彦四郎の中国生活

中国滞在記

不安の中、パスポートがようやく返却され、日本に帰国できることとなった—福州城(榕城)の鎮海楼

2020-01-04 20:22:06 | 滞在記

 閩江大学の今年度前期(1学期)日程は1月10日(金)に終了し、11日(土)からは冬期休暇が始まる。2月16日(日)までが冬季休暇期間となる。1月2日までには、私の担当教科期末試験や成績資料作成を全て完了し大学側に提出。1月5日(日)に日本に帰国する予定で12月中旬には航空券を購入していた。ところが航空券を購入した翌日、大学の外事所から「明日、パスポートや写真など、就労ビザ延長の手続きに必要ですから持ってきてください」との連絡が急に入ったので翌日持って行った。

「就労ビザの発行」は「公安局 出入国管理所(入管)」で審査して発行される。通常、出入国管理所に申請をしてから3週間を経て、新たな就労ビザが発行され、パスポートに貼り付けられて戻される。大学の外事所の副所長の鄭さんに「私は1月5日に日本に帰国する予定で航空券も購入していますよ。パスポートがないと飛行機に乗れません」と伝えると、「大丈夫ですよ、すぐに申請しますから。1月5日の飛行機に間に合うように特別に早く発行してもらいますから。おそらく、遅くても1月2日か3日までにパスポートが戻されるように申請しますから」とのことだった。「まあ、不安が大きくよぎるが、しかたないか」ということで1月2・3日を待った。

 ところがである、12月30日(月)、午前中の「日本語会話3」(2回生)の会話試験が終了して12時30分頃にホッとしていると外事所から電話が入った。「今日の午後3時に出入国管理所に行ってください」との急な連絡であった。この日の午後、学食で昼食をとり、その後は研究室で期末試験の採点作業を夕方までする予定だったのだが。この日に出入国管理所で「パスポートが返されるのかもしれない」と期待を持った。大学から出入国管理所まではバスや地下鉄を利用して2時間あまりがかかる。昼食もとらずに大学を出発した。

 3時前に到着してしばらくすると、大学の外事所に最近入所した若い担当者がやってきて、「今日申請を一緒にします」とのことだった。「ええっ!!!12月中旬にすでに申請したのではないんですか!私は1月3日(金)中にパスポートが戻らないと日本帰国ができなくなりますから、とても困るんですが!!!」と、開いた口がふさがらなかった。「没法子(メイホーズ)」=[しかたがない]と、中国での社会生活では常に諦めの念を持つことが必要だ。日本での社会生活と違って、「まあ、なるようになるしかない」という諦観への切り替えが常に求められる中国生活。これは大学での仕事の面でも常に諦観が求められる。

 大学の担当者は「1月5日に日本帰国の事情を入管職員に話しましたので、1月3日の午後2時30分から5時までの間に入管にパスポートを受け取りにいってください」とのことで話がついたようだった。その話を聞いて少し安心したが、半信半疑だった。たった4日後に申請が許可されて就労ビザを発行し、パスポートが返されたというような話は聞いたこともなかったからだ。特別に早くパスポートが返却されるとしても2週間はかかるのが通例だからだ。このような経過を経て、不安のまま1月3日の日を待つことになった。

 1月3日(金)の午後1時ころにアパートを出て、バスと地下鉄を乗り継いで入管に向かう。途中、「福建中医薬大学・屏山校区」の正門前を通る。運河のような用水路でたくさんの人が釣りをしている姿も。もよりの地下鉄駅から15分ほど歩いて、ちょうど2時30分すぎに入管に到着した。この日は大学の外事所の職員はだれもこない。入管職員に「パスポートを受け取りに来ました。私は1月5日に日本に帰国しなければならないので、通常は1月20日に返却予定ですが、特別に今日1月3日に認可・発行されたパスポートが返却されるとのことなので、受け取りにきました」とのことを、音声翻訳機なども使いながら職員とやりとりを始めた。ところが、「できていないので1時間あまりとりあえず待っていなさい」との返答。一気に不安が広がった。「没法子‥‥」。「今日果たしてパスポートは返されるのだろうか?‥‥」 1時間以上の待ち時間があるので、入管からほど近いところにある屏山の「鎮海楼」に行くことにした。そこは4年ぶりくらいに訪れる場所だった。 

 屏山は小高い山だ。麓から山上まで登って20分くらいで到着できる。山麓前の道路で、今年の1月25日から始まる中国の旧正月「春節」を迎えるための道路の飾りつけ作業がすでに始まっていた。山麓の「屏山公園」に入ると赤いブーゲンビリアの花が美しく咲いていた。

 4年前にはなかった巨大な壁レリーフが公園入口に。後ろ側に周ると、若い母親たちが小さな子どもたちをかたわらで遊ばせ、話に花を咲かせていた。レリーフには宋時代から明時代の「福州城」の絵図が描かれていた。当時の閩江河畔の福州港や大型帆船なども描かれている。福州城(別名・榕城)の城壁や大きな城門、城内の建物群、そして屏山山頂に築かれていた鎮海楼も描かれている。

 春節近しとなったためか、インドソケイの樹木には赤い布が巻かれていた。巨大な赤サンゴのようだ。池の近くでは中国将棋やトランプをしている人たちの姿が。池に面した廊楼には、小さな孫の子守をする祖父母たちの姿ががたくさん見られた。天気もよく、この日も25℃を超える気温となった。

 山頂に続く階段を登ってくと、白い椿が開花していた。この福州ではとてもめずらしい「もみじ」の木々があり、中途半端だが赤く紅葉していた。山麓の廊下楼から歩いて登ること20分ほどで、山頂にある「鎮海楼」の石垣に到着。西欧の30歳代くらいの女性が一人で訪れていた。腕には刺青も。一人旅なのだろうか。

 鎮海楼の建物が見えてきた。建物の前の石階段の中央には「龍のレリーフ」が置かれている。建物内部に入り楼最上階に上り、福州の町並みを眺める。360度の展望が開けてきた。

 山を下りる途中、山中には亜熱帯植物が繁っているさまを眺める。山の中腹にある公衆トイレは、4年前とちがってとてもきれいで美しくなっていた。建物のデザインも中国伝統のデザインが工夫されている。2015年ごろから国家的に取り組まれたトイレ革命政策によって、公衆トイレは全国的に見違えるようにとても清潔になった中国。

 2010年頃までの中国の公衆トイレは、どこもかしこも「ニーハオトイレ」(大便の場合も壁や部屋の仕切りがなく、お互いの顔やおしりが丸見えのトイレ。ニーハオと大便しながら挨拶ができるトイレ。)だったようだ。山の麓には、黄色や薄ピンクのハイビスカスの花がまだ咲き残っていた。

 4時すぎに入管に戻った。ドキドキしながら、「私のパスポートは今日受け取ることができますか?」と聞くと、引き出しから私のパスポートが出された。「やった!」と心の中で叫び、安心感が広がった。これで1月5日に予定通り日本に帰国できることとなった。毎年のように、この就労ビザ延長手続きの際には、このようなドキドキ不安を経験している中国生活だ。

 

 

 

 

 

 

 


新春・中国福州の三が日、もう水ぬるみ始め、すでに春のきざしが―辛亥革命の福建省策源地「独立庁」

2020-01-04 13:28:04 | 滞在記

 中国福州の年末年始3が日、12月31日〜1月3日にかけて亜熱帯地方の福州は好天に恵まれた。まだ外が暗い早朝6時ころの気温は10℃前後で長袖下着にセーターが必要だが、日中になると気温が急上昇し25℃をうわまわる夏日となり、長そで下着では暑くて汗をかく。半袖のTシャツがちょうどいいくらいだ。連日のその気温差に風邪をひいてしまった。

 日中は日本・京都の3月下旬の頃のようなポカポカ陽気なので、大学構内の水辺の水もぬるみ始めてきているかのようだ。春先の季節の頃を詠う中国の漢詩「春夜喜雨(春夜 雨を喜ぶ)」-杜甫、「春夜(しゅんや)」-蘇軾、「江南春(江南の春)」-杜牧 などの漢詩がふと思い出すような陽気ともなっている。

 日本より2カ月間あまり春に向かう時期が早いこの亜熱帯地方。2週間ほど前までは固かった椿の蕾が開き始め開花する花も見られ始めた年末年始。菫(スミレ)も紫の小さな花をつけ始めている。蓬(ヨモギ)の葉が地面に見られ始めた。まだ1月中は、最低気温が5℃くらいまで下がる日もあるのだが、2月になると沖縄に桜が咲き始めるように、同じ緯度の福州も一気に春めいてくる。

 11月中旬より実をつけ始めた「楊桃(ヤンタオ)」の樹木が大学構内に20本ほどある。年末年始のこの時期、実をたわわにつけている。酸っぱくて独特の味覚のある果物だ。11月上旬から咲き始めた香港蘭とも呼ばれる「バウヒニア」の花は2月下旬頃まで次々と花を咲かせ続ける。

 12月30日の年末から1月3日までの5日間は、期末試験の実施や採点、根を詰めての成績表の作成におわれた日々となった。中国の大学も小中学校も1月1日だけが祭日休み。日本の年末年始は1月1日以外は授業日だ。12月31日の午後4時ころ、大学からアパートに向かう途中のバスの中から、孫の下校を正門で待つ大勢の祖父母たち(迎えにきている)や親の電動バイクでごつたがえしていた。

 師範大のバスを降りて、大学のグラウンド付近を見ると「瓢箪笛(ひょうたんふえ)」を演奏している女性が二人。この笛は日本の小学校で音楽の時間に使う「縦笛」の同じようなものなので、音を出すのは「篠笛(横笛)」のように難しくはない。扇子を使った舞をしている老年の人たちの姿も。

 1月1日は、中国でも一応の元旦・新年だ。(本当の新年快楽は旧正月・春節)  このため、1月1日には、各省のテレビ放送局では「新春歌会」がけっこう大規模に開催され放映される。それぞれの地方での新春歌会の規模は日本の大晦日の「NHK紅白歌合戦」に勝るとも劣らない。

 これが春節時の大晦日に開催され全国放映される中国中央テレビ局(CCTV)主催の大晦日歌会ともなると、その豪華さや規模はNHK紅白歌合戦の数倍規模のすごい演出となり、内容的にもとても豊かで飽きさせなく見応えがある。これを観ると、NHK大晦日歌合戦はもうはるか遠方に霞んで感じてしまう。もともとは、NHK紅白歌合戦の中国版として始まった番組なのだが。

 1月3日(金)の午後、福州市内に用事があるため、地下鉄を利用することにした。アパートから最も近い地下鉄駅「上藤(シャントング)」近くに「独立庁」という歴史的な建物があるので、3年ぶりに立ち寄ってみた。ここは1911年に清王朝打倒の「辛亥革命(しんがいかくめい)」勢力の福建省地区での策源地となった場所だ。1912年、孫文(孫中山)がここで講演をしている。その講演をした小さなホールも残されている。「天下為公 共進大同」の孫文の言葉も。

 その後、福建省福での辛亥革命軍の本拠地(司令部)は、福州城の中心地である小高い山である宇山(ユイシャン)に置かれた。その建物群は今も残る。福州人民広場(五一広場)のそばにあるこの山の麓には、今、巨大な毛沢東像がそびえている。独立庁の建物を出ると、近くの小学校に孫娘を送って行く途中の祖母が大きなリュックサックを背負って歩いていた。孫娘のリュックだが‥。中国ではこのような光景があたりまえで、日本のような「自分のことは自分でさせる」という子育て・教育とは真逆の「小皇帝」家庭教育だ。

 中国のインターネット記事に載っていた絵画。画家の男性の写真とともに絵画作品が掲載されていた。女性の人物画なのだが、一見、写真のような、しかし、写真をはるかに上回る絵画(肖像画)だ。人物の表情はもとより、衣服の描き方にも感嘆させられる。

 スーパーマーケットの化粧品売り場で見かけた絵画。中国風の女性の描き方がとても上手だ。

 

 

 

 


選挙に行った人を見せしめに指を切断―世界は「民が主となる民主」×「民の主となる民主」の対立構図に

2020-01-04 07:30:47 | 滞在記

 「選挙で代表を選ぶ」という制度は民主主義政治の基本的な方法だ。中国では「選挙」というものに一度も参加したことがない(経験したことがない)ままに人々のほとんどは生きてきている。アフガニスタンでは政府主導で選挙が実施されているが、この民主主義政治の基本制度を忌みするアルカイダやタリバーンやIS勢力によって、選挙に行った(投票に参加)ことの見せしめに指を2本切断された男性たちもいる。

 レザ・ホラミさん(25歳)もその一人だ。ホラミさんは2014年、アフガニスタンの総選挙で投票したことを示す特殊インクが指に付いていたため、タリバーン勢力によって指を切断された。タリバーンは人々に露骨な刑罰を科すことによって、アフガニスタンに民主主義が根付くことを阻止しようとしている。アフガンでは二重投票を防ぐため、投票を終えた有権者の右手ひとさし指に、少し特殊なインクを付けることになっている。このインクは1週間は消えないという。しかし、このはっきりと分かるインクによって、人々はタリバーンの報復措置対象リスクにさらされてしまう。

 ホラミさんは2014年、ガズニ州で投票を終え、大学の試験受けるため首都カブールに向かっていたが、その途中でタリバーンに止められ、「命はとらない。みせしめのために指を切り落とすだけだ」と言って指を切断されたという。それから5年が経過し、タリバーンの工作員がホラミさんを訪ねて来て、2019年9月28日の「大統領選挙」を前にして、「今回投票すれば殺す」と脅迫も受けた。ホラミさんは現在小説家となっているが、パソコンのキーボードを打つ際にも切断のため苦労しているようだ。彼は、「私はこの指を切断されたことや最近の脅迫についての話を世界に知ってもらいたいのです。私達は困難な状況に置かれており、自由のために戦っているんです。」とメディアに語り、9月28日の投票に行った。

 アフガニスタンでは、ホラミさんのように指を切断された人たちが数千人いる可能性があるといわれているが、タリバーンの報復を恐れて声を上げる人は少ないという。9月28日の大統領選挙では、現職のガニ大統領と現職のアブドラ行政長官の二人の激戦の結果、ガニ大統領当選となった。しかし、タリバーンが有権者に向けて、投票に行かないよう繰り返し警告をしているため、選挙の投票率はとても少なかったようだ。

 2019年12月上旬にアフガニスタンで殺害された中村哲氏。遺体を飛行機で日本に運ぶサービス際の空港で、中村哲氏の遺体が入ったお棺を飛行機までかつぐアフガニスタンのガニ大統領。お棺を飛行機に運ぶようすを見守る中村哲氏の妻や娘。

 40年間以上戦乱の巷にあるアフガニスタンは、現在、タリバーンやIS(イスラム国)、アルカイダなどのイスラム原理主義勢力が国土の40%を支配下におさめていて、アフガニスタン政府とそれを支援する米国軍との内戦状態が続いている。

 昨年(2019年)の12月下旬に、NHKで「追悼 中村哲氏」と題されて放映された番組があった。これは2015年にNKH・Eテレで「武器ではなく命の水を―医師・中村哲とアフガニスタン」と題して放映された番組の再放送だった。

 アフガニスタンでの1983年から始めている医師活動だけでなく、井戸や用水路をアフガンの人々とともに掘り、「戦争や麻薬栽培、イスラム原理主義軍に走らざるを得ない人々の貧困そのもの」を断ち切るための活動を紹介したドキュメンタリー番組だ。

 その番組の中で語る中村哲氏の言葉のテロップが心に残った。「空を飛んでいるアメリカ軍の飛行機 彼らは殺すために空を飛び 我々は生きるために地面を掘る 彼らには分からない 幸せと喜びが地上にはあるのだが 水辺で遊ぶ子どもたちの笑顔に はちきれるような生命の躍動を読み取れるのは 我々の特権だ」と。 

 2020年となったこの地球上の世界。そう単純ではないが、世界は独裁勢力の国々と民主勢力の国々との対立構図が顕著に表れ始めている。人権弾圧勢力と人権擁護勢力の対立構図と言ってもよい。言葉を変えれば、「民(たみ)が主(あるじ)となる民主(みんしゅ)」勢力の国々と「民(たみ)の主(あるじ)となる民主(みんしゅ)」の国々との対立構図に世界が流れてきている。

 中国では全国津々浦々、隅々までに社会主義核心価値観としての12の標語が掲示されている。その中には、「自由」や「民主」や「法治」という言葉(核心価値観)がある。しかし、その3つの核心価値観は、日本や欧米の「自由・民主・法治」などとは根本的に異なるものだ。

「すべての道はローマに通じる」とも古代世界のローマ帝国の歴史が語られたが、「すべての道は中国共産党に通じる」が中国という国の政治体制であり核心的価値観である。これは、法治においても、「司法」「立法」「行政」の三権と人民解放軍は、中国共産党の指導をうける、つまり中国共産党の政策を補佐・実行するものという位置づけが中国の憲法だ。日本で1945年まで施行されていたかっての明治憲法(大日本帝国憲法)では、三権は天皇の政治を補佐するものと定められていた。また、日本帝国陸海軍の統帥権も天皇にあった。明治憲法の「天皇」を「中国共産党」と置き換えると、現在の中国憲法と内容的にはほぼ同じになる。こう説明すると、現在の中国憲法は日本人には理解しやすいかもしれない。

 この憲法や政治体制に関して、「この体制がなかったら、中国はすでに分裂している。中国という国が富国となり、人民の生活を向上させてきた実績は、中国共産党の指導がこの体制下にあったからこそ」と力説している。そして、人民の多くは、この中国共産党政権を今のところ支持している。

 イランは革命防衛隊(軍隊)などに守られた「宗教指導者独裁」の国であり、20年間続くプーチン大統領下のロシアは選挙はあるが「プーチン政権に批判的なさまざまな人がいつのまにか消されている」国であり、北朝鮮は金一族独裁の人権のかけらもない金王朝の国である。しかし、それぞれの国で、その体制が続いているということは、経済的に又は「すざましいまでの政権による宣伝・デゴマギーによる洗脳や教育」による効果が持続しているからだ。日本も大日本帝国憲法下ではそうだった。ちなみに、中国国内での北朝鮮報道は「友好国としての北朝鮮」報道に報道がコントロールされているため、大学生たちも北朝鮮の人権問題などは何も知らない。

 香港問題や台湾問題は、この世界の歴史の中で、現代史における民主と独裁が激しくせめぎ合う最前線となっている2020年1月。