彦四郎の中国生活

中国滞在記

明智光秀、越前での雌伏の10年間❷五代におよぶ一乗谷朝倉居館群—10年目にして光秀仕官なる

2020-08-05 05:48:30 | 滞在記

 丸岡町の称念寺を後にして、一乗谷朝倉氏居館群址に向かう。国道や県道などを通って車で1時間以上はかかった。光秀が10年間暮らしたところからかなりの距離があることを実感する。直線距離にして20kmあまり。そう遠方ではなく、近くもない。健脚が歩けば半日あまりの距離かと思う。

 一乗谷には20日の午後3時ころに着いた。ここにはもう5〜6回は来ていただろうか。最近、この近く(一乗谷の城戸[巨大城門]外の足羽川沿い)に福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館というかなり立派な施設ができている。朝倉氏はもとは現在の兵庫県養父市八鹿町の豪族で、一乗谷の初代孝景は、応仁の乱(1467~77年)で西軍に属していたが、1471年に東軍に寝がえり活躍、東軍方の有力守護・斯波氏に従って拠点を一乗谷に移した。その後、斯波氏の守護代となり下剋上(2代氏景・3代貞景・4代孝景・5代義景)をへて5代103年間にわたり越前を支配し戦国大名となり、その支配影響力は若狭国や加賀国の一部までも及んだ。

 天正元年(1573年)織田信長との最終的な戦いである撤退戦・「刀根坂の戦い」(滋賀・福井の県境)で敗北し、越前国に侵攻した織田軍によってついに一乗谷城下町は戦火によって炎上し焼土・灰燼となり、朝倉氏は滅亡した。その後、一乗谷の朝倉居館群は草木と土に覆われ400年もの間、埋もれていた。国の特別史跡に指定されたことから発掘調査が行われ朝倉氏居館群が地上に見え始めたのは昭和46年ころからである。

 一乗谷の中を足羽川の支流・一乗谷川が流れる。この川は生活用水とともに防御に利用されている。川の東側には朝倉氏当主が住まう朝倉館があり、背後には詰城(籠城用)としての巨大な一乗谷城(山城)が築かれていた。川の西側は武家屋敷や寺院、商人や職人たちの住む町屋などの城下町が形成されていた。一乗谷には寺院だけでも40余りが確認されている。

 下城戸と呼ばれる巨大な岩を用いた城門の石垣がある。そしてここから一乗谷を2kmあまり進むと上城戸と呼ばれる巨大な石垣の城門が。城下町はこの上・下城戸(桝形門)によっても守られていた。室町幕府将軍・足利義昭が一時期、この一乗谷に逗留していたが、その御所は上城戸の外にあった。

 さらに、谷の西側の山々には東郷槙島城(山城)、南側の山々には三峰城(山城)、北側の山々には成願寺城(山城)厳重に守られていた。

 朝倉館背後にある一乗谷城の山城のある山を見あげる。朝倉館の周囲は高い土塁や堀に囲まれている。

 朝倉館に入るため掘りに架かる木橋を渡る。復元された唐門。広い館の中には大きな枝垂桜などの木々が何本もあった。春はさぞかし美しいだろうな。建物の礎石がみえる。朝倉館近くには中の御殿や諏訪館、湯殿館跡などがあり、とりわけ諏訪館庭園跡の庭園は背後の山や岩などを借景として、豪壮華麗、わびさびもある、日本の庭園史のなかでも素晴らしいものだと思う。

 武家屋敷や町屋などが復元されている城下町の道を歩く。当時の一乗谷の賑わいがよみがえってくる。

 一軒の武家屋敷の大きなカエデの木が見事な枝ぶりを見せていた。樹齢何年ものだろうか。

 10年間余りの丸岡長崎の称念寺門前での牢人暮らしを経て、朝倉家への仕官がようやくかなった明智光秀。その屋敷跡と推定されている場所は、一乗谷の上城戸の城門から南西の方角にあり、そう高くはないなだらかな峠を越えてくだった集落内にあった。朝倉館からは車で15~18分ほど、歩けば1時間ほどの所だった。

 

 

 

 

 

 


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