森人 もりと

森では人も生きものも ゆっくり流れる時間を生きています

秋花

2019-09-25 | 日記


 おとといの低気圧で大荒れだった森は、今日また元気を取り戻しました。
 
 この二日間は所用で街にでていました。
 街には派手な看板が貼られていて車も多く、人々にも出会って過ごしたのですがその割
 には何か物足りないのです。景色が殺風景なのです。
 「どうしてだろう?」と考え続けましたが分かりませんでした。

 

 森へ戻って車から降りようとして片足を土に下したとき、小さな赤紫の野の花を踏みそ
 うになって、サッと足をよけました。その瞬間「あっ、これだ!」と謎が解けたのです。
 そう、街には花がなかったのです。花を見なかったのです。
 花のようなキレイなお姉さんはいたのでしょうが。

 

 森にいると絶えず名も知らない花々が勝手に網膜に映りこんできて、無意識のうちに脳
 にインプットされているのでしょう。それがいい気分にさせてくれる原因と思われます。

 花を見たからって胸がいっぱいになるでもなく、腹いっぱいになるでもなく、ましてや
 経済とはまったく無縁なのに、どうして人の気持ちが揺れるのでしょう。
 たぶん、かって人が自然の一構成員だったころに持っていた本能のかけらが、花の周波
 数にチューニングするのだと思うのです。



 120年前までは、各家庭でたとえ一輪であっても花をめでる文化がありました。
 もう一度、花があって虫と遊べる生活のなかで子どもを育てたなら、30年後の社会は
 もっと優しくなると思うのですが、どうでしょう。



 駒ケ岳に茜雲がどっかり座り込んで、秋深しを告げています。
 来週はもう神無月です。
 駒ケ岳の神様も出雲に出張するのでしょうか。
 少し淋しくなります。


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秋桜

2019-09-13 | 日記


 秋桜はこの辺りでは八月から咲いている、ごくありふれた花です。
 先日、街で子どもたちに絵本を読んだその後で、思いもかけず秋桜をいただきました。
 この山に帰るまでの距離は長いので、途中でしぼんでしまったのですが、戻って直ぐに
 水に入れて祈る気持ちでいると、翌朝にはぴんと回復していました。
  
 それからというもの、殺伐としていた小屋の中が人間らしい暖かい生活空間へと変わり
 ました。なんとありがたいことでしょう。お子たちと職員さんに感謝しています。

 秋桜といえば真っ先に思いうかぶのが山口百恵さんが歌う、さだまさしさんの曲「秋桜」
 です。

    薄紅の秋桜が秋の日の 何気ない陽溜りに揺れている
     此の頃涙脆くなった母が 庭先でひとつ咳をする....

 あの頃は、なにも感じずに聞き流していた曲が、いまあらためて文字で書きおこしてみる
 となんとも身につまされてきます。
 そんな気持ちになる理由は分かっているけれど、さだまさしさんと百恵さんの感性のすば
 らしさ、いやいや、そもそも秋桜の持つ「力」なのだとしておきます。
 すこしミエはって。

    .... 明日嫁ぐ私に苦労はしても 笑い話に時が変えるよ
        心配いらないよと笑った

 たった三分間で人生を表現する人々がいることに、今さらながら感謝しています。



 葉が落ちだすと白樺の幹の白がめだってきます。
 秋は夏から冬への移行の変化を担っています。景色は目まぐるしく変わっていきます。
 
 空はもうすっかり秋色になりました。


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虫たち

2019-09-08 | 日記


 森ではもう葉が落ちはじめています。
 林の奥のほうでは今秋初の紅葉も見られました。
 
 今、いちばん元気な虫たちは、人なつっこいというのか好奇心旺盛というのか分からな
 いけれど、とにかく人に寄ってきて後をくっついてくるのです。
 虫に好かれてどうするの?
 とは思うけれど、蚊とちがって射すことはないから支障はないのですが顔や腕に当たって
 くるから、うっとうしいときもあります。



 よく見ると小さな体にかわいい顔で一生懸命働いています。
 
 この子たちの頭のなかには一年分の活動スケジュールが作成されています。
 今なすべきことは何なのか、そしてこの先どのようにすべきなのか、すべて承知して行
 動しています。けして行き当たりばったりはありません。
 それは自分の死期を知っているから逆算して作れるのです。そして間違えることなく正
 確に実行します。



 この子たちは一匹たりともむだに死にません。
 土に戻って植物の栄養となるもの、ほかの動物に捕食されてエネルギー源となるもの
 そして自分たちの命を繋いでいくもの、さまざまな生き方です。



 人もかっては同じ生き方をしていました。
 しかし、いつのころからか、なぜか逆算をしなくなり、さらには死を穢れと考えるよう
 になりました。だから限りなく足し算の生活がつづき、引くことはなくなりました。
 生活のすべてのものは潤沢で飽食となり、虫のように生きることの儚さや脆さは忘れら
 れて、たいそう幸せになったそうです。

 秋は時間のたつのが特に早いです。自然の変化が大きいからでしょうか。

    旅人と 我が名よばれん 初しぐれ   ー芭蕉ー

 変化に向かう旅の季節でもあるのでしょう。
 「限りある時間を大切に使っていかなくては」と、虫たちに教わるのでした。


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秋がきた

2019-09-02 | 日記


 月が変わったとたんに霧がたちました。
 そうなのです。秋がきたのです。
 
 朝、小屋の戸を開けていつもの景色がかすんでいるときは、なぜかそのままボーっと
 立ちつくしてしまいます。
 そして、何かまとまりのないことを考えながら暫くそのまま過ごします。
 そのうち霧は流れて薄くなり、徐々に明るくなっていつもの景色が戻ります。
 すると、頭もそれなりにハッキリしてきて、現実に帰ります。

 こんな人はけっこういるのではないか、と思うのです。
 雨や風や日照りにはない霧にだけある不思議な力が、人の心に共振して反射的に心理
 効果をもたらすのではないでしょうか。
 だから、同じ霧なのに「春は霞」「秋は霧」と呼び分けて古くから詠まれてきたので
 しょう。

 もう百年ほども前にかかれた宮沢賢治さんの「林と思想」です。

   そら、ね、ごらん
   むかふに霧にぬれてゐる
   蕈(きのこ)のかたちのちひさな林があるだらう
   あすこのとこへ
   わたしのかんがへが
   ずゐぶんはやく流れて行って
   みんな
   溶け込んでゐるのだよ  
   ここいらはふきの花でいつぱいだ



 気温があがり始めると雲は高くのぼり、空は濃い色になって高く遠くなります。
 そう、森に秋がきたのです。


                           動(yurugi)