昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

長崎旅行-14 長崎市「崇福寺」の中国盆「蘭盆勝会」

2013年03月21日 | 九州の旅
2012年9月12日長崎旅行3日目夕方、中国盆が行われていた長崎市鍛冶屋町の「崇福寺[そうふくじ]」を参拝しました。

「崇福寺」(黄檗宗-禅宗)は、江戸時代初期に長崎に住む華僑によって創建された寺院の一つで、3日間続く中国盆「蘭盆勝会[らんぼんしょうえ]」の初日でした。

長崎には1570年(元亀元)の開港以来、多くの華僑が来航、居住していましたが、出身地ごとに同郷団体「幇[ぱん]」を組織してそれぞれの菩提寺を創建していたようです。

江戸初期の1620年(元和6)に三江幇(江蘇省・浙江省)の「興福寺」が創建され、1628年(寛永5)に泉樟幇(福建省漳州・泉州)の「福済寺」、翌年1629年(寛永6)に福建省福州「崇福寺」が創建され、これら三寺を「長崎三福寺」と呼ぶようです。

古くから唐船には航海の守護神「媽祖[まそ]」を祀っており、長崎港碇泊中に安置する「幇[ぱん]」の集会所が菩提寺の基になったとされ、故郷を遠く離れ、同郷の人々が結束して生きてきたことがうかがえます。



鮮やかな赤色、黄色の提灯で飾られた崇福寺「三門」です。

どっかりとした姿の赤い「三門」は、「竜宮造」と呼ばれる形式の門で、台風で倒壊した門に代えて1849年(嘉永2)に再建された建物とされ、二階中央に「聖壽山」の扁額、向かって右側の門の上に「吉祥」左側には「如意」の文字が書かれ、三つの門があります。

この「竜宮造」の門は各地の寺院で見られますが、安徳天皇を祀る下関の赤間神宮(元・阿弥陀寺)の赤と白に塗り分けられた門を想い出します。

■案内板より
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国指定重要文化財 崇福寺三門(楼門)
  指定年月日 明治39年4月14日 所有者 崇福寺
 一般寺院の外門を山門というが、三門は禅宗寺院の場合そう呼ぶことが多く、三解脱門(空門・無相門・無作門)の略であるという。
 この建物は嘉永2年(1849)に再建された、中国趣味のきわめて濃厚な珍しい建築様式であるが、日本人棟梁の作で、特異な形から竜宮門の名で親しまれている。
 当山の山号「聖寿[しょうじゅ]山」の横学が楼上正面にある。隠元禅師の筆で県指定有形文化財。

(指定の経緯)
 明治39・4・14 特別保護建造物(古社寺保存法) 昭和4・7・1 国宝(国宝保存法)
 昭和25・8・29 重要文化財(文化財保護法)
  長崎県教育委員会・長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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賑やかな提灯に心が浮かれそうな「三門」中央の風景です。

中央の門の両脇に体をくねらせたような独特のポーズをした獅子の石像、門の上に暖簾のように掛かった「蘭盆勝会」の文字がいかにも中風の寺院を感じさせます。

門を入った突当りに拝観受付があり拝観料を支払って、左上に続く数十段の石段を登って行きました。



「崇福寺」のパンフレットにあった「崇福寺諸堂配置図」に「蘭盆勝会」の祭壇などを追記したものです。

左下の「三門」から入り、石段を上り、配置図に記した赤い字の番号順に建物を見て歩きました。



「三門」をくぐり、左手の石段を登って行くと国宝「第一峰門」(2)が見えてきます。

軒下の複雑な組物に豪華な極彩色が施されていましたが、よく見ると、とても細かで仏教的な模様が描かれていました。

写真左下は、門の右手の赤い破線で囲んだ場所にあった2体の人形「七爺八爺[ちーやぱーや]」です。

「七爺八爺」は、死後の魂を冥土へ連れて行く神様で、背が高く長い舌を出している「七爺」、背が低く黒い「八爺」が門を通る参拝者をみつめているようでした。

■案内板より
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国宝 崇福寺第一峰門
 指定年月日 昭和28年3月31日 所有者 崇福寺
二の門・中門・唐門・赤門・海天門の別名がある。中国寧波で切組み唐船で運び元禄9年(1696)ごろ建てた。唐通事[とうつうじ]林仁兵衛(林守壂[しゅでん])の寄進。
軒裏の複雑な組物(四手先三葉■[木+共]斗■[木+共]詰組[よてさきさんようきょうときようつめぐみ])が特徴で、華南地方に見られるが日本では唯一例である。平垂木を放射状に割付けた扇垂木[おうぎだるき]に鼻隠板[はなかくしいた]打ち。極彩色模様が施されているが、雨かかり部分は単なる朱塗りである。当初材は広葉杉(こうようざん)であることが確認された。(昭和39年塗装彩色修理工事のとき。)即非禅師書「第一峰」の額は県指定有形文化財。
(指定の経過)
明治39・4・14 特別保護建造物(古社寺保存法) 昭和4・7・1  国宝(国宝保存法)
昭和25・8・29 重要文化財(文化財保護法)   昭和28・3・31 国宝(文化財保護法)
 長崎県教育委員会・長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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■:表示できない漢字を「へん」と、「つくり」を例[木+共]と表現しています。



「第一峰門」をくぐると「閻魔大王」(3)の祭壇が作られていました。

参拝者も「七爺八爺」に案内され、ここで「閻魔大王」に裁かれるのでしょうか。



左手に国宝「大雄宝殿[だいゆうほうでん]」(4)が見えてきました。

下段の写真は、正面から見た風景です。

写真両端の柱の前に垂れ下がっている物は、下の案内板に書かれた珍しい建物の装飾「擬宝珠付き垂花柱[すいかちゅう]」と思われます。

■案内板より
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国宝 崇福寺大雄宝殿[だいゆうほうでん]
 指定年月日 昭和28年3月31日 所有者 崇福寺
本尊に釈迦(大雄[だいゆう]・だいおうの読みもある。)を祀る。中国で切組み正保3年(1646)建立した。寄進者は唐商何高材[かこうざい]。長崎に現存する最古の建物。はじめ単層屋根であったが、天和元年(1681)「魏之■[王+炎]」[ぎしえん]が日本人棟梁をつかい入母屋屋根の上層を付加し、現在の姿になった。
 特徴としては、軒回りの擬宝珠付き垂花柱[すいかちゅう]が珍しい。前面吹放ち廊下のアーチ型天井は、俗に黄檗天井と呼ばれ、黄檗建築独特のものである。下層部の当初材は広葉杉(こうようざん)と推定される。
 殿内の釈迦三尊や十八羅漢の仏像群と寺内の聯(れん。柱にかける文字を書いた板)や額(但し、隠元・即非・千■[豈+犬][せんがい]が書いたものだけ)は県指定有形文化財。
(指定の経過)
特別保護建造物・国宝・重要文化財・国宝など指定年月日と経過は第一峰門に同じ。
 長崎県教育委員会・長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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県指定有形文化財 崇福寺本堂の仏像群(釈迦三尊と十八羅漢)
指定年月日 昭和35年7月13日 所有者 崇福寺
大雄宝殿の本尊は釈迦如来座像。向かって右脇侍[わきじ]は迦葉[かしょう]尊者、左は阿南[あなん]尊者ともに立像。みな中空の乾漆像。胎内から銀製の五臓と布製の六腑が発見された。前者に承応2年(0653)化主[けしゅ](寄付集め世話人)何[か]高材、後者に江西南昌府豊城懸仏師徐潤陽ほか2名の墨書があった。
左右に並ぶ十八羅漢は中空の寄木造で麻布を置き漆で固めたもの、延宝5年羅漢奉加人数(1677)という巻物が三尊の胎内から発見されたことと、唐僧南源の手紙に唐仏師三人が崇福寺で羅漢を造ると書くので、この三人が徐潤陽ほか2名ではないかと疑うこともできる。どれもみな中国人仏師の作で当寺を示す貴重な作例である。
 長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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「大雄宝殿の向いにある「護法堂」(5)です。

頂いたパンフレットによると建物は、1731年(享保16)再建とあり、国指定重要文化財です。

「護法堂」の軒下には赤色と、金色が鮮やかな小さな建物が並び、花・ローソク・線香などが供えられていました。

これらは「蘭盆勝会」の時期だけのものだったのかも知れません。

「護法堂」の建物の中に入ると、中央は「観音堂」、向かって右の「関帝堂」には関羽像が祀られ、左の「天王殿」には「韋駄天像」の他に様々な神像が祀られていました。

寺院とは言え、「関帝像」や「媽祖」など、仏教以外の神様も祀られ、神仏習合だった江戸時代までの日本の神社仏閣もこのような様子だったと思われます。



上段の写真は、「護法堂」過ぎて突当りの堂で、中に「大釜」(6)が置かれていました。

「大釜」は、下の案内板の記述にあるように、江戸時代前期の1680年の不作から飢饉が発生し、慈善活動の粥の施しで使われた
ものだそうです。

寺のパンフレットには4石2斗(1石=1000合・約180リットル)を炊くと伝えられており、1人1合の粥としたら4,200人分となります。

お堂の左右に高さ約1mの「金山・銀山」が多く置かれていますが、精霊が冥土で使うお金としてお盆の最後にお土産として燃やされるようです。

「金山・銀山」は、上部の円錐形部分に金や、銀の円形の色紙がたくさん貼り付けてあり、これが金貨・銀貨とされるようで、1枚づつ貼り付けながら亡くなった人に思いをはせているのでしょうか。

下段の写真は、「護法堂」の奥に並んで建っている「鐘鼓楼」(7)です。

鐘を突く鐘楼は、よく目にしますが、「鐘鼓楼」は、初めてで、どんな音か聴いてみたいものです。

建物は、1728年(享保13)の再建ですが、梵鐘は、開創時の1647年(正保4)のものが残っているようです。

■案内板より
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市指定有形文化財 崇福寺大釜
 指定;昭和43年11月20日
 所有者 崇福寺 
第2代住持であった唐僧・千■[豈+犬][せんがい](千呆)性■[イ+安]が、飢餓救済の施粥[せじゅく]のために造った大釜である。
延宝8年(1680)の諸国不作以来、米穀不足となり、天和元年(1681)には、長崎にも餓死者が出た。 福済寺2代住持唐僧慈岳や当寺の千獃は、托鉢や富商の喜捨などで粥を煮、多数の窮民を救った。粥の施しを受ける者は多い日には、3,000人から5,000人に及んだという。
 千獃は翌天和2年(1682)2月大釜を造り、4月14日完成。 鋳工は鍛冶屋町の鋳物師案山[あやま]弥兵衛と推定される。
 長崎市教育委員会(平成元年3月設置)
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■案内板より
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国指定重要文化財 崇福寺鐘鼓楼[しょうころう]
 指定年月日 昭和25年8月29日
 所有者 崇福寺
 上階に梵鐘を吊り太鼓を置いて、鐘楼[しょうろう]と鼓楼[ころう]を兼ねる。鐘楼はもと書院前庭南隅にあったが、享保13年(1728)ここに位置を変え新築した。軸部は中国で切組み、日本人棟梁が建てた。建物の特徴は護法堂に同じ。雨がかり部分だけ朱塗りである。上層下層の比例に安定感があり、円窓・華頭窓・白壁の取り合わせの意匠も秀れている。
 梵鐘は正保4年(1647)鍛冶屋町住の鋳物師[いもじ]阿山[あやま]氏初代の作。県有形文化財指定。
(指定の経過)
特別保護建造物・国宝・重要文化財の指定経過と年月日は護法堂におなじ。
 長崎県教育委員会
 長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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「大雄宝殿」に並んで「媽祖門[まそもん]」(8)があります。

パンフレットによると1827年(文政10)に再建されたとあり、「媽祖堂」に対する門と、仏殿と、方丈を連絡する廊下を兼ねているとされています。

■案内板より
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国指定重要文化財  崇福寺媽祖門[まそもん]
 指定年月日 昭和47年5月15日 所有者 崇福寺
 媽祖堂の前にあるから媽祖堂門と呼ばれるが(文化財の指定は媽祖門となっている)、大雄宝殿と方丈とをつなぐ廊下を兼ねた巧みな配置となっている。現在の門は文政10年(1827)に再建したもので、建築様式は和風が基調をなしているが、扉前面に黄檗天井がある。木割が大きく外観がよい。主要材はケヤキである。
 媽祖は、まそ・まぁずぅ・ぼさと読むが、また天妃[てんぴ]・天后聖母[てんこうしょうも]・菩薩・老媽[のうま]などの呼び名がある。海上安全守護の女神で、各唐船には船魂神として媽祖の小像を祀る。
 長崎県教育委員会
 長崎市教育委員会
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門をくぐると、正面の更に一段高くなった場所に「媽祖堂」(9)が建っています。

中を覗きましたが、中央奥にエレガントな女性らしい媽祖像が安置されていました。

下の案内板では「寺に媽祖を併せ祀ったのは、長崎の唐寺の特色である」とし、江戸時代の長崎奉行の施政下で、宗教施設を制限されたことによるものだったのかも知れません。

左手には「蘭盆勝会」の仮設と思われる観音菩薩像の祭壇があり、次の写真で紹介しています。

■案内板より
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県指定史跡 崇福寺媽祖[まそ]堂
 指定年月日 昭和35年7月13日
 所有者 崇福寺
 海上安全の守護神媽祖[まそ]を祀る媽祖堂は当寺草創後間もなく、現状より小さなお堂として建てられた。航海安全を最上の願いとする来航唐商たちが祀っていた。ここ崇福寺のほか、唐人の建てた興福寺には媽祖堂があり、福済寺は観音堂の脇壇に媽祖を祀った。寺に媽祖を併せ祀ったのは、長崎の唐寺の特色である。来航唐船に祀る船魂神の媽祖像は、在港中これら唐寺の媽祖堂に奉安した。現存建物は寛政6年(1794)再建のものである。
 媽祖堂は唐人屋敷内にもあった。天后堂という。
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媽祖堂のそばに細長いテーブルを囲むように仮設の建物があり、観音像と思われる絵が掛けられていました。

どのような目的があるのか分りませんが、何か儀式でもするのでしょうか。



16:30頃、「大雄宝殿」(本堂)へ入る数名の僧侶の行列が見られ、木魚や、カネの音に合わせ読経が始まりました。

日本各地の寺院で聞く読経とは違う珍しい読経の様子をしばらく見せて頂きました。

境内に祀られている様々な神仏や、扁額を見てもほとんど理解できず、中国の文化や、宗教などを知る必要を感じた参拝でした。

以前、神戸の中華街で春節祭の行事を見物したことがありますが、このような季節の行事の時に訪れるのも楽しいものです。