長屋茶房・天真庵

「押上」にある築60年の長屋を改装して
「長屋茶房・天真庵」を建築。
一階がカフェ、2階がギャラリー。

みんな「みよこ」になろう!

2008-12-13 07:03:18 | Weblog
昨日は一週間ぶりに店をあけた。
まず、寒山拾得の拾得(ぼくのメルアドはjyuttokuなのです)のように、
ほうきで外を掃く。毎日の7倍のゴミがある。タバコのポイステ、いろいろな
メーカーのコーヒーの空き缶、ヤクルトの容器(近所のパチンコの景品の交換所
でもらえるらしい。それを捨てるのをならわしにしているのがいて、同じ場所に
捨ててある。ただし毎日ではない。玉がでた時だけ)、街路樹の落ち葉(これは
ゴミというより、自然な落し物)、マスク(これは、老人が多い場所がら・・?)
、表の陶器の甕の中には、空になった塗料のあきかんも捨ててあった。
拾得が、お寺のまかないをしたり、食事の用意をしていたというけど、
掃除をしたり、料理を作る、という工程の中に、ほとんど修行する材料が
いっぱいある。そんな人たちを、天座(テンゾというけど、それでは変換できない)といって、昔から上等の位においたらしい。
座禅をしたり、お経を読んだりするのが修行ではない。日常の中に
あるのだ。

みんなが「みよこ」になると、おかまが世の中にあふれそう。
昨日は、それから蕎麦をうつ。昨日は、千葉の下総農業高校の人たちが
丹精こめて作ってくれた「新そば」。一粒一粒に、彼らの汗とか夢とか魂
がこめられている。昔からよく禅の坊さんが「粒粒皆辛苦」と揮毫した。
お米も、大豆も黒豆も枝豆も、みないろいろな人たちの辛苦の結晶なのだ。
それがまた石臼でひかれ、水をぶっかけられ、菊練りされ、のし棒でのされ、
人の首をも切りそうな蕎麦包丁できられ、沸騰したお湯にぶちこまれ、
そして人間に食べられるのだから、ほんとうに「身を粉にして働く」
わけだ。だからそんな命を紡ぐぼくたちも、昔の人がそういったように
「身を粉」(みよこ)にならなくてはいけない、そんな時代に
なった。別に「大変な時代」になったわかでなく、昔から日本人は
そうやって生きてきたのだと思う。だからみんなが、みよこになると、
この国はまた日本にもどると思う。

下総農業高校では、これから、蕎麦の種を植え、収穫し、製粉し、
蕎麦を打つ、までの全工程を学んでいくらしい。
昔から「一物一体」ということがある。部分的ではなく、全部やらないと
わからない、みたいな意味だ。
庶民的な感覚をもたずに庶民を語る政治家、あの世にいったこともなく
あの世を語る宗教家、料理ができずに、うんちくだけを語る料理研究家・・・
世の中には、「はりぼて」みたいなんがあふれている。