那覇市の那覇港にある「三重城(みーぐすく)」跡へ行きました。
19世紀頃の那覇港の様子がが描かれている「沖縄貿易図屏風」(滋賀大学蔵)の絵の
一部です。
江戸時代、那覇港にあった「三重城」で、岩礁の上の石垣で囲まれた場所です。
細長い堤防の先端部分が「三重城」だったようです。
当初は、港の防波堤の他、防衛のための砲台などの目的で造られたようです。
この屏風絵が描かれた時代には大砲もなく、旅立つ人を見送る場所で利用されているようです。
現在の「三重城」は、片方の海を残して埋め立てられ、陸の一部になっていました。
一段上の「三重城」の絵の根元部分の絵です。
陸地と、「三重城」の中間には「臨海寺」と言う寺院があったようで、堤防の途中にある小さな赤瓦の建物のようです。
このお寺も人々が、送迎をする場所だったようです。
中央に見える大きな帆船へ小舟で向かう様子が描かれています。
那覇港から南の先島(宮古島・八重山)、西の中国、北の大和(鹿児島)への航路があったようです。
海上保安庁のサイトには、現在の那覇港の出入り口にも南から「宮古口」「唐口」「倭口」と現在でも歴史的な呼び名が使われていました。
「三重城 (みえぐすく)」周辺の地図です。
赤丸の場所が「三重城」で、堤防が始まった現在の場所は東南方向にある「フェリー発着場」辺りだったようです。
「フェリー発着場」から「三重城」まで測ると約62mでした。
「ロワジールホテル」の裏が「三重城」で、一段高い場所に上る石段があります。
石段の横は、駐車場ですが、奥の方に「水神」と刻まれた石碑が見えます。
港から旅に出る人たちの無事を祈る信仰でしょうか?
すぐ前に車を駐車するのは少し躊躇します。
■石段を上がった右手に案内板があり、転記します。
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参拝者各位へ
三重城は、皆様の安らぎと祈りの聖地です。汚さず、キレイに致しましょう。
第11管区海上保安本部
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三重城の入口の石段を上がった付近を内側から撮った景色です。
石段を上がった場所に鳥居がありました。
一段上の案内板に「安らぎと祈りの聖地」と書かれており、この鳥居も関連があるようです。
鳥居の向こうに見える建物が「ロワジールホテル」です。
地図でもあるように建物がカーブしています。
階段を上がり、「三重城」へ入るとこの建物があります。
朝7:40頃見学しましたが、ドアから人が出てきて緑の新聞受けから新聞を取り込んでいたのが見えました。
海上保安庁の宿直の人でしょうか。
「三重城」にある「第11管区海上保安本部那覇信号所」の全景です。
いったいどんな信号を扱っているのか分かりませんが、灯台のように施設案内がほしいところです。
■写真に向かって右手に白い案内板があり、転記します。
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利用者の皆様へのお願い
第11管区海上保安本部那覇信号所(三重城)
敷地内は、国有地となっております。当三重城を利用される方は、利用後、ゴミ等を残さず必ず持ち帰るよう御協力お願いします。
第11管区海上保安本部
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階段の付近にあった案内板同様、ゴミの注意が書かれています。
ゴミの投棄に困っているようです。
「第11管区海上保安本部那覇信号所」を過ぎると小さな神社のような建物がありました。
由緒の案内がなく、祀られている神様は分かりません。
那覇港から船出する人達の無事をお願いする神様でしょうか?
海岸の様子です。
コンクリートブロックが三個置かれて、何やらお祈りの場所になっているようでした。
調べてみると、沖縄では旧暦の1月16日に、後生(グソー)の正月「ジュウルクニチー」と言う行事があり、先祖の墓を掃除し、お参りするそうです。
しかし、久米島・宮古島・八重山などの出身者で、この日帰れなかった人達は、ここに来て、故郷の方角に向って祖先の霊を供養するようです。
三角形に並べたブロックにお供えを置き、線香を焚いて祈っているのでしょうか?
コンクリートでブロックを固定しています。
多くの人が競ってお祈りの場所を確保するためでしょうか、史跡が荒らされているようにも思えます。
海岸に近い別の場所にも下りていける石段がありました。
石垣の窪みに灰があり、たき火をしているような感じでした。
香炉も置いてあります。
「三重城」跡をめぐりましたが、石垣跡はあるものの昔の面影はほとんど想像できませんでした。
「三重城」は、「史跡」としての管理面では海上保安庁の管理では歴史的遺産をしっかりと管理する体制とは思えず、改善が期待されます。
南の対岸を見た景色です。
現在は、アメリカ軍の基地になっているようです。
この辺りにも「三重城」と対をなす「屋良座森城(やらざむいぐすく)」があったようですが、沖縄戦で破壊され、周辺も埋め立てられて面影は見当たりません。
1554年に造られたとされる「屋良座森城」は、南からの防波堤の先端にあり、「三重城」の「北砲台」に対して、「屋良座森城」は、「南砲台」と呼ばれていたようです。
19世紀頃の那覇港の様子がが描かれている「沖縄貿易図屏風」(滋賀大学蔵)の絵の
一部です。
江戸時代、那覇港にあった「三重城」で、岩礁の上の石垣で囲まれた場所です。
細長い堤防の先端部分が「三重城」だったようです。
当初は、港の防波堤の他、防衛のための砲台などの目的で造られたようです。
この屏風絵が描かれた時代には大砲もなく、旅立つ人を見送る場所で利用されているようです。
現在の「三重城」は、片方の海を残して埋め立てられ、陸の一部になっていました。
一段上の「三重城」の絵の根元部分の絵です。
陸地と、「三重城」の中間には「臨海寺」と言う寺院があったようで、堤防の途中にある小さな赤瓦の建物のようです。
このお寺も人々が、送迎をする場所だったようです。
中央に見える大きな帆船へ小舟で向かう様子が描かれています。
那覇港から南の先島(宮古島・八重山)、西の中国、北の大和(鹿児島)への航路があったようです。
海上保安庁のサイトには、現在の那覇港の出入り口にも南から「宮古口」「唐口」「倭口」と現在でも歴史的な呼び名が使われていました。
「三重城 (みえぐすく)」周辺の地図です。
赤丸の場所が「三重城」で、堤防が始まった現在の場所は東南方向にある「フェリー発着場」辺りだったようです。
「フェリー発着場」から「三重城」まで測ると約62mでした。
「ロワジールホテル」の裏が「三重城」で、一段高い場所に上る石段があります。
石段の横は、駐車場ですが、奥の方に「水神」と刻まれた石碑が見えます。
港から旅に出る人たちの無事を祈る信仰でしょうか?
すぐ前に車を駐車するのは少し躊躇します。
■石段を上がった右手に案内板があり、転記します。
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参拝者各位へ
三重城は、皆様の安らぎと祈りの聖地です。汚さず、キレイに致しましょう。
第11管区海上保安本部
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三重城の入口の石段を上がった付近を内側から撮った景色です。
石段を上がった場所に鳥居がありました。
一段上の案内板に「安らぎと祈りの聖地」と書かれており、この鳥居も関連があるようです。
鳥居の向こうに見える建物が「ロワジールホテル」です。
地図でもあるように建物がカーブしています。
階段を上がり、「三重城」へ入るとこの建物があります。
朝7:40頃見学しましたが、ドアから人が出てきて緑の新聞受けから新聞を取り込んでいたのが見えました。
海上保安庁の宿直の人でしょうか。
「三重城」にある「第11管区海上保安本部那覇信号所」の全景です。
いったいどんな信号を扱っているのか分かりませんが、灯台のように施設案内がほしいところです。
■写真に向かって右手に白い案内板があり、転記します。
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利用者の皆様へのお願い
第11管区海上保安本部那覇信号所(三重城)
敷地内は、国有地となっております。当三重城を利用される方は、利用後、ゴミ等を残さず必ず持ち帰るよう御協力お願いします。
第11管区海上保安本部
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階段の付近にあった案内板同様、ゴミの注意が書かれています。
ゴミの投棄に困っているようです。
「第11管区海上保安本部那覇信号所」を過ぎると小さな神社のような建物がありました。
由緒の案内がなく、祀られている神様は分かりません。
那覇港から船出する人達の無事をお願いする神様でしょうか?
海岸の様子です。
コンクリートブロックが三個置かれて、何やらお祈りの場所になっているようでした。
調べてみると、沖縄では旧暦の1月16日に、後生(グソー)の正月「ジュウルクニチー」と言う行事があり、先祖の墓を掃除し、お参りするそうです。
しかし、久米島・宮古島・八重山などの出身者で、この日帰れなかった人達は、ここに来て、故郷の方角に向って祖先の霊を供養するようです。
三角形に並べたブロックにお供えを置き、線香を焚いて祈っているのでしょうか?
コンクリートでブロックを固定しています。
多くの人が競ってお祈りの場所を確保するためでしょうか、史跡が荒らされているようにも思えます。
海岸に近い別の場所にも下りていける石段がありました。
石垣の窪みに灰があり、たき火をしているような感じでした。
香炉も置いてあります。
「三重城」跡をめぐりましたが、石垣跡はあるものの昔の面影はほとんど想像できませんでした。
「三重城」は、「史跡」としての管理面では海上保安庁の管理では歴史的遺産をしっかりと管理する体制とは思えず、改善が期待されます。
南の対岸を見た景色です。
現在は、アメリカ軍の基地になっているようです。
この辺りにも「三重城」と対をなす「屋良座森城(やらざむいぐすく)」があったようですが、沖縄戦で破壊され、周辺も埋め立てられて面影は見当たりません。
1554年に造られたとされる「屋良座森城」は、南からの防波堤の先端にあり、「三重城」の「北砲台」に対して、「屋良座森城」は、「南砲台」と呼ばれていたようです。