昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

益田市 医光寺の雪舟庭園

2009年12月04日 | 山陰地方の旅
10月11・12日の石見(島根県西部)旅行2日目の続きです。

朝8:30頃、益田市の「染羽天石勝神社」から数百メートル東の「医光寺」に行きました。



よく晴れた朝、風格のある「医光寺総門」が輝いて見えていました。

門の向こうには医光寺の中門、右手に鐘楼が見えます。

関ケ原の戦の後、総門がここに移設されたとされることから桃山時代以前の建築物と思われます。

■寺の前の道路脇に「医光寺総門」の案内板があり、転記します。
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島根県指定文化財
医光寺総門
  指定昭和三十四年九月一日
高麗門形式の門で、屋根は切妻造り、本瓦葺、中央を高くし、両側を一段低くした構造になっています。
この門は、慶長五年(1600)の関ケ原の戦いの後、益田氏二十代元祥の長門国須佐への移住に伴い廃城となった七尾城の大手門を移築したものと伝えられています。
七尾城の大手(城の正面)は、医光寺から向かいの南側に見える七尾城山の中央の谷あいと考えられています。南北朝時代には当時の大手口「北尾木戸」で三隅方との合戦があったことが益田家文書に残っています。
十七世紀後半に屋根を改めたといわれ、前面の都市計画道路中島染羽線の整備に伴い、平成四年度に本堂から中門の延長線上に若干位置を移動し、解体修理が行われました。
構造、意匠とも簡素ですが、本柱、冠木ともに太く、戦国時代末期の豪壮な城門の姿を残す貴重な建造物です。
 平成二十年三月
  益田市教育委員会
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中門前の石段から「総門」を振り返った景色です。

後ろの山には戦国武将益田氏の居城だった「七尾城跡」があります。



中門の前の石段脇に「医光寺境内案内図」がありました。

右手の「⑨雪舟灰塚」を見落としていました。

案内図は、落ち着いてよく見ないといけませんね。



「医光寺」の中門です。

中門の裏手に本堂、左手の建物は「開山堂」です。



中門をくぐると少し新しい本堂があります。

右手に歩くと庫裡の玄関があり、そこから裏の「雪舟庭園」に案内されます。



本堂の玄関前から左手の開山堂方向を見た景色です。

■頂いたパンフレットに「医光寺」の説明文がありました。
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医光寺
 臨済宗東福寺派。本尊は薬師如来像。もとは天台宗崇観寺の後身。崇観寺は医光寺の西方にあった古刹で、開山は東福寺の法系、竜門士源で聖一国師の法孫士顔の嫡子です。
貞冶2(1363)斎藤長者の妻、法名直山妙超大姉の本願によって創建され、益田兼弘の保護と援助を受けて栄えました。
寺領は1,500石、南北朝時代、益田兼見は当寺を尊崇し、「祥兼置文」に、崇観寺、万福寺など領内の小庵に至るまで退転ないようにと命じています。
その後、勝剛長柔の入山、画僧雪舟等楊の来山により繁栄しましたが、益田宗兼が医光寺を現在地に建立し保護を加えましたことから、崇観寺は衰退の一途をたどり、さらに寺堂の焼失によって医光寺と合併しました。
寺領30石。その後内容、外観ともに整備されましたが、亨保14年(1729)大火で延焼。
問もなく再建されて今日に至ってします。
本尊の薬師如来像は安阿弥の作と伝えられる高さ1メートルの座像。
日光、月光菩薩の脇侍よく均衡がとれ、金箔の上に繊細な色彩がつけられています。
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本堂裏の東側から庭の西を見た景色です。

朝の明るい陽射しが池の周辺をだけを照らして、庭全体が調和して見えない感じでした。

8:30頃の拝観でしたが、見頃の時間帯があるのかもしれません。

■中門に上がる石段の脇に「医光寺庭園」の案内板がありました。
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国指定
史跡及び名勝 医光寺庭園
指定 昭和三年三月二十八日
画聖雪舟作、池泉観賞(一部回遊)式庭園。
雪舟は文明十一年(一四七九)、益田氏第十五代当主益田兼尭に招かれ、画業の傍ら作庭したと言われている。
この庭園は山畔を巧みに利用した上下二段で構成されている。鶴を形どった池泉部に亀島(蓬莱神仙島)を浮かべており、その背には三尊石を整えている。
さらに庭の左上方には須弥山石を据え、その下に枯滝石組を置く蓬莱山水の手法で作庭されている。
春の枝垂桜、秋の楓等々背後の竜蔵山と融合して四季折々に異なった趣を表す庭園である。
当庭園は万福寺庭園(市内)、常栄寺庭園(山口県)、旧亀石坊庭園(福岡県)とともに「雪舟四大庭国」と言れている。
益  田  市
益田市教育委員会
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庭園は、山の斜面に広がっていました。

葉の落ちた大きなしだれ桜の枝が白く光り、花が咲いているようにも見えます。



頂いたパンフレットに印刷されていた「雪舟庭園」の写真です。

やはりプロの写真は庭園の雰囲気がうまく表現されています。

■頂いたパンフレットにあった「雪舟庭園」の説明文です。
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雪舟庭園
 国史蹟及び名勝。広さ2,198「ポ(666坪)医光寺の裏山を利用した西南向きの池泉鑑賞半回遊式の庭園。
雪舟が文明10年頃来山し、造園した鶴亀を主体とした武家様式で鶴を形どった池の中に亀島を浮かべています。
亀の背中には中心石と三尊石をおき、西側の丘にある須弥山石からは枯滝石組を作って、東のしだれ桜とバランスよくマッチしています。
禅の教えは「以心伝心」でそれは文字ではなく、心にあるといいます。したがって心の芸術である庭も「無心」そのもので、それが芸術として現れますので、作庭も枯山水となり、石庭となるのでしょう。
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庫裡の廊下付近にあった「雪舟像」の掛け軸です。

■説明書きです。
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雪舟和尚肖像 作者不詳
崇観寺(現:医光寺)五世であった雪舟和尚の350回忌法要に併せて作成された肖像画。
安政12年(1756)制作
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「雪舟像」の掛け軸の横に「益田宗兼像」の掛け軸がありました。

■説明書きです。
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益田宗兼像 作者不詳
医光寺の創立者で、益田氏第17代当主。直垂(ひたたれ)姿
烏帽子(えぼし)を冠り刀を帯びた凛々しい城主宗兼。
本寺の境内に宗兼墓がある。
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開山堂の少し西にあった益田宗兼の墓です。

益田宗兼は、15世紀後半から16世紀前半に山口の大内氏に従属したこの地の領主で、医光寺の創立者とされています。

益田市の名の由来が、この地で長く続いた領主「益田氏」によるものと知りました。

益田氏は、孫の藤兼の代に毛利元就の軍門に下り、関ヶ原の戦いの後、毛利に従い長州に移りました。

めまぐるしい栄枯盛衰の歴史の中で「益田氏」は、長州毛利の重臣として幕末まで続いたようです。