昔に出会う旅

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長崎旅行-6 「島原城」の散策

2013年01月07日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行1日目、長崎県島原市の「武家屋敷」の次は「島原城」の見学です。



「西の櫓」の前から見上げた「島原城」天守閣です。

堂々とそびえる天守閣は、飾り破風のない簡素な姿です。



「島原城」のある長崎県島原半島周辺の地形図です。

1624年(寛永元年)「島原城」は、約7年の歳月をかけて松倉氏によって築城され、藩主の転封が相次いだのの幕末まで島原藩主の居城となっていました。

半島南部の「日野江城」は、鎌倉御家人で、キリシタン大名でもあった有馬氏の居城で、1614年有馬氏が延岡へ転封され、1616年に大和から転封してきた松倉氏が「島原城」へ移るまで居城としていたようです。

「原城」は、有馬氏が築城した支城で、「島原城」の築城の頃に廃城となっていましたが、島原の乱(1637年12月~1638年4月に)で、一揆軍が立て籠もったことで知られており、翌日訪れました。

■「長崎県の歴史散歩」(山川出版社出版、長崎県高等学校教育研究会編)
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島原城跡と武家屋敷跡
 島原駅におりると、真正面に島原城(森岳城)の天守閣がみえる。
この城は、有馬直純(晴信の子)が延岡に転封されたのち、この地にはいった松倉重政によって、1618(元和4)年から7年余をかけて築かれた。以後、有馬の日野江城にかわって、島原が政治・経済・文化の中心となり、高力氏・松平氏・戸田氏、再び松平氏と4氏19代の譜代大名が交代して支配した。島原の乱(1637~38年)では、城の外郭部の大手門(現在の裁判所の地)と桜門(島原第一中学校玄関付近)で攻防戦があった。
 城は、内郭の本丸・二の丸と三の丸(藩主の邸宅。現、島原第一小学校と県立島原高校)、外郭の家中屋敷からなり、規模は壮大である。城の特徴は、鉄砲戦に対応する築城法で、建物は装飾のない層塔風総塗込式となっている。1964(昭和39)年に復元された天守閣のなかには、キリシタン史料館があり、南蛮貿易時代から島原の乱までを中心に、多くの貴重な史料を展示している。
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「島原城」の案内板にあった案内図です。

向かって右の大手門から入り、堀に沿って二の丸の左手から本丸へと入って行くようです。

三の丸は、この図から更に左にありますが、省略されています。

丑寅の櫓、巽の櫓、西の櫓の名称は、天守閣からの方角から名付けられており、

■「島原城」の案内図に添えられた案内文です。
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島原城由来
 この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破したところです。この瑞祥の地に、五条(奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築きました。一六一八年(元和四年)着工、四~七年の歳月を経て完成。同時に島原城下町も整備したといいます。破風をもたない層塔型総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配して、要所を三層櫓で固め、外郭は四キロにわたり矢狭間をもつ練塀で取囲みました。
 四万石の大名には過分な城です。ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。
 以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と四氏十九代の居城として輝きました。その間、一六三七年(寛永十四年)島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、一七九二年(寛政四年)島原大変時には打続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。
 明治維新で廃城になり、払下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取組みが長年続きました。一九六四年(昭和三九年)天守閣が復元するなど、次第に昔の面影を取戻しつつあります。
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案内板に「ありし日の島原城(島原市立第一小学校蔵)」と紹介された絵(?)がありました。

明治の初め頃まで残っていたとされる築後約250年の「島原城」の雄姿です。

高い石垣、周囲2,220mの城郭、33の櫓を備えた島原城の築城には延べ100万人の動員があったとされ、民衆への負担は過酷を極め、13年後の島原の乱につながったと言われています。

南東方向からの風景で、既に再建されている左端の「西の櫓」、中央の「巽の櫓」、右端の「丑寅の櫓」の間にも多くの建物が見られます。

右下に見える茅葺の屋根は、堀を囲むように建ち並ぶ上級武士の屋敷です。



「島原城」本丸東南から蓮の茂った堀りを見下ろした風景です。

上段の「ありし日の島原城」の風景は、向かって右手の辺りからと思われます。

街の向こうに穏やかな有明海が広がり、対岸の熊本の山並みは「熊ノ岳」でしょうか。



「西の櫓」の前に二つの大きな「籠城用の梅干かめ」が展示されていました。

城外の武家屋敷の案内では「梅・柿・密柑類・枇杷などの果樹を植えさせ、四季の果物は自給できるようになっていた」とあり、籠城に備えた大切な食料の一つだったと思われます。

数千人の籠城を考えると、他にも様々な対策があったものと思われます。

■「籠城用の梅干かめ」の案内文です。
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籠城用の梅干かめ
旧藩時代この城の本丸に置いてあったもので籠城用としての梅干を入れてあったかめであります。
明治八年この城が解体されるとき市内中町の喜多氏が譲り受け保存していたものであります。
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これも「西の櫓」の前にあった「キリシタン墓碑」です。

400年以上前の墓とは言え、墓碑が持ち去られて展示されていることが気になりますが、住民約3.7万人が亡くなったとされる島原の乱で、弔う人のいなくなった墓も無数にあったものと思われます。

自国の強化を図る戦国大名有馬氏は、南蛮貿易の利権と引替にキリスト教の布教を許し、自らも洗礼を受けた結果、島原半島にもキリシタンが広がったようです。

しかし、豊臣政権が国内を統一すると、地方での覇権争いが終結、更に中央政権による貿易の独占や、禁教政策が進むと、もはや地方にはキリシタンを擁護する力も必要性も無くなっていったと考えられます。

ポルトガルや、スペインなどが世界各地を征服して、植民地化していたことや、連動して布教するイエズス会の活動情報などから警戒感が高まり、キリシタンには禁教政策による苦難の時代となります。

■「キリシタン墓碑」の案内文です。
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キリシタン墓碑
 永禄五年(一五六二)領主有馬義直キリスト教の布教を許す。
寛永十四年(一六三七)島原の乱起る。
 現在、島原半島で発見されている墓碑は約百二十基で蒲鉾型、箱型、庵型、九庵型、平庵型、平型、薄型、自然石型等があります。
【右側の墓碑:島原市指定有形文化財】
市内三会亀の甲で発見蒲鉾型表の右側に慶長八年十二月二十二日、中央に干十寺が刻まれてあり刻みは判読できない。
【中央の墓碑:島原市指定有形文化財】
南島原市西有家町で発見蒲鉾型干十字が記されています。
【左側の墓碑】
市内大手旧島原藩家老職奥平氏宅の庭から発見されたものです。
碑面の部分が削り取られて手洗盤として再利用されていました。
         島原市教育委員会
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「西の櫓」の前に丸い穴をくりぬいた円柱形の「石の水道管」が展示されていました。

案内板では「島原城桜門外の水源と、城内三の丸に敷設してあった」とし、前回の長崎旅行-5の冒頭の写真で掲載した「史跡 御用御清水」から武家屋敷一帯へ水道の設置を行ったと書かれていた水道管と思われます。

「史跡 御用御清水」の案内板では水道の実態がまったく理解できませんでしたが、この水道管を見てようやく分ってきました。

「史跡 御用御清水」の案内板によると水道の敷設は、1669年に福知山から転封してきた松平忠房公によるものとしていますが、下記の「石の水道管」の案内文では敷設は、「十八世紀末以降といわれています」とあり、年代説明に差異があるようです。

■「石の水道管」の案内文です。
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石の水道管
 島原城桜門外の水源と城内三の丸に敷設してあったもので中央をくりぬいた石を漆喰で管状に接合し、この一本約七〇センチの石棺をさらに接合して水道管にしたものです。
 敷設したのは城主松平氏の後期、十八世紀末以降といわれています。
    島原市教育委員合
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前回の長崎旅行-5でも掲載した江戸時代の「島原藩士屋敷図」です。

赤い線で囲んだ図の左下は、桜門付近の拡大図で、桜門のすぐ外の場所に「御用御清水」があったことが分かります。

島原の乱で、攻防戦があったとされる桜門のすぐ外の水源から城内へ生活用水を引込む工事の際、「石の水道管」を地下に敷設して破壊から守る配慮だったのでしょうか。

又、水道の設置が武家屋敷一帯とあり、「石の水道管」は、広い城内にひしめく武家屋敷全体に敷設されていたものか興味が湧いてきます。

2010年のイタリア旅行で、紀元前1世紀のポンペイ遺跡に現代と変わらない形の水道管(鉛製)に蛇口が取付けられていたことを思い出し、余りに大きい文明のギャップを痛感しました。


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