彦四郎の中国生活

中国滞在記

11月となり、今年もまた秋がすすみ始める➋伝説「在原業平の墓」が近江の湖北にひっそりと

2021-11-16 09:30:55 | 滞在記

 11月になり秋が深まり始めた晩秋の季節の到来、日本滞在中は毎月1度は京都から故郷・福井県南越前町の家に帰っている。帰るときによく通る道が琵琶湖西岸の湖西道路。その湖西道路が終る滋賀県高島市のマキノ高原には有名なメタセコイヤの大木が延々と連なる通りがある。そこを通過して、しばらく行き、脇道に入り車で15分間ほど行くと、「在原(ありはら)」の集落が見えてくる。茅葺屋根の家もけっこう残る、福井県と滋賀県の県境の山間地に忽然と現れる集落だ。冬は積雪もかなりのものになると聞く。

 ときどき、この集落のある山間道を通って福井・滋賀の県境の山中峠を越えて故郷に帰る。11月10日(水)~13日(金)の3日間、勤務する大学は体育祭で休講となったので、実家に帰ることとなり、12日(木)の午後3時過ぎに在原に到着した。在原の山々は少し紅葉が始まっていた。集落を過ぎて、村はずれに六地蔵がある。

 その六地蔵のほど近いところに「伝説 在原業平の墓」と書かれた伝言板のような看板が道沿いにある。いつか行ってみたいなあと、この道を通るたびに思いはしていたが、数十回もここを通っているのに、いまだ行っていなかった。「こんなところに在原業平(ありはらなりひら)の墓がどうしてあるんだろう」といつも不思議には思い続けていた。

 今回、行ってみることにした。少し時間の余裕があるからだった。この在原業平が書いた古典文学『伊勢物語』は、2016年ごろに中国福建省の福建師範大学の教員だったころ担当した「日本古典文法・古典文学」の授業で取り扱ったことがあったので、業平についてはいろいろ調べたりもしていた。「なぜここに墓があるのだろう?」とその頃も思いながら、ここを通っていた。

 山間の車道沿いに車を停め、5〜6分くらい山をのぼっていったところに業平の墓とされる墓があった。その山道の途中にも「伝説 在原業平の墓」の案内板があった。傍らのモミジの紅葉がうつくしい。ここから少し樹林の山道を登ると杉の大木の下に、うら寂しい小さな塔のような墓があった。墓の背後には楓(カエデ)の大木が美しく紅葉していた。

 在原業平は平安時代初期の貴族で(825-880/享年56歳)、父も母も天皇の皇子、天皇の皇女だった。さまざまな政情により、天皇に仕える単なる臣下(臣籍降下)となり、在原姓を名乗ることとなる。日本では昔から、在原業平といえば、美男子の代名詞(元祖・イケメン/フレーボーイ)ともなっているが、不遇の時代も長くあった実在の人物だ。

 日本の古典文学の一つ『伊勢物語』(作者不明)は、「むかし 男ありけり‥」の冒頭句で有名だが、在原業平が主人公(モデル)だと言われているし、一説には業平の作とも言われてもいる。この『伊勢物語』は、遅くても900年ころまでには書かれていたとされていて、この物語は、後世の紫式部の『源氏物語』などにも大きな影響を与えた。紫式部(970年?-1019年?)の『源氏物語』は平安時代中期に書かれ、文献初出は1008年。『伊勢物語』から100年後に著された。

—『伊勢物語』とは―日本の歌物語。在原業平を思わせる男を主人公として、和歌にまつわる短編歌物語で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語。[全1巻・125段] 恋多き業平の生涯にとって、天皇の后(きさき)となった藤原高子は特別の存在。天皇の后になるべく大切に育てられた藤原氏の御令嬢である高子との駆け落ち、迫る追手との一連の出来事もこの物語にはある。また、天皇の皇女で伊勢神宮へ派遣される「伊勢斎宮」との禁断・禁忌の恋(性的関係)も物語で語られる。

 業平はこのような大スキャンダルをいくつか起こしたため、時の権力者である藤原氏などからも目の仇にもされ、不遇の時代を長く過ごすことにもなる。しかし、また、その彼を救ったのは、かっての恋人で、天皇の后となっていた高子でもあった。晩年には、蔵人頭中将兼美濃守(従四位上)という高官の地位にもなり、美濃国に領地を得ることともなる。

 —在原業平の和歌—

 平安時代を代表する六人の歌人(六歌仙)の一人にも選ばれている。和歌として有名なのは次のものなどがある。

〇ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは [古今和歌集/小倉百人一首]

〇世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし[古今和歌集]

〇から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思う[古今和歌集]

■藤原高子とのことを思う歌として、「白玉か なにぞと人の問いしける 露とこたへて 消なましものを」などがある。また、「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは 元の身にして」もある。この歌の意味は、"今も想う人が かって暮らしていた屋敷にいってみた。月の風情も 春の風情も その人がいない屋敷はすっかり変わっていた。その人はもう后となってここにはいない。私は何もかわらないのだが‥"の意味で、高子を想う歌だ。

■晩年に、おそらく、かっての恋人である高子の口添えもあり、それなりの高官となり、美濃国に領地も得ることとなった業平。その後しばらくして業平は亡くなっていく。領国である美濃国と京都を行き来したこともあったようで、その道中には近江国があった。滋賀県のマキノ町在原は、この近江国の北辺の片隅の山間地。

 なぜここに業平の墓との伝説が残されたものがあるのか。その伝説には、業平は最晩年に隠遁(身を隠すため遁走した/行方をくらます)し、ここに最後は住み亡くなったとされる。業平最晩年の歌として、「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」が伝わる。もし、この伝説のとおりの業平の最後であれば、それはそれで彼の最後の地にふさわしい場所のような気もする。

■最近、『小説 伊勢物語 業平』(高橋のぶこ著)が刊行された。この著はNHKの「100分de名著」にも取り上げられている。また、『伊勢物語 在原業平—恋と誠実』(高橋のぶこ著)も刊行されている。"女が信じ、男が頼る、人間力とは"について業平の歌を通じて考えさせられる高橋のぶこ氏の著作だった。

 伝説 在原業平の墓の付近は一面のススキに覆われてもいた。紅葉も少し始まっていたが、このあたりの杉林の中に忽然とある数本の楓(カエデ)の大木の紅葉が素晴らしく神秘的に美しくなるのは、11月下旬の終わり頃になってからだ。

 在原をあとにして、この日の夕方4時半ころに、山中峠を下って福井県の疋田(ひきだ)集落に着いた。久しぶりに疋壇城(ひきだんじょう)に行く。戦国時代の末期、織田信長の越前侵攻を巡って二度にわたって織田軍の攻撃によって朝倉方のこの城は落城したことのある悲劇の城だ。またその後の、賤ヶ岳合戦のおり、敗走する柴田勝家軍の一部はこの城に籠ったが、羽柴秀吉軍の追撃で落城した。三の丸(南丸)に車を停めて、本丸に上がる手前に巣箱のような箱があり、その中に、城の縄張り図やここを訪れた人が書いた感想文のノートが置かれている。何度来ても懐かしいような、ほっとするような城跡だ。全国の城マニアの人たちも、ここに来る人はまだ少ないというか、知らない人が多い疋壇城跡。

   ここを訪れた人が書いたノートには、「朝倉氏の無念が伝わりました。」「大感激でした。」「玄蕃尾城から佐柿国吉城への途中、偶然見つけて立ち寄りました。よく遺構が残っており、ラッキーでした。」「すばらしい城跡です。もっと整備し、城全体がわかるようにしてほしい‥。」「こんな城跡があったとは!!後世に残していただきたいです。ありがとうございます。」「本丸周りの遺構が期待以上でした。」などと書かれていた。

 城跡には季節の柚子(ゆず)の実が黄色くなってもいた。天候が急激に荒れ始めていた。午後5時半ころに故郷の南越前町河野地区に着く。海は荒れ始め、冬近しの気配が濃厚だ。水平線にはわずかに夕焼けの筋が見え、光の中は雨が降っていた。

 翌朝13日、かなり天気が荒れていて、北からの海風も強く波も高く白い。まだ11月中旬なのに、この朝は早くも霰(あられ)が降っていた。水平線に若狭湾の常神半島や丹後半島が霞んで見えている。海岸沿いの道路を車で走っていると波の飛沫(しぶき)が車にかかり、しばらくすると海水の塩分でフロントガラスなどは塩が白くこびりつく。敦賀に着き、京都府にある何軒かの親戚に渡すために、数十軒の鮮魚店舗が入る「日本海市場」の鮮魚を買った。11月6日から漁が解禁となった蟹漁で獲れるセイコガニや塩焼きが美味しいエビなどを‥。小さい方のセイコガニはメスのカニなので、資源保護のために漁期は12月31日まで。1月からは獲ることはことはできない。一方の大きなオスガニの越前ガニの方は3月20日頃まで。

 私が子供の1950年代や60年代の頃は、「また蟹か‥‥」と、冬場になると毎日のように蟹と「へしこ」(鯖や鰯の塩糠漬/冬の保存食)を食べさせられていた。そのころは蟹が腐るほど獲れていた時代でもあった。セイコガニを使った美味しい郷土料理がある。それは、鍋に大根おろしをたくさん入れて、つぶしたセイコガニと一緒に味噌を入れて煮る料理。カニの香りが大根おろしに沁み込んで、それはまあ美味しい。

 敦賀の日本海市場をあとにして、若狭地方に入る。久しぶりに佐柿地区にある国吉城に立ち寄った。城山は少し紅葉が始まっている。

 城山の麓には城館跡地や古刹寺院がある。朝倉氏が支配する越前国と若狭武田氏の支配下の若狭国との国境にあるこの武田方の国吉城は戦国時代末期の1560年代から70年代にかけて、朝倉方の猛攻を何度も凌ぎ、「難攻不落」の城とも言われた。その籠城戦の際、地元民が小さな墓石をもって城に籠った。城山に迫る敵兵めがけてその石を落とした。それが集められたものが現在並んでいた。

 この城跡の麓には、江戸時代には若狭藩の支役所がおかれた。そこには「准藩士屋敷」跡の石垣が残る。ここには、幕末の「天狗党騒乱」で斬首死罪を免れ遠島処分を言い渡された天狗党員が、多く集められ軟禁されたところだ。若狭藩は彼らを丁寧に扱い、「准藩士身分」とした。この若狭藩は、水戸藩とゆかりの15代将軍徳川慶喜とは、親しい間柄だったからである。

 幕末の戊辰戦争が1868年に起きるや、遠島処分がいまだ実行されなかった天狗党隊員たちの多くは、薩摩・長州藩などの討幕軍に加わり、水戸の地に至り、かって天狗党員の家族らを捕縛し殺した水戸藩内の「水戸諸政党」に対して、苛烈な報復を行った。

 

 

 

 

 

 


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