昔に出会う旅

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長崎旅行-2 「玖島城跡」と大村藩を支えた人々

2012年12月05日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行1日目、「大村純忠史跡公園」の次は、大村藩の居城「玖島城跡」の観光です。



上段のマップは、観光案内所で頂いた「大村城下町まち歩きガイドマップ」「玖島城跡」の一部分です。

「玖島城跡」の散策順を、観光案内所横の駐車場(1)→駐車場横の池(2)→「玖島城跡」の北側の坂道(3)→搦手門(4)→城内(5)→虎口門跡(6)→城郭北西角(7)→駐車場(1)と回りました。(マップに印した各地点の番号をご参照下さい)

下段は、「玖島城跡」周辺の地形図です。

地形から見ると「玖島城」は、遠浅の海岸近くの島を利用して築城されたものと思われ、海にそびえる城では、小早川隆景が築城した「三原城(浮城)」を連想します。

かつての城は、東側に二本、南側に一本の道のみで東の海岸とつながっていたようで、城の北側は後世の埋め立てのようです。



観光案内所(マップ1)から城へ向かって歩くと広い「桜田の堀」が見えてきました。(マップ2)

中央に庭園らしい中島があるものの、海岸近くの海が堀として残されたものと思われます。

比較的小さな城でしたが、この広い「桜田の堀」を見ると堂々たる規模の城に見えたのかも知れません。



坂道を登ると城壁が見えてきました。(マップ3)

前方の城壁から左折、左手の城壁を手前に進み、搦手門跡から入って行きました。



搦手門跡を本丸内から見た風景です。(マップ4)

築城当初は北に向いたこの場所が大手門だったようですが、15年後の改築で搦手門に変更されたようです。

大村は、北から伸びる半島の西海岸にあり、大手門を北としたのは、北からの敵に備えるためだったのでしょうか。

南に変更された理由など知りたいものです。



搦手門跡の横の塀の下に長い雁木(石段の設備)が設けられ、塀には矢狭間、鉄砲狭間が見られます。

塀に空いた長方形の穴が矢狭間、三角の穴が鉄砲狭間で、城壁に沿った長い雁木は、大勢の兵士が機動的に行動するための設備と思われます。



案内板にあった「江戸後期の玖島城本丸」の絵図です。

本丸内には天守閣がなく、藩主居館や、政庁などがあったようで、西の「虎口門」を出ると「二の丸」、更に南の大手門に通じています。

本丸南の「台所門」は、東の藩主居館へ通じる門で、一般に藩主居館を「(御)台所」と呼ぶことから名付けられたようです。

■現地の案内板より
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玖島城[くしま]本丸跡
 ここは、大村藩二万七千石の居城である玖島城の本丸跡です。玖島城は、慶長四年(一五九九)に造られた城です。その後、慶長十九年(一六一四)に大改修を行い、それまで北側にあった大手を南側の大手に改修し、この時、虎口[こぐち]門、台所門、搦手[からめて]門の三つの入ロの形が定まったと伝えられよす。
 本丸の敷地の内、西半分にあたる大村神社本殿のある一帯には大広間など侍詰所(政庁)があり、東半分の玖島稲荷神社のある一帯には藩主の居館がありました。城に天守閤はなく、平屋の御殿でした。本丸を巡る石垣の上には塀を埋らし、矢狭間、鉄砲狭間、石火矢狭間が設けられ、護摩堂や多聞櫓があったと記録されています。
 左の絵図は江戸後期の玖島城本丸を描いたもので、政庁や藩主居館の位置や間取りを見ることができます。
 玖島城は、明治四年の廃藩置県で大村県庁が置かれましたが、すぐに長崎県に合併されたことにより不要となり、建物は取り壊されました。その後、明治十七年に旧藩家臣により大村家歴代を祀る大村神社が建立され、現在に至っています。
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本丸の中央に建つ「大村神社」です。(マップ5)

大村氏の祖霊を祀る神社ですが、戦国時代以前からこの地域を治める武家だけに土地の人々から広く親しまれているようです。

拝殿前の左右に柵に囲まれた「オオムラザクラ」は、九州の桜では2例しかない国指定天然記念物となっているようです。

又、その近くに県指定天然紀念物「クシマザクラ」もあり、「大村神社」は珍しい桜の品種が見られるスポットのようです。

■現地の案内板より
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大村神社由来
大村神社は藩祖遠江守直澄公以来歴代の神霊を奉齋した御社でありまして文化二年(1805)に時の大村家二十八代藩主)大村上総介純昌公が西大村池田山に御創建になり常盤神社と称し東、西彼杵郡内一町十四ヶ村の人々の崇敬が殊に深かったのであります。
明治に入り旧大村藩の総産土神として大村家累代の居城であり、風光明媚な玖島城址に御遷し申し上げる事になり、朗冶十七年(1884)には旧大村藩内崇敬者の御寄附と労力奉仕とにより現在地に新たに社殿を建て御遷座申し上げ大村神社と改称されたのであります。
明治十八年二月十九日には県社に昇格、神格としては薩摩、長州、土佐の三藩主と同様明治維新の功により当然別格官弊社に御昇格なさるべきでありましたが種々の事情に依って遂にその実現を見る事が出来ませんでした。昭和二十年大東亜戦争終結以後は神社法規の変革に伴って宗教法人として認められましたが昭和三十年秋には御遷座七十周年を期して大村家から境内地の御寄進があり、又近くは旧大村藩領を初め東京、京阪神地区の崇敬者各位の熱誠な御援助を受けて御神輿及び御神宝器具類の新調が出来まして記念の大祭を盛大に奉仕致しました。
かくして本社は由緒ある歴史と環境の美と共に御神徳いよいよ高く春秋の大祭には参詣者も多く奉納の催しものも年々賑わしく人々は郷土大村の大祭として心からお慕ひ申し上げて崇敬の誠を捧げております。
境内には中祖喜前公遺徳碑、幕末の名君純熈公銅像、大村神社紀功碑、貝吹石、御居間跡碑、大村桜、角館しだれ桜、等歴史の数々を物語るものが多く拝殿掲額は陸軍大将栖川宮熾仁親王の揮毫であります。
 祭 典 日
  例祭  四月七日、八日、九日
  季大祭 十月十六日
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■現地の案内板より
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国指定天然記念物
大村神社のオオムラザクラ
 オオムラザクラは、昭和十六年、当時、大村の女子師範学校の教官であった外山三郎(のち長崎大学名誉教授)によって学会に報告され、命名された大変珍しい品種で、八重桜の一種です。
 花は、八重桜を二つ重ねたような独特の.二段咲きで、下の花を外花、上の花を内花といい、外側にあるがく片は十救(桜の基本は五枚)、花弁の数が、多いものでは二〇〇枚にも達するなどの特徴があります。
 大村公園に多く見られますが、大村神社社殿前の二本が、昭和四十二年に国の天然記念物に指定されました。ソメイヨシノより少し遅く、四月の中旬以降にピンクの花をつけます。
 大村市の市花となっでいます。
 平成八年三月
         大村市教育委員会
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■現地の案内板より
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県指定天然紀念物
大村神社のクシマザクラ
 大村神社の同じ境内の中に、珍種として国の指定を受けたオオムラザクラがあります。これを発見した外心三紳氏は、オオムラザクラを研究しているうちに、この中にタイプの違った特異な品種を発見しました。これが学会に報告され、昭和ニ十二年にクシマザクラと命名されました。
 咲く花の内、約半数が花の中に花が咲くという二段咲きとなります。めしべは二枚の小さい葉に変わっており、二段咲きのものではこのめしべの中に小さい不完全な内花を包み込んでいます。花びらの数は、四〇~五〇枚とオオムラザクラよりやや少な目ですが、直径四・五cmのピンクの上品な花が四月後半に咲きます。
 昭和四十二年県の天然紀念物に指定されました。
平成九年三月
大村市教育委員会
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大村神社の横に初代藩主「大村喜前公」の石碑と、最後の藩主「大村純熈公」の銅像が建っていました。

初代藩主「大村喜前[よしあき]公」(1569~1616年)は、龍造寺氏支配から脱却し、豊臣政権傘下への移行、キリスト教の棄教、徳川政権傘下への移行など激動の時代を見据え、その後の大村藩の基礎を築く決断をしています。

右の銅像、最後の藩主「大村純熈[すみひろ]公」(1831~1882年)は、佐幕派・尊皇派などに分裂する藩論をまとめ、尊王討幕の方針を決め、官軍として戊辰戦争へ従軍しています。

代々の大村家当主には時代の変化を読み、勝ち組を見抜くDNAでもあったのでしょうか。

■大村喜前公の石碑の説明板です。
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 中祖 大村喜前公遺徳碑
 大村喜前は、キリシタン大名太村純忠の長男として生まれ、幼くして洗礼を受け、霊名をドン・サンチョと称しました。その後、佐賀の龍造寺隆信のもとに送られ、人質として過ごしました。
 純忠についで大村家を相続し、大村家第十九代となり、秀吉の薩摩天草攻め。朝鮮出兵に従軍し、戦功をたてました。秀吉の死後、天下が乱れるのを恐れて、慶長四年(一五九九)玖島城を築いて、新しい城下町を造りました。徳川幕府が開かれると、本領を安堵され、初代藩主となります。一方、キリスト教の禁止が厳しくなることを察知し、領地を守るため、キリスト教を棄て日蓮宗に改宗し、本経寺など多くの社寺を建立しました。
 さらに朝鮮出兵の論功行賞を兼ね、ご一門払いという家臣団の改革を行い、藩主の権威を確立し、家臣団の結束を固くしました。また、二回にわたり、領内の総検地を行いました。
 このように、喜前は藩政の基礎固めを進めていきましたが、元和二年(一六一六)四十八歳で急逝しました。本経寺に葬られ、「中興の租」とあがめられています。この碑は大正四年に建立されたものです。
 昭和五十七年二月
   大村市教育委員会
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■「長崎県の歴史」(山川出版社発行)、藩主純熈が尊王討幕の方針決断の記述です。
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政局の緊迫化のなか、文久三年には、幕府から長崎奉行に任命されるという前例のない事態になったが、藩内では尊皇穣夷論がしだいに優勢となり、針尾九左衛門・長岡治三郎ら三七士が同志を糾合して血盟(十二月)をもって改革派を形成し、翌元治元(一人六四)年八月に純熈が長崎奉行を辞任するとともに、十月に藩内佐幕派を一掃する政変(元治政変)がおこった。この後、慶応三(一八六七)年に、改革派のうち針尾ら二人が反対派に暗殺されるなどの事件もおきたが、藩全体としては改革派を中心に尊王討幕へと方針が定まり、維新においても討幕軍の一翼をになうこととなった。
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大村神社の前方に珍しい「貝吹石」が置かれていました。

戦国時代、戦いの合図で、「法螺[ほら]貝」の代用品としたとされ、小さな穴を吹くと、大きな穴から音が出るようです。

大きな穴は、吹いた人の左耳辺りに響く位置にあり、吹く人は耳をふさで吹いていたのでしょうか。

「貝吹石」の近くに大村藩の重臣「大村彦右衛門純勝」の石碑があり、純勝が大村藩の存続に大きく寄与たことが刻まれています。(下に碑文を掲載)

「大村彦右衛門純勝」の碑文の最初頃に「御一門払い」とありますが、大村鈍忠が開港した長崎港と、その貿易権益を豊臣・徳川に没収され、大村藩の財政立て直しのためのリストラ政策だったようです。

■案内板より
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貝吹石(通称ほら石)
 円形の野石であって、上に大小二つの穴があり、小さな方を吹くと法螺貝の音を出すので此の名がある。萱瀬村から寄附されたもので昔天正年間竜造寺隆信が萱瀬村を襲撃の時、同村の郷士等が藩主純忠の命を奉じて菅無田の砦に立籠り隆信と戦うとき此石の穴を吹いて合図の陣具に代用し終に敵を追い退けたと云う伝説がある。
 大村市商工観光課
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■石碑の説明板です。
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大村彦右衛門純勝碑
 大村彦右衛門純勝は、大村鈍忠から鈍信までの四人の当主に仕えました。玖島城の築城や御一門払いといった重要な政策に関わるなど、大村家の発展に大きな役割を果たしました。その中でも有名なのが、三代藩主大村鈍信の跡目相続の時の話です。
 一六一九年(元和五)、二代藩主純頼が急死しますが、大村藩は当時二歳の松千代(後の鈍信)の誕生を幕府に届け出ておらず、大村藩は跡継ぎの断絶による取り潰しの危機に直面しました。そこで彦右衛門は、松千代と共に江戸へ行き、半年にあたって幕府と交渉し、ついに跡目相続を認めてもらいました。
 この碑は、そうした彦右衛門の忠節を称え、一九〇七年(明治四十)に大村出身の人びとによって建立されました。裏の「顕忠碑」の文章は、幕末の志士として活躍した渡辺昇によるものです。
平成二十四年二月
   大村市教育委員会
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■「長崎県の歴史」(山川出版社発行)より「御一門払い」関係の記述です。
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中世以来、戦国大名として続いてきた大村氏が、近世を迎え、その藩主権力の確立のために行ったのは、庶家一門の知行を取りあげ、追放をも辞さない形での「御一門払い」という名の一種のクーデタであった。慶長十二(一六〇七)年に、庶家一門二〇家のうち一三家の知行地をことごとく没収したそれは、長崎を失い、貿易利潤には期待できなくなった大村藩の財政的基盤をシフトしなおすとともに、藩主の主導権を確固としたものにした。
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本丸の西側にある「虎口門跡」です。(マップ6)

向かって右前方に進むと本丸へ上がる階段、左手前方に進むと本丸北西(マップ7)です。

「江戸後期の玖島城本丸」の絵図にある虎口門を見ると、門の外には三方の石垣からの攻撃が出来、門を入っても三方の石垣と、石段の上からの攻撃が出来るようにして守備を固めていたようです。



「虎口門跡」の前に石碑や、銅像が並んでいました。(マップ6)

自然石を積み上げた大きな石碑に「戊申戦役記念碑」とあり、その手前の説明板には官軍として出兵した人々を讃える内容が刻まれています。

写真左下は、石碑と並ぶ「少年鼓手浜田勤吾」の銅像の正面風景です。

東北秋田での戦いで浜田少年が戦死した時、内襟から見つかった涙する母の歌から、大村藩の戊辰戦争を象徴する物語となり、語り継がれているようです。

■「戊申戦役記念碑」の石碑の説明板です。
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 碑 文
明治二年六月わが大村藩「二万七千石」は戊辰戦役の勲功により薩長土につぎ「三万石」の賞典禄を給せられ且、優渥なる感状を賜わる。
これ偏に明治維新の大業成就のため藩主「純熈公」を中心とし藩論を一定し上下一致粉骨砕心以って勤王の誠を捧げたる所以なり。
この戦役に際し大村藩は京都に到りては禁裏を守護し大津に進む、その後東海道征討軍先鋒として箱根の関を越え江戸に進撃す。江戸に於ては上野彰義隊の討伐に参加する。
慶応四年六月奥羽の賊軍追討の命下るや吾が東征軍総督土屋善右衛門以下一一〇名は藩地よりの応援隊総司令大村弥門以下一一〇名を併せ一隊を編成し薩摩、佐土原と共に進んで会津の強敵を屠り大いに戦功を立つ。又北伐軍「吾往隊」は羽州舟川港に上陸以来角館刈和野神宮寺等に転戦し殊勲を立つ。
しかし悲しくもこの戦役に於いて少年鼓手浜田勤吾を初め戦死二十二名戦傷五十七名の犠牲者を出す。この秋往時を想い、ここに碑を建て勤王の志篤く名君なりし藩主「大村純熈公」の御遺徳を敬慕し併せて従軍将兵の勲功を称えんとする。
平成元年十一月吉日
     吾往会会長 中瀬正隆
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■銅像の説明板です。
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少年鼓手浜田勤吾
明治維新への夜明け慶応四年戊辰の役あり
大村藩早くより勤王に尽し薩長土州に伍して東征北伐の軍を進む秋田救援の北伐隊三百二十五名様式装備し精強たり二番小隊に鼓手浜田勤吾あり
紅頬十五才の美少年にして常に先頭に軍鼓を打ち隊の士気を鼓舞すること勇敢なり
九月十五日刈和野に激戦し雨霰する飛弾に倒るる者多く勤吾遂に二弾を浴び「お母さん」と絶叫し戦死す
鼓音消えて秋風索漠たり屍を角館常光院に納む
内襟に母チカ女の一首あり
 ふた葉より手くれ水くれ待つ花は
   君かためにそ咲けよこのとき
子を思い励ます門出の歌に万人みな涙せり
星霜移りてここに百十八年今や銅像故山に建つ
あゝ浜田勤吾鼓手の姿よ永久に香れかし
  昭和六十一年十一月吉日
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虎口門跡から北に進んだ突き当りの風景で、ここにも石碑がたっていました。(マップ7)

石碑の説明板を読むと、江戸時代初期の1628年に台湾と日本の貿易にオランダの権益拡大が絡んだ紛争「タイオワン事件」があり、勇敢に戦った貿易船船長「浜田弥兵衛」の石碑でした。

江戸幕府により外国との貿易が次々と制限される時代で、鎖国時代に貿易を続けたオランダとの間にこのような紛争があったことに驚き、映画を見るようなスリリングな事件の顛末は実に興味深いものでした。

大村の地は、キリシタン大名「大村純忠」しか知りませんでしたが、「玖島城跡」を巡り、純忠の後に大村藩を守った初代藩主「大村喜前」、重臣「大村純勝」、幕末の藩主「大村純熈」、戊辰戦争で戦った兵士など、小さな藩を懸命に支えた人々の物語を知りました。

■石碑の説明板です。
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浜田弥兵衛の碑
 浜田弥兵衛重武は、江戸初期の朱印船貿易家で長崎代官末次平蔵配下の船長です。朱印船とは、幕府の渡海許可証(朱印書)をもって貿易を行った船を指し、鎖国前の貿易の形態でした。
 寛永二年(一六二五)弥兵衛は台湾に渡り、商品を買い入れましたが、当時港を支配していたオランダ側の課税に抵抗したため、オランダの長官により押収され、弥兵衛らはやむなく帰国しました。
 三年後、弥兵衛は再び台湾へ渡りましたが、なお、長官ノイツにより、将軍から台湾住民への賜物を押収されたり、帰国の許可を出さないなど不法な処置を受けたため、長官を人質に立てこもり、前に押収された商品を全て取り返し、更にノイツの子ローレンツら五人の人質とオランダ船具を連れ帰り、長崎へ戻りました。このとき連れてこられたオランダ人たちは、末次平蔵の命により、大村と島原の牢に分けて拘留されました。この間題は、日本とオランダの貿易の中断という大きな問題となりましたが、末次平蔵の死とオランダ側が長官ノイツを日本へ引き渡したため、寛永十年(一六三三)ようやく解決しました。大村藩においてオランダ人を監禁した牢は、現在のバスターミナル付近で 「オランダ牢」として伝えられています。
 弥兵衛の起こしたこの事件は、台湾における貿易において日本を排除しようとしていたオランダに対して抵抗するものでしたが、その後の交渉により日本とオランダの貿易は存続されることとなりました。
 この碑は、語り継がれた称兵衛の活躍に対して大正十四年従五位を贈られた時に建立されたものです。弥兵衛の子孫は代々大村藩に仕えており、戊長の役で戦死した少年鼓手浜田勤吾少年もその一人です。墓は、下久原の多々良墓地の中にあります。
  平成九年三月
        大村市教育委員会
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