彦四郎の中国生活

中国滞在記

故郷・南越前町に帰る❶―透明度の高い海(河野地区)、蓮の里の「杣山城」(南条地区)

2018-07-03 10:54:41 | 滞在記

  6月23日(土)の午後、故郷の福井県南越前町に向かって里帰りをした。「高齢で一人暮らしの母が元気なのか、墓の周りに生い繁っているだろう草を刈らなければ」と気になり続けていたからだ。そして、久しぶりに故郷の山や海を見たいからでもある。滋賀県と福井県の境にある道沿いにアジサイが今を盛りと咲いていた。夕方に故郷の家に着く。母は元気だった。翌朝24日(日)、昨夜来の雨があがり青空となった早朝に、墓参りに行った。墓の周りは草に覆われていたのでそれを刈った。墓から見える「河野地区糠」の集落、そして少しだけ見える日本海の海。海に向かった。

 漁港の近くにある「田中家墓」。最近に亡くなったが中国にいたため葬儀に参加できなかった「都おばさん(父の妹)」の墓にお参りに行った。そこから車で海沿いにしばらく走って隣町の「越前町」に行く。海が綺麗だった。早朝から「スキューバダイビング(アクアラング)」をしている若い人たちのグループがあった。

 日本海の海は、ここ越前海岸でも透明度が高い。「きれいな海をいつまでも」と地元の小学生たちがつくった陶板があった。とてもとても透き通った海だった。ここ福井県の「若狭湾」の海は世界的にも透明度が高いことで有名のようだ。日本の「原発銀座」といわれるほど「原子力発電所」が集中している場所でもあるのだが。

 2016年に「若狭和田浜海水浴場」は、国際環境認定である「ブルーフラッグ(Blue Flag)」にアジアで初めて認定された。これは、「水質・安全性・サービス・環境教育」など33項目にのぼる規準を全てクリアーした海に認定される。若狭湾の海は、アジアでは屈指の透明度を誇る海とも言われているようだ。私が小さい時から潜り続けてきたここ越前の海である。この海に来ると、小さい頃から一緒に海に潜り、サザエやアワビを採りあい、そして若くして(45才)亡くなった弟を思い出す。

 南越前町の「南条」地区に行く。初夏、稲が少し伸びて成長している。タチアオイ(葵)の花が初夏の風情を感じさせる。「蓮(はす)」がたくさん見られる「花蓮公園」に行く。あたり一面の蓮の葉は大きくなっていたが、花の蕾はまだ見られなかった。

 この「蓮公園」の背後に見える「杣山(そまやま)」。ここには、国指定史跡「杣山城」跡が残る。標高は500m近い山頂に「本丸」があり、その本丸周辺には「東御殿」「西御殿」跡や「池(水が枯れない)」があるようだ。山城好きの私もまだこの城山には登っていないので、この夏には登頂しようかと思っている。比高は400mほどのようだ。かなり高い比高だ。

 城山の麓には「二の城戸」や堀の跡、居館の跡地の広居場所などが残る。高い朴木(ほうのき)が居館跡地にあった。この「杣山城」が歴史上で争乱の地となったのは「南北朝時代(室町時代)」である。この城を築いたのはこの地の豪族「瓜生(うりゅう)氏」だった。南朝方と北朝方(足利氏)との戦いで、1336年前後に、この城に瓜生氏とともに新田義貞の軍勢が城に立て籠もって何万人という足利軍を迎え撃った城だ。

 その後、この城は足利軍によって落城させられることとなる。そして1500年代の末までこの城はさまざまな人物の軍勢によって使用されることとなり、最後は、越前一向一揆勢力の城となるが、織田信長軍の「越前攻め」によって攻め落とされ、この城の歴史は終焉を迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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