彦四郎の中国生活

中国滞在記

「月嫂」「保姆」「家政婦」「老人护理」「住家保姆」「家庭保洁」「钟点工」―家庭服务斡旋处のこと

2019-06-10 07:10:24 | 滞在記

 端午節での龍船パレードを光明港河川公園に身に来たのだが、どうやら午前中には行われないようだったので、市内の繁華街に行って印刷コピー機のインクを買いに行くことにした。公園で、軽快な音楽に合わせてダンスを踊っている女性がいた。踊りはすごく上手というか切れまくっているという感じの踊りだった。服装の様子からしても20代か30代の若い女性かなと思えた。その踊りの後ろ姿にしばらく見惚れていた。私が見ていた方向に 向きを変えて踊り始めた。表情を見ていたら40代後半から50代中頃くらいの女性だった。それにしても50歳くらいでも あれだけの切れきれダンスができるのに驚嘆させられた。

 公園を後にして車道に出ると、歩道にレンガブロックをジグソーパズルのように敷き詰める工事を3人の出稼ぎ農民工たちがしていた。暑さのためか裸で作業をする人も。OFOのシェア自転車が自前のチェーン鍵を掛けられて私物化されているものが1台。

 2013年9月から2年間住んでいた閩江大学の旧キャンパス前のバス停に行く。なつかしいバス停だ。広かった旧キャンパスは、現在は何十棟もの高層住宅が建設されていて、あのころの面影は跡形もなくなっていた。正門だった場所の前を、祖父母が2人の孫を抱いたりベビーカーに乗せたりして通り過ぎていく。バス停には、2人の小さな孫を連れたおじいちゃんの姿も。

 なつかしい169番バスに乗って市内中心にある南公園バス停まで行く。そこから ちょっとごちゃごちゃした建物が多く残る商店街の狭い道路を歩いて電気店に向かう。このあたりには「盛錦家政」や「和興家政」などの名前の「家庭服務斡旋所」が何軒か店を出している。「福州・福建省家庭服務協会認定会員の店」という意味のものも掲示され、服務(サービス提供)内容が書かれている。「月嫂」って何だろう?と2年前までは不思議に思っていた(「嫂」は日本語では兄嫁を意味する)が、これは赤ちゃんに「乳をやる」サービスだ。産後専門のお手伝いさんで既婚女性がなる。

 他に、住家保姆(※住み込み保母)、家庭保洁(掃除)、保姆(時間制保母)、家政婦(家事全般)、老人护理(老人介護)、钟点工(パートタイマ―)などのサービス提供内容の文字が書かれている。[※日本にも少ないが「家政婦紹介所」などはある。京都では、伏見区丹波橋の駅近くなどにある。]   ◆月嫂は、赤ちゃんだけでなく、大人の男が求める場合もあるという。そのような人たち向けも営業するらしい「月嫂|専門店が、大学に行く途中のバス停前に店を構えていた。夜になると赤いネオンが店に点灯していた。

  前号のブログで、「祖父母が孫を育てる」という記事を書いたのだが、ここ10年間ほどの近年になって、自分たちの父や母が暮らす町や農村で結婚して、父母と共に暮らす、又は近くで暮らすという国民的生活スタイルが急速に崩れつつある。4人の両親たちから遠く離れた都市で暮らす人たちにとって、生まれた子供をどう育てるか(※中国では産休制度があるか、せいぜい産前産後の4カ月~6カ月間くらいと短い。)は、深刻な問題となる。

 子供が小さい1年間〜3年間あまり、遠方から母に住み込みで来てもらい子育てを担ってもらったり、祖父母に近くにの賃貸アパートを借りてもらい、そこに住んでもらって子育てを担ってもらったりもしている。それもできない場合には、この「家庭服務斡旋所」の店にてさまざまなサービス依頼を有料で申し込むこととなる。

 行きつけの店でコピー機のインクを5本ほど買って、アパートに戻るため近くのバス停に向かう。大通りの地下道に近づくと大音量のカラオケに合わせた歌が聞こえてきた。地下道に入ると、横に体に障害をもつ妻と思える人が座り、夫と思える人が立って歌を歌っていた。地下道内なので、スピーカーの音量がガンガン響く。1元(16円)札を洗面器のお金入れに入れたら、男の人がぎゅっと力強く握る握手をしてきた。女の人もニコッと微笑む。これまでに何度も物乞いの人たちにお金を渡すことはあったが、握手を求められたのは初めてだった。

 物乞いをする人たちの表情は一応に哀れを誘う表情をしているものだが、この人たちは、元気で明るいというか、そんな感じの二人だった。障害者が生きていく(生活する)ための福祉政策はまだまだ中国では未整備だ。家族の者は家族が面倒をみるという考えがまだ強いからだが、それでも、障害の等級によっての生活支援金はある程度は支給される。しかしそれは、住むところに戸籍があってからの話だ。中国では「戸籍」の問題は深刻な問題だ。3億人ちかい農民工(出稼ぎ)の一人として都市で長年働き続けても、「都市戸籍」はほとんど取得できない。戸籍がなければ、年金も福祉政策もなにもかもが受給できない。だから、都市戸籍のない重度障害者が生活することは並大抵ではない。

 夫婦で出稼ぎにでている人たちも多いが、都市戸籍がないので、子供を学校に通わせることはできない。子供たちは戸籍のある地方で祖父母と暮らし学校にいくこととなる。私が担当している学生たちに「私の子供時代」というテーマで作文を書いてもらうと、祖父母に育てられ、冬休みや夏休みになると都会で働く両親のもとに3週間~1カ月半ほどの間 行って、暮らすことなどが綴られているものも少なくない。

 昼近くになり、アパートに帰るため60番バスに乗った。アパートからほど近い福建師範大学付属高校近くまでバスが行くと、ちょうど中国大学統一試験(高考)の一日目の午前中の部が終了したようで、受験生を迎えに来た家族の電動バイクでものすごい渋滞となっているようで、公共バスも通行止めになった。バス運転手はしかたなしに 来た道路を戻りはじめ、大きく迂回して終点に向かい始めた。アパートから最も近いバス停で降車したが、このバス停からアパートまでは1kmあまり離れている。

 アパートに戻る歩道には、私物化されたレンタル(シェアー)のOFO社の自転車が2台、自前のチェーン鍵で繋がれている。中国人の公共マナーの改善はまだまだ課題が大きい。特に50歳以上のマナーや公共性はよくない。「文革など他人の目など構っていられない厳しい歴史」の中で若い時を生きてきた世代でもある。最もマナーが良いと思われるのは1990年代生まれの、現在の20才から30才までの年代かと思う。2000年以降に生まれた中国の10代はマナーがよくないというよりも、小皇帝としてのわがままさがとても目立つ年代だ。

 

 


端午節の龍船を見に光明港河川公園に行く❷—50歳過ぎてからの生きがい、孫を育て生きる人生―急激な意識変化も

2019-06-09 16:59:33 | 滞在記

 光明港河川公園を歩いていて、とても多いのが①「"祖父母と孫""祖父と孫""祖母と孫"」が一緒に散歩したりしている姿だ。10組中、②「"父母と子供""母と子供""父と子供"」という組み合わせの姿を2組(20%)とすると、①は7組(70%)になる。あとの1組(10%)は③「"祖父母と娘と孫"」という組み合わせ。つまり80%は孫と祖父母が中心だ。

 1歳くらいの男の子と一緒の祖父母、ベンチに腰掛けて1歳くらいの孫を抱く祖父、1歳くらいの女の子と祖母、手首に伸び縮みのするものを付け合って2歳半くらいの男の子が遠くに行かないようにしている祖母。剣舞の手ほどきわしている祖父と小学5年生くらいの孫。

 2歳くらいの女の子を抱いてほほえむ祖父。小さい子が欲しがる風船を売っている人。おばあさんと遊ぶ孫。祖父母と娘と孫、抱くのは祖父母で、乳をやるときには娘(母親)に渡す。三輪車の練習をさせているおじいちゃんとおばあちゃんと孫。

 ベンチにて二人の孫の面倒をみている祖父母。珍しく母親が小さな子供を一人で抱いている姿。公園の遊歩道で小さな娘二人と座り込んで"茶"をたてているお母さん。お湯を沸かすために 小さな蝋(ろう)固形燃料を使っていた。こんな祖父母と孫が過ごしている光景が、中国社会では あたりまえのように見られる。

 中国には1歳から4歳までが入園できる保育園という施設がほとんどない。5歳から入れる幼稚園はあるのだが。従って、夫婦は夫か妻の父母(孫にとっては祖父母)に子育てを大きく依存することとなる。子供にとっては、父母より祖父母と一緒に過ごす時間の方が圧倒的に多い。自然と子供は祖父母になつき慕う。中国に保育園がないのは、中国社会の子育て伝統である「祖父母が孫の面倒をみる」がとても根強いからだ。このような子育て状況があるため、中国人の恋愛にとって、「恋愛と結婚は別のもの」という考えが強い。広い中国全土から一つの大学に入学している大学生の恋人どうしは、卒業を機にほとんどが別離となる。

 中国社会の定年年齢は一般的には男が60歳で女性は50歳(学校の教員や公務員などの特別技能職は55才まで)となっている。定年後の生きがいは第二の子育て・孫を育てることだ。孫との密接な関係は0才〜6才までだが、小学校高学年までけっこうこの関係は続く。このあたりは日本社会の今とは大きく違う。中国社会の55才以上の人々の暮らし方を目にしていると、孫育てが中心となってはいるが、それだけでなく、都会であっても近隣住民とのつきあいは日本と比べものができないくらい豊かだと思える。

 約3億人ともいわれる「農民工」(都市部への出稼ぎ労働者)の子供たちの面倒を農村部で祖父母が担っている場合も非常に多い。日本社会は2000年頃から「孤独死」や「孤食」、「無縁社会」などの言葉に象徴されるような状況が特に都市部では多くもなってきている。それぞれの国には、それぞれの問題もあるが、私がみたところ中国社会で生きる老年の人の方が"生きがいのある50歳以上の人々のようにも感じる。なにせ、孫を育てるという大仕事があるからだ。

 「日本超高齢化社会又少子化、75歳仍需外出求職恐成常態」(超高齢化社会であり少子化社会の日本—75歳まで職を求めて生きるのもあたりまえになりつつある社会に驚く)、「日本老人与中国老人退休後生活対比让人感嘆両国文化的差異」(日本と中国の老年・定年後の生活を比較する―両国の社会生活文化の違いに感嘆) というテーマ記事が中国のインターネットに最近 掲載されていた。

 一般に中国の人々は、定年後にも職業を続けることは少ない。(自営は別として)  大学の教授などの定年は60才までだが、65才あたりまで講師として教員を続ける人もなかにはいる。現在67才になる私などは、年齢的にはまれである。経済問題はどうするのかというと、主な収入は「年金」だ。元公務員(教員も公務員が多い)や元軍人などは年金額が多い。また、都市部と農村部では年金額はかなり違う。まあ、日本のように「年金制度」や「医療制度」が整備されていないのも中国だ。「親のめんどうは子供が見る」という伝統意識は、日本に比較するとまだかなり濃厚に残っているが。

 上記の中国の記事は、「70才、75歳まで仕事をし、年金支給もそのあたりの年齢から支給を始めるうごきがある自民党・安倍政権の政策に対する」驚きの声である。現在の60歳定年、65歳までは「再雇用」、その後年金生活という現在の状況から、さらに高齢者になる70才まで働かせるという日本の政策に対する感嘆である。(※70才・75才になっても働けて自立自活できるということの良さもあるとは私などは思うのだが。)

◆思うに―家族の繋がり(祖父母とその息子・娘夫婦、そして孫)は中国という社会ではまだ濃厚である。それに伴う、いろいろな苦労・心労はあろうが、いわゆる日本のような老年になってからの孤独・孤立化は少ないだろう。そういう点では、中国の老年の幸福度は日本よりはるかに高いかと思われる。日本社会では、この家族の繋がりは薄くなる一方かと思う。

 しかし、中国社会でも 2013年頃から急速に若者の意識が変化している。いわゆる「家族のため、家族の期待に応えるため頑張る」という意識の薄れが年々広がっている。「自分のためだけ」という意識の増大だが、当然、「親の老後は子供がみる」という意識も薄れ始めている。2030年には中国も超高齢化社会となることが予測されている。

 同じ東アジアの国々の中でも、フィリピンは「家族のために、父母のために、兄弟姉妹のために」頑張る、「自分が辛い仕事をしていても」という意識はとても 今でも強い国である。そして、国民の「幸福度」は「80%以上の人は幸福」と、東・東南アジアで最も高い。「経済の発展」は人々を自由・自立化するが、一方で「家族の助け合い」「家族の繋がり」を希薄なものに変化させていく。人は「誰かのために頑張る」という気持ちがもてることと「幸福度」は密接に関連している。「自分のために」だけでは幸福度は高くないのかもしれない。

◆中国という国を見る場合、日本では、中国共産党一党支配のもと「自由がない」「民主がない」という点ばかりが、クローズアップされる。それはもちろん人々の生活や幸福感にとってとても重要な問題だ。しかし、それが実現されていない中国社会であっても、人々の「幸福度」は、日本よりもはるかに高いのではないかと、中国に6年間暮らして、中国の人々の生活をみていて感じる。

 

 


端午節の龍船を見に光明港河川公園に行く❶—夏の花々や人々、セミの鳴き声を今年初めて聞いた

2019-06-09 06:07:50 | 滞在記

 中国福建省福州は、6月に入りとても蒸し暑い日が続くようになった。一日中曇りの日でも、気温は33度〜35度、湿気がものすごい。5月初旬が初夏の始まりとすれば、6月からは本格的な夏の始まりとなり、7月・8月・9月は盛夏、10月下旬が晩夏となる。亜熱帯地方の半年間は夏である。11月は一応の秋、12月・1月は気温的には やはり冬、2月の季節はちょっとわかりづらい。3月・4月が春だろうか。秋はあってないような感じだ。

 6月7日(金)、端午節の龍船が出ているかもしれないと思い、閩江大学の旧キャンパスの一つ(長楽璐校区)の近くにある「光明港河川公園」に行ってみた。2013年9月から2015年7月までの2年間、閩江大学の外国人教員住宅がこの旧キャンパス内にあったので、この公園は日常的に散歩に行っていた。この市内中心地に近い河川公園のそばを流れる川は、閩江(河)とつながっている小さな支流の一つである。

 この公園は、朝夕に人が集まる。朝は6時ごろから人が集い、さまざまなグループが広場舞(ダンス・踊り・体操)や音曲を演奏したり、個人がいろいろなことをして人生を過ごしている。夕方にも人が多く来て午後9時ころまで賑わう。孤独な一人暮らしの中、この公園に行って寂しさを紛らわしていた思い出の場所でもあった。午前9時半頃、1年ぶりくらいにここに来た。川に龍船が浮かんでいるが人はいない。「社会主義核心価値観」の12の標語がずらりと掲げられている。

 太極拳をやっているグループ、中国将棋をしている人たち、なんとなく 10名くらいの いつもの知り合いと駄弁っている人たち。中国は都会であっても「近所の人と人とのつながりや、こういう公園などでの仲間たち、趣味の日常的な仲間たち」が豊かだが、日本社会は、こういうところはとても貧しくなってしまっている。

 夏の植物や花々が咲いている。白い植物棚を覆う蔓(つる)性の植物が、白くて赤っぽい可憐な花を咲かせている。亜熱帯の代表的な花であるハイビスカスも開花する蕾が多くなってきていた。インドソケイという名の亜熱帯樹木の花は白っぽくて少し黄色かかる。少し甘くて高貴な香りがする。

 午前7時ころや午後7時半ころは広場舞のグループが最も多く集まるが、午前9時半になってもまだ、舞(ダンス)の練習をやっているグループもあった。旗のような扇子のようなものを振って踊る人たち。川に沿った遊歩道には、カジュマル(榕樹)が道を覆い木陰をつくり陽射しを和らげる。

 座るところが設置されている中国風の建物が十数箇所ある。黄色い これも微かに香りをもつ草花。この公園は、祖父母といっしょに散歩したりしている孫の姿を たくさんたくさん見かける。中国という社会の「人々の幸せ(幸福感)」をとても感じる光景だ。[※次号のブログでちょっと詳しく]

 遊歩道で4人の老若男女がバトミントンの羽根のようなものを足で蹴り上げてパスし合っている。足の横やかかとなども使いながら器用にプレーをしていた。パスは30回〜50回ほども続いていた。フィリピンでもよくこのスポーツの光景をみかけた。アジサイが少しまだ咲いていた。日本人は藍色の淡い紫陽花(アジサイ)をどちらかというと好むが、中国の人は赤系統を好むようだ。亜熱帯性の黄色いラッパのような花が咲いていた。

 川の向こうに高層住宅が立ち並んでいる。湿地の池に、これも亜熱帯性の湿地植物が藍色の花を咲かせていた。夏の花「蓮」が開花している。

 ここにも中国風建物の休憩所があり、よく音楽の演奏がされる場所でもある。

 公園を一歩離れた車道沿いの売店付近に、20人くらいの男たちが集まってトランプをしていた。賭けトランプだが、賭けるお金は小額だった。トランプの横に1元(約16円)硬貨が並ぶ。可愛らしい賭けトランプをして人生の憂さをはらす人々。これはまたこれで、人々の「人と人が繋がり合う」豊かさを感じる。軒先での将棋など、日本には路上でのこのような光景は絶えて久しい。1960年代ころまではあっただろうか。庶民の暮らし文化が、30代後半以上の年齢の人々によって中国ではまだまだ濃厚に残っている。

 「龍船はいつ始まりますか?」と警備員風の身なりのおっちゃんに聞いてみたら、「10時からだ」との返答。龍船がでるあたりに戻るが、10時を少し過ぎても 龍船のパレードが始まる気配は まだ何もなかった。午後からだろうか?

 この公園の樹木で、「ジージージー」という蝉(せみ)の鳴き声を今年初めて聞いた。夏が本格的に始まっていた。


端午節(端午の節句)―粽(ちまき)と龍船、中華龍船全国大会(ドラゴンボートレース)が福建省福州で開催

2019-06-08 14:26:29 | 滞在記

 今年の「端午節(端午の節句)旧暦5月5日」は、中国では6月7日(金)。中国の端午節は年によって変動する。昨年は6月18日、一昨年は5月30日だった。なぜこんなに日が違うのか、なにかの理由があるのだろうが、私にはまだわからない。中国では、春節、清明節、そしてこの端午節が三大伝統節日であり国民の祭日となる。そして、その年の伝統節の日程を決定するのは中国政府である。端午節は古来から漢民族の伝統行事だったので、中国の中部・西部・南部では地方・地区・地域ごとに盛大に祝われる。

 龍船(ドラゴンボート)の運航パレードやレースなどが行われるのがこの端午節。地方では地区・村対抗のレースが行われるので、この行事は世代間にわたっての結束を確かめ合うものともなっている。私が暮らす福州の閩候地区では、今もこの龍船を作る里として知られているようで、5月中旬ころの中国のインターネット記事で紹介されていた。

 中国南部の広東省のある地区では、毎年使う龍船を、川底の泥の中に埋めるようだ。こうすると空気とふれなくなり、船の材料である木が朽ちずに良好に保存され、長い年月にわたって使えるということのようだ。上記の写真の龍船は、こうして 最も古いものは船齢約400年間にわたって伝わっているものもあるらしい。子供たち用の船もあり、小さい彼らも子供の頃から船をこぐ練習をしていた。

 端午節の時には、村人こぞって料理を作り、みんなで祝う。「子豚の丸焼き」も饗せられるようだ。フィリピンのレイテ島の村に3回にわたって滞在したことがある。この村のお祝いにも、豚の丸焼きが饗せられる。(※「レチョン」と呼ばれる。) この料理は 特にパリパリした皮の部分が最もおいしい。中国南部とフィリピンの食文化には共通もあるようだ。

 中国浙江省では、端午節には「香り袋」を女性が身に着ける習慣がある。蒸し暑い季節になると、細菌が繁殖しやすくなり、蚊や虫も出て来るため、香り袋は邪気を払い、殺菌効果もあるとして慣習として好まれてきているようだ。香り袋に入れられる植物は次のようなものだ。茉莉花(ジャスミン花)、冰片(竜脳)、浮萍(浮草)、雄黄(雄黄石)、丁香花(ライラック花)、艾葉(よもぎ葉)など。

 そして、端午節といえば、各家庭で「粽(ちまき)」を作り、家族のみんなで食する。(※春節では各家庭で餃子を作る。) この粽は日本の粽とはぜんぜん違う。笹の葉でくるむのは共通しているが、中国の粽は、「もち米に味をつけて炊き、日本の三角おにぎりのような形を作り、その中にさまざまな具材をいれる」ものだ。それを何重にも笹の葉で包む。具材は家庭や地方によって違うが、例えば「豚肉や棗(なつめ)や豆」などだ。この粽は日本人も とても美味しく食べられる。この粽は、中国の歴史上のある国の愛国詩人として有名な「屈原(くつげん)」の死にに由来しているとされる。

 5月20日ころから、閩江大学と隣接している「中美村」という村でも、龍船の練習が始まっていた。6月7日に近隣の村々が集まってパレードかレースをするのかなと思っていた。ところが、6月3日(月)、午後からの授業があるので昼過ぎにバスで大学の南門まで向かっていたら、中美村の近くまで来てバスが少しずつしか動かなくなってしまった。

 雨が降っていたが、この日がこの地区の「端午節」だったようで、赤い提灯やテントがいくつも並び、花火や爆竹が行われていた。バスの先を、龍船がゆっくりと道路を移動していった。国の決めた節日に関係なく、自分たちの決めている日に端午節を祝う地区もけっこう多いのかもしれない。

 中国では端午節にあわせて、「中華龍船競技全国大会」というものがあり、中国全土の各地の代表チームが参加して入賞を競う大会が開催されている。今年の競技会場は福建省・福州市だった。端午節前日の6月6日に、この大会の予選競技が行われた。中国中央テレビ局(中国央電視局CCTV)がインターネット配信をしていたので携帯電話で視聴できた。

 競技は❶100m、❷200m、❸500mの部があり、それぞれ、男子の部と女子の部があった。そして、6月7日には予選を勝ち抜いたチームによる準々決勝や準決勝、そして決勝が行われたようだ。(※会場は、福州市倉山区にある国際交流センター付近の川[閩江の支流])

 中国での侘しい一人暮らし外国人の私には、粽は少し縁が薄いものだが、今年は粽を食べられた。閩江大学の同僚中国人教員の何先生が「これ私の一族でたくさんで作ったので食べてください」と大学で渡してくれた。6個あったので、6月6日と7日の二日間で食べた。周りの何重もの笹の葉は保存をきかせるためか油が塗られているので、食べる時は手は油まみれになったが、なかなか美味しかった。

 福建師範大学の元同僚教員の倪先生にも粽をいただいた。これは、スーパーなどで売っている粽のようで、冷凍してあった。「食べる時はお湯のなかで袋ごと温めて、そのご開封として食べてください」とのことだった。

 

 


今年初めて入道雲を見た—歯痛が起きてきている、困ったな。日本に帰国できるまであと1カ月間なのだが―

2019-06-06 20:49:29 | 滞在記

 5月31日(金)、この日は10時30分開始からの授業の曜日。アパート近くのバス停に8時半ころに着きバスを待つ。これから通勤という感じの30代前半くらいの女性が 立ちながら 饅頭(マントウ)を 美味しそうにほおばっている。中国の人は、おおむね 時間と場所にかまわずに食べたいときに食べるという食習慣をもっているかと思う。人目はあまり気にしない。「食べる」ということにとても貪欲というか おおらかというか 寛容と言うか、そんな食文化・習慣を感じる。「食べられる時には食べておこう」というか、そんな「食べる」習慣なのだが、「なぜそうなのか?」にとても興味があるし、知りたい。このあたりの日中比較をすると、「食と日中人々のそれぞれが生きてきた歴史の相違」というテーマのレポートもできる。

 「なんでも いろいろなもの食べる」というのも長い歴史をもつ中国食文化の特徴だが、それを可能にしているのが「油で炒める・揚げる」「唐辛子や香辛料、醤油などで材料の味がわからなくなるほど味付けする」という料理方法。もちろん、あっさりした味付けのものもあるが。例えば日本の料理の代表的なものの一つ京料理などの基本は「素材の味」を残すことだ。一方の中国の料理の基本は「素材の味」を消すことという感じだが、日中料理・食文化の調査・研究をするのはとても興味のあることだ。ちなみに、ここ福州の料理は海鮮料理も多く、中国の料理の中では わりとあっさりした料理が多いとされるが、大学の食堂のものは、「ちょっとねばねばした油、油、油」の沁み込んだものがほとんどなので、年寄りの私には 食欲が今一つ湧きにくい。

 この日、福州で今年初めて入道雲(積乱雲)が発生した。中国語では「雷雲」という。午後になり気温も上がり36度くらいとなる。大学正門近くの噴水が恋しい日になった。案の定、午後の授業をしていると雷が鳴りはじめ、じゃじや降りの雨が1時間あまり。激しい雨が降っていても湿気と気温はなかなか下がらない。温暖化の影響もあるのか、5月下旬にして中国国内の内陸部の河南省や湖北省や山東省では38度〜42度という気温が1週間以上続いていた。

 大学構内の樹木もすっかり濃い緑となってきている。針葉樹林の森に入ると、亜熱帯特有の大きな葉っぱの植物が大きく成長している。このあたりの景観はちょっと不思議だが、亜寒帯の針葉樹林と亜熱帯の植物やバナナの樹木などが同じ場所に繁っている光景。

 「丹花」という名前の低木の花が赤く開花してきている。亜熱帯特有のちょっと日本では見られない植物も開花(蘭のような)し始めた。甘い蜜を吸いに蜂が入っていた。

 ジャスミンの花が高貴な香りを漂わせている広場のところで、女子学生がスピーチの練習をしていた。その前で、友だちがそのスピーチを聞いてアドバイスしている。雨が上がるとまた高い気温と太陽が照り、大学内は女子学生の日傘の花が咲く。寮の部屋のベランダには洗濯物の花が咲いている。

 午後4時頃に授業を終えて、南門近くのバス停に向かうと、高速道路の高架の下で疲れをとるためか 歩道上で眠っている人が2人。バスに乗り、乗り換えて、アパート近くの師範大バス停に着くと、時刻は午後6時半ころになっていた。この日、本当に久しぶりに燃えるような きれいな夕焼けが見えた。

 30度以上の熱帯夜、アパートのクーラーを一晩中かけて眠る。翌朝起きて窓を見ると、外気のすごい湿気のためか、窓が水滴で曇り、外が見えない状態になっていた。中国語では「高温で湿気が凄くてとても蒸し暑い」ことを「闷热(モンロオ)」という。悶絶するような暑さと湿気という意味だ。かっては、中国の四大火釜(炉)と言われた都市は、重慶・武漢・南昌・長沙で いずれも内陸地方の都市だった。2015年からは、この四大火釜は、福州・重慶・杭州・南昌になった。

 5月29日(水)、午前中の授業が終わり、アパートに帰り、シャワーを浴びて、2時間ほどの昼寝をして目覚めたら、急にズキズキと歯が痛くなり始めてきた。突然に起こり始めた歯痛だった。どうやら少し心配だった下歯の周辺の歯肉が炎症を起こし始めてきているだった。「どうしよう、これは困ったな!!」 ちょっと心がへこんで落ち込む。この日の夜、食欲はあるが、歯痛のために食べる気にならない。「日本から持ってきている痛み止めの薬があるはずだ」と探し始めると、「バファリン」がけっこうあったので、少し多めに服用し、サロンパスを顎(あご)に貼って炎症の痛みをしのいだ。

 こんな時、日本だったらすぐに歯科医院に行くところだが、ここは中国、中国語が不自由なので、一人で病院に行くことがままならない。大連や北京や上海、広州や深圳など日本人が多く住むところには、日本人が開業している歯科医院などがけっこうあって、こんな悩みもないのだが、ここは地方の大都市・福州なので そんな医院は一つもない。

 一晩を過ぎて、翌朝、痛みが少し和らぎ始めていた。この日はちょうど授業がない日だったので、アパートでひたすら痛みがひくのを待つ。バファリンを服用し、痛み止めの作用もある正露丸を服用しと、4時間おきぐらいに交互に服用する。夕方には、痛みもかなり治まりはじめ、ようやく軽い食事を摂ることができた。そして、次の日の5月31日(金)の朝、早朝から大学に授業にでかけた。それから1週間ほど、違和感はあるものの、炎症による痛みはほとんど起きなかったので一安心していた。しかし、昨日6月5日(水)の午前中の授業終了後の昼に、再び 痛みが出始めた。さっそくカバンに入れていたバファリンを服用し、夕方には痛みが和らぎ、食事を少しだけ摂った。

 今日6日、授業がない日なので、アパートにて過ごしていると、福建師範大学の中国人教員の倪(ニイ)先生から「寺坂先生、ちょっと日中台関係史について教えてほしいことがあるので、今から先生のアパートに行ってもいいですか」と、久しぶりに連絡があった。彼女は、わりと私のアパートに近い地区に住んでいるので、歯痛のことを話し、「もし、再度 歯痛が激しくなったら、近所の歯科医院(中国語では"牙科"という)に 通訳として来てもらえませんか」と依頼した。

 7月上旬には大学は夏休みに入るので日本に帰国する予定だが、あと1カ月間ある。痛みがまた起きたら、バファリンと正露丸で鎮痛させながら あと1カ月間を過ごすことになる。どうしようもなくなったら「牙科」にいくことになるだろう。日本に帰国したらすぐに行きつけの歯科医院に早く行きたい。

 2000年に、モンゴルゴビ砂漠の恐竜調査隊の一員としてゴビ砂漠の奥地に行っていた時、虫歯が痛みはじめ、10日後にようやく日本に帰国した際、関西国際空港の歯科医院に駆け込んだことがある。こんなことがあったので、2002年に再びゴビ砂漠の調査に行く時は、不安がある歯を3本抜いてモンゴルに行ったことがあった。あの時に比べれば、虫歯の痛みではなく 歯肉の炎症なので まだ ましだが、まあ困っている。

 3月中旬より、立命館大学大学院(2019年9月入学)の受験を希望している閩江大学4回生の王文重 君の受験指導・支援を行ってきた。2週に1度くらいの割合で私のアパートに来て、受験準備を行ってきた。そして、志望理由書や研究計画書の作成、志願票などの作成が全て6月3日(月)に完了、翌日にEMS国際郵便で立命館大学宛てに郵送した。ようやくひと段落である。7月上旬には、インターネットを介しての日本と中国間での「面接試験」が予定されている。

 教え子の福建師範大学4回生の学生も一人、立命館大学大学院の受験を考え続けていたので、昨年末から相談に乗っていた。彼は3回生の後期期間に日本の山形大学に交換留学をしていた。立命館大学大学院を受験すべきか、福建師範大学と「入試協定関係にある(他に、四川外国語大学・福州大学・重慶大学とも)」法政大学大学院を受験すべきか かなり迷っていた。とりあえず3月に法政大学を受験し合格したが、4月上旬まで、法政入学を止めて、立命館大学受験をしようと考えてもいたが、最終的に法政への進学をすることとなった。