森人 もりと

森では人も生きものも ゆっくり流れる時間を生きています

歳の瀬

2019-12-29 | 日記


 歳の瀬になるとウオーキングの足がなぜか近くの駅に向かいます。
 近くといっても片道40分もかかるのですが、お天気がよければ湖畔を眺めながらの美し
 くも楽しい道のりです。
 駅にきたからといって、この無人駅になにかあるわけでないのです。
 たぶん子どものころに、この時期にどこかの駅から列車に乗って移動することで、生活に
 大きな変化があったような記憶があるのです。雪の白と大きな汽車の黒との強烈なコント
 ラストだけが今も頭の片すみに残っています。



 街の駅ならたぶん今頃は、帰省の人々で賑わっていることでしょう。
 おみやげを抱えて故郷のホームに降り立つ若者の顔は、晴れやかで誇らしげにさえ見えます。
 もしかしたら自分もそんな時があったのかなぁ。知らずのうちに駅に向かうのは、そんな
 ことを彷彿と感じているのかもしれません。



 中島みゆきさんの『帰省』に
 「🎵......まるで人のすべてが敵というように 肩を張り肘を張り押しのけ合ってゆく
  けれど年に2回8月と1月 人ははにかんで道を譲る 故郷からの帰り 束の間人を
  信じたら もう半年がんばれる🎵」
 若い人たちが良くなっていくといいなぁ。
 日々慌しいだけで終わらないようにね。

 長万部発、函館行きの列車が滑り込んできましたが、乗降客はいませんでした。



 帰りの湖畔道はもう陽が傾いていました。冬の陽は短いからちょっと目をはなしていると
 グッグッと沈んで無くなってしまいます。
 
 残り2日となったこの1年ですが、来年に繋がる明るい希望の年でした。



  


 
 
 

冬至

2019-12-22 | 日記


 今日は冬至です。明日から少しづつ昼が長くなります。
 なんと嬉しいことでしょう。
 でもまだ暫くは夜長が続くから、しっかり読書で過ごそうと思います。
 昔から古本を良く買います。それはもちろん安いからです。
 なかには古本を嫌って触らない人もいます。
 「本は紙と印刷の匂いがして 最初に開くときのあの感触がいいんだよ」といいます。
 たしかにそれは分かります。しかし自分のようにしょっちゅう図書館を利用している
 ものにとっては贅沢なことです。
 さらに、なんでも新品じゃなければいけない人もけっこういます。家も車も新品じゃ
 なければダメで、なぜか頭の中だけは中古でもいいようです。
 
 今のネット通販の古本は、昔のようにひどく書き込んでいるものはないのですが、
 たまに学生さんと思われる、薄い鉛筆で控えめな書き込みや傍線があると、消さずに
 そのままにしておきます。
 「この人今どうなっているのだろう?」と想像してしまいます。
 学校をでて30年以上たつから、50代半ば、頭は薄く腹は出て立派な中年男になって
 いるのだろうなぁ、この時の感性はまだ残っているのかなぁ、などと自分の経験から
 勝手に想像しています。



 冬の夜長のもう一つの楽しみは音楽です。
 これも中古CDがたいへん安価に入手できます。いい時代です。
 一曲づつダウンロードするよりも遥かに安くお買い得です。ただし最近リリースされた
 ものはないので、それはユーチューブに頼るしかありません。
 中古とはいってもカラヤンもありますし、復刻盤のブルーノートもどんどん出ています。
 自分はごく最近、やはり復刻版で出たトゥーツ・シルマンスを2枚買って、車に一枚
 家に一枚と置いて楽しんでいます。

 しかしこのCD、問題はいつまで使えるのかです。かんじんのプレーヤーはもう製造メー
 カーも少なく、修理もままならないようです。いずれそう遠くないうちになくなるよう
 ですから、そうと分かった時にはソフトを次の媒体に移し変えなければなりません。
 長く生きていると、さまざまなことがありますね。
 
 今年は穏やかな冬至でした。
 森では冬至と夏至が生活の大切なターニングポイントになっています。
 「いまどき なにをいってるの」と他人はいうのですが、自然の中ではやたらと太陽との
 関連が気になって、二十四節気が生活のリズムとなっています。

 さあ、残り2カ月余りの冬を愉しみましょう。
 今年は短い冬になりそうな予感がします。


 
 
 
 
 
 
 

雪がふる

2019-12-14 | 日記


 今日は朝から雪が降り続いています。
 この調子じゃ明日の朝はどうなっているのでしょう。
 わが小屋の下町アジサイはすっかり変色して薄茶になったけれど、枯れてはいないのです。
 昨日までは立派に生き延びてきましたが、この雪で折れてしまいそうです。
 生きてるものが止まるのは淋しいことだけれど、来年の再生を期待しましょう。



 冬の間、この森で緑を見せてくれるのはササとトドマツだけです。
 カラマツは落葉するし、エゾマツやモミは元々ここにはないのです。

 このモミは二十年ほど前にカナダから輸入したものを植えました。
 これがあるおかげで、自分はもちろん鳥や生きものたちの冬の生活に潤いが出ています。
 子どものころから、なんとかモミの木が一本欲しかったのです。たぶんクリスマスのお
 話や絵本のことが、頭のかたすみに消えずにあったのでしょう。

 いい齢になっても忘れないことはいっぱいあります。
 例えば手袋です。小さいころの手袋といえば毛糸で編んだ「ぼっこてぶくろ」です。
 遊んでいるとしょっちゅう落とすから、紐で結んで首からぶらさげていました。
 早く大きくなって五本指の手袋が欲しいなぁ、とどんなに思ったことでしょう。
 しかし、今また「ぼっこてぶくろ」を使いだしました。五本指より遥かに温かいのです。
 紐はつけていませんが。

 例えばお正月の「くちとり」です。あのド派手なタイやエビのお菓子です。
 兄弟が多かったから、みんなで分けて食べました。いつの日か一匹丸ごと食べてやろう
 と夢をふくらませていました。
 今年は、この夢の「くちとり」が暮の函館のお店に出る、と教えてくださった方がいて
 なんとしてもゲットして、おかしらからガブリとやるつもりです。

 また「ハーモニカ」もそうです。当時のは子ども用の安物だから、毎日吹くとじきに壊
 れて鳴らない穴がでます。それでもかまわず吹き続かるから、ほとんど鳴らなくなって
 使えなくなります。いつか大人用の「ハーモニカ」が欲しいなぁ、と思っていましたが
 とうとう親には言えませんでした。そのうち少し大きくなったら、ピアノ習ってる良い
 子に「ハーモニカって楽器じゃないんだよ」と言われてがっかりしました。
 じつはこれも今年ゲットしました。なんと数十年前に吹いた曲がぜんぶできたのには驚
 きました。体で覚えたものは一生忘れないようです。

 まだまだ子どものときの夢はいっぱいあります。たぶん誰でもそうでしょう。
 来年からは「子どもがえり」をやろうと心に決めました。今からわくわくしています。

 雪に埋もれて生きるのも悪くはないです。さまざまなことをゆっくり考えられるから。
 たぶん森のみんなも同じだね。


 

 
 
 

 

 

 
 

 

根雪

2019-12-08 | 日記


 昨日は二十一節気の「大雪」でした。森では前日から降り続け、朝には20㎝ほど積もり
 ました。いよいよ根雪がきたのです。湖面の凍結も始まりました。
 山形ではなんと、109cmも積もったそうです。どうやら今冬は大雪になりそうです。
 今日は一転、雪は止んでつかの間の青空が広がりました。
 
 さあ、4月までの4カ月間、雪に埋もれた生活の始まりです。とはいっても3月になった
 ら、どんなに雪が残っていても「春」としています。
 3月に入れば降ってもその分は、じきに解けていきます。つまり春の雪なのです。
 だから勝手に春にしてしまいました。



 今年も残りわずかになりました。
 またひとつ手持ち残高が減少して、いよいよ末期的超高齢者になります。
 こんなに速く来るとは思いませんでした。
 自分にも若い時は確かあったはず、江東公会堂の成人式で都はるみさんの歌を聴いて、歯
 ブラシか櫛をもらって帰ってきたたことを想いだしました。
 そういえばあの方どうしておられるのだろう。

 それにしても、現残高を増やす方法はないのかな?
 モウロクすることかなぁ~ いや、それは誰かの手を煩わせることになる。
 
 今から人生のスタートとするのはどうだろう?
 短いけれど人生は人生、何度かやれば長くなる。そういえば「一粒で二度おいしい」なんて
 グリコのCMがあったっけ。
 でも飴と人生じゃ違い過ぎる。なにせ、あまりにも昭和っぽいな。

 かのモンテーニュさんは「老年はわれわれの顔よりも心に多くの皺を刻む。だから年老い
 ても酸っぱいとか、カビ臭い匂いのない心というものはめったにない」とおしゃる。
 自分はどうだろう? たぶんカビだらけのボロボロ、ガタガタ。 無理だ。
 
 中村哲さんが亡くなってしまって、改めてつたない自分の生き方を考えています。

 冬至に向かう森で、さまざまなことが想い浮かんできます。
 これも根雪のせいです。



 

曇り空

2019-12-02 | 日記


 この数日間はくもり、雨、みぞれ、時々雪が舞う、こんなお天気の繰り返しです。
 もともと高くはない自分のモチベーションは更に低下しています。
 たまに、薄雲のむこうに太陽が見えると「ありがたや」と拝みたくなります。
 
 今の森でいちばん元気なのはこのミヤマカケスです。
 ドングリをくわえているけれど、食べるのかな? どこかへ運んでなにかに使うのかな?
 と考えるけれども、調べる気にはなりません。「まあ、好きにやってちょうだい」です。
 
 ところがこの子は「ビーツ ビーツ」としわがれた大声で鳴いて、かなりやかましいのです。
 人が近づいても逃げないどころか、時々他の鳥や動物の真似をして変な声を出します。
 それゆえ、この辺りのコタンでは、鳴き声で獲物の居場所を教えてくれる神として敬われて
 いました。



 考えてみると、和人だって多くの動物を神にしています。 
 三輪山の蛇、稲荷の狐、オオスケコスケの鮭、白鳥は産土様、鵜、熊、鹿、猿、と数えたら
 いくらでもいます。

 子どものころは「夜に口笛を吹くと蛇がくるよ」とか「ミミズにおしっこかけるとオチンチ
 ンがはれるよ」とか本気で信じていて、生活のなかに絶えず動物が同居していました。
 十三(大阪)の子たちは、イタチが走ると一斉に手を合わせて「イタチ道切る血道切る 
 われ行く先はいららぎの里 ナムウンケンソワカ ナムウンケンソワカ」と意味も分からず
 唱えていました。なんとかわいらしい光景でしょう。今やったらアホでしょうね。もちろん
 イタチもいません。

 一方西洋渡来のクリスマスやバレンタインは定着して、すっかり日本人の生活のリズムに
 なっています。ハロウィンも根付きそうですが、パリ祭は失敗しましたね。
 ヨーロッパでは、今でもキリスト教伝来以前の森の精霊信仰が生きていて、魔女や魔物が
 いっぱいいます。

 「迷信に満ちた生活も悪くはない 自分だけでもやってみたい」と思います。
 来年は「遠野物語」からちょうど110年になるし、この齢こいで未だに流れ星を見ると
 条件反射的に手を合わせて何かお願いしようとするのだから、しっかり旧日本人体質なの
 だから。

 まあ、とにかく晴れてからにしましょう。