昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

益田市「三宅御土居跡」の見学

2009年12月10日 | 山陰地方の旅
益田市の「染羽天石勝神社」「医光寺雪舟庭園」の次に「三宅御土居跡」を見学しました。



益田市の観光案内地図で、赤い丸印が、「三宅御土居跡」です。

「三宅御土居跡」は、平安末期から関ヶ原の戦いの頃まで石見国西部に長く勢力を張っていた豪族「益田氏」の屋敷跡です。



「医光寺」の総門の横に益田市の観光案内板があり、この「三宅御土居」の想像図が紹介されていました。

館は、川を利用した堀に囲まれ、三方に橋が架かっています。

この絵を見て早速、「三宅御土居」の見学に来たものです。



「三宅御土居跡」の様子です。

道路と、墓地に挟まれた細長い場所に「三宅御土居跡」が整備され、正面の小さな建物に「三宅御土居跡」や、「長尾城跡」の案内板がありました。

■案内板にあった「三宅御土居跡」の説明文です。
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三宅御土居跡
御土居とは武士の館があった場所を指す「土居」という言葉の敬称です。
 三宅御土居跡は益田氏の居館跡で、居館が七尾城から益田川を隔てた対岸に築かれた
のは、平野部の開発に伴う水の管理や益田川の水運を掌握するためと考えられます。
 発掘調査の結果、南側は益田川の支流と考えられる川を堀に兼用し、残る三方には人
工的な堀が巡っていました。最終段階の規模はおおよそ1町(約109m)×2町(約
218m)の大ささで、1町四方といわれる通常の館に比べ2倍の規模があり、このこ
とからも益田氏の勢力の大きさがうかがえます。
 三宅御土居は、11代兼見によって応安年間(1368~75)に築かれ、天正11年
(1583)頃に改修されたといわれてきましたが、12世紀にさかのぼる中国製の白磁や
青磁も多数出土したことから、平安時代の未期頃から拠点的な施設が設立していたと考
えられています。
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「三宅御土居跡」の案内板にあった「益田氏御殿略図写」です。

石見国西部に勢力を張る益田氏の館には様々な機能があったことがうかがえます。



「三宅御土居跡」の案内板にあった航空写真です。

上に掲載した「三宅御土居」の想像図と合わせて現地を歩くとよく分かるかもしれません。

■「三宅御土居跡」の案内板にあった説明文です。
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三宅御土居の発掘調査
三宅御土居跡の発掘調査は、平成2年度から12年度にかけで行いました。
周囲の調査
三宅御土居跡の周囲は高さが5mに及ぶ大規模な土塁や堀・川によって守られ
ていました。東西の土塁の外側は幅約10m、深さ約3mの箱堀で、北側は幅が
10m~16m、深さ約1.5mのやや浅い堀でした。南側は益田川の支流と考えら
れる幅約20m~25mの川を堀として利用していました。全体の規模は館の東が
北側に突出した長靴形で、敷地の東西は最大190m、南は最大110mもありま
した。
 また、館の敷地の南側には幅15m~20mの帯曲輪がありました。
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「三宅御土居跡」の案内板にあった発掘写真と、説明文です。

たくさんの柱穴跡をよく分析出来たものだと感心します。

400年を超える長い時代、館が営まれていた場所の発掘と聞くとわくわくします。



「三宅御土居跡」の案内板にあった「益田氏関係年表」です。

平安時代末期に益田氏の祖「藤原国兼」が石見に来て、関ヶ原の合戦の後、長州に移るまでの約500年の歴史が書かれています。




「三宅御土居跡」に再現された井戸と、その横に「掘立柱建物」の案内板がありました。

■「掘立柱建物」の案内板にあった説明文です。
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道路部分の発掘調査で約1000の柱穴が発見され、12世紀から16世紀にかけての掘立柱建物が繰り返し建て替えられたことがわかりました。館の東側には蔵や作業場など館の生活を支えるための建物があったと考えられます。
おどい広場では、建物の規模が明らかになった掘立柱建物10数棟のうち6棟を3種類の金属板を使って時代別に表示しました。銅は12~13世紀頃、真鍮は15世紀、ステンレスは館の改修が行われたといわれる16世紀に存在した建物を表しています。
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「掘立柱建物」の案内板にあった「建物の平面表示」の図です。

上段の写真の足元に光っている金属のラインが時代別の建物跡で、現在地が案内板の場所です。

■「三宅御土居跡」の案内板にあった発掘調査の説明文です。
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館内の調査
 おどい広場一帯では約1,000の柱穴が発見され、12世紀から16世紀にかけ
て掘立柱建物が繰り返し建てられていたたことがわかりました。建跡の大きさが
推定できた10数棟の建物は出土した遺物や向きから12世紀~13世紀と15世紀、
そして16世紀に行われた改修後の大きく3時期に分けられます。さらに礎石建
物が1棟発見され、周囲から済や鉄さい、ふいごの羽口が出土したことから鍛冶
場であったことがわかりました。
また13世紀の木組井戸跡や、16世紀に築かれた直径が約12mの石組井戸跡も
発見されました。このように、館の東側には倉庫や蔵など、生活を維持するため
良光寺本堂周辺では厚さ1mに及ぷ盛土が確認されました。建物跡はまだ発
見されていませんが、16世紀の改修の時に造成されたこの盛土の範囲に御殿な
どの主要建物があったと推定されます。
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上段の「建物の平面表示」の図で、現在地の右に見える建物跡です。

赤い線は12~13世紀、黒っぽい線は16世紀のものです。

この建物跡の表現や、案内板の図・写真・説明文を見ていると、この益田の地で400年を超えて勢力を誇った益田氏の歴史を解り易く伝えようとする気持ちが伝わって来るようです。