彦四郎の中国生活

中国滞在記

故郷・南越前町に帰る❷―北陸道の難所・三つの峠を越えると、すべては「今庄」に集まる

2018-07-03 14:07:01 | 滞在記

◆上記は、前回の号で記した「杣山城」の「縄張り図」(城跡の概要絵) 山の山頂付近に、本丸やいくつもの曲輪が配置されていた。

 故郷の「南越前町」は、平成の市町村大合併の時期で生まれた町だ。もともとは「今庄町」「南条町」「河野村」の3町村。だから「山と里と海」のそれぞれが、「今庄地区と南条地区と河野地区」となる。ここには3つの峠がある。古代・中世・近世・近代を通じて、北陸道の難所は2箇所があった。一つは新潟県と富山県の境にある「親知らず子知らず」、そしてもう一つがここ「越前山塊」とも呼ばれる「南越前町」地域だ。古代(奈良時代)に造られた道が「山中峠越え」、次に古代(平安時代)に造られた「木の芽峠越え」、そして中世末期の1500年末に造られた「栃ノ木峠越え」だ。いずれの峠もそこを越えると「今庄の宿」に集まる。「すべての道が今庄に集まる」と言われるゆえんだった。

 最近新しく改修されたらしいJR今庄駅の小さな駅舎の中に、ここ今庄の歴史を振り返る展示室がつくられていた。

 ここ今庄は今も当時の宿場町の風情を残す建物が多い。JRが国鉄と呼ばれていた時代までは、ここ今庄は北陸線では重要な駅だった。今は北陸トンネルがあって、「今庄—敦賀間」を短時間で結んでいるが、このトンネルができるまでは、「スイッチバック方式」なども利用した「今庄・敦賀間」だった。当時の旧線跡やレンガ造りのたくさんのトンネルが「山中峠越え」には残されている。車で其のトンネル跡を連続して通行ができる。杉津地区などでは海の素晴らしい景色が見える(北陸線・米原や京都―新潟では海を見ることがほとんどできないが、ここ水津地区だけが唯一見えた)のが旧線だった。

 私が小学生の低学年だったころまで、この旧線が使われていたので、一度だけ列車に乗って旧線を往復で経験したことがあった。母の死から49日目に、滋賀県の大津市の比叡山麓の坂本にある「西教寺」に母の骨を納骨するために行った時だった。小学1年生になったばかりの春だった。

 今庄の町並みの中に「宿場の旅籠」でもあった「若狭屋」がある。ここで「越前おろしそば」を食べた。近くに民家を利用した「木の芽(喫茶店)」がある。ここでアイスコーヒーを注文した。ここの喫茶店を一人てきりもりしている女の人は笑顔が素敵な「ほっこりさせてくれる」和風の人だ。

 この「木の芽」の玄関から小高い山が見える。ここは「燧ヶ城(ひうちがじょう)」の跡地。この城の歴史は古く、平安時代末期にさかのぼる。源平合戦の時代、木曽から北陸道を京に向かった木曽義仲。加賀と越中の境の「倶利伽羅峠」で平家の大軍を打ち破った義仲は、ここ越前まで進軍した。そして、京から向かってくる新たな平家の大軍に備えて「燧ケ城」を築城した。その後この今庄の豪族の城となり、戦国時代の末期には一向一揆軍が信長軍に対して立て籠もり落城した。本丸近くには少し石垣も残っている。麓の寺院から20分ほどで城域に到着できる。春先の3月下旬から4月始めには「カタクリの花」を見ることもできる。

 今庄から近くの集落「孫谷」を通るとアジサイがたくさん道沿いに咲いていた。この日は、「栃ノ木峠」を越えて滋賀県の木ノ本町に向かった。

 木ノ本から琵琶湖東岸を琵琶湖沿いに京都に向かって南下する。途中に「道の駅」に立ち寄った。道の駅の休息所の建物に「いろいろな手作りおもちゃ」を陳列して販売している人がいた。何十種類もの手作りおもちゃがあったが、全部自分で考案したもののようだった。「いやぁ!こんなことをしているのは女房には評判がわるいんですが、退職後こんなことをしてますやわ‥‥」と話していた。300円と書かれていた「顔面変化」の素朴なおもちゃを一つ買った。これを孫の「栞(しおり)」に後日に試してみたら、「けらけら、けらけら」と笑っていた。

 1時間ほど私の車の前を若いカップルがオードバイに二人乗りをして走っていた。なにか二人の素朴な関係が想像できた いい光景だった。夕方に京都の自宅に到着した。

 

 

 

 


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