガイド板によると角柱型に文字を刻んだ庚申供養塔は江戸時代後期に得見られる特色である。
 
右側面に「従是先九品佛道」と刻まれて銘文により、九品佛(世田谷区奥沢の浄真寺)への道しるべを兼ねており、ここが中原街道から浄真寺に至る古道の分岐点であったようだ。
九品佛(くほんぶつ)とは、浄真寺に安置されている9体の阿弥陀如来像のことであるが、一般に同寺の通称となっており、広くはこの一帯の地域を指している。

その先、呑川(のみがわ)の手前に石橋供養塔がある。1774(安永3)年雪ヶ谷村の住民が、石橋の安泰を祈って建てられた供養塔。
 

ここで、一旦中原街道と別れ庚申塔群のある雪ヶ谷八幡神社に向かった。

八幡神社の庚申塔群は元々、村内各所に建てられたものを後にこの場に移したという。1681(天和元)年から1857(安政4)年までの7基で、いずれも駒形といわれる形式の石塔である。中には新田神社への道しるべを兼ねた石塔もあるとガイド板に記されている。

境内には、元横綱大鵬の出世石なる碑がある。節分の豆まきや子供に稽古をつけるなど神社に縁のある不世出の大横綱の直筆と手形が刻まれている。


東急・池上線の線路をまたいて中原街道に戻る。
   池上線に走る町に あなたは 二度と来ないのね 池上線に揺られながら 今日も帰る私なの

1976(昭和51)年に大ヒットとなった西島三重子の「池上線」の歌詞である。
青春時代のひとコマを歌にしたような曲で、イントロ部分もいい。

その池上線・石川台駅を撮る。赤い車両が停車しているのが見える。
昭和2年石川駅として開業。翌年石川台駅と改名、線路の両側はその名の通り高台の住宅地となっている。と、ちい散歩のひと駅散歩の番組で放送されていた。

商店街の一店舗で「向日葵の唄が聞こえるかい」という東日本大震災の写真展が行われていた。


中原街道に戻り田園調布警察署前の斜め左の細い道に入る。東急多摩川線「沼部駅」までほぼ直線の旧道である。
暫く行くと桜坂に達する。
   君よずっと幸せに 風にそっと歌うよ 愛は今も 愛のままで

昨年大河ドラマ・竜馬伝に主演した福山雅治が作詞作曲した桜坂の歌詞で、2000年に発売している。
この桜坂をモデルに作ったといわれ、たくさんのカップルがこの地を訪れたという。

坂の両側は桜に覆われているので花の季節には美しいことであろう。
その昔は、中原街道の切通しで、古くは沼部大阪と云い、現在の緩やかな坂からは想像できないほど当時は急な勾配で交通の難所のひとつ。
 

桜坂を下る途中左手においと坂がある。

案内の傍示杭によると、北条時頼が行脚してきたところ、病を得たが、井戸水を使用したところ全治した。その井戸は沼部にひとつ、中原にひとつあったが、中原の井戸を沼部に移し、雌井(めい)、雄井(おい)と称した。おいと坂は、すなわち雄井戸のことだろうと書かれている。「おいと」というから女性の名と思えばこのような謂れなのか。
北条時頼とは鎌倉幕府第五代執権(在職1246~56年)で、病により執権職を委ね、出家したが厳然として幕府の最高指導者の地位を占め続けていた。宗教心が厚く民衆に善政を行ったことでか、時頼伝説なるものが全国に分布している。謡曲「鉢の木」や歴史物、軍記物、その他各地の寺社の縁起や地誌などに広く記されており、このおいと坂もそのひとつなのか。

坂を下り終えたところ右手に東光院がある。室町時代の板碑があるという。
 
三門を入って左手の墓所に入ると、舟形菩薩像群の傍らに舟形の板碑の破片が置かれていた。板碑に刻まれた永正という年号は室町時代なのだが。これも板碑のひとつか。
 舟形板碑の破片 

東光院前を左に折れて六郷用水沿いを歩いてゆくと大田区最古の庚申塔がある密蔵寺に着く。
江戸時代から「庚申さま」と慕われてきたお寺。
 
 舟形の庚申塔が大田区最古のもの

再び、東光寺前に戻る。
この先、多摩川に突き当たる。昔の旅人は「丸子の渡し」で川を渡った。

東急多摩川線「沼部」駅の踏切を渡り多摩川に向かう。丸子の渡しの案内板がグランドにたっている。


今一度東光寺の西を流れる六郷用水に戻り、流れに沿って上がって行く。
六郷用水は、徳川家康の命を受けて川崎の二ヶ領用水と並行して開削し、14年の歳月をかけ江戸時代初期の1597慶長2)年に完成した。六郷用水は多摩郡和泉村(現狛江市)の多摩川の取水口より、世田谷領(世田谷区)と六郷領(大田区)に至る、全長23km、49ヶ村に水を供給した用水路である。
今年は400年を迎えたが、1945(昭和20)年廃止され、1970年代には大半が埋め立てられたり、下水道となっている。
現在、六郷用水は湧水を利用して中原街道の手前を起点として一部が再現され流れている。
 

 
六郷用水の起点 

中原街道を潜って進むと、浅間神社がある。
 
800年前の創建、田園調布の氏神様。
社殿は1973(昭和48)年につくられたもので、境内も綺麗に整備され、多摩川が広く展望できる。
神社の北側は亀甲山、現在は多摩川台公園となっているが、子供の頃は小学校の遠足に、そして桜の花の季節には家族揃っての花見によく訪れていた。その隣には多摩川遊園地があって子供同士で乗物に乗ったなど懐かしい思い出が沢山この辺りにはある。
 海舟直筆の富士講中興の祖 食行身禄(じきぎょうみろく)の碑

江戸城外桜田門から16時間かけてようやく東京都に別れを告げ丸子橋を渡り神奈川県に入る。昔で云えば武蔵国荏原郡下沼部村から舟で武蔵国橘樹郡上丸子村に入る。

多摩川を眺めると中州が見える。こんなところに中州など以前はなかったのにと思いながら多摩川を渡る。

子供の頃は多摩川の砂利をとるために浚渫船(しゅんせつせん)という砂利を機械で掻き揚げる船が定期的に川底をさらっていたと思う。それが高度成長期のビル建設の材料になっていたのだ。

丸子の渡しは丸子橋が出来た1935(昭和10)年まであった。但し10月から3月までは幅約1.8m(1間)の土橋が架けられていた。天保の時代の記録にも橋の渡り賃が3文とあるので乾期の橋はかなり古くからあったようだ。
だが、昭和の時代にまで渡しがあったのには驚く。既に自働車も走っていた時代なのに未だ渡し?といった感じだが、1935年当時で自動車の渡し賃30銭とうい料金、人は2銭であった。

橋を渡り終えて先ず、丸子の渡しの碑を探した。川崎市側の渡し碑を探す。雑草に半ば埋もれた碑を見つける。
 

以前、読売ジャイアンツ2軍の合宿所があった脇を通り、日枝神社へと向かう。

日枝神社は中原街道からは離れるが、1595(文禄4)年当時の代官頭4人連署の寺領証文を所蔵している神社と聞き立ち寄りたいと思った。

日枝神社は、1200年ほど前の平安時代初めの809(大同4)年に創建された、正式には丸子山王日枝神社という。

 山王神社に宛てた寺領証文の連署部分

東急東横線「新丸子」駅に向かい2日目を終了した。


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