森人 もりと

森では人も生きものも ゆっくり流れる時間を生きています

連絡船

2024-03-02 | 日記


 先月の終わりから今日までひたすら雪が降り続いています。
せっかく3月が来たというのに、なんということでしょう。
おかげで、すっかり真冬の風景に戻ってしまいました。
今冬は雪も酷い寒波も少なく「こりゃ~楽な冬だなぁ~」と
たかを括っていましたが、やはり北海道の冬は甘くはなかった
のであります。
今のところ列車は普段通り走っていますが、航空機には多くの
欠航便がでているようです。
やはり彼岸明けまでは、油断禁物といったところでしょうか。

 交通便といえば、この森を出て20キロ程西へ走ると
噴火湾沿いの森町漁港に到着します。
この港は江戸時代末から昭和初期までニシンの一大漁獲地として
栄え、函館や周辺の村々から大勢の出稼ぎ人がやってきて、
それはそれはたいたいそうな賑わいだったそうです。
明治になった翌年に、国は道南に偏っていた北海道開発を内陸全体
に広げようと、道の本庁舎を札幌に移転することにしました。
しかしまだ鉄道はなく、徒歩と馬の時代ですからきちんとした道も
ありません。
そこで、外国に倣って馬車道を造ることにしたのです。
大枚はたいてアメリカから技術者を招請して設計してもらった結果、
函館ー森ー室蘭ー苫小牧ー千歳ー札幌のルートが決まりました。
このとき、森町から室蘭までは直線距離が近いということで、海路
としました。つまり連絡船です。
そしてこの街道全体を「札幌本道」連絡船の海路を「森蘭航路」と
名付けました。
工事は本州各地から腕利きの職人を数千人集めて1872年(明5)
の3月にスタートし、なんと翌年1873年6月までの1年3カ月間
で完成させたそうです。
その間、積雪や寒さで犠牲者も多くでたそうですが、とにかく
やっつけてしまったのです。
あの時代の日本人の熱気を感じずにはいられません。
当然、森と室蘭には船舶用の埠頭が築かれて人々が賑わい、そこには
多くの出会いや別れがあったと思われます。
しかし昭和の初め(1928年)まで56年間続いた「森蘭航路」は
鉄道が開通したことであっけなく終わりを告げます。
そして今は両港ともに、その名残もありません。
なんとも残念な話なのです。

 交通機関はどんなにお世話になっても、廃止になると忘れられる
のが早いです。
しかしなぜか連絡船はいつまでも忘れないようです。
青函連絡船も廃止になってからもう38年たつのですが、自分は
あの時の港の賑わいや、船が埠頭から離れていくとともに人の姿が
小さくなっていくようすを、まるで昨日のことのように鮮明に
覚えています。
船には不思議なものが宿っているのかもしれません。

 「森蘭航路」は北海道開拓にどのように役に立ったのか、またどんな
船舶を使っていたのか、日に何便あったのか、このような資料は
ほとんど見たことがありません。
またひとつ、探す楽しみを残しておこうと思います。


























最新の画像もっと見る

コメントを投稿