昔に出会う旅

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長崎旅行-13 「長崎市古写真資料館」で見た幕末・明治の写真師「上野彦馬」

2013年03月08日 | 九州の旅
2012年9月12日長崎旅行3日目は、市内電車一日乗車券を購入して長崎市内の観光を楽しみました。

朝8時頃からグラバー園をゆっくりと観光、「長崎市古写真資料館」へ着いたのは10時過ぎでした。



市電石橋駅付近を通り、石畳のオランダ坂通りを上って行くと、左手に「長崎市古写真資料館」の入口が見えてきました。

明治の洋館を利用した施設で、道路脇には大きな「東山手洋風住宅群」の案内表示の下に「東山手地区町並み保存センター」「東山手 地球館」「長崎市古写真資料館」「埋蔵資料館」と書かれた案内板があり、明治期の「東山手洋風住宅群」を利用した施設が案内されています。

■「長崎市古写真資料館」の玄関にあった案内板です。
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古写真資料館
 長崎は、200余年の鎖国時代にはわが国唯一の貿易港として西洋の多くの文化が流入し、日本文化の近代化に大きく貢献しました。また、安政5年(1858)、幕府は5ヶ国と修好通商条約を結び、翌年、横浜・函館とともに長崎も新しい時代の自由貿易港として開港され、東山手・南山手周辺地区に外国人居留地が形成されました。
 居留地の建設時にはすでに多くの写真が撮影されており、長崎の町は重要な被写体でありました。
 この古写真資料館は、全国の資料館や博物館に所蔵されている幕末から明治期の貴重な古写真や絵葉書を通して、長崎の外人居留地と当時の長崎を紹介しています。
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「長崎市古写真資料館」のある「東山手洋風住宅群」を中心とした地図です。

「東山手洋風住宅群」は、長崎の市電の駅で、最も南にある「石橋駅」から北へ約100mの場所です。

右下の拡大地図にある黄色い7棟が「東山手洋風住宅群」で、左列の上1棟が「埋蔵資料館」、左列の下3棟が「長崎市古写真資料館」、右列の上2棟が「東山手地区町並み保存センター」、右列の下1棟が「東山手 地球館」として利用されているようです。



洋館が並ぶ「東山手洋風住宅群」の風景で、「長崎市古写真資料館」の建物です。

淡いグリーンの洋館が並び、和風の瓦屋根の塀に囲まれる風景にも文明開化が進んでいた時代が感じられるようです。

「長崎市古写真資料館」には幕末から明治の著名人や、長崎の風景写真の他、写真家「上野彦馬」の生涯がパネル展示されていました。

館内には多くの写真が展示されていましたが、撮影禁止とあり、彦馬の紹介パネルにあった小さな写真を使わせて頂き、館内外の風景写真と併せて掲載します。

■「長崎市古写真資料館」の案内板です。
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長崎市古写真資料館
長崎の出島は、わが国で最初にカメラが持ち込まれたところです。
外国人居留地の建設時には、すでに多くの写真が撮影されています。やがて写真技術は長崎に定着し、日本人による最初の営業写真館が開設されました。
 この古写真資料館は、居留地時代の洋風住宅を整備したもので、わが国における写真の開祖といわれる「上野彦馬」の偉業を紹介するとともに幕末から明治期の貴重な写真資料を通じて長崎の外国人居留地と当時の長崎、また、日本における写真の歴史について、展示を行っています。
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左の写真は、写真家「上野彦馬」(1838年~1904年)で、眼鏡橋に近い生誕地の案内板に掲載されていたものです。

右の写真は、「上野彦馬」の父、「上野俊之丞」の肖像画で、資料館のパネルに掲載されていたものです。

パネルの説明文にあるように彦馬の父「上野俊之丞」は、好奇心あふれる多才な人だったようで、日本に初めてダゲレオタイプ(銀板)の写真機を輸入し、そのカメラで撮影した薩摩藩主島津斉彬の写真が日本人による初めての写真となったようです。

しかし、父俊之丞は、彦馬が13才の時、62才で亡くなっています。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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学問的家庭環境の上野家
 彦馬の父、上野俊之丞常足[しゅんのじょうつねたり]は長崎の御用商人であり、長崎奉行所の御用時計師として、出島への自由な出入りを許されていました。代々の絵師でもある俊之丞は、西洋の知識を積極的に取り入れ、後に火薬の原料である硝石の製造も行いました。
俊之丞の研究は多方面にわたっていますが、特に製薬業・中島更紗の開発・研究には力を注いでいたようです。
 上野邸には俊之丞の盛名を慕って多くの蘭学者が集まりました。そうした中で、彦馬も日常的に貴重な蘭書を目にし、西洋の学問についての会話を耳にして育ちました。家庭内での会話にもオランダ語が使われていたそうです。母の伊曽[いそ]も教育熱心で、彦馬は幼少時代から町内の松下平塾に通っていました。
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左の肖像画は、彦馬が約3年間師事した儒学者「広瀬淡窓」で、天領の日田(大分県)で開いた私塾「咸宜園[かんぎえん]」は、全国から門弟が集まる日本有数の規模だったとされます。

「咸宜園」では身分、性別を問わず門弟を受入れ、平等に学べる先進的な教育だったようです

右の写真は、幕府が長崎に開設した海軍伝習所の教授として来日したオランダ軍医「ポンペ」です。

「ポンペ」は、医学伝習所を開設し、彦馬も入門を許され、やがてダゲレオタイプ(銀板)の次に発明された湿板写真に出会うことになります。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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日田・淡窓塾咸宜園へ入門
 嘉永6年(1853年)、16才になった彦馬は後見役の木下逸雲のはからいで、豊後日田(現在の大分県日田市)の咸宜園に入門しています。
咸宜園は、儒学者広瀬淡窓の私塾で、身分制社会にあって、身分に関係なく入門を許し、地位や年齢にかかわらず塾生を平等に取り扱うという先進性を持っていました。
咸宜園には、多くの門人が集まり、高野長英・大村益次郎・後の総理大臣、清浦奎吾などの人材もでています。
彦馬はここで約3年間漢学を学びました。そののち、日田から長崎へ戻った彦馬は、父の友人であった大通詞(通訳)の名村花渓から、蘭語・蘭学を学んでいます。
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■上野彦馬のパネルの説明文です。
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彦馬、恩師ポンペとの出会い
 黒船の来航以来、開国を迫られていた徳川幕府は、諸外国に対抗するための海軍の必要性を感じました。
 幕府は安政2年(1855年)、長崎に海軍伝習所を開き、オランダの海軍士官を招いて諸藩の学徒に西洋式の軍事教育を受けさせることとしました。
 1857年、海軍伝習所の第2次派遣隊の一員として来日したポンペは、基礎科学に始まり、臨床医学にいたる組織的な教育を行いました。
 ポンペは伝習所の終了後も日本に残り、養生所(病院)も開くなど、西洋医学を日本に根付かせるのに大きな功績を果たしました。
 日田から戻った彦馬は安政5年(1858年)、このポンペのもとに入門しています。
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左は、1839年にフランスで発表された世界初の実用的なカメラ「ダゲレオタイプカメラ(銀板)」で、右は、「上野俊之丞手控え(カメラスケッチ)」とあり、彦馬の父俊之丞が初めて日本に「ダゲレオタイプカメラ」を輸入した時のスケッチと思われます。

「ダゲレオタイプカメラ」は、銀板上に定着させたポジティブ画像をそのまま鑑賞するもので、露光時間も初期には数十分要していたようです。

下の説明文にあるように彦馬が医学伝習所で学んでいた頃、写真技術は、「ダゲレオタイプ(銀板)」から1851年にイギリスで発明された「ウエット・コロジオン・プロセス(湿板)」へ変わって行く時代でした。

湿板は、感光材などを塗ったガラス板に画像を感光させ、現像したネガ画像を焼増しする方式です。

彦馬は、ポンペのもとで舎密学(化学)を学ぶ中で、その後の人生を決定づける新しい「ポトガラヒー(湿板)」の言葉に出会ったようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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「ポトガラヒー」なる単語発見
安政5年(1858年)、20才になった彦馬は医学伝習所のポンペのもとに入門しました。ある日、舎密学(化学)の勉強をしていた彦馬は、ショメールの百科事典の中に「ポトガラヒー」という単語をみつけました。
それは、発明後間もないウエット・コロジオン・プロセス、今日で言う湿板写真の紹介でした。
興味を覚えた彦馬は、早速ポンペにその内容を質問しました。いかし、ポンペは写真についての知識はありましたが、実際に撮影に成功したことはなかったのです。
 そこで彦馬は書物の知識を頼りに、ポンペの助言と協力を受けながら、堀江鍬次郎と共に、手探りで写真術の研究を始めることになったのです。
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上段の図は、「彦馬が自作したカメラの原理」と題するもので、凸レンズを通った画像の光が反転して後方の感光板へ写る単純なものだったようです。

又、薬品も文献を見ながら試行錯誤し、感光材や、現像液などを作ったことが伝えられています。

結果としては何とか写真撮影に成功したものの、実用出来るレベルではなかったようですが、この試行錯誤の苦労が、その後の写真技術の基礎となったものと思われます。

下段の図は、単レンズ、複合レンズが描かれたもので、彦馬は、複合レンズを教えてくれた写真家「ロシエ」から写真撮影の技術を学ぶことが出来たようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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手探りの研究-カメラ作り
 彦馬の写真研究は、まず写真機を作ることから始まりました。彦馬の父、俊之丞は天保14年(1848年)にオランダからもたらされたダゲレオタイプ(銀板写真機)のスケッチを手控え(メモ)残し、嘉永元年(1848)に輸入していました。あるいは彦馬も、それを参考にしたのかもしれません。
 初めて作った自作のカメラは、オランダ製の遠眼鏡からはずしたレンズを使ったものと言われています。これを筒にはめ込んで木製の箱に差し込んで覗くと、蘭書にあるとおりに物体が上下逆さまになって映ります。
 大小の木箱を入れ子にして、内箱に筒にはめ込んだレンズを固定し、この内箱を前後に動かすことによってピントわ合わせる仕組みなど、自分なりの工夫をしながらカメラを作り上げていったのです。
彦馬は自作のカメラに、凸レンズ一枚の「単レンズ」を取り付けていました。やがて、フランス人ロシエから、レンスを数枚組み合わせて写真の隅々まできれいにピントを合わせることができる「複合レンズ」を教わりました。
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■上野彦馬のパネルの説明文です。
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手探りの研究-感光剤・現像液作り
写真を撮るためには、カメラだけではなく、映っている光景を科学的に固定するための感光剤が必要です。
彦馬はそれらの材料を、自分の手で、一つ一つ作りだしていきました。
まず、エチルアルコールを焼酎を蒸留して作ろうとしました。しかし、焼酎では不純物がどうしても取り除けませんでした。そこでポンペから、ジンをもらって、やっつと純粋なアルコールを得ることに成功しました。
硫酸を得るためには、硝石と硫黄を焚き、そこから発生するガスに水蒸気を通す、大掛かりな装置を作りました。6昼夜不眠不休の作業を行い、更に精製に1ヶ月かかったといわれています。
アンモニアは、地中に埋めて半分腐らせた牛の骨を、煎じて蒸留することで得られました。
また、青酸カリは、牛の生血を日光にさらして乾かし、分析・生成して作りました。
これらの作業は大変な悪臭を伴い、また、気味が悪いというので、近所からの苦情が相次ぎ、奉行所へ訴えられてポンペのとりなしで、ようやく事なきを得たという逸話も残っています。
彦馬はこうした苦難と試行錯誤を重ね、必要な薬品を製造していきました。そして、安政6年(1859年)には自力での撮影に成功したようです。同年、フランスの写真家ロシエが来日、彦馬は、ヨーロッパ最新の写真術の指導を受けることができました。
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「上野彦馬が活躍していた頃の写真撮影の様子(コロジオン湿板法)」と書かれたジオラマが展示されていました。

カメラの向こうに置かれた大きな箱は、感光材の塗布や、現像を行うための暗室だったのでしょうか。

当時、屋外の撮影は、荷物を運ぶ数名のスタッフが必要だったと思われます。

下の説明文にあるように彦馬の写真研究は、伝習所で共に学ぶ津藩の藩士「堀江鍬次郎」との出会いがあり、意気投合して共同研究を行ったとされます。

又、その関係から二人は、津藩で購入した最新式の湿板写真機を江戸へ持って行き、藩主や、諸侯を撮影することとなり、彦馬は一流の写真家への道を踏み出したようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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彦馬と堀江鍬次郎、江戸へ
 彦馬が伝習所で出会った津藩(現在の三重県)の藩士、堀江鍬次郎は、彦馬の良き共同研究者でした。鍬次郎は、藩主藤堂高猷[とうどうたかゆき]に願って、150両もする最新式の湿板写真機一式を、藩費で購入することを許されました。
万延元年(1860年)、彦馬と鍬次郎は藤堂公の命により江戸に行き、神田和泉橋の中屋敷に滞在しました。1年近くの間、2人は幕府蕃書調所に通いながら、屋敷に出入りする大名や旗本諸侯を撮影しました。その当時(文久元年)22才の彦馬を、鍬次郎が撮影した写真が残っています。
彦馬は文久元年(1861年)9月、藤堂公と共に津へ同行し、藩校有造館の洋学所で蘭語と化学を講義しています。
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写真は、彦馬の著書「舎密局必携」の一部のページです。

写真機や、三脚の挿絵があることから下の説明文にある「舎密局必携」の付録となった日本初の写真技術解説書「撮形術ポトガラヒー」と思われます。

彦馬が津藩の藩校「有造館」での講義のために書き上げた「舎密局必携」は、ポンペから学んだ舎密学を総括し、その後の彦馬の写真技術のバックボーンになったと考えられます。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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有造館時代の「舎密局必携」出版
 文久元年(1861年)、藤堂公と共に津へ向かった22才の彦馬は、藩校有造館洋学所で蘭語と化学を教えることになりました。
 ここで、語学力のないものが洋学を学ぶことの困難さを感じた彦馬は、日本語の科学の教科書「舎密局必携」を著しました。
 全編3巻になる「舎密局必携」は、藤堂高猷のはからいですぐに出版のはこびとなりました。
 これは主に9種の原書を参考・引用した名著で、その中で彦馬は、「化学当量」「元素記号」分子式」「化学式」などの概念を、国内の学者にさきがけて用いており、当時としては非常に画期的なものでした。
 「舎密局必携」は、大変な評判を呼び、全国的に利用されました。明治の中頃まで、関西を中心に科学の教科書として使われていたほどでした。
 付録には「撮形術ポトガラヒー」として、38項にわたって湿板写真に関する技術が詳しく記されています。これは日本初の写真技術解説書といえるでしょう。
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資料館に昔のカメラが展示されていました。

蛇腹が付いていることから「湿板カメラ」の次に発明された「乾板カメラ」の時代のものと思われます。

幕末の1862年、彦馬は、津から長崎に帰り、写真館「上野撮影局」を開設、長崎を訪れた著名人を数多く撮影することになります。

1881年(明治14年)43才の年、新しい写真技術のガラス乾板を日本で初めて輸入し、使い始め、その翌年に新築した写真館も「ビードロの家」と称されて話題を呼び、彦馬の四十代前半は繁栄への基礎固めの時期となったようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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写場「上野撮影局」開設から彦馬全盛時代まで
文久2年末(1862年)、長崎に帰った23才の彦馬は、「上野撮影局」を開設しました。これは横浜の下岡蓮杖と並び、日本最初の営業写真館で す。経営が軌道にのるまでには数年の月日を要しましたが、写真は徐々に人々の間に広まっていきました。
開設当初の撮影料は一枚一人二分。これは、当時の職人の一か月の生活費にあたりました。
 明治15年に、彦馬は家屋とスタジオを新築しました。特にガラス張りのスタジオは評判になり、「ビードロの家」と呼ばれました。フランスの小説家ピエール・ロチが「お菊さん」という小説の中で、この頃の撮影局り繁盛ぶりを描いています。
 彦馬は明治23年にウラジオストック、翌年には香港・上海に弟子を派遣し、上野撮影局の海外支店を開いています。
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■上野彦馬のパネルの説明文です。
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湿板写真時代の終焉
 明治14年(1881年)、彦馬は当時欧米で湿板に代わって主流になっていた乾板を、ベルギーのモンコーエン社から輸入しました。
 それまでの湿板は、ガラス板に塗った感光剤が濡れているうちに撮影・現像しなくてはならなかっつたので、保存や運搬が大変不自由でした。
 乾板は保存がきくので、いつでも手軽に持ち運びすることができ、しかも感度が高いので格段に露光時間が短くなり、非常に便利になりました。
 この乾板写真は「早撮写真」と呼ばれ、当時有名だったのが東京の江崎礼二です。
 一般には明治16年の海軍競漕会を江崎が撮影した「隅田川水雷爆発」が日本初の乾板写真とされてきましたが、実際には、彦馬のほうが2年早く導入していたようです。
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昔のカメラのそばに小さなステージがあり、坂本龍馬の写真パネルがありました。

ステージの案内板に「このコーナーは、初期の上野撮影局の屋外写場を再現したものです~」とあり、湿板時代には屋外のステージで撮影していたようです。

現地では気付きませんでしたが、ステージの左に置かれた黒い台をよく見ると、龍馬の横に写っているものとそっくりです。

幕末に撮影されたこの黒い台は、「レンズが撮らえた幕末の写真師上野彦馬の世界」(小沢健志・上野一郎監修、山川出版社発行)に後藤象二郎が左ひじを置き、カメラ目線で写った写真にも見られました。

この黒い台が写る二つの写真は、龍馬が亀山社中を結成した頃のものだったのでしょうか。

この洋風の台を見ると、幕末の開国により、いち早く文明開化波が押し寄せていた長崎の雰囲気が伝わってくるようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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幕末の若き志士たち
 慶応年間の上野写真館には勤王佐幕双方の志士たちが訪れ、その若き日の姿を写真の上に残しています。
 彦馬の人物写真は「ナダール風」と言われるように、フランスの肖像画に近いと評されます。
 彦馬の作風は、彼を指導したフランス人写真家ロシエの影響と思われますが、絵師の家に生まれた彦馬自身の絵画的センスも大きな要素と考えられています。
 彦馬の写真は時代ごとに光の使い方が異なっており、スタジオや、撮影技術の進歩が見て取れます。
 また、彦馬は集合写真における人物配置が非常に巧みで、その群像のまとめ方には定評があり、今日の感覚から見ても優れたものがあります。
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彦馬が撮影したとされるロシア「ニコライ2世(人力車上にて)」と記された写真で、皇太子時代の1891年(明治24)に長崎を訪れた時のものと思われます。

「レンズが撮らえた幕末の写真師上野彦馬の世界」によると、この写真撮影の前年、彦馬はウラジオストックに初の海外支店を設立、19世紀末の長崎には氷に閉ざされる冬のウラジオストックを離れたロシア艦隊がよく寄港していたとあります。

ロシア艦上での集合写真や、多くのロシア軍人の肖像写真も残されており、皇太子はなじみのある彦馬の写真館に案内されたようです。

この写真を撮影した年、彦馬は上海や、香港にも支店を出し、1893年(明治26)にはシカゴで開催された博覧会に出品した写真が最高賞となるなど彦馬は、40代後半から次第に絶頂期を迎えます。

しかし、1895年(明治28)、日清戦争の開戦により、海外支店は閉鎖、1904年(明治37)には日露戦争の開戦となり、彦馬はその年、亡くなっています。

以前このブログでも掲載しましたが、北海道旅行で知った、同時代の函館の写真家「田本研造」も同様ですが、幕末に屈辱的とも言われる開港でしたが、それにより新しい技術が伝わり、人を育て、新しい文化を産み、繁栄していった歴史に大きな夢を感じます。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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新写場「上野撮影局」全盛時代
 西南戦争が終わると、外国人や著名人を始め、一般庶民の利用客も飛躍的に増えました。
 明治15年、彦馬は家屋を新築し、採光のために天井をガラス張りにした洋風のスタジオをつくりました。このスタジオは「ビードロの家」と呼ばれて評判になり、ますます多くの客が訪れるようになりました。
 明治19年には清の提督丁汝昌を、24年にはロシア皇太子(後のニコライ2世)を撮影しました。
 後日の大津事件の際には、このロシア皇太子の写真の焼き増し注文が殺到しました。
 明治26年には明治天皇の御真影の複写を行うなど、彦馬の名声はますます高まりました。そのかたわらで彦馬は写真術の研究を怠らず、第一回内国勧業博覧会を始めとする様々な博覧会で、
彦馬の作品は次々に賞を獲得していきました。
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