急性胃腸炎による体調悪化があまり回復していない1月11日(土)。「1月11日に家に帰るよ」と、故郷の福井県南越前町に一人暮らしをする母に年末に連絡をしていたため、それを楽しみに待つ母のことを思い、妻と二人で帰省することにした。私が7年間にわたり中国に単身赴任していられるのも、故郷の母(88歳)がまだ元気だからだ。とりわけ母は、私の妻との世間話をすることを待ち望んでいた。
11日の午前10時半頃、京都の家から車で福井県に向かう。琵琶湖西岸の湖西道路を北上し、途中、湖北地方のマキノ町のメタセコイヤ並木に立ち寄る。晴天の青空の下、冬枯れのメタセコイヤ並木は綺麗だった。並木沿いの喫茶店で紅茶を飲み休憩。店内にある雑誌には、10月下旬頃の黄色く紅葉し、道を黄色い落葉が敷き詰められた光景の写真が掲載されていた。ここは、新緑の季節も美しいし、緑の深まった夏や雪が木々に積もった景色も美しい。
翌朝の12日(日)の早朝、家からほど近い越前岬に行き、呼鳥門や鳥糞岩などを見る。
越前岬一帯は今の季節、「越前水仙」が咲いている。日本三大水仙自生地(伊豆海岸・淡路島・越前海岸)の一つだが、ここは日本最大規模の自生地。荒海や雪の中に凛として薫り高い水仙が群生している。岬の近くの集落で水仙を販売していたので、今年もここでたくさんの水仙を買って帰った。一束100円と安いので20束を買う。
越前町内に連なる漁港。越前海岸には冬場は「越前ガニ」を獲るための漁港が多く、たくさんの漁船が繫留されていた。11月10日ころから越前ガニ漁が解禁されていて、今もシーズン中。ここ越前町の各漁港は、カニが多く生息する漁場が、日本海側の山陰地方のカニ漁のどの漁港よりもすごく近場にあるのが特徴だ。「カニと水仙」の越前海岸。
午前10時半頃、故郷の家を出て墓参りをすませ、京都に向かう。途中、滋賀県高島市のJR「近江高島駅」近くにある「大溝城」城址に立ち寄った。ここは戦国末期の1576年に築かれた城だ。琵琶湖の内湖である乙女湖の水を引き入れた水城ともいえる。今は本丸跡地だけが残されているいるが、巨大な石を使った石垣は苔むしていて見応えがあり、風情のある城址だ。かって、浅井三姉妹の一人「お初」が京極高次と結婚、新婚生活を過ごした城でもあった。
城は江戸時代末期の幕末まで使われていた。乙女湖にはたくさんの水鳥が飛来し暮らしていた。鵜(う)の姿や大きな白鷺(シラサギ)の姿も。
乙女湖のこのあたりは、琵琶湖西岸の比良山系の山塊が琵琶湖に迫り、もっとも狭隘な地。このため、ここは古代より軍事・経済交通の要衝の地でもあった。古代・飛鳥時代には古代山城(朝鮮式山城)であった「水尾城(みおのき)」が山中にあったとされるが、いまだその所在地が特定できていない幻の城。
近くの標高400mほどの山の山頂付近には、戦国時代末期の1556年に築城された「打下城(うちおろしじょう)」の山城がある。10年ほど前にこの山城址に登ったが、かなり巨大な山城だった。また、ここから北東の安曇川近くの丘陵地には「清水山城」(1550年代築城)の広大な城郭居館群城址もある。日本に3万近くある城だが、ここ滋賀県は全国で最も多い3000近くの城があった。
12日(日)の午後4時半頃に京都の自宅に到着。午後7時に京都・祇園四条の歌舞伎座「南座」前で、前日に中国から関西国際空港に帰国した永井さんと待ち合わせた。彼は私と同じく中国の大学での経歴は7年目に入っている。現在、中国・安徽省にある安徽師範大学の教員だ。大学が冬休みになり、共通の友人である亀田さん(新疆師範大学教員)の暮らす新疆ウイグル自治区の省都・ウルムチに4泊5日の日程で行き、そこから日本に帰国したばかりだった。
2年ぶりの再会に、祇園石畳の白川沿いの居酒屋「侘助(わびすけ)」で旧交をあたためた。ウイグル族約100万人以上とも言われる収容所での人権弾圧が世界的な問題ともなっている新疆ウイグル自治区ウルムチなどの街での様子などを聞いた。翌日、永井さんは自宅のある北海道小樽市に向け帰って行った。
京都・南座での興行予定ポスターの一つに、「舟木和夫コンサート」があった。2月7日から9日までの3日間の予定で開催されるようだ。この時期はまだ日本に私は滞在しているので、コンサートに行ってみようかなあと考え始めた。
1月8日付の朝日新聞に「トランプ型 日本でも台頭―政治家の言葉」と題して、東昭二先生の記事が掲載されていた。東昭二氏(63歳)は私よりも4歳若いが、私が立命館大学大学院の言語教育情報研究科の大学院生だったころのゼミの指導教官(修士論文指導)だった。当時、アメリカのユタ州立大学教授と立命館大学大学院教授を兼ねていた社会言語学者だった。現在は、ユタ州立大学の教員だけをしているが、彼の著書などで述べられている「リポートトーク」と「ラポートトーク」の理論はなかなか興味深いものがある
越前海岸から持ち帰ったたくさんの水仙を、京都の自宅周辺の人たちに配った。