昔に出会う旅

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南九州旅行No.4 神武天皇を祀る「狭野神社」

2012年05月22日 | 九州の旅
南九州旅行1日目、熊本県人吉市の観光を終え、国道221号を都城市方面へ向かいました。

次のスポットは、霧島連山の東麓、宮崎県高原町の「狭野神社」です。

熊本県人吉市と、宮崎県都城市を結ぶ国道221号の県境付近には熊本県側に「人吉ループ橋」、宮崎県側に「えびのループ橋」があります。

想い出にと走ってみましたが、ループ橋の規模が大きく、らせん状のイメージを捕える写真は撮れませんでした。



直線の道が続く、「狭野神社」の表参道です。

長い参道の両側には、杉の大木がそびえ、神社の風格を感じさせられます。

「狭野神社」の名は、神話の「神武天皇」の幼名「狭野皇子」にちなんでおり、近くには降誕の伝承地「皇子原」があります。

大正時代から終戦まで、神武東征以前の宮だったとされる「宮崎神宮」(宮崎市)の別宮とされていた時期もあったようです。



「狭野神社」付近の地図です。

霧島連山の東にそびえる「高千穂峰」は、天孫降臨神話に結び付けられた山岳信仰の山で、かつてはその中腹に「霧島岑神社」が祀られていたようです。

963年、天台僧「性空上人」がこの地で修業し、「霧島岑神社」への参詣の便を考慮して山麓に5社を分社、「狭野神社」は、その1社とされています。

地図に赤い鳥居で示した分社は、霧島神宮(地図左下)・霧島東神社(地図狭野神社南)・東霧島神社(地図右下)・狭野神社(地図中央付近)ですが、霧島岑神社(狭野神社北)は、火山噴火のため山腹から分社の夷守神社のあった現在の場所へ移設され、夷守神社の名が無くなったようです。

分社5社の総称「霧島六社所権現」の名は、天孫三代の夫婦神6座を祀ることから名付けられたとされ、以下がその神様です。

・瓊々杵命[ににぎのみこと]・木花咲耶姫命[このはなさくやひめのみこと]
・彦火々出見命[ひこほほでみのみこと]・豊玉姫命[とよたまひめのみこと]
・鸕鷀草葺不合命[うがやふきあへずのみこと]・玉依姫命[たまよりひめのみこと]



西参道入口にあった境内案内図です。

中央付近に御社殿、その右(東)に社務所が建ち、表参道は、東から西に進んで行きます。

参道は、右の駐車場を突き抜け、更に東へ長く伸びているようです。



表参道を進んで行くと、赤い橋の下を小さな谷川が流れていました。

杉の木立から漏れた日差しが橋の上を照らし、爽やかな5月の参道でした。

下記の神社の案内では「狭野神社」の祭神は、「神日本磐余彦天皇[かむやまといはれひこのすめらみこと]」(神武天皇、御幼名 狭野尊)で、妃の「吾平津姫命」と、他六柱を配祀しているようです。

「他六柱」は、天孫三代の夫婦神6座と思われ、明治時代からの宗教政策で「霧島六社権現」から「神武天皇」を祀る神社への転換されたことがうかがわれれます。

■社殿前にあった神社の略記です。
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狭野神社(略記)
(旧 官幣大社宮崎神宮別宮、現 別表神社)
神祭神 神日本磐余彦天皇(第一代の天皇) (神武天皇、御幼名 狭野尊)
配 祀 吾平津姫命 他六柱
 当社は、孝昭天皇(人皇第五代)の御代、神武天皇の御降誕の地に社殿の創建があったのが当社の創祀という。その後、再三に亘る霧島山の噴火により社殿等炎上の災厄に遭ったが、慶長一五年(一六一〇)現在地に社殿を造営還座された。その他、藩主島津氏より社殿の改築、社領の寄進等が行われた。
 太古、天皇は日向の国(宮崎県)より大和の国(奈良県)に入り、辛酉の春(二月十一日)橿原の宮に即位された。我が国ではこの年を建国の時として紀元元年としている。そして天皇は、民生安定を目標とし、同胞一体、国土の開発経営に当られた。その治績徳望を称へて、始馭天下之天皇とも申し上げている。
 ここに日本国の基礎、政治の基本が定められた。日本人は神武天皇を建国の英主と仰ぎその聖徳を怠れない。また天皇は一二七歳迄長命であったと言われている。
 当社は、古来霧島六社権現(霧島神宮他)の一つとして、事始めの神(事業所安全)、厄除開運、交通安全、子供達の守り神、長寿の神として人々の篤い崇敬をあつめている。

●主な祭典行事
  例  祭 十月二十三日 当社最大の祭典
  祈 年 祭 二月 十八日 岡日苗代祭の特殊神事が斎行される
  その他 紀元祭二月十一日(奉祝行事)御田植祭五月十六日(棒踊り、奴踊りなどの奉納
  狭野夜神楽十二月第一土曜日(第二鳥居付近にて徹宵奉納される)
●史跡名勝
  皇 子 原
  当社より西約一キロメートル高千穂峰の麓で神武天皇御降誕の聖地と伝えられている
  狭 野 杉
  参道の巨杉は、今から四百年前植栽され現在十本残り国の天然記念物に指定されている
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「狭野神社」の神門付近の風景です。

薄暗い杉並木の参道から神門をくぐると、向こうには神を祀る明るい境内が開けています。

神門は、比較的簡素な白木造りで、伊勢神宮に似た雰囲気が感じられます。

明治時代以降の改築によるものでしょうか、神仏習合時代の「霧島六社権現」の特徴は消されたのかも知れません。



神門をくぐった前方にしめ縄が張られた大きな杉がそびえていました。

杉の周囲は柵で囲われており、神木としているのでしょうか。

右手の石段を進むと社殿の正面です。

■杉の大木の前に立てられた案内板です。
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狭野杉の由来
慶長四年薩摩藩主 島津義弘公、重臣 新納[にいろ]武蔵守忠元を遣はし当神社別当寺神徳院の住職 宥淳法印[ゆうじゅんほういん]と協力し植栽せるものと伝ふ。樹令正に四百年に垂[なんな]んとす。大正十三年 国の天然記念物に指定せらる。
樹高六十一、三m ・ 目通り六~七m ・ 根元九m
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狭野杉のそばに薩摩藩の重臣「新納忠元」の歌碑があり、その前に歌の解説が刻まれた石版もありました。

藩主の命で狭野杉の植栽に関わったとされる「新納忠元」は、戦国時代の島津藩の家臣の中では最も名を馳せた猛将で、歌にも優れた才能があったようです。

この歌は、85歳の忠元が亡き妻を偲び、春風に妻の消息を尋ねる歌のようです。

戦国時代に生まれ、藩主四代(忠良・貴久・義久・義弘)約70年間仕え、関ヶ原の戦いから10年、薩摩藩が琉球を武力制圧した翌年の歌でした。

忠元が他界したのは、この歌を詠んだ半年後の12月、戦いに明け暮れた激動の生涯に終止符を打ち、亡き妻のもとに行く日が近づいた忠元の心境が感じられます。

■歌碑に刻まれた「新納忠元」の歌です。
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「散りていに 花の行方は 風や知る 吹き伝えても 我に教えよ」
  新納武蔵守 忠元
  慶長15年春
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「狭野神社」の拝殿正面の風景です。

いつもながら家族・親族の健康と、旅の安全をお祈りしました。



参拝後、神門近くから社殿をやや斜めから見た風景です。

社殿は、拝殿の後方に幣殿、本殿と並び、一般的な構成ですが、境内に立った雰囲気は厳粛さを感じるきれいな神社でした。

右手の小さな建物に「祈願受付所」の看板がありました。

この一画には社務所がなく、西参道からの参拝者にも配慮した施設のようです。



境内案内図にもあった社殿東側に建つ社務所です。

不景気な時代、閑散とした境内を考えると、今では立派過ぎる建物に見えてしまいます。

地方の人口が減少し、神社の氏子や、寺院の檀家も減少する時代、各地の神社仏閣に活気が戻る日はあるのでしょうか。



大きな木の下に「別当寺跡」と書かれた案内板がたっていました。

社殿前の「狭野杉の由来」の案内板にあった「別当寺神徳院」はこの場所に建っていたようです。

霧島連山の噴火による破壊だったのか、明治時代の神仏分離、廃仏毀釈によるものかは分かりませんが、ここでは神仏習合の霧島六社権現信仰は廃れてしまったようです。

参道にそびえる狭野杉を見上げ、耳を澄ますと、杉の植栽に尽力した別当寺神徳院の住職のため息が聞こえてくるかも知れません。