(以下、中日新聞【静岡】から転載)
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帰国支援利用、日系人の今 「日本に戻りたい」「費用本当に感謝」
2010年3月5日
不況で失職し、再就職を断念した日系外国人に帰国費用を給付する国の支援制度が5日に申請受け付けを終える。昨年4月の制度開始以降、支給を受けて帰国したのは予定も含め全国で2万人超。しかし制度利用者を追跡取材したところ、帰国後も仕事に就けずに「日本に戻りたい」と悔やむ人たちもいる実態が浮かび上がった。支援制度は一定のニーズがあったが、困窮の解決にはつながっていないともいえそうだ。 (報道部・梅田歳晴)
帰国まで10年間を浜松市で過ごした女性(31)は、昨年6月に申請した理由を「仕方がなかった。仕事はないし、このままではホームレスになると思った」と振り返る。
女性は夫(33)と市内の自動車部品製造工場で派遣社員として働いていたが、昨年3月末に失職した。
4人の子どもを連れてブラジルに戻って半年以上だが、夫は今も求職中だ。女性は育児をしながらアルミ缶を集めて売り、週末は夫と警備員のアルバイトをしている。サンパウロに持ち家があるので家賃負担はないが「生活は厳しい」と嘆く。
気掛かりは子どものことだ。4歳の娘は保育施設になじめず「日本に帰りたい」と泣く。支援制度の利用は、3年間再入国しないことが条件。女性は「私も戻りたいが、3年間は長い」と漏らした。
昨年6月に浜松市からブラジルに帰国したタナカ・クリスチアネ・ヨシエさん(21)も「人生で最大の間違いだった。可能ならすぐにでも日本に戻りたい」と言う。
失職した父親らにサンパウロの大学への進学を勧められ、給付を受けて単身帰国。両親を浜松に残し、大学に通う4年間のつもりで、ブラジルにいた姉と2人暮らしを始めた。
大学では指圧や鍼灸(しんきゅう)の勉強をしているが、「治安も悪くて怖い。暮らしに全然慣れない。日本で勉強すればよかった」と後悔ばかりが口をつく。「再入国できない間に日本の法律が変わって、日系人の資格で戻れないようになったとしたら…」。こんな不安もよぎる。
一方、1996年に来日し首都圏で主に自動車部品製造の仕事をしてきたフェハル・ウィリアン・ヒデキさん(29)は「帰国費は本当に助かった」と感謝の気持ちを語った。
群馬県伊勢崎市の工場を昨年8月に辞め、10月にサンパウロに戻った。一定の蓄えがあるため、今は大学でシステムエンジニアを目指して勉強している。再入国の制限にも「今の日本は『デカセギ』で稼げない。今のところ戻るつもりはない」と答えた。
支援制度による支給額は本人30万円、扶養家族1人20万円。静岡県の2月末までの申し込み人数は4437人に上る。
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帰国支援利用、日系人の今 「日本に戻りたい」「費用本当に感謝」
2010年3月5日
不況で失職し、再就職を断念した日系外国人に帰国費用を給付する国の支援制度が5日に申請受け付けを終える。昨年4月の制度開始以降、支給を受けて帰国したのは予定も含め全国で2万人超。しかし制度利用者を追跡取材したところ、帰国後も仕事に就けずに「日本に戻りたい」と悔やむ人たちもいる実態が浮かび上がった。支援制度は一定のニーズがあったが、困窮の解決にはつながっていないともいえそうだ。 (報道部・梅田歳晴)
帰国まで10年間を浜松市で過ごした女性(31)は、昨年6月に申請した理由を「仕方がなかった。仕事はないし、このままではホームレスになると思った」と振り返る。
女性は夫(33)と市内の自動車部品製造工場で派遣社員として働いていたが、昨年3月末に失職した。
4人の子どもを連れてブラジルに戻って半年以上だが、夫は今も求職中だ。女性は育児をしながらアルミ缶を集めて売り、週末は夫と警備員のアルバイトをしている。サンパウロに持ち家があるので家賃負担はないが「生活は厳しい」と嘆く。
気掛かりは子どものことだ。4歳の娘は保育施設になじめず「日本に帰りたい」と泣く。支援制度の利用は、3年間再入国しないことが条件。女性は「私も戻りたいが、3年間は長い」と漏らした。
昨年6月に浜松市からブラジルに帰国したタナカ・クリスチアネ・ヨシエさん(21)も「人生で最大の間違いだった。可能ならすぐにでも日本に戻りたい」と言う。
失職した父親らにサンパウロの大学への進学を勧められ、給付を受けて単身帰国。両親を浜松に残し、大学に通う4年間のつもりで、ブラジルにいた姉と2人暮らしを始めた。
大学では指圧や鍼灸(しんきゅう)の勉強をしているが、「治安も悪くて怖い。暮らしに全然慣れない。日本で勉強すればよかった」と後悔ばかりが口をつく。「再入国できない間に日本の法律が変わって、日系人の資格で戻れないようになったとしたら…」。こんな不安もよぎる。
一方、1996年に来日し首都圏で主に自動車部品製造の仕事をしてきたフェハル・ウィリアン・ヒデキさん(29)は「帰国費は本当に助かった」と感謝の気持ちを語った。
群馬県伊勢崎市の工場を昨年8月に辞め、10月にサンパウロに戻った。一定の蓄えがあるため、今は大学でシステムエンジニアを目指して勉強している。再入国の制限にも「今の日本は『デカセギ』で稼げない。今のところ戻るつもりはない」と答えた。
支援制度による支給額は本人30万円、扶養家族1人20万円。静岡県の2月末までの申し込み人数は4437人に上る。