昔に出会う旅

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北海道旅行No.38 日本の近世最後の城郭「松前城」

2011年12月12日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)11時頃、北海道南端に近い「松前」に到着しました。

中世以降、蝦夷地への和人の進出は次第に増加し、「松前」は長い間アイヌとの交易を取仕切る中核拠点でした。

明治時代になり、「北海道」は水産業に加えて本格的な農業が始まり、広い内陸を包括的に管理する札幌にその座を譲ることになったようです。

しかし、中世から江戸時代までの蝦夷地の歴史に触れるには、やはりこの松前周辺になります。



江戸時代中期、北前船で賑わう松前の風景が描かれた「松前屏風」の一部です。(小玉貞良筆・宝暦年間[1751~1763])

松前城資料館で頂いたパンフレットに載っていたものですが、北前船で賑わう当時の松前の様子がよく伝わってきます。

「松前城(福山城)」は、アイヌの攻撃に備えて「大松前川」(東)と、「小松前川」(西)に挟まれた小高い台地に造られ、絵には天守閣のなかった当時の館が描かれています。

天守閣を備えた本格的な築城は、江戸時代末期の1849年(嘉永2)のことで、ロシアなど外国船に対する警備を目的とするものに変っていったようです。



松前城(福山城)の東側に「松前町役場」があり、正面の壁に「史跡 松前奉行所跡」の看板が設置されていました。

かつてこの場所に松前の町を取仕切る松前奉行所と、町会所があったようです。

向かいには無料駐車場があり、ここから松前城へ登っていきました。



「三の丸」の「番屋跡」にあった松前城(福山城)の現在の様子を知る縮小模型の写真です。

赤い字の番号は、今回掲載した12枚の写真の掲載順です。

向かって左に追手門がありますが、右手の「松前町役場」(縮小模型-2)から天守閣を往復するコースで見学しました。



「松前町役場」の北側の道を進むと「大松前川」に架かる橋の向こうに城に続く「馬坂」がありました。

「馬坂」は、「三の丸」から「搦手二ノ門」に至るジグザクの道で、攻め上る敵の列に横から攻撃する工夫をしたのでしょうか。

「大松前川」は、名前とは大違いの小さな川で、城の堀の機能はとうてい期待できないものです。

アイヌの軍団や、外国船団を想定して築城されたと思われますが、箱館戦争ではこの坂から旧幕府軍に攻め込まれて陥落したようです。

■橋の袂に馬坂の案内が記された立て札がありました。
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二級河川 大松前川
          北海道
馬坂の由来
 江戸時代に松前藩士が登城したと伝えられる馬坂は「数馬坂」と呼ばれていたのが縮まり、現在の馬坂と呼ばれるようになったと伝えられている。
 松前家五世・藩主松前慶廣の四男・数馬之介由広が大阪冬の陣(1614)が起きる直前、慶廣の意に反して豊臣方につこうとしたため、家臣に襲われ、斬り殺された場所とも伝えられている。
 当時、城内へ通ずる坂は五つあり(馬 出口・天神坂・馬坂・湯殿沢口・新坂)馬坂はその一つである。
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馬坂を登ると「三の丸」で、すぐ南側に「天神坂門」があります。

「本丸」、「二の丸」を囲む「三の丸」は、外国船からの砲撃に備えて土塁で囲っているようですが、「天神坂門」は、城門とは思えない驚くほどきゃしゃなものでした。

向かって左の建物は「七番台場跡」で、門の右側にも「六番台場跡」があります。



「天神坂門」を下から見上げた風景で、ジグザグの坂道は「天神坂」だそうです。

登って来る敵を銃や大砲で攻撃するには門を開放するか、土塁の上からのようで、この城郭は外国船への対応のみが考慮されているように見受けられます。

「天神坂」は、かなり急な坂道で、ジグザグの道は、歩ける傾斜を考慮したためかも知れません。



「三の丸」の内側に一段高くなった「二の丸」(右側)を囲む狭い掘りがありました。

石垣が築かれた掘りと、白い塀が日本の城郭を感じさせてくれます。




「三の丸」から掘りの橋を渡り、「搦手二ノ門」に向かう風景です。

「搦手二ノ門」の前は傾斜のある広場で、中央付近に石垣で丸く築かれた「三本松土居」とされる施設がありました。

「三本松土居」とは、松の生えた土塁と解釈出来ますが、敵の攻撃から門を守るための施設か、珍しいものです。



「搦手二ノ門」をくぐり、正面に見えた風景です。

城の案内図では手前の建物は、「御多門」で、現在は「松前城資料館」の受付の建物でした。

後方の三階建ての建物は、再現された天守閣で「松前城資料館」となっています。

さっそく「松前城資料館」の見学をしましたが、内容は次回の掲載とします。



天守閣の三階の窓から南西方向を見下ろした風景です。

沖に見える岬は、前回掲載した北海道の南端「白神岬」辺りでしょうか。

海から近く、戦艦による砲撃に弱いとされたこの城は、この風景からも察せられます。



天守閣を見上げる南側の広場に「本丸玄関」と案内された建物がありました。

一見、ガラス戸もあり、比較的新しい建物のように見えましたが、意外にも370年以上前に造られた建物と紹介されていました。

案内板によると江戸時代初期の1639年に京都伏見城の一部を移設した建物とされていますが、風格のある切妻の屋根瓦の上部が見えない写真だけに伝わってこないかも知れません。

■建物の前にある案内板の案内文です。
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北海道指定有形文化財
旧福山城本丸表御殿玄関
慶長十一(1606)年に完成した城は当時これを福山館と称していた。
しかし、寛永十四(1637)年城中より出火し、多くの建物を消失、同十六年これを修築した。
その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。
明治八年、北海道開拓使の命令により福山城は取り壊されたが、天主と本丸御門、表御殿は残った。
表御殿は松城小学校として充用され、明治三十三年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和五十七年まで利用されてきた。
昭和三十八年七月二十六日指定
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これも天守閣の南、二の丸にある広場から見た風景です。

向かって左は城の案内図では「御門」とされ、右の天守閣は「三重櫓」とされていました。

天守閣の「松前城資料館」を出て重厚さを感じるこの「御門」をくぐって出てきました。

一つ気になったことは、三階建ての天守閣が小さく、貧弱なことです。

大砲による戦争を意識し始めた幕末の城郭だけに標的にされる高い建物への懸念があったのでしょうか。

砲撃戦を明確に意識した「五稜郭」(1866年建造)と、その17年前の1849年(嘉永2)に改築された松前城(福山城)を比較してみると近世から近代への変遷が見えてくるようです。