森人 もりと

森では人も生きものも ゆっくり流れる時間を生きています

ほんとうの春始まる

2024-03-31 | 日記


 3月の最終日は快晴です。
気温もグンと上昇して、プラス6℃までになりました。
湖面を覆っていた頑固な氷は、薄くなって割れてきました。
こうなると加速度的に湖氷は融けだし、アッと言う間に春の
大沼が現れます。
久しぶりに水の張った湖が見られると思うと、嬉しくなります。

 岸辺近くの湿地帯では、もう水芭蕉の赤ちゃんが顔をだして
いました。



 それでも今年は三月に何度も大雪が降ったので、雪解けが
遅く花たちも少し遅れた出現になっています。
その分だけ、重い雪の下で頑張っていたのでしょう。
水芭蕉は長い間咲き続けますから、これから暫くの間はその
成長と変化が楽しめます。



 クロッカスの赤ちゃんも現れました。
この森で、雪解け後の土から最初に見られる花は、クロッカス
かフクジュソウです。
通常、クロッカスといえば群生しているイメージがあるのですが、
最初はこんなふうに一個でかわいらしく現れます。
最初に見つけた時は「あっ 今年も来ましたね」と、声をかけたく
なります。

 フクジュソウも去年の秋の落ち葉を押しのけて、元気な顔を
だしてきました。
日本中の雪国では「雪割草」と呼んで、みんなこの花を待って
います。
いよいよ森の、ほんとうの春が始まりました。












雪解け

2024-03-24 | 日記


 彼岸が明けると急に暖かくなりました。
やはり古くからいわれてきたように、彼岸が気候の切り替え点
です。
いよいよ森も本格的な雪解けシーズンの到来です。
駒ケ岳をすっぽり覆っていた雪が解けだして、数か月ぶりに山頂の
岩肌が現れ、山全体がまだら模様になっています。
駒ヶ岳に通じる小川はこの辺りに多数あります。
山の雪解け水はこの小川に溢れ、そして勢いよく大沼へ流れ
込みます。
水辺でフキノトウのういういしい姿が、たくさんみられました。
もう鳥たちの声も飛び交っていて、あゝほんとうに春がきたのだな
と実感しました。

 春先のこの希望的な光景は、もう数えきれないほど観てきましたが
その都度感動して、元気をもらっています。
これは季節の変化にというよりも、人は新しい命に触れて感化される
本能を持っているのかもしれません。
たしかに、誰もが赤ちゃんを観て笑顔になりますよね。
そして人もまた自然の一部ですから、赤ちゃんは幼年には若葉が生え、
そして花が咲き、実がなり、やがて老年に枯れていく、このごく
当たり前な自然のサイクルに従って推移するだけのことで、抗うのは
無意味なのでしょう。

 自分は今、どんどん枯れていく老年にあるのですが、とても満足
しています。
それは、人生でいちばん時間の余裕があることです。
若い時には忙しくて避けていた活動もできますし、長くて敬遠
していた分厚い本も読めます。
たまには街へでて、あるいはネットでも美術や文学を享受することも
できます。
しかし、それでもこの時季の若々しい植物たちを観ると感動と同時に
羨ましい気持ちになります。
 
 さあ、これからは人と動植物が一体となった、楽しい生活が
始まります。








 


春の大発見

2024-03-13 | 日記


 今週になってからやっと雪解けが始まり、少しずつ春の
兆しが見えてきました。
動物たちの動きが急に活発になっています。
雪が落ちて土が露出した斜面には、生きものや鳥たちが
集まって、土中の虫などの食べものを探します。

 一番早く出現する春植物は、やはりフキノトウです。
歩きながら眺めていると、斜面の枯れ葉の下に僅かに緑が
見えたので、上の枯れ葉を2~3枚取り除くと、思った
とおり可愛いフキノトウの赤ちゃんが顔をだしました。
なんとも嬉しくなり、その周辺の枯れ葉をそ~っと
静かに剥がしながら探してみると、さらに3ケの赤ちゃん
フキノトウが見つかりました。
これは、長い冬の終わりと希望の春を告げる大発見で
ありました。

 来週は早くも彼岸入りです。
雪解けが一段と加速されていくことでしょう。
もともと彼岸は神道の行事で、仏教の行事ではありません。
神道の豊作を祈願する「日の願い」が「日願」となり、仏教
の「彼岸」と結びついたものです。
ですから、「彼岸」は日本特有の行事でインドや他の仏教国
にはありません。
このような一見仏事と思われている信仰行事のなかに、神道
由来のものがたくさんあります。
なにしろこの国に仏教が伝来した千数百年前から、神道と
仏教は補完しあい混淆して、日本人の生活に大切な数々の
信仰行事を生み出してきました。
明治政府はなんとか神仏を引き離そうと頑張ったのですが、
結果は大失敗に終わって今日に至っています。
生活に根付いた習慣はたとえ国が強制しても簡単には変わら
ないようです。

 本州からは桜の便りが聞こえてきます。
一方で、未だに上下水道が通らない能登の悲しい現状も
伝わってきます。
そして永田町のくだらない話も……
明るい春にしなければ、と思います。
















連絡船

2024-03-02 | 日記


 先月の終わりから今日までひたすら雪が降り続いています。
せっかく3月が来たというのに、なんということでしょう。
おかげで、すっかり真冬の風景に戻ってしまいました。
今冬は雪も酷い寒波も少なく「こりゃ~楽な冬だなぁ~」と
たかを括っていましたが、やはり北海道の冬は甘くはなかった
のであります。
今のところ列車は普段通り走っていますが、航空機には多くの
欠航便がでているようです。
やはり彼岸明けまでは、油断禁物といったところでしょうか。

 交通便といえば、この森を出て20キロ程西へ走ると
噴火湾沿いの森町漁港に到着します。
この港は江戸時代末から昭和初期までニシンの一大漁獲地として
栄え、函館や周辺の村々から大勢の出稼ぎ人がやってきて、
それはそれはたいたいそうな賑わいだったそうです。
明治になった翌年に、国は道南に偏っていた北海道開発を内陸全体
に広げようと、道の本庁舎を札幌に移転することにしました。
しかしまだ鉄道はなく、徒歩と馬の時代ですからきちんとした道も
ありません。
そこで、外国に倣って馬車道を造ることにしたのです。
大枚はたいてアメリカから技術者を招請して設計してもらった結果、
函館ー森ー室蘭ー苫小牧ー千歳ー札幌のルートが決まりました。
このとき、森町から室蘭までは直線距離が近いということで、海路
としました。つまり連絡船です。
そしてこの街道全体を「札幌本道」連絡船の海路を「森蘭航路」と
名付けました。
工事は本州各地から腕利きの職人を数千人集めて1872年(明5)
の3月にスタートし、なんと翌年1873年6月までの1年3カ月間
で完成させたそうです。
その間、積雪や寒さで犠牲者も多くでたそうですが、とにかく
やっつけてしまったのです。
あの時代の日本人の熱気を感じずにはいられません。
当然、森と室蘭には船舶用の埠頭が築かれて人々が賑わい、そこには
多くの出会いや別れがあったと思われます。
しかし昭和の初め(1928年)まで56年間続いた「森蘭航路」は
鉄道が開通したことであっけなく終わりを告げます。
そして今は両港ともに、その名残もありません。
なんとも残念な話なのです。

 交通機関はどんなにお世話になっても、廃止になると忘れられる
のが早いです。
しかしなぜか連絡船はいつまでも忘れないようです。
青函連絡船も廃止になってからもう38年たつのですが、自分は
あの時の港の賑わいや、船が埠頭から離れていくとともに人の姿が
小さくなっていくようすを、まるで昨日のことのように鮮明に
覚えています。
船には不思議なものが宿っているのかもしれません。

 「森蘭航路」は北海道開拓にどのように役に立ったのか、またどんな
船舶を使っていたのか、日に何便あったのか、このような資料は
ほとんど見たことがありません。
またひとつ、探す楽しみを残しておこうと思います。