昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

長崎旅行-15 平戸市「生月島」断崖が続く風景

2013年03月26日 | 九州の旅
2012年9月13日長崎旅行4日目、長崎市から平戸市生月島まで走り、佐世保市まで引き返すコースの観光です。

当初の予定では長崎市から佐世保市にかけてのエリアの観光でしたが、あいにく午前中が雨の予報で、翌日の予定地で最も遠い生月島までの移動時間に振替えたものです。



平戸島から見た雨上がりの「生月大橋」の風景です。

朝、長崎市のホテルを出発、西海大橋、平戸大橋を渡り、ここまで約3時間のドライブでした。

「生月大橋」は、二十数年前に完成し、2010年まで有料だったようですが、現在は無料となって、観光に訪れる者にも助かります。

隠れキリシタンや、断崖が続く海岸線の風景などで知られる生月島には、十数年前の旅行で平戸までしか訪れられなかったので、今回は一番に来たものです。



左側の地形図が「生月島」で、「生月大橋」を渡り東岸を北上し、「塩俵の断崖」から「大バエ灯台」を見て西岸を南下、最後に「平戸市生月町博物館・島の館」を見学するコースでした。

右の地形図は「生月島」の位置を見て頂くもので、南の長崎から一気に走って来ました。



「塩俵の断崖」の風景です。

もっと雄大な風景を期待していましたが、ややものたりないさが残る風景でした。

観光としては、珍しい「柱状節理」の風景がポイントのようです。

道路から近い、海岸沿いの遊歩道から見下ろした風景で、そばの展望施設から見た風景を撮影した方が良かった知れません。

■案内板より
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生月島塩俵断崖の柱状節理
 生月島は、南北約十キロ、東西(最大幅)三・八キロの細長い島で、新第三紀(約二千五百万年前~約二百万年前)に「平戸層群」(約千五百万年前)の上に「松浦玄武岩」(約八百万年前)が重なった溶岩台地です。
 柱状節理は、溶岩流が厚い部分に発達する場合が多く、玄武岩の柱ははぽ垂直で、さらに水平に亀裂が生じてくる。当地の姿や断面五~七角形の蜂の巣状の俵を重ねた様は、これらを物語るものです。
 本節理は県内でも代表的なもので、南北に約五百メートルの長さと海面から約二十メートルの高さの規模をもち、景観的にも優れ貴重なものです。
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海岸付近をズームで撮った風景です。

岩が柱状に割れた「柱状節理」の断崖の下には、波で浸食された柱状の断面が並び、規則正しく六角形をしたものから四角形や、不定形のものまで様々です。

「塩俵」の名称は、白く乾いた柱状の断面の様子が「塩俵」に似ていたことによるものだったのでしょうか。



「塩俵の断崖」の駐車場近くの遊歩道脇にあった遊歩道の案内図です。

上の(西)海岸沿いに「生月島自然歩道」が造られ、北端に近い「大バエ灯台」まで続いているようです。

好天の日にのんびりと、断崖の風景を見ながら歩いてみたいものです。

■「生月島自然歩道」の案内図にあった(1)から(9)の地名です。
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(1)塩俵憩いの広場
 0.7Km
(2)オロノウチ
 0.5Km
(3)山見跡(旦那山)
 0.3Km
(4)駐車場
 0.4Km
(5)砲台跡
 0.3Km
(6)三番高り
 0.5Km
(7)二番高り
 0.3Km
(8)駐車場
 0.3Km
(9)大バエ灯台
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距離合計 3.3Km



生月島北端の小高い山の上に建つ「大バエ灯台」です。

白い階段を登った展望台からは360度の絶景が広がっていました。

灯台の壁の表示板には「大碆鼻 北東照射灯 初点平成14年3月」とあり、「大碆鼻[おおばえはな]北東照射灯」が正式名称のようです。

「照射灯」は、一般的な「灯台」と違い、危険な場所の暗礁などを照射して航行する船舶に知らせる施設とされ、上に見えるガラス窓から「大バエ灯台」の看板方向を照らしているようです。



「大バエ灯台」の展望台から北東方向を見た風景です。

生月島の北端「大碆鼻[おおばえはな]」の先端に黒褐色の岩礁が広がり、二人の釣り人も見られ、その沖に「鯨島[けしま]」が浮かんでいます。

「鯨島[けしま]」には鯨の親子のイメージも感じられ、江戸時代、日本最大の捕鯨拠点だった生月島の人々が名付けたことにもうなづけます。(鯨を「け」と読ませるの理由は謎で、興味がわきます)

「大碆鼻北東照射灯」が照らしている場所は、あの黒褐色の岩礁がある「大碆鼻」の先端辺りだったのでしょうか。

気象庁のサイトで平戸瀬戸の潮位データを見ると、当日の干潮時刻は13時頃で、この写真の岩場付近の海面水位は干潮の約1時間半前の状態です。

おそらく、満潮時には「大碆鼻」周辺の浅い海域は、航行が危険な暗礁地帯となる可能性があるものと思われます。

ところで、「大碆鼻北東照射灯」に照らされた夜の海は、イカ釣り漁船の集魚灯的効果で、たくさんの魚が集まる絶好の釣シーズンがあるのかも知れませんね。



「大バエ灯台」の展望台から南西方向を見た風景です。

生月島西岸の雄大な断崖の絶景が広がり、断崖の下の海には小さな漁船が浮かんでいます。

あの高い断崖は、「生月島自然歩道」の案内図にもある「二番高り」と思われます。

地形図で見ると「二番高り」付近の最高地点は標高86mで、「塩俵の断崖」の標高約35mと比較して圧倒的に雄大さを感じる訳です。



「大バエ灯台」の展望台から南方向を見た風景です。

平戸島から渡ってきた「生月大橋」が見え、その右には生月島の最高峰「番岳」がそびえています。

南北に約10Kmの細長い「生月島」を最北地点から一望した風景が見られました。



帰り道、「塩俵の断崖」の近くの道路脇で偶然見つけた石碑(右端)と、付近の風景です。

石碑には「益富捕鯨 納屋跡 昭和五十四年五月建立」とあり、東海岸の湾に面して小さな漁港と平坦な土地が見られました。

石碑の横の案内板によると、ここが江戸時代の捕鯨基地だったようで、詳細は生月島の最後に見学した「平戸市生月町博物館・島の館」と併せて掲載したいと思います。

■案内板より
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生月町指定史跡 御崎浦鯨組納屋場跡
 昭和四十六年三月二十九日指定

 享保十四年(一七二九)益富又左衛門正勝が、この地に、舘浦で営んでいた鯨組を移した。この一帯を石垣で囲い、網納屋、鍛冶網大工樽等の納屋、赤身納屋、東蔵尾羽毛[をばいき]蔵、苧[を]蔵、塩蔵大納屋、道具納屋、油壺場、小納屋、小納屋蔵、骨納屋、勘定納屋、大工納屋、米倉、新筋[しんすじ]蔵、艪[ろ]納屋、油貯[いれ]小倉、油貯六間倉、荒物貯八間倉等各一宇、筋納屋二宇、羽差納屋一宇、加子納屋三十宇、轆轤[ろくろ]八箇等があり、海岸に鯨の、船引揚げ場があり、当時の大工場であり、日本最大規模の捕鯨基地でもあった。享保十八年に鯨の網取法を導入してからは、少し離れた古賀江の海岸に網干し場を設けている。
 天明八年(一七八八)絵師、司馬江漢は生月の益富家に一ヵ月滞在し、この間この地を訪れて捕鯨その他をスケッチしている。又、明治二十四年には、幸田露伴が、この地や羽差をモデルとして、小説「いさなとり」を発表した。
 捕鯨不振により文久元年(一八六一)基地は閉じられた。
  平成三年三月二十五日設置
   生月町教育委員会
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生月島の西岸の道路を南に進むと「鷹ノ巣トンネル」があり、ここにも雄大な断崖がありました。

「鷹ノ巣トンネル」から少し北の道路脇に駐車場があり、立ち寄ってみましたが、この一帯にも雄大な断崖の風景が見られます。

駐車場にも石碑があり、「生月農免道路 竣工記念碑 平成五年五月吉日」とあり、西岸の道路は、比較的新しく造られた風景が楽しめるコースでした。



「生月島」南西端の「長瀬鼻」の断崖の風景です。

観光協会の案内では「長瀬鼻」には、「長瀬八洞」、「はなぐり洞門」があるとのことでしたが、断崖の下にある洞窟で、道路脇からはこの風景だけです。

「生月島」西岸は、玄武岩の断崖が続き、「生月農免道路」からの風景は、素敵なものでした。

この後、楽しみにしていた「生月大橋」の近くにある「平戸市生月町博物館・島の館」の見学です。