2012年9月11日長崎旅行2日目、南島原市の「原城跡」を見学した後、島原半島南端に近い「口之津港」へ向かいました。
戦国時代末期、島原半島一帯を支配する大名「有馬義貞」は、実弟だった隣国の大名「大村純忠」を通じて南蛮船の来航を求め、キリスト教の布教を許したことから「口之津港」は歴史の舞台に登場することになりました。
口之津開田公園に隣接して「南蛮船来航の地」と刻まれた記念碑と、案内板が建てられていました。
何故か、この一郭は、四方を堀で囲まれ、小さな石橋を渡って入って行きます。
口之津港の海岸一帯は、埋め立てられたとされ、四方の堀は、海が埋立てられた過程を示すものかも知れません。
■「南蛮船来航の地」の案内板です。
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南蛮船来航の地
永禄五年(一五六ニ)有馬義直(義貞)口之津港を貿易港として開港
永禄十年(一五六七)司令官トウリスタン・ヴァスダウエイガの南蛮定期船の外二隻の南蛮船が入港
天正四年(一五七六)司令官シマンガルシーアのポルトガル船(ジャンク)が人港
天正七年(一五七九)ポルトガル船入港 巡察師ヴァリニァーノが口之津に着く
全国宣教師会議を口之津で開催した。
天正八年(一五八〇)南蛮定期船(ジャンク)入港天正十年(一五八ニ)南蛮船入港(これが最後の入港)
フロイス、口之津に居住し京都から届いた本能寺の変をこの地からヨーロッパに発信した。
こうして開港以来二十年間南蛮貿易商業地として栄えた。この間キリシタン布教の根拠地とし、また西洋文化の窓口としても栄えたのである。
昭和十六年ー月十七日長崎県史跡指定
口之津町教育委員会
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上段は、島原半島周辺の地形図で、下段は口之津港付近を拡大したものです。
天草諸島の北端の港「鬼池港」は、島原半島南端の港「口之津港」とフェリーで結ばれています。
熊本県の三池港は、大牟田市の東にあった三池炭鉱の積出港で、大型船が入港できなかった約30年間(1879~1909年)は、「口之津港」を上海への輸出港としていたようです。
下段は、口之津港周辺の地形図で、「開田[ひらきだ]公園」から「口之津歴史民俗資料館」の順で見て廻りました。
その途中に大きな観音像が立つ「玉峰寺」がありますが、キリシタン時代に「口ノ津天主堂」があった場所と考えられているようです。
口之津の南にある「烽火山[のろしやま]」は、googleの地図で見つけたものですが、古代の烽火[のろし]台のようにも思われます。
「肥前風土記」の高来郡(諫早市付近から南の島原半島)には「駅は四所、烽は五所」とあり、この辺りにも交通網と並行し、烽火[のろし]による軍事通信網が整備されていたようです。
天智天皇の時代、百済再興をめざす「白村江の戦い」で、唐・新羅連合軍に敗れ、西日本各地に山城や、烽火台が一斉に整備された時期のものかも知れません。
口之津開田公園の風景です。
上段は、北の端から見た風景で、下段は、ゲートの様な建物をくぐり、南に進んだ風景です。
中世ヨーロッパをイメージで整備されたとするシンメトリーの公園で幾何学模様の庭園は、自然の風景が取り入れられて安らぎを感じる日本庭園とは異質の雰囲気です。
かつて口之津で花開いた南蛮文化と、この公園のイメージは余りつながりを感じられませんでした。
白いペンキで塗られた「口之津海の資料館」を正面駐車場から見た風景です。
後方の淡いピンク色に塗られた建物は、明治32年開設の「旧長崎税関口之津支署庁舎」を再利用した「口之津歴史民俗資料館」で、右端に前方に少し見えるのが「与論館」と、三館をまとめて見学ができます。
「口之津海の資料館」には口之津が繁栄したキリシタン時代と、三池炭鉱の貿易港として繁栄した明治時代展示があり見学させて頂きました。
「口之津海の資料館」の横から渡ってきた「なんばん大橋」方向を見た風景です。
車1台が通る狭い橋で、対向車を心配して渡りましたが、人家も少なく交通量は余りないようです。
口之津港周辺の地形図でご覧頂けますが、「なんばん大橋」は、小さな入江に架けられたアーチ橋で、住宅が並ぶ狭い海岸沿いの道路のバイパスとして造られたのかも知れません。
「なんばん大橋」のたもと、「口之津海の資料館」の前に大きな南蛮船の絵が掛かっていました。
はるばる来航した南蛮船が波を蹴立てて航行し、幟をたなびかせた多くの小舟は、喜び勇んで並走する歓迎の風景でしょうか。
口之津港が南蛮貿易で繁栄した時代を彷彿とさせます。
「口之津海の資料館」に南蛮船が来航していた頃の美しい口之津港の風景画が展示されていました。
海岸を見下ろす教会、沖合に大きな南蛮船が見え、右手向こうに停泊する二艘がジャンク船としたら初来航の風景かも知れません。
1562年(永禄5)有馬義貞は、口之津港を開港したものの、初めての南蛮船来航は、5年後の1567年(永禄10)でした。
実弟の隣国の大名「大村純忠」が1561年(永禄4)に横瀬浦(大村湾の北)を開港し、1563年(永禄6)に領内の反乱と、豊後商人による焼打ちに遭い、南蛮貿易は、一時頓挫したようです。
横瀬浦事件や、領内のキリシタンの布教を懸念する義貞の父晴純(隠居中)は、キリシタンを禁止したものの1566年(永禄9)に亡くなり、解禁されたようで、口之津港への南蛮船の来航には様々な曲折があったようです。
■展示パネルの説明文です。
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南蛮船来航について
南蛮船(ポルトガル船)が最初に口之津に入港するのは1567年である。
1艘のナウ型と2艘のジャンク船だった。その後、1582年まで5回入港した。
来航の目的は、交易とキリスト教の布教であり、西洋文化の窓口となった。
この地は、有馬義貞が開港して以来、有馬侯の外港であった。
名だたる宣教師にアルメイダ、トルレス、フロイス、ヴァリニャーノらがいる。
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「口之津海の資料館」に展示されていた南蛮船の模型です。
口之津港の南蛮貿易の開港1562年からちょうど450年、記念イベントの「世界帆船模型展覧会」が近くの公民館で開催されており、パンフレットを頂きました。(時間がなく行けませんでした)
船の後部の甲板が傾斜して船尾が三階建てのように高くなっています。
昔、仙台旅行で支倉常長の乗った「サン・ファン・バウティスタ号」を再建した船を見学した時、、高い船尾には支倉常長や、船長の部屋があったのを思い出しました。
下の展示パネルによると、「南蛮船」の他に、「紅毛船」の名称で、オランダ・イギリスの船が区別されていたとされます。
確かに、南欧に多い黒髪と区別して、北欧側の「紅毛」の表現は分るような気がします。
江戸時代の長崎で続いたオランダの貿易にも「南蛮」のイメージを持っていた私には目からウロコでした。
■展示パネルの説明文です。
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南蛮船の来航と口之津
(1)南蛮船とは
ポルトガル船 南蛮船
スペイン船 黒船
オランダ船 紅毛船
イギリス船
(2)口之津入港
1.永禄10(1567)年 3艘
2.天正 4(1576)年 1艘
3.天正 7(1579)年 1艘 ヴァリニャーノ
4.天正 8(1580)年 1艘
5.天正10(1582)年 1艘
(3)日本来航と艘数
1.平戸 1550年~ 18艘
2.横瀬浦 1562年~ 5艘
3.福田 1565年~ 6艘
4.口之津 1567年~ 7艘
5.長崎 1571年~ 18艘
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「南蛮船の航路」と書かれた地図が展示されていました。
当初、ポルトガル商人は、マラッカを拠点としていましたが、マカオへ進出し、中国・日本との仲介貿易も拡大させたようです。
遠いヨーロッパからの商品を交易すると思っていましたが、日本が輸入する主体は中国の生糸だったようで、大量の銀が購入に充てられたようです。
世界遺産となった当時の石見銀山の権益は、尼子氏から毛利氏に移り、その後豊臣氏との共同管理に変遷したようですが南蛮貿易に利用されていたのかも知れません。
■展示パネルの説明文です。
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(4)日本への航路
りスボン(ポルトガル)
↓
ゴア(インド)
↓
マラッカ(マレーシア)
↓
マカオ(中国)
↓
日本
(5)貿易品
○輸入品
生糸,絹織物,砂糖,水牛角,
ビードロ,ブドウ酒,羅紗 等
○輸出品
銀,硫黄,傘,甲冑,塗物,
小麦,小麦粉,米 等
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1563年(永禄6)、この地に布教の第一歩を印した修道士「ルイス・アルメイダ」(1525年頃~1583年)の銅像の写真で、銅像は島原市の白土湖の東岸に建つ島原協会にあるものと思われます。
「ルイス・アルメイダ」は、中国・日本の仲介貿易を行う商人でしたが、フランシスコザビエルから日本での布教を託されたトーレス神父との出会で、布教活動に加わったようです。
アルメイダは、有馬義貞の承諾を得て口之津に教会を建て、翌1564年(永禄7)にはトーレス神父が移って来て、この地がイエズス会の日本の本部となったようです。
貿易で財を成し、医師でもあったアルメイダは、私財を投じて日本で初めての西洋医学の病院や、孤児院を建てた人でもあり多くの人々を救った献身的な活動がこの像からもうかがうことができます。
27歳頃、商人として初来日し、58歳で天草で没したアルメイダの偉業には深く敬服するものです。
■展示パネルの説明文です。
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ルイス・アルメイダ
ポルトガルのリスボン生まれ。
口之津には1563年にやってきて、キリスト教布教に努め、口之津に教会・病院・初等学校を建設した。
外科医であり、九州を中心に30年間の布教活動後、天草河内浦で没した。
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イエズス会東インド管区の巡察使「アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ」の肖像画です。
1579年(天正7)の初来日では、マカオから定期船で口之津へ到着、約3年間滞在し、キリスト教の布教に大きな足跡を残した人です。
ヴァリニャーノは、日本に滞在する宣教師を招集して「口之津会議」を開催、日本人聖職者の養成を決定し、島原半島にも「セミナリヨ」(小神学校)、「コレジヨ」(大神学校)が設立されることになります。
(この時代は、白人以外の多くの民族が蔑視され、聖職者に登用されなかった中での重要な決定だったようですが、日本側もポルトガル人などを「南蛮人」と呼ぶことにも問題があるようですね)
又、初来日で滞在した3年間には有馬晴信、大友宗麟などの大名の他、1581年(天正9)には織田信長に謁見して歓待を受けたとされています。
有名な「天正遣欧少年使節」もヴァリニャーノによる発案、推進とされ、1590年(天正18年)には帰国する少年使節団を伴い、インド副王使節として再来日、キリスト教を禁止した豊臣秀吉に政治的立場で謁見するなど、イエズス会の戦略的な布教政策が彼によって押し進められたことが分ります。
「口之津海の資料館」の入口付近にあったコンパクトな展示でしたが、撮影させて頂いた写真を手掛かりにキリシタン時代の口之津を知ることができました。
■展示説明文
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アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ
イタリア生まれで、大学で法学を修めた。
1579年,日本で初めて口之津に定航船で入港し、印刷機、パイプオルガン3台などをもたらした。
日本教会史上、最も重要かつ影書力の大きかった人で、口之津で全国宣教師会議を開き、今後の布教方針や神学校内規を定め、4人の少年使節をローマに送った。日本には3度来日し、1608年,マカオで没した。
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戦国時代末期、島原半島一帯を支配する大名「有馬義貞」は、実弟だった隣国の大名「大村純忠」を通じて南蛮船の来航を求め、キリスト教の布教を許したことから「口之津港」は歴史の舞台に登場することになりました。
口之津開田公園に隣接して「南蛮船来航の地」と刻まれた記念碑と、案内板が建てられていました。
何故か、この一郭は、四方を堀で囲まれ、小さな石橋を渡って入って行きます。
口之津港の海岸一帯は、埋め立てられたとされ、四方の堀は、海が埋立てられた過程を示すものかも知れません。
■「南蛮船来航の地」の案内板です。
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南蛮船来航の地
永禄五年(一五六ニ)有馬義直(義貞)口之津港を貿易港として開港
永禄十年(一五六七)司令官トウリスタン・ヴァスダウエイガの南蛮定期船の外二隻の南蛮船が入港
天正四年(一五七六)司令官シマンガルシーアのポルトガル船(ジャンク)が人港
天正七年(一五七九)ポルトガル船入港 巡察師ヴァリニァーノが口之津に着く
全国宣教師会議を口之津で開催した。
天正八年(一五八〇)南蛮定期船(ジャンク)入港天正十年(一五八ニ)南蛮船入港(これが最後の入港)
フロイス、口之津に居住し京都から届いた本能寺の変をこの地からヨーロッパに発信した。
こうして開港以来二十年間南蛮貿易商業地として栄えた。この間キリシタン布教の根拠地とし、また西洋文化の窓口としても栄えたのである。
昭和十六年ー月十七日長崎県史跡指定
口之津町教育委員会
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上段は、島原半島周辺の地形図で、下段は口之津港付近を拡大したものです。
天草諸島の北端の港「鬼池港」は、島原半島南端の港「口之津港」とフェリーで結ばれています。
熊本県の三池港は、大牟田市の東にあった三池炭鉱の積出港で、大型船が入港できなかった約30年間(1879~1909年)は、「口之津港」を上海への輸出港としていたようです。
下段は、口之津港周辺の地形図で、「開田[ひらきだ]公園」から「口之津歴史民俗資料館」の順で見て廻りました。
その途中に大きな観音像が立つ「玉峰寺」がありますが、キリシタン時代に「口ノ津天主堂」があった場所と考えられているようです。
口之津の南にある「烽火山[のろしやま]」は、googleの地図で見つけたものですが、古代の烽火[のろし]台のようにも思われます。
「肥前風土記」の高来郡(諫早市付近から南の島原半島)には「駅は四所、烽は五所」とあり、この辺りにも交通網と並行し、烽火[のろし]による軍事通信網が整備されていたようです。
天智天皇の時代、百済再興をめざす「白村江の戦い」で、唐・新羅連合軍に敗れ、西日本各地に山城や、烽火台が一斉に整備された時期のものかも知れません。
口之津開田公園の風景です。
上段は、北の端から見た風景で、下段は、ゲートの様な建物をくぐり、南に進んだ風景です。
中世ヨーロッパをイメージで整備されたとするシンメトリーの公園で幾何学模様の庭園は、自然の風景が取り入れられて安らぎを感じる日本庭園とは異質の雰囲気です。
かつて口之津で花開いた南蛮文化と、この公園のイメージは余りつながりを感じられませんでした。
白いペンキで塗られた「口之津海の資料館」を正面駐車場から見た風景です。
後方の淡いピンク色に塗られた建物は、明治32年開設の「旧長崎税関口之津支署庁舎」を再利用した「口之津歴史民俗資料館」で、右端に前方に少し見えるのが「与論館」と、三館をまとめて見学ができます。
「口之津海の資料館」には口之津が繁栄したキリシタン時代と、三池炭鉱の貿易港として繁栄した明治時代展示があり見学させて頂きました。
「口之津海の資料館」の横から渡ってきた「なんばん大橋」方向を見た風景です。
車1台が通る狭い橋で、対向車を心配して渡りましたが、人家も少なく交通量は余りないようです。
口之津港周辺の地形図でご覧頂けますが、「なんばん大橋」は、小さな入江に架けられたアーチ橋で、住宅が並ぶ狭い海岸沿いの道路のバイパスとして造られたのかも知れません。
「なんばん大橋」のたもと、「口之津海の資料館」の前に大きな南蛮船の絵が掛かっていました。
はるばる来航した南蛮船が波を蹴立てて航行し、幟をたなびかせた多くの小舟は、喜び勇んで並走する歓迎の風景でしょうか。
口之津港が南蛮貿易で繁栄した時代を彷彿とさせます。
「口之津海の資料館」に南蛮船が来航していた頃の美しい口之津港の風景画が展示されていました。
海岸を見下ろす教会、沖合に大きな南蛮船が見え、右手向こうに停泊する二艘がジャンク船としたら初来航の風景かも知れません。
1562年(永禄5)有馬義貞は、口之津港を開港したものの、初めての南蛮船来航は、5年後の1567年(永禄10)でした。
実弟の隣国の大名「大村純忠」が1561年(永禄4)に横瀬浦(大村湾の北)を開港し、1563年(永禄6)に領内の反乱と、豊後商人による焼打ちに遭い、南蛮貿易は、一時頓挫したようです。
横瀬浦事件や、領内のキリシタンの布教を懸念する義貞の父晴純(隠居中)は、キリシタンを禁止したものの1566年(永禄9)に亡くなり、解禁されたようで、口之津港への南蛮船の来航には様々な曲折があったようです。
■展示パネルの説明文です。
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南蛮船来航について
南蛮船(ポルトガル船)が最初に口之津に入港するのは1567年である。
1艘のナウ型と2艘のジャンク船だった。その後、1582年まで5回入港した。
来航の目的は、交易とキリスト教の布教であり、西洋文化の窓口となった。
この地は、有馬義貞が開港して以来、有馬侯の外港であった。
名だたる宣教師にアルメイダ、トルレス、フロイス、ヴァリニャーノらがいる。
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「口之津海の資料館」に展示されていた南蛮船の模型です。
口之津港の南蛮貿易の開港1562年からちょうど450年、記念イベントの「世界帆船模型展覧会」が近くの公民館で開催されており、パンフレットを頂きました。(時間がなく行けませんでした)
船の後部の甲板が傾斜して船尾が三階建てのように高くなっています。
昔、仙台旅行で支倉常長の乗った「サン・ファン・バウティスタ号」を再建した船を見学した時、、高い船尾には支倉常長や、船長の部屋があったのを思い出しました。
下の展示パネルによると、「南蛮船」の他に、「紅毛船」の名称で、オランダ・イギリスの船が区別されていたとされます。
確かに、南欧に多い黒髪と区別して、北欧側の「紅毛」の表現は分るような気がします。
江戸時代の長崎で続いたオランダの貿易にも「南蛮」のイメージを持っていた私には目からウロコでした。
■展示パネルの説明文です。
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南蛮船の来航と口之津
(1)南蛮船とは
ポルトガル船 南蛮船
スペイン船 黒船
オランダ船 紅毛船
イギリス船
(2)口之津入港
1.永禄10(1567)年 3艘
2.天正 4(1576)年 1艘
3.天正 7(1579)年 1艘 ヴァリニャーノ
4.天正 8(1580)年 1艘
5.天正10(1582)年 1艘
(3)日本来航と艘数
1.平戸 1550年~ 18艘
2.横瀬浦 1562年~ 5艘
3.福田 1565年~ 6艘
4.口之津 1567年~ 7艘
5.長崎 1571年~ 18艘
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「南蛮船の航路」と書かれた地図が展示されていました。
当初、ポルトガル商人は、マラッカを拠点としていましたが、マカオへ進出し、中国・日本との仲介貿易も拡大させたようです。
遠いヨーロッパからの商品を交易すると思っていましたが、日本が輸入する主体は中国の生糸だったようで、大量の銀が購入に充てられたようです。
世界遺産となった当時の石見銀山の権益は、尼子氏から毛利氏に移り、その後豊臣氏との共同管理に変遷したようですが南蛮貿易に利用されていたのかも知れません。
■展示パネルの説明文です。
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(4)日本への航路
りスボン(ポルトガル)
↓
ゴア(インド)
↓
マラッカ(マレーシア)
↓
マカオ(中国)
↓
日本
(5)貿易品
○輸入品
生糸,絹織物,砂糖,水牛角,
ビードロ,ブドウ酒,羅紗 等
○輸出品
銀,硫黄,傘,甲冑,塗物,
小麦,小麦粉,米 等
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1563年(永禄6)、この地に布教の第一歩を印した修道士「ルイス・アルメイダ」(1525年頃~1583年)の銅像の写真で、銅像は島原市の白土湖の東岸に建つ島原協会にあるものと思われます。
「ルイス・アルメイダ」は、中国・日本の仲介貿易を行う商人でしたが、フランシスコザビエルから日本での布教を託されたトーレス神父との出会で、布教活動に加わったようです。
アルメイダは、有馬義貞の承諾を得て口之津に教会を建て、翌1564年(永禄7)にはトーレス神父が移って来て、この地がイエズス会の日本の本部となったようです。
貿易で財を成し、医師でもあったアルメイダは、私財を投じて日本で初めての西洋医学の病院や、孤児院を建てた人でもあり多くの人々を救った献身的な活動がこの像からもうかがうことができます。
27歳頃、商人として初来日し、58歳で天草で没したアルメイダの偉業には深く敬服するものです。
■展示パネルの説明文です。
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ルイス・アルメイダ
ポルトガルのリスボン生まれ。
口之津には1563年にやってきて、キリスト教布教に努め、口之津に教会・病院・初等学校を建設した。
外科医であり、九州を中心に30年間の布教活動後、天草河内浦で没した。
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イエズス会東インド管区の巡察使「アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ」の肖像画です。
1579年(天正7)の初来日では、マカオから定期船で口之津へ到着、約3年間滞在し、キリスト教の布教に大きな足跡を残した人です。
ヴァリニャーノは、日本に滞在する宣教師を招集して「口之津会議」を開催、日本人聖職者の養成を決定し、島原半島にも「セミナリヨ」(小神学校)、「コレジヨ」(大神学校)が設立されることになります。
(この時代は、白人以外の多くの民族が蔑視され、聖職者に登用されなかった中での重要な決定だったようですが、日本側もポルトガル人などを「南蛮人」と呼ぶことにも問題があるようですね)
又、初来日で滞在した3年間には有馬晴信、大友宗麟などの大名の他、1581年(天正9)には織田信長に謁見して歓待を受けたとされています。
有名な「天正遣欧少年使節」もヴァリニャーノによる発案、推進とされ、1590年(天正18年)には帰国する少年使節団を伴い、インド副王使節として再来日、キリスト教を禁止した豊臣秀吉に政治的立場で謁見するなど、イエズス会の戦略的な布教政策が彼によって押し進められたことが分ります。
「口之津海の資料館」の入口付近にあったコンパクトな展示でしたが、撮影させて頂いた写真を手掛かりにキリシタン時代の口之津を知ることができました。
■展示説明文
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アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ
イタリア生まれで、大学で法学を修めた。
1579年,日本で初めて口之津に定航船で入港し、印刷機、パイプオルガン3台などをもたらした。
日本教会史上、最も重要かつ影書力の大きかった人で、口之津で全国宣教師会議を開き、今後の布教方針や神学校内規を定め、4人の少年使節をローマに送った。日本には3度来日し、1608年,マカオで没した。
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