2018年9月から4カ月間あまり、「日本近現代文学選読」の講義(授業)担当した。この授業は、福建師範大学に赴任していた時を含めて3回目の授業担当となった。福建師範大学の教科書には、松本清張が扱われているが、閩江大学の教科書には掲載されていない。しかし、日本の近現代文学者としては、松本清張はきわめて重要な作家である。「彼は純文学作家ではなく推理小説作家だから‥」と文学的に松本清張を低く見るむきもあるようだが、それは「文学」というものを、かなり狭く考えている人の固定観念にすぎないと私は思っている。
松本清張は1909年に広島市で生まれ、露店で細々と商いする両親とともに、山口県下関市、福岡県小倉などで幼少・少年期をバラックの住居で暮らす。小学校卒業と同時に、電機会社の給仕として働き始めた。15才の頃から、本を買うお金がないので本屋で日本近現代文学や世界文学を立ち読みしながら多読。18才の時に会社が倒産したので、印刷所にて働き始めた。27才で見合い結婚、34才で軍隊に招集され朝鮮へ。そこで終戦を迎えた。
1950年、生活のためもあり初めて小説を書く。この『西郷札』が直木賞候補となった。41才の時である。1952年、『或る小倉日記』が芥川賞を受賞した。さまざまなジャンルの「推理小説文学」を書き、1992年に享年83才で没した。
一昨日(12月11日)、日本のテレビ番組で「砂の器—松本清張原作」(テレビドラマ版)を見た。これはかなり以前に映画でも見たことがあったが、やはり「すごい」4時間あまりのテレビドラマだった。砂の器に限らず、彼の作品は 歴史、社会、人間、事件というものを、さまざまなジャンルにわたって描く。その作品数もとても多い。私は、松本清張の何百という作品のほとんどは読んだが、あまり「ハズレ」がない。
日本近現代文学選読(全15回/90分)の講義の一つとして、「松本清張—東野圭吾に連なる日本推理小説文学作家」と題して授業を行った。松本の短編作品の一つ『1年半待て』を、この日はテキストとして使った。まずは、松本清張という人や代表的な作品などの紹介をし、60分ほどをかけて『1年半待て』の全原文を読ませる。(朗読CDも使用) 学生たちの反応は、「とてもとても面白く、人間をよく描いている」だった。
松本清張は「推理小説の読者」で言う。「いわゆる純文学だが、‥‥一つは思想がありそうにみえるがいかにも晦渋であり、一つは身につまされる話だがいかにも単調で‥‥、また、広い読者をもつことを目的としていない。ところで、なぜ、そのような文学に読者が少ないか。答えは簡単である。読む側に面白くないという観念があるからだ。‥‥純文学の神殿から逃亡した読者は、それではただちに、いわゆる大衆文学の面白さにつくか。大衆文学は面白さに奉仕している文学である。しかし、これはあまりに奉仕が露骨すぎて、かえって面白くないのである。」
「私は今の推理小説が、あまりに動機を軽視しているのを不満に思う。それは、トリックだけに重点を置いた弊だが、解決編にちよっぴり申し訳みたいに動機らしいものをくっつけたのでは、遊びの文章というよりほかはない。動機を主張することが、そのまま人間描写に通じるように私は思う。‥‥私は、動機にさらに社会性が加わることを主張したい。そうなると、推理小説もずっと幅ができ、深みを加え、時には問題も提起できるのではなかろうか。」
◆世界の推理小説文学作家として有名なアガサクリスティ(イギリス)にしても、同じくイギリスの推理小説家「エドガー・ランポー」にしても松本清張のような視野の広さや深さはなく、事件を巡っての探偵と犯人のことばかりが書かれている。つまらないなあと私などは思う。私も少年期には夢中になったが、日本の江戸川乱歩の作品にしてもそうである。溝口の「金田一探偵シリーズ」などは、面白いし歴史性も感じるが、ジャンルが「怨念」に限られる。そして、森村誠一の推理小説文学は、社会性があって、面白い点でもなかなかのものだが、なにか人間の描き方がもう一つ画一的で浅い。
松本清張は、世界的にも「推理小説文学」の金字塔として、比類のないすごい存在だったと私は思う。東野圭吾はこの松本清張を愛読した。東野圭吾は多大に松本清張の影響を受けている作家といえると、私は思う。
松本清張—東野圭吾、この日本が誇る「推理小説文学」の系譜。東野は、現代的なテーマやジャンルを舞台として、多くの作品を書いている。「白夜行」「さまよう刃」「麒麟の翼」などなど。ちなみに、「麒麟の翼」などは、「砂の器」とどこか似通った読後感を受ける。講義では、松本清張の「一年半待て」の読後に、再び、松本清張の文学の特徴について話をし、続いて東野圭吾作品について語った。