北海道旅行5日目 6/7(火)函館市郊外の「四稜郭」の次は、ホテルにチェックインして、徒歩で街の観光に出かけました。
一昨年の2009年8月1日、初めての函館は、時々雨の降る天気でしたが、今回は晴天に恵まれました。
大三坂をのぼって行くと、急な坂の途中にゴシック建築の鐘楼がそびえていました。
向かって左の門柱には「カトリック元町教会」、右の門柱には「天主公教會」の名が見えます。
門を入って右手の建物の入口の上に「天主公教會」の表示がありましたが、いずれもローマ‐カトリック教会の施設のようです。
教会の創建は、1859年(安政6)フランス人宣教師メルメ・デ・カッションが来日し、小聖堂を造ったことに始まったとされています。
木造の聖堂は、数回火災で消失しため、1924年(大正13)に現在のコンクリート建築で再建したようです。
訪れた日は、建物の改修工事中で、工事車両などで落ち着かない見学でした。
「カトリック元町教会」のファサードです。
聖堂入口の上にキリストを抱くマリア像、両側に聖人の像が安置されています。
向かって左に剣を持つ像は分かりませんが、右手に鍵を持つ像は、「聖ペトロ」 のようです。
信者ではないものの、入口の前に立つと、厳粛な気持ちになります。
坂の上の道から鐘楼屋根の風見鶏がよく見えます。
鐘楼の青い屋根と、隣の聖堂の赤い屋根が美しく映えていました。
函館市元町周辺の地図です。
函館山から函館湾に向けて、何本もの坂道があります。
地図の緑色に塗られた函館西高校から港に下る「八幡坂」があり、その南の「大三坂」の両側に美しい教会が建っています。
「カトリック元町教会」の門の向かいに「亀井勝山郎生誕之地」の石碑と、文芸作品の一節が刻まれた石碑がありました。
■右手の説明板です。
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亀井勝一郎生誕の地
亀井勝一郎は、明治40年(1907年)2月6日、ここ元町で喜一郎の長男として生まれ、弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、のちに文芸評論家、思想家として活躍した。
昭和12年「人間教育」、同18年「大和古寺風物詩」等不朽の名著を残し、昭和40年日本芸術院会員に推挙された。
晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、昭和41年11月14日病により永眠し、未完に終わったのが惜しまれる。
勝一郎は終生函館弁を使い、函館のサケのすしやイカの刺身を好んだという。
なお、青柳町函館公園付近には、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅[かいこう]し 開眼し 瞑目す」と刻まれた文学碑がある。
函館市
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■写真中央の石碑に刻まれた、少年時代の街の様子を紹介した作品の一節です。
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私の家の隣はフランスの神父のいるローマカソリック教会堂であった。その隣はロシア系のハリストス正教会である。
この二つの会堂は、それぞれ高さ五十メートルほどの塔をもっているもので、船で港へはいるとすぐ目につく。
ハリストス正教会の前には、イギリス系の聖公会があり、やや坂を下ったところにはアメリカ系のメソヂスト教会がある。
私の家は浄土真宗だが、菩提寺たる東本願寺は、坂道をへだてて我が家の門前にある。
また同じ町内の小高いところには、この港町の守護神である船魂神社が祭られ、そこから一直線に下ったところには、中国領事館があって、ここは道教の廟堂をかねていた。要するに世界中の宗教が私の家を中心に集まっていたようなもので、私は幼少年時代を、これら教会や寺院を遊び場として過ごしたのである。
”東海の小島の思い出”の一節より
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後方の建物が「東本願寺函館別院」で、大きな入母屋造りの瓦葺き屋根や、青銅色の破風に重厚さを感じます。
この寺院も幾度かの火災で焼失・移転し、現在の建物は、1915年(大正4)日本初の鉄筋コンクリート造りの寺院として再建されたようです。
生家の周辺に次々と造られるすばらしい宗教建築は、少年時代の亀井勝一郎の心に深く刻み込まれたものと思われます。
このブログ2009年08月05日掲載の<函館旅行と、「日本最古のコンクリート電柱」>も新築した鉄筋コンクリート造りの銀行建物に調和するデザインで1923年(大正12)に作られたようで、火災の教訓から鉄筋コンクリート建築が広がる時代だったようです。
さらに大三坂を上っていくと左手にそびえる「聖ヨハネ教会」が見えてきました。
大三坂は、「カトリック元町教会」から上は、道幅が狭くなり、通りの名は「チャチャ登り」となります。
■聖ヨハネ教会の案内板です。
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日本聖公会館聖ヨハネ教会
この函館聖ヨハネ教会は、現在、世界聖公会のうちの日本聖公会に属する。明治7年(1874)英国聖公会海外伝道教会の宣教師W.デ二ングが函館に来て伝道を開始したのが日本聖公会の北海道伝道の始まりで、同派の道内における宣教活動の根拠地であつた。
明治11年(1878)末広町に初めて聖堂を建てたが、翌年の大火で類焼し、その後も火災などのため幾度か移転した。度重なる火災による類焼の後、現在の地に再建されたのは大正10年(1921)の大火後である。
この間、教育(アイヌ学校を始め清和女学校などの開設)、医療奉仕活動などを活発に行なつた。
現在の建物lま、昭和54年(1979)に完成したもので、上空から見ると十字の形に見えるが、これは中世紀のヨーロッパの教会に見られる建築様式を取り入れ近代的なデザインとしてのものである。
函館市
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急な「チャチャ登り」から右手に見下ろす「函館聖ヨハネ教会」(イギリス系のプロテスタント教会)です。
屋根が十字形で、二色の簡潔な建物に宗教改革の思想が伝わってくるようです。
1874年(明治7)にデニング牧師が来函、1878年に教会を建設したものの翌年に類焼、その後も数度の火災に遭い、現在の建物は1980年(昭和55)に完成しています。
アイヌ民族の悲惨な生活を救う活動に生涯をささげ、「アイヌの父」と呼ばれるイギリス人宣教師「ジョン・バチェラー」も1877年に来日、ここを拠点に活動を始めたそうです。
上段の「函館聖ヨハネ教会」の写真と同じ「チャチャ登り」から左手に見下ろした「ハリストス正教会」です。
建物の名称は「函館ハリストス正教会復活聖堂」で、ギリシャ正教系の日本ハリストス正教会の発祥地でもあるようです。
初夏の若葉、緑青色の屋根、白い壁の聖堂は、午後の陽を浴びて優美で清楚な姿を見せていました
「ハリストス正教会」のファサードです。
1859年(安政6)ロシア領事館の中に建てた聖堂がこの教会のルーツとされ、他の教会同様火災で消失して、1916年(大正5)に再建したようです。
鐘楼には大きな窓があり、前回来た2009年8月1日(土)には鐘を鳴らす人がよく見えていたのを思い出します。
■敷地から一段下にある門の脇に案内板がありました。
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ハリストス正教会
安政6年(1859年)敷地内に建てられた初代ロシア領事館の付属聖堂として建立されたのが始まりで、正し<は「函館復活聖堂」という。
文久元年(1861年)青年司祭ニコライが、ロシアから来函し切支丹解禁を待って日本で最初にギリシア正教を布教した。(明治5年〈1872年〉東京転任)
明治40年(1907年)大火で類焼したが、大正5年(1916年)聖堂はロシア風ビザンチン様式で再建された。
この聖堂内部に、丸天井を装架しているのがこの様式の特徴である。屋根に装置された数多くの十字架と、その装飾部を飾る冠状構造が独特の形状をつくっており、緑色の鋼板屋根は昭和43年に改装され、緑青を化学的に熟成したものである。
再建当時の大鍾(重さ約2トン)は、大正12年(1923年)関東大震災で大破した東京ニコライ堂復興の際に移され、かわりに大小6個1組の建と交換された。リズムと共にメロディを送る音色から「ガンガン寺」として市民に親しまれたが、この撞も戦時中供出した。
現在の鐘は、三重県桑名市在住の美術鋳造家から昭和58年6月に献納されたものである。
昭和58年6日、国の重要文化財に指定された。
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緑青色のたまねぎ形の屋根が並ぶ「ハリストス正教会」です。
レンガ造りの建物に漆喰の白壁が塗られ、緑の銅板屋根の上を飾る玉ねぎ形のクーポラと、十字架が印象的です。
異国情緒あふれる「ハリストス正教会」は、元町界隈では最も心に残る建物でした。
「ハリストス正教会」の隣にアメリカンスタイルの「遺愛幼稚園」の建物がありました。
1895年(明治15)遺愛女学校付属の幼稚園で創立され、火災で焼失した後、1913年(大正2)に再建された建物だそうです。
白い柱と、窓枠、ピンクの板壁、えんじ色の屋根がとても可愛らしいイメージをかもし出し、自由で、おおらかな昔のアメリカが再現されたようです。
この写真は、2009年8月1日(土)の撮影で、お休みの日だったようです。
■門の柵にあった案内板です。
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遺愛幼稚園
明治28年(1895)遺愛女学校併置の遺愛幼稚園として創立されたが、明治40年(1907)8月の大火で遺愛女学校ともども類焼。現幼稚園園舎は米国篤志家の寄付により大正2年(1913)に建造された。この地は学校法人遺聖学院の発祥の地である。
米国人宣教師 M.C.ハリスは米国メソジスト監督教会より派遣され明治7年(1874)1月26日函舘に到着後、付近の子女を集め直ちに日日学校(DaySchool)を開いた。
これが遺愛学院の濫觴である。ハリスは当時の札幌農学校で、クラーク博士の依頼を受け、佐藤昌介・新渡戸稲造・内村鑑三らに洗礼を授けている。
幾何学的なブラケットを付加し、櫛形ペディメントを見せるポーチ部は、正面をガラス張りとし、両側二方を吹き放している。外壁をピンク色、隅柱・開口部などを白色に仕上げた控えめなステイックスタイルの建物である。
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坂の下に港の風景が広がる、「八幡坂」の風景です。
函館市は、1859年(安政5)に締結された日米修好通商条約により開港されました。
前回訪れた2009年は、開港150周年にあたり、様々なイベントが開催されていたのを思い出します。
素敵な風景に感動し、妻はスケッチや、たくさんの写真を撮っていました。
一昨年の2009年8月1日、初めての函館は、時々雨の降る天気でしたが、今回は晴天に恵まれました。
大三坂をのぼって行くと、急な坂の途中にゴシック建築の鐘楼がそびえていました。
向かって左の門柱には「カトリック元町教会」、右の門柱には「天主公教會」の名が見えます。
門を入って右手の建物の入口の上に「天主公教會」の表示がありましたが、いずれもローマ‐カトリック教会の施設のようです。
教会の創建は、1859年(安政6)フランス人宣教師メルメ・デ・カッションが来日し、小聖堂を造ったことに始まったとされています。
木造の聖堂は、数回火災で消失しため、1924年(大正13)に現在のコンクリート建築で再建したようです。
訪れた日は、建物の改修工事中で、工事車両などで落ち着かない見学でした。
「カトリック元町教会」のファサードです。
聖堂入口の上にキリストを抱くマリア像、両側に聖人の像が安置されています。
向かって左に剣を持つ像は分かりませんが、右手に鍵を持つ像は、「聖ペトロ」 のようです。
信者ではないものの、入口の前に立つと、厳粛な気持ちになります。
坂の上の道から鐘楼屋根の風見鶏がよく見えます。
鐘楼の青い屋根と、隣の聖堂の赤い屋根が美しく映えていました。
函館市元町周辺の地図です。
函館山から函館湾に向けて、何本もの坂道があります。
地図の緑色に塗られた函館西高校から港に下る「八幡坂」があり、その南の「大三坂」の両側に美しい教会が建っています。
「カトリック元町教会」の門の向かいに「亀井勝山郎生誕之地」の石碑と、文芸作品の一節が刻まれた石碑がありました。
■右手の説明板です。
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亀井勝一郎生誕の地
亀井勝一郎は、明治40年(1907年)2月6日、ここ元町で喜一郎の長男として生まれ、弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、のちに文芸評論家、思想家として活躍した。
昭和12年「人間教育」、同18年「大和古寺風物詩」等不朽の名著を残し、昭和40年日本芸術院会員に推挙された。
晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、昭和41年11月14日病により永眠し、未完に終わったのが惜しまれる。
勝一郎は終生函館弁を使い、函館のサケのすしやイカの刺身を好んだという。
なお、青柳町函館公園付近には、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅[かいこう]し 開眼し 瞑目す」と刻まれた文学碑がある。
函館市
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■写真中央の石碑に刻まれた、少年時代の街の様子を紹介した作品の一節です。
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私の家の隣はフランスの神父のいるローマカソリック教会堂であった。その隣はロシア系のハリストス正教会である。
この二つの会堂は、それぞれ高さ五十メートルほどの塔をもっているもので、船で港へはいるとすぐ目につく。
ハリストス正教会の前には、イギリス系の聖公会があり、やや坂を下ったところにはアメリカ系のメソヂスト教会がある。
私の家は浄土真宗だが、菩提寺たる東本願寺は、坂道をへだてて我が家の門前にある。
また同じ町内の小高いところには、この港町の守護神である船魂神社が祭られ、そこから一直線に下ったところには、中国領事館があって、ここは道教の廟堂をかねていた。要するに世界中の宗教が私の家を中心に集まっていたようなもので、私は幼少年時代を、これら教会や寺院を遊び場として過ごしたのである。
”東海の小島の思い出”の一節より
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後方の建物が「東本願寺函館別院」で、大きな入母屋造りの瓦葺き屋根や、青銅色の破風に重厚さを感じます。
この寺院も幾度かの火災で焼失・移転し、現在の建物は、1915年(大正4)日本初の鉄筋コンクリート造りの寺院として再建されたようです。
生家の周辺に次々と造られるすばらしい宗教建築は、少年時代の亀井勝一郎の心に深く刻み込まれたものと思われます。
このブログ2009年08月05日掲載の<函館旅行と、「日本最古のコンクリート電柱」>も新築した鉄筋コンクリート造りの銀行建物に調和するデザインで1923年(大正12)に作られたようで、火災の教訓から鉄筋コンクリート建築が広がる時代だったようです。
さらに大三坂を上っていくと左手にそびえる「聖ヨハネ教会」が見えてきました。
大三坂は、「カトリック元町教会」から上は、道幅が狭くなり、通りの名は「チャチャ登り」となります。
■聖ヨハネ教会の案内板です。
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日本聖公会館聖ヨハネ教会
この函館聖ヨハネ教会は、現在、世界聖公会のうちの日本聖公会に属する。明治7年(1874)英国聖公会海外伝道教会の宣教師W.デ二ングが函館に来て伝道を開始したのが日本聖公会の北海道伝道の始まりで、同派の道内における宣教活動の根拠地であつた。
明治11年(1878)末広町に初めて聖堂を建てたが、翌年の大火で類焼し、その後も火災などのため幾度か移転した。度重なる火災による類焼の後、現在の地に再建されたのは大正10年(1921)の大火後である。
この間、教育(アイヌ学校を始め清和女学校などの開設)、医療奉仕活動などを活発に行なつた。
現在の建物lま、昭和54年(1979)に完成したもので、上空から見ると十字の形に見えるが、これは中世紀のヨーロッパの教会に見られる建築様式を取り入れ近代的なデザインとしてのものである。
函館市
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急な「チャチャ登り」から右手に見下ろす「函館聖ヨハネ教会」(イギリス系のプロテスタント教会)です。
屋根が十字形で、二色の簡潔な建物に宗教改革の思想が伝わってくるようです。
1874年(明治7)にデニング牧師が来函、1878年に教会を建設したものの翌年に類焼、その後も数度の火災に遭い、現在の建物は1980年(昭和55)に完成しています。
アイヌ民族の悲惨な生活を救う活動に生涯をささげ、「アイヌの父」と呼ばれるイギリス人宣教師「ジョン・バチェラー」も1877年に来日、ここを拠点に活動を始めたそうです。
上段の「函館聖ヨハネ教会」の写真と同じ「チャチャ登り」から左手に見下ろした「ハリストス正教会」です。
建物の名称は「函館ハリストス正教会復活聖堂」で、ギリシャ正教系の日本ハリストス正教会の発祥地でもあるようです。
初夏の若葉、緑青色の屋根、白い壁の聖堂は、午後の陽を浴びて優美で清楚な姿を見せていました
「ハリストス正教会」のファサードです。
1859年(安政6)ロシア領事館の中に建てた聖堂がこの教会のルーツとされ、他の教会同様火災で消失して、1916年(大正5)に再建したようです。
鐘楼には大きな窓があり、前回来た2009年8月1日(土)には鐘を鳴らす人がよく見えていたのを思い出します。
■敷地から一段下にある門の脇に案内板がありました。
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ハリストス正教会
安政6年(1859年)敷地内に建てられた初代ロシア領事館の付属聖堂として建立されたのが始まりで、正し<は「函館復活聖堂」という。
文久元年(1861年)青年司祭ニコライが、ロシアから来函し切支丹解禁を待って日本で最初にギリシア正教を布教した。(明治5年〈1872年〉東京転任)
明治40年(1907年)大火で類焼したが、大正5年(1916年)聖堂はロシア風ビザンチン様式で再建された。
この聖堂内部に、丸天井を装架しているのがこの様式の特徴である。屋根に装置された数多くの十字架と、その装飾部を飾る冠状構造が独特の形状をつくっており、緑色の鋼板屋根は昭和43年に改装され、緑青を化学的に熟成したものである。
再建当時の大鍾(重さ約2トン)は、大正12年(1923年)関東大震災で大破した東京ニコライ堂復興の際に移され、かわりに大小6個1組の建と交換された。リズムと共にメロディを送る音色から「ガンガン寺」として市民に親しまれたが、この撞も戦時中供出した。
現在の鐘は、三重県桑名市在住の美術鋳造家から昭和58年6月に献納されたものである。
昭和58年6日、国の重要文化財に指定された。
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緑青色のたまねぎ形の屋根が並ぶ「ハリストス正教会」です。
レンガ造りの建物に漆喰の白壁が塗られ、緑の銅板屋根の上を飾る玉ねぎ形のクーポラと、十字架が印象的です。
異国情緒あふれる「ハリストス正教会」は、元町界隈では最も心に残る建物でした。
「ハリストス正教会」の隣にアメリカンスタイルの「遺愛幼稚園」の建物がありました。
1895年(明治15)遺愛女学校付属の幼稚園で創立され、火災で焼失した後、1913年(大正2)に再建された建物だそうです。
白い柱と、窓枠、ピンクの板壁、えんじ色の屋根がとても可愛らしいイメージをかもし出し、自由で、おおらかな昔のアメリカが再現されたようです。
この写真は、2009年8月1日(土)の撮影で、お休みの日だったようです。
■門の柵にあった案内板です。
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遺愛幼稚園
明治28年(1895)遺愛女学校併置の遺愛幼稚園として創立されたが、明治40年(1907)8月の大火で遺愛女学校ともども類焼。現幼稚園園舎は米国篤志家の寄付により大正2年(1913)に建造された。この地は学校法人遺聖学院の発祥の地である。
米国人宣教師 M.C.ハリスは米国メソジスト監督教会より派遣され明治7年(1874)1月26日函舘に到着後、付近の子女を集め直ちに日日学校(DaySchool)を開いた。
これが遺愛学院の濫觴である。ハリスは当時の札幌農学校で、クラーク博士の依頼を受け、佐藤昌介・新渡戸稲造・内村鑑三らに洗礼を授けている。
幾何学的なブラケットを付加し、櫛形ペディメントを見せるポーチ部は、正面をガラス張りとし、両側二方を吹き放している。外壁をピンク色、隅柱・開口部などを白色に仕上げた控えめなステイックスタイルの建物である。
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坂の下に港の風景が広がる、「八幡坂」の風景です。
函館市は、1859年(安政5)に締結された日米修好通商条約により開港されました。
前回訪れた2009年は、開港150周年にあたり、様々なイベントが開催されていたのを思い出します。
素敵な風景に感動し、妻はスケッチや、たくさんの写真を撮っていました。