あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

400年記念の二ヶ領用水を下る

2011-04-15 16:10:08 | わがふるさと
     
 

 
  中野島・上河原堰と取水口                         宿河原・宿河原堰と取水口
  許容取水量は中野島約45万t、宿河原35万tの合計80万t

       2011年3月1日、二ヶ領用水が分岐の堀を含めて完成し400年を迎えた。
       そこで、記念すべき二ヶ領用水を花の季節に2日かけて現在の用水縁を歩いた。


              
              ゴールの旧平間浄水場

400年の長い歴史についてはリンクしたこのBlogを参考願って、ここでは500枚余りの写真を撮りながら二ヶ領用水を旧平間浄水場までの流れをどうぞ。


     

スタートの中野島駅
中野島駅には半世紀ぶりに降り立った。小学校の恩師が実家から独立してこの中野島に家を建てたので遊びに行った以来のことだ。
その当時、先生の家までの道沿いには小川が流れてせせらぎの音を聞いたことを覚えている。先生の手料理のカレーライスをごちそうになった。今も健在だと聞く。

先ずは中野島の上河原堰に向かう。

          


草堰   遠くに南武線の電車が走る
草堰は杭を打って、石・土・草などで堰を築く工法で、洪水時にはその堰をくずして用水が流れる。
この辺りの流れは、河原堀と呼ばれており。少々下って二ヶ領本川となり、久地の円筒分水まで流れる。




自治会の掲示板に貼ってある「枡形城・落日の舞い」のポスターが眼にはいった。頼朝の家臣稲毛三郎を劇化したようだ。第3弾と云うことで二ヶ領用水の完成100年後に大改修を行った川崎宿の本陣主・田中休愚も扱ったようだ。川崎市は地域史を大切にしているのだなとポスターを眺めるとそこに懐かしい名前が書かれていたのには驚く。


自転車が4台投げ込まれていた。当時の領民が嘆いているよ。


石積みの堀、木製の橋、散策路 風情があるね。




二ヶ領本川                                   旧向ヶ丘遊園地の虹の階段
二ヶ領用水もこの辺りはコンクリートの堀で変哲もない川だ。向ケ丘遊園も二ヶ領用水沿いにあったのだなと今になって思う。

ここからは二ヶ領本川を終えて、第2の取水口、宿河原堰に向かう。


せせらぎ館


タイル貼りの橋  多摩川堤沿いの道



          
          2kmに渡って400本のソメイヨシノなど桜の花のアーチが続く


二ヶ領用水が南武線の線路下を流れる


宿河原駅付近


緑化センターの桃の花と菜の花


久地の合流点 ここで中野島と宿河原堰で取りいれた用水が合流し、久地の円筒分水を経て稲毛・川崎領の田畑を潤した


東日本大震災の影響で様々なイベントが中止となった。ここの「桜まつり」中止になったようだ。来年は日本中の皆なが笑顔で桜まつりを楽しめることを望みたい。  がんばれ 日本

       
         
江戸時代、久地で合流した二ヶ領用水は「分量樋(ぶんりょうひ)」で稲毛・川崎領4つの堀に分けられた。分量樋とは田中丘隅が設計した堰から流れ出る水を一定の比によって配分しようとしたものだが、正確な分水が出来ず、紛争が絶えなかった。
サイホンの原理を利用した現在の円筒分水になったのは、1941(昭和16)年のことだった。


久地円筒分水から分岐した直後の水路


高津の枝垂れ桜 長く並木が続く


田園都市線を潜る

 
二子塚橋の脇に旧用水堀の流れが見れる


石橋供養塔
江戸時代、用水堀には木製の坂戸橋があったが1793(寛政5)年、村民の寄進よって石橋に架けかえられた。供養塔はこの時に建てられた。村民の中には宗徒もおり供養塔に「南妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」が刻まれている。


川崎産の果物と云えば"梨"。その梨の花が盛りである




桜に交じって赤い桃の花             白の桃の花”残雪しだれ”
ここ上小田中地域は桜の樹より桃の樹が多い


等々力緑地                                    桜の樹が広場を囲う   正面の建物が”とどろきアリーナ”
現在、とどろきアリーナは原発被災のいわき市、南相馬市の方々の避難場所となっている。避難生活が1日でも早く終止することを願いたい。川崎市の旗が半旗となっていた。


武蔵小杉駅手前の南武線高架下を流れる


渋川分岐点


渋川の堀                      今井桜
渋川はここで分岐して日吉、住吉地区の農業用水として利用されていた。沿川には250本の桜が植わっている。


この堀の形を見ると子供のころ、家の近くを流れていたドブ川を思い出す。今では暗渠となってしまったが、それでも1950年代半ばまでは田んぼの用水に利用されて綺麗な水が流れていた。それが上平間堀と云われる堀なのであったのだろうか。




二ヶ領用水は東急線を横切る


平和公園付近 住吉高校生徒の通学路


東急線を潜って大きく右に迂回したあと堀は左右にうねっていた


昭和橋 ホタルがデザインされている


この辺りの堀はセメント製で人工的な石積みのデザインが施されている


横須賀線の下を流れる
歩行者は行く手を遮られ大きく迂回せざるを得なかった。


さくら橋と長寿橋
橋の名が地名には関係ないのだがネーミングがよかったのでパチリ。

南武線のガード
南武線のガード
南武線も二ヶ領用水同様、川崎市を南北に流れているのでこのふたつは絡み合って走り、流れている。ここで4回目の交差である。
再び大きく迂回。
小学校時代、この辺りに旧友がいて遊びに来ていた。その時は大きくは迂回しなかったと思う。記憶が定かではないが、ガード下を潜ったようにも思え、それがここだったのかなとフト思う。


昭和14年 設立当初の図
平間浄水場は昭和14年から平成15年の60年余り工業用水を供給していた。
この図には載っていないのだが安定した水圧の工業用水を供給するため円筒形の水圧調整塔と云う浄水場のシンボルと云うべき建物があった。
この施設の北側に母校の小学校があるが校庭で調整塔を何時も眺めていたものだ。
工業用水は、現在生田浄水場で供給しているそうだ。


旧平間浄水場があった時代はここで大師堀と矢向方面の町田堀に分れた


配水場の貯水池
小学生の頃、この貯水池にザリガニを釣りに来た。その頃は、係員に注意をされもせずのんびりした時代だったのか。


踏切に「川崎堀」の名が




新たなる出発
川崎堀の水がポンプアップされて「大師堀」、「町田堀」となって短い距離だが流れている。
偶然にも、ここを歩いた日にテレ朝の「ちい散歩」で地井さんが鹿島田を歩く放送があった。その中で「大師堀」を紹介していたのでこの先の水路の映像は省略。

        

2日にわけて中野島・宿河原堰から旧平間浄水場まで完歩した。
以前から一度歩いてみたかった散策路だった。丁度400年を迎え記念すべきこの年に歩けたことは嬉しい。
今回、花の咲く時期に歩いたが、これほど多くの花があるとは想像しなかった。堀沿いのボランティアの方々が整備されているのでこれからも人々の日々の憩いの場として美しい二ヶ領用水であってもらいたい。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。