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平間の渡し

2009-09-17 00:50:20 | わがふるさと

渡し場跡碑


わがふるさと 平間
平間の地名は多摩川と加瀬山の中間にひらけた平地と云うことから来ているようだ

平間に多摩川の「渡し」があったことを最近まで知らなかった
学校の歴史でも習ったと云う記憶はない
だが調べていくうちに歴史的にも重要なポイントであることを知った


いつ頃のものなのか辻の守り神の祠に「上平間村」の文字が刻まれている


多摩川に「渡し」が45ヶ所あったと云う
平間の「渡し」の上流には丸子が下流には古市場の「渡し」があった
そして徳川家康が江戸に幕府を開く以前は藤沢、腰越、鎌倉から弘明寺を経て平間に続く街道(古東海道)として鎌倉、戦国時代には多くの軍勢が通った歴史ある街道であり渡し場であったようだ 
     

       50数年前に七五三のお祓いを受けた平間八幡宮神社 手水の水盤に明治11年と刻まれている

百姓軽部五兵衛(橘郡下平間村)は浅野家の堀部弥兵衛、大高源吾らの家臣と親交が深かった
刃傷事件が起きた際も即刻明け渡しに「渡し」を使って馬、荷車、人夫を卒いて上屋敷に駆けつけた
事件後も五兵衛を頼り浅野家浪士が平間村で談合、酒食していたようだ
事件当初饗応役に就き後に四十七士の一員になった冨森助右衛門も五兵衛の地に寓居(仮宅)を建て寺子屋を開いた
この寓居を建てた大工が義士神社と呼んでいた家の先祖であった
この大工は寺院の改築に棟梁として手掛けており今も各地に記録が残されている
義士神社の疑問が50年にしてやっと解けた感じだ


        東京都大田区下丸子方面を望む                 多摩川大橋方面の多摩川河川敷

四十七士の御大将大石良雄(ヨシタカ)が江戸入り前に10日間平間村に滞在した
この時が子供の時に平間村が時代小説に出た場面である

大石一行は京都を出発東下りをし江戸へすぐ入らずに片田舎の平間に止まった
なぜに平間に止まったのだろうか
それは江戸であると幕府の監視の目が厳しくなる
そして討ち入りの十分な確認と準備を行った
討ち入り時の決めごとである討ち入り十ヶ条の訓令の草案をしている
また江戸に入ったらすぐに討ち入りと血気に騒ぐ急進派の浪士の気を静めた目的もあったようである

10日後大石一行は平間の「渡し」を通って江戸に入ったようだ
そして討ち入りの日がやってくる 


        上平間方面                               武蔵小杉方面  ノッポビルを望む

下平間に称名寺と云う四十七士にゆかりのある寺がある
四十七士と云うと泉岳寺となるが称名寺も浪士の遺品を12月14日討ち入りの日に一般公開しているという

時を越えて浪士と同じ平間の地を歩いていたかと思うとロマンがあり赤穂浪士の物語がまた違った趣となる

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