お知らせ
■来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。
■『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。
■『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。
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■Douglas Robinsonによれば、西欧の翻訳理論の主流はアウグスティヌスの伝統を受け継いで、翻訳とは普遍的な意味に貼られた起点言語の言葉というラベルを剥がして、目標言語のラベルに貼り替えることと考えられているという。Danica Seleskovitchのdeverbalizationという考え方も広い意味ではこの伝統の嫡出子と考えられる。この問題についてはすでに考察済みなのだが、本の引っ越しをしていてたまたま出てきた平井啓之 (1988/1992)『テキストと実存』(講談社学術文庫1041)をめくっていたらポール・ヴァレリーも同じような発想をしているのがわかった。心覚えとして書いておくことにする。
平井はヴァレリーの「詩と抽象的思考」(1939)という文章から引用している。
…私が諸君に話す場合、もし諸君が私の言葉を了解したならば、それらの言葉は廃棄されてしまう。諸君が了解したなら、ということは、それらの言葉が諸君の心から消え去ったことを意味するのであり、それらの言葉は一つの代替物により、つまり心象、関係、衝動などによって、置きかえられる。そしてこのとき、諸君はそれらの観念や心象を、諸君が受け取った言語とは大へん異なっていることもあり得る言語によって、再伝達する根拠を所有することになるだろう…。
この部分を引用した後、平井は次のように書く。
「ヴァレリーの言うように、了解ということが、ある言葉による通信を受け取った人の心から、その言葉が消え去ることを意味するとすれば、ある文章を別の国語に移すことによって元の文章は必然的に消え去らざるを得ない翻訳という作業が、このヴァレリーのいう了解の機制と深いところで結びついていることは明かではないだろうか。一たび了解の機制を通過すれば、ものとしての元の言葉は消え去るからこそ、別のものとしての別の言葉、別の国語への転身も可能なのである。」
(ここで平井が「了解」と訳している原語はcomprehensionである。なおこの文章の初出は1973年の『季刊翻訳』2号である。このことは訳文の特徴とともに注意しておいていい。)
Seleskovitchがヴァレリーを読んでいた証拠はないが、deverbalizationという発想を生むようなイデオロギー的な土壌はあったのだろう。しかし別に「神の言葉」-「キリストの身体」といったキリスト教的な伝統がなくとも、この程度のことは誰でも思いつくことではある。それは何よりわかりやすいし、俗耳に入りやすい。しかし、この主張は言葉を廃棄したとたん、翻訳や通訳について何一つ語ることができなくなることに無自覚なのだ。80年代以降の翻訳の理論は、この根強いイデオロギーあるいは「ミーム」に対抗しながら展開するのである。