彦四郎の中国生活

中国滞在記

もうすでに、日本の紅葉が始まっていた❸―明治維新・勤王農民部隊「山国隊」のこと

2017-11-13 04:27:13 | 滞在記

 毎年10月22日に開催される「京都・時代祭」は、794年10月22日に桓武天皇によって、京都の長岡京から平安京に遷都したことを記念した行事でもある。この時代祭の先頭を行くのが「維新勤王隊」。袴(はかま)姿に鼓笛や鉄砲を携えた部隊が、勇壮に都大路を歩く。

  この「維新勤王隊」は実在した部隊で、現在の京都市右京区京北町一帯、特に「山国地区」を中心として明治維新期に結成された「山国隊」のことである。来年の2018年は、「山国隊」結成150周年にあたる。

 京北町山国地区にある「山国神社」の祭礼が毎年10月10日に開催され、現在では「山国さきがけフェスタ」という名前のこの祭礼には、京都府内外から多くの人が訪れる。

 山国隊の歴史は、慶応4年1月、戊辰戦争時に、西園寺公望の檄文に呼応し結成された農民部隊である。この「山国荘」は古来より「天皇の御料地」として皇室の領地とされていた地であり、住民(農民)たちの勤王の志が強く残る地でもあった。かって、京都御所の造営にあたっては、木材を供給したりもした地である。農民たちは、鉄砲での猟も行っていたので銃の扱いには慣れてもいたと伝えられている。

 山国隊は、西軍(76名)と東軍(27名)の約100名で構成された。このうち関東に向かった西軍76名の「山国隊」は、鳥取藩に属することとなったが、費用は自弁であった。戦いの中で、戦死者4名、負傷などによる病死者3名の合計7名の死者を出し、1869年(明治2年)2月に山国荘に帰って来た。

 現在も山国隊軍楽保存会によって、山国地区の若い人(中学生以上)が練習に励み(※親から息子に伝承されている)、山国さきがけフェスタに参列している。

  妻の実家から歩いて5分ほどのところに、この「山国隊隊士」を祀る「山国護国神社」がある。境内は紅葉がすでに始まっていた。妻の家族の男たちは、みんな代々この軍楽保存会に属して伝統を守ってきている。隊士たちの慰霊碑があった。ここは郷土の誇りの場所なのだ。

 この「山国護国神社」には、数えてみると100本ほどの「山国隊隊士」の名が記された石碑が並んでいた。戦病死した7名が並ぶ場所もあった。太平洋戦争後、この神社には、「日清・日露と第二次世界大戦で戦病死した人達」の碑も祀られることなった。数えてみると168本の名前や軍隊階級が記された石碑が並んでいた。このあたり京北町山国・黒田・周山・弓削地区というそんなに広くない地区で、3つの戦争で戦没した人が168人にのぼったとは驚きでもあった。

 境内の山椒(さんしょ)の樹木も紅葉が始まっていた。杉の樹木の間から妻の実家が見える。4棟あまりがある広い家だ。妻の兄は永らく京都府の「農林関係」の仕事や京都府立大学の「農林」関連の仕事に従事していたが、この「山国隊」のことをはじめとした幕末史などに関する在野の研究家でもある。

 神社の前の小さな小川に架かる橋の欄干には、山国隊のレリーフが造られている。山国隊に関しては何冊かの著書があるようだが、『山国隊』(中公文庫)仲村研著―1994年発行―を読んだが、私にとっても身近な場所の歴史だけに興味深いものがあった。

 来年は150周年にあたる山国隊だが、来年の「山国さきがけフェスタ」には、機会があれば是非見てみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


コメントを投稿