昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.26 「英傑シャクシャイン像」と「シベチャリのチャシ跡」

2011年10月01日 | 北海道の旅
北海道旅行4日目 6/6(月)襟裳岬を出発、宿泊地の苫小牧へ向かう途中、新ひだか町の史跡「シベチャリのチャシ跡」へ立ち寄りました。

江戸時代初期の1669年、この地のオッテナ(酋長)「シャクシャイン」に率いられて、北海道のアイヌの人々が蜂起する事件がありました。

「シベチャリのチャシ跡」は、「シャクシャイン」が拠点としていた砦の一つで、「シベチャリ(静内)」は、2005年の映画「北の零年」の舞台となった地でもあります。



「シベチャリのチャシ跡」のある「真歌公園」に建つ「英傑シャクシャイン像」です。

木の棒で前方の空を指し示し、先頭に立って進軍を促す姿にも見えます。

台座には「英傑シャクシャイン像 北海道知事 町村金五 書」とあり外務大臣など歴任した現衆議院議員、町村信孝のお父さんのようです。

■シャクシャイン像の横に石碑があり、説明文が刻まれたました。
********************************************************************************
英傑シャクシャイン像碑文
日本書紀によれば、斉明の代(西暦六五〇年代) において、すでに北海道は先住民族が安住し、自らアイヌモシリ(人間世界)と呼ぶ楽天地であり、 とりわけ日高地方は文化神アエオイナカムイ降臨の地と伝承されるユーカラ(叙事詩)の郷であった。
今から約三〇〇年前、シャクシャインは、ここシビチャリのチャシ(城砦)を中心としてコタンの秩序と平和を守るオッテナ(酋長)であった。
当時、自然の宝庫であった此の地の海産物及び毛皮資源を求めて来道した和人に心より協力、 交易物資獲得の支柱となって和人に多大の利益をもたらしたのであるが、 松前藩政の非道な圧迫と苛酷な搾取は日増しにつのり同族の生活は重大脅威にさらされた。
茲にシャクシャインは人間平等の理想を貫かんとして民俗自衛のため止むなく蜂起したが衆寡敵せず戦いに敗れる結果となった。
しかし志は尊く永く英傑シャクシャインとあがめられるゆえんであり此の戦を世に寛文9年エゾの乱と言う。
いま静かに想起するとき数世紀以前より無人の荒野エゾ地の大自然にいどみ人類永住の郷土をひらき今日の北海道開基の礎となった同胞の犠牲に瞑目し鎮魂の碑として、 ここに英傑シャクシャインの像を建て日本民族の成り立ちを思考するよすがすると共に父祖先人の開拓精神を自らの血脈の中に呼び起こして、 わが郷土の悠久の平和と彌栄を祈念する。
  一九七〇年九月一五日
     シャクシャイン顕彰会
       会長 神谷与一
********************************************************************************



「シベチャリのチャシ跡」周辺の地図です。

北海道旅行4日目は、釧路市を出発し、襟裳岬を経て苫小牧へ向かいました。

「シベチャリのチャシ跡」は、襟裳岬から苫小牧までのほぼ中間地点で、シベチャリ(静内)川東岸の高台にある「真歌公園」の中でした。



「真歌公園」の入口付近に建つ「新ひだか町アイヌ民俗資料館」と、その向こうは「シャクシャイン記念館」です。

入場可能な16:30までに到着する予定でしたが、少し遅れてしまい見ることが出来ませんでした。



公園の中に進むと「英傑シャクシャイン像」があり、その隣にそびえるのは「ユカルの塔」です。

アイヌ独特の模様が彫られた「ユカルの塔」は、アイヌの祭祀で使われるイクパスイ(捧酒箸)を模したものとされ、台座もオッチケ(膳)の形のようです。

イクパスイ(捧酒箸)は、アイヌの儀式で、カムイ(神)へ酒を捧げ、願いを伝える道具で、博物館などでトゥキ(漆椀)の上に箸のように置かれた棒(イクパスイ)を見た人も多いと思います。

シャクシャイン像の周囲には少し花を残した桜が葉を茂らせて、遅い北海道の春を感じさせていました。



「シベチャリのチャシ跡」の史跡案内板があり、小さな橋が架かっていました。

この橋は、チャシ(砦)の周囲に造られた空堀に架けられたもので、チャシの側から撮った写真です。

■「シベチャリのチャシ跡」の入口付近にあった史跡案内です。
********************************************************************************
国指定史跡「シベチャリ川流域チャシ跡群」
シベチャリチャシ跡
(平成9年12月2日指定)
チャシは、アイヌの砦、あるいは儀式の場所といわれ、アイヌ文化を研究するうえで重要な遺跡です。海や川などに面した眺めの良い丘や崖上に、1~数本の溝を掘って築かれています。
シベチャリチャシは、「シャクシャインのチャシ」とも呼ばれ、寛文9(1669)年の「シャクシャインの戦い」の拠点として知られています。
 平成10年7月
 新ひだか町
********************************************************************************



ツツジが美しく咲く空堀を橋から見た風景です。

シベチャリ(静内)川東岸の高台で、舌状に突き出た場所が空堀で仕切られ、チャシ(砦)とされていたようです。

空堀の幅や、深さは、意外に小規模なもので、戦国時代に発達した和人社会の城ではなく、宗教性の強い沖縄本島南部のグスクに似たイメージを感じます。



橋を渡ってシャチ(砦)の奥に進んだ風景で、向こうに木造り二階建ての展望台と、その右には石碑も見えます。

公園では、係りの人が草刈に精を出していましたが、ここも手入れが行き届いています。



展望台の横にあった石碑です。

石垣の台座に「シャクシャイン城址」と刻まれた石碑を見ると、戦国時代に始まる近世の城をイメージしますが、実態は違っているようです。



展望台から見下ろした風景です。

左手に太平洋、眼下には静内の町並みが広がっています。

■「県史1 北海道の歴史 山川出版社」に記載された「シャクシャインの戦い」の概要をまとめてみました。
********************************************************************************
1668年、シベチャリ(静内)の首長シャクシャインは、数キロメートル西にあるニイカップ(新冠)の首長オニビシと漁場などで対立、劣勢となったシャクシャインは、奇襲攻撃でオニビシを討ち取りました。
オニビシを失ったニイカップ(新冠)では松前藩へ使者を派遣して支援を求めましたが拒否され、使者が帰路に病死したことで、和人に毒殺された風説が広がったようです。
1669年、シャクシャインは、この風説を利用して反和人、反松前藩の大蜂起を各地のアイヌへ呼びかけ、アイヌ勢は和人355人を殺害、北海道南端に近い、松前を目指して進撃しました。
松前藩は鉄砲を準備し、クンヌイ(国縫※-長万部町)で迎撃して難局を切り抜け、アイヌへの工作で勢力を分断、シャクシャインを和議の場におびき出して謀殺しました。
********************************************************************************
※北海道南部の地図に赤丸印で「国縫」を表示、苫小牧から函館に向かう途中です。

「シャクシャインの戦い」は、巧妙に蝦夷地へ進出して横暴を振るう和人への反感、一方で和人との交易に依存度を高めるアイヌ社会の情勢が背景となっていたものと思われ、日本人として余りに悲しく、心を痛める事件でした。



展望台の柵の前に見下ろした風景の解説板がありました。

合併前のものか、「静内町役場」「静内町公民館」「静内町図書館」・・・新ひだか町となった今ではなつかしい町のなごりのようです。

シベチャリ(静内)川の向こうには、河川敷を開発したと思われる静内の町の様子が分かります。



展望台から見たシベチャリ(静内)川の上流方向の風景です。

高さ約80mの高台から見下ろすと、幅広いシベチャリ(静内)川の上流方向のはるか向こうまで家並みが続いています。

川沿いに立ち並ぶビルを見ると、映画「北の零年」で見た苦難の開拓の歴史は、今では信じられない開発された風景に変っていました。



展望台から見たシベチャリ(静内)河口付近の風景です。

この砦は、シャクシャインが謀殺された直後、松前藩に攻め落とされたようです。

この事件以降、松前藩のアイヌ支配は強化され、先住民族アイヌは、和人の交易相手から漁場労働者の立場へと追いやられていきました。

「北の零年」の物語の舞台となったこの静内の地を見たいと、襟裳岬経由のコースとしたことは、このブログ07/27掲載の< 北海道旅行No.13 根室「金刀比羅神社」に立つ高田屋嘉兵衛の銅像>で書きました。

江戸時代後期、淡路島の農民の子で生まれた高田屋嘉兵衛が廻船業で財を成し、択捉島でアイヌの人々を雇い漁業を行っていた歴史は、この地の二つの物語とつながっていたようです。