昔に出会う旅

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伊勢神宮の別宮「瀧原宮」へ参拝

2009年06月16日 | 近畿地方の旅
九木神社を後にして、大紀町の「瀧原宮」[たきはらのみや]へ参拝しました。

三重県大紀町滝原の国道42号沿いに道の駅「木つつ木館」があり、その裏手に参道入口があります。



参道入口の標柱に「皇大神宮別宮 瀧原宮」と書かれ、伊勢神宮内宮・外宮に次ぐ格式の別宮となっています。

「瀧原宮」の境内にはもう一つの別宮「瀧原竝宮」[たきはらならびのみや]も並んでいます。

両宮共に祭神は、「天照大神」とされ、「瀧原宮」には天照大神の和魂[にぎみたま]、「瀧原竝宮」が荒魂[あらみたま]を祀られているそうです。

私には、和魂、荒魂となぜ二つに分けて祀るのか、どうも分かりません。

「天照大神」から現在の天皇までつながっていることや、「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」夫婦の神様の物語を考えると、隠された神話があり、二つの神社は「天照大神」夫婦を祀ったものではないかとも思われます。



小さな川を利用した「御手洗場[みたらしば]」がありました。

清流を御手洗場とする形は、伊勢神宮内宮にある五十鈴川御手洗場と同じです。

夕方4時頃でしたが、静寂の森や、清流の所々に光が差し込む様子を見ると、心が清らかになるようです。

参道を進んでいると、右手に分岐する道があり、「御手洗場(手水場)」と書かれた立札に従い、石段を下ってきたものです。

日本書記によると倭姫が天照大神の鎮座地を求めて諸国を歩き、「瀧原宮」は、その過程で宮が造られた場所とされ、その後数ヶ所を経由して作られた「伊勢神宮」の施設の原型は、この「瀧原宮」にあったのかも知れません。



「御手洗場」から参道へ上がる石段の横で、「カエル」の顔のような石積みを見つけました。(左下は拡大写真です)

ご覧の通り、古い石積みの台の上にあり、気まぐれないたずらでもなさそうです。

ひょっとして「御手洗場」に関連するとしたら可愛らしいカエルの石積みを見て、気持ちを和ませるためのものでしょうか??

格式ある古い神社だけに、宗教的な意味を持つものと推測されますが、神社からもっと積極的な説明がほしいところです。



長い参道の両脇にはとても大きな杉の木がたくさんそびえています。

さすが、古墳時代の頃からと思えるこの神社で大切に守られてきた社業です。

参道を歩くと、数百歳の杉の大木から何か心に語りかけられているような気持ちになります。



参道を進むと左手に社殿が並ぶ場所が開けて来ました。

向かって左に「瀧原竝宮」[たきはらならびのみや]、その向こうに「瀧原宮」の社殿が並んでいます。

両神社の鳥居前の立札には、共通に「皇大神宮別宮 御祭神 天照坐皇大御神御魂」と、それぞれの神社名が書かれていました。

簡素な社殿ですが、屋根の両端に突き出た千木[ちぎ]や、屋根の棟に上に並ぶ金色の鰹木[かつおぎ]を見ていると、厳粛な気持ちになります。

「瀧原宮」について資料を探して見ました。

■白水社「日本の神々 神社と聖地」谷川健一編によると
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滝原宮 
宮川の上流約四〇キロの台地に滝原並宮と並んで鎮座し、『延書式』神名帳には「滝原宮大月次新嘗」のみが載るが、太神宮式では両宮ともに「大神の遥宮[とおのみや]」とされている。
「遥宮」とは「遠隔の宮」を意味し、ここは伊勢神宮遥拝の地であったと考えられる。したがって、祭神は天照大神であるが、速秋津彦であるとも伝えられる。ちなみに『皇大神宮儀式帳』にも、滝原宮は天照大神の遥宮で御正体は鏡であると記されている。

 『倭姫命世記』によれば、垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が大和から伊勢に遷幸中、この地に到り、真奈胡神[まなごのかみ]に国の名を尋ねたところ、真奈胡神は「大河の滝原の国です」と答えた。そこで倭姫命は皇大神をこの地に鎮斎しょうと宮殿を建てたという。滝原の宮と並宮との関係については、前者が天照大神の和魂[にぎみたま]、後者が荒魂をまつるとも伝えられる。

 この遥宮の起源は明らかでないが、阪本広太郎は『神宮典略』に引かれた園田守夏の説を採って、志摩の南部にいた神戸[かんべ]の民が移って大神宮を遥祭した地であろうと考察している(『神官祭祀概説』)。
それにしても、この滝原宮と並宮との並立は、何か内宮と外官の並立の原形を見るような気がする。「倭姫命世紀」がこの両宮の祭神を水戸神[みなとのかみ]速秋津日子・速秋津比売とするのも、やはり河川の港へのそそぎ口の神という感じを神話的に表わしたものではあるまいか。
なお、この宮を皇大神宮のもとの鎮座地、すなわち元伊勢の一つとみる説もあるが、おそらくそれほ当たらない。
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上段の写真より境内右手を見た様子で、左手に「瀧原宮」、その奥に「若宮神社」、右手に見える社殿は、「長由介神社」です。

長い参道、深い森、この開けた場所を見ると境内の広大さが実感できます。



「瀧原宮」社殿正面の様子です。

柱に供えられた玉串の榊の緑が、印象的です。

静寂な社殿の前で、家内安全、旅の無事をお祈りしました。



「瀧原宮」の社殿全体を斜めから見た様子です。

社殿は、二重の玉垣で囲われ、社殿正面の参道に白い玉砂利、両脇には黒い玉砂利が敷かれていました。

金色の棟が印象的な神殿の屋根は、よく見ると茅葺のようです。

拝殿屋根は、板葺きで、ふと飛鳥時代に奈良県明日香村にあったとされる板蓋宮[いたぶきのみや]が、思い浮かびました。



「若宮神社」の社殿です。

立札に「瀧原宮所管 若宮神社」「御祭神 若宮神[わかみやのかみ]」と書かれてあります。

「若宮」は、他の神社でも見ましたが、主祭神の子神を祀るお宮と聞きます。

社殿の左手に見える少し低い建物は、御神体を納める「御船代」[みふなしろ]を納めている「御船倉」[みふなぐら]だそうです。

「御船代」は、伊勢神宮にまつわる神社では唯一、この「瀧原宮」だけにあるようです。

伊勢地域最大の宝塚一号墳(5世紀初頭・前方後円墳・全長111m)で、日本最大で、精密に作られた「船形埴輪」が出土して話題になりました。

墳丘のくびれ部に斎場の場になった方形の造出しと、墳丘をつなぐ「土橋」に船首を向け停泊する状態だったそうです。

又、各地の古墳で発掘された「舟形木棺」も船に乗る亡き王の魂を意識して造られたものと思われます。

この「御船倉」に納められた「御船代」は、若宮神が父神のために造った船の伝承ではないかとも思われます。



「長由介神社」[ながゆけじんじゃ]です。

この神殿の屋根も「若宮神社」同様に板葺きです。

鳥居脇の立札には、「瀧原宮所管 長由介神社」「御祭神 長由介神 川島神」と書かれていました。



現在の社殿が並ぶ場所から、参道を更に進んだ場所に広い空き地があり、小さな祠が並んでいました。

「瀧原宮」では「伊勢神宮」同様、20年ごと社殿が新築される式年遷宮が行われており、この場所は、新しい社殿が建てられる土地のようです。

今年の3月、福岡旅行で参拝した宗像大社の「第二宮」「第三宮」は、この建物とほぼ同じ造りでした。

社殿前の立札には式年遷宮に際し、別宮 伊佐奈岐宮 伊佐奈弥宮[いさなぎのみや いさなみのみや]の古殿を下付され、造営したと書かれていました。

一見、無駄遣いと思える二十年毎の式年遷宮は、千数百年前の技術や、文化を伝承する儀式でもあり、建物が再利用されていることに少し安心しました。



この地図は、伊勢志摩付近の「浅間山」を緑のマークで、伊勢神宮(内宮・外宮)、「瀧原宮」(向って左端)を赤のマークで表示したものです。

「瀧原宮」の南東方向へ約250mに「浅間山」があり、社殿のなかった古墳時代以前には、滝原の「浅間山」を崇め礼拝していたものと思われます。

「伊勢神宮」の東にも「朝熊山[あさまやま]」があり、同様に神宮に関わる信仰の山と思われます。

地図や、検索で、「浅間山」を探したら、付近にこれだけの「浅間山」が見つかりました。(探せばもっとあると思われます)

「浅間山」の意味、「浅間山」と古代信仰との関係など興味が湧いてきます。

旅行1日目は、これで終わり、いよいよ翌日の早朝に伊勢神宮の参拝です。


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